- 作者:デイヴィッド・ランシマン
- 発売日: 2020/10/27
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
とはいえ、これまで民主主義は大きな利益を与えてくれていた。最高の制度ではないにせよ、他の制度と比べた場合に、最悪の事態は避けられる。民主主義は、壊れつつあるにしても今のところかなりマシな選択肢だ。本書『民主主義の壊れ方』は、クーデタ、大惨事、テクノロジーと三種類の「民主主義の壊れ方・壊し方」を解説したあと、我々は民主主義以外の制度を選択できるのか、あるいは、壊れかけている民主主義を直すことはできるのか、と問いかけてみせる。民主主義にとって脅威なのは、任期が終わるか選挙で消せるトランプよりも、意図しないままに民主主義を終わらせるザッカーバーグだと言ってのけるなど、なかなかに刺激的な本だ。
民主主義は「中年の危機」にあるというのが本書の主張の一つだ。今の民主主義には、過去のまだ若かった頃と比べて、違いが三つある。一つは、政治的動乱の規模と質が前の世代とは異なっていること(世界的にみて、暴力は減り、平和になってきている)。二つ目は、大惨事の脅威が変容したこと(これはわりとどうでもいい)。三つ目は、情報通信革命によって民主主義のあり方が変化したこと。このそれぞれがクーデタ、大惨事、テクノロジーに対応しているので、簡単に紹介してみよう。
クーデタ
民主主義の壊れ方の一つはクーデタだ。ギリシャでは1967年にクーデタが起こって7年間軍事独裁政権だった。軍事クーデタは民主主義が脆弱な国で起こる。日本やアメリカでクーデタが起こることは想像しにくい。民主主義が成熟していないと、腐敗や操作も起こりやすく、それがまたクーデタを起こすきっかけになりやすい。
こうした軍事クーデタは、わかりやすいクーデタの形である。武力で電撃的に政府機能を麻痺させ、一夜のうちに乗っ取って、民主主義が終わったことは誰の目にも明らかになる。しかし、今おもに進行しているのは別の種類で、民主主義が存続しているようにみせることが成功条件となるクーデタだ。たとえば、支配者層が政変を起こすことなく、裁量で民主制度を弱体化させる。自由と公正さを制限する選挙を行うなど、これらは一見民主主義が存続しているが、実態としては乗っ取り・クーデタだ。
こうした後者のタイプは何年もかけて進展し、どこかのタイミングで「クーデタが成功した」と明確に切り替わるものでもない。徐々に侵攻されるとそれに対抗するのは難しい。対抗勢力が「クーデタだ!」と叫んだところで、大げさでヒステリックになっていると非難されるだろう。『かつてクーデタはそれとはっきりわかった。しかし、今でははっきりしないのがクーデタなのだ。』これまで、それがあまり目立たなかったのは民主主義が弱く、すぐに転覆させられてしまうものだったからだ。成熟して、そう簡単には倒されなくなった老いた民主主義だからこその危機といえる。
トランプよりザッカーバークが脅威
クーデタと並んで重要なのが、テクノロジーだ。現代の情報の流れは早い。何かを発言したらそれに対してすぐ反応が返ってくるものだ。そうしたスピード感に慣れた人々からすると、代議制民主主義は反応が遅い。大勢の意見を聞かなければいけないほど反応が鈍くなる。それは容易く間違った方向に行かないための「価値」でもあるけれど、多くの人々からすればそれも今の民主主義への不満に繋がっているだろう。
たとえば、なぜスマホで誰もが政策や意見を発し、即座に自分の意見を一票として反映させられる直接民主主義に移行しないのか。著者は、古代アテネの直接民主主義が多くの制約や管理のもとに成り立っていた例をあげ、これは難しいという。『私たちは巨大な新興企業が構築したネットワーク社会で生活し、ネット中毒になり、衝動的に行動する。この状態は直接民主主義による管理に適さない。』
これは詳細な反論とはいえず、あまり納得いかないが、続けてソーシャルネットワークは代議制民主主義を偽物であるかのように見えるが(我々は誰でも意見を発せるので、代議制民主主義なんかアホくさい、と)、実態としてはこれに代わるものがないのにそれを壊してしまったのだと非難する。だから、著者に言わせれば、トランプよりも人々をネットワークで紐付け発信する力を与え、代議制民主主義への信頼を失わせつつあるFacebookのザッカーバーグの方が民主主義にとっての脅威なのだ。
言っていることはわかる。かつては、選挙権が与えられること自体が「あなたには一票がある」と尊厳を、政治に関わっているという実感を与えられるものだった。しかし、今は選挙権だけでは自分の意見が政治に反映されていると実感するのは難しい。SNSで誰もが発信できる現代においては、「なぜ聞き入れ、認めてもらえないのか」と民主主義への不満になって現れる。政治家は、それに対応する術をもたない。
どうやって直すのか?
不可避的に民主主義への不満が高まっているわけだが、じゃあどうしたらいいのか。現代の問題は複雑化しすぎていて、投票権に重みをつけようというジェイソン・ブレナンという哲学者もいる。教育を受けた人間には2票やればいい、というわけだ。
ブレナンは選挙について無知であったり社会科学の基礎知識を欠いている市民をふるいにかけるためにテストを実施することが望ましいという。だが、これが多くの批判にさらされているのは、一つはそもそも平等の原則に反していることと、教育を受けたからといって特定の問題を正しく判断できるわけではないことを示す研究が多く存在していることだ。そもそも、誰がテストを作るのか問題も解決できそうにない。
テクノロジーがそれを解決してくれる可能性もある。たとえば、2017年、アメリカのキメラという会社が、個人の選好から選挙で誰に投票すべきかを助言するAIを発表した。これは、複雑な問題に関して最適解を選び出す手助けになってくれるかもしれない。それは思想の蛸壺化に繋がるが、バランスのとれた情報の取り方(たとえば反対意見も閲覧するように仕向けるなど)をシステムに組みこむこともできる。
とはいえ、これも当然システム次第。このAIに指図するのは、我々ではなく開発企業のエンジニアだ。『それ故に、二十一世紀の知者の支配は、テクノクラシーに陥ることを避けることができない』。社会は問題を技術的に解決する方向に向かうが、それは技術者への依存症であって、テクノクラシーへと向かうことを避けられない。
といったかんじで、いろいろと対策はあるが、どれも難しい側面がある。本書は絶対の解答を示す本ではないから、建設的な提案は示されない。ただ、民主主義が陥っている苦境の在り様は、しっかりと示されている。