基本読書

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命の値段には大きな格差が存在する──『命に〈価格〉をつけられるのか』

はじめに

命に値段はつけられない、と言ったりもするけれど、現実的な問題として、日々命に値段はつけられている。しかも、毎回違った形で。たとえば、何らかの過失や災害によって人命が失われた時、そこにどうやって補償を出すのか。全員に一律同じ値段で対応するケースもあれば(これはあまりない)、各個人の属性・能力に応じた値段が支払われるときもある。たとえば、年収2000万の人間と年収200万の人間では将来的な収益が変わってくるので、この年収にあわせた補償額を──という発想がある。

実際、そのような「その人が将来稼いだであろう金額」によって補償額が決定されたのが、9.11のテロ発生時に被害者に行われたことである。テロで亡くなった人間に、それぞれ異なる補償額が設定された。ここで行われた計算式はざっくり説明すると、まず、犠牲者一人につき収入によらない最低保証額として一律25万ドルが定められた。次に、犠牲者に配偶者がいた場合、裁定額に10万ドルが上乗せされ、扶養家族一人に対して1人あたりさらに10万ドルが上乗せされる。そこに、経済的価値が乗っかる。経済的価値の計算には、犠牲者の年齢や職業から予想収入などが勘案される。

高い年収の犠牲者もいるので、予想年収は23万1000ドルが上限とされた。これは、将来的に稼ぐ金額は違うのだから、ある観点からいえば公平といえるだろ。しかし別の観点からいえば、命に異なる値段をつけるのか、という話になる。さらにいえば、年収には避けがたく差別的状況が入り込んでくる。家で家事労働に従事する人や子供はこの計算でいけば年収はゼロになってしまう。実際、9.11時はそこは少し計算されているが、平均受取額と比べてもかなり低い金額になっている。他にも、白人のほうが黒人よりも年収が高いなど、差別の構図がそのまま補償額に反映されてしまう。

このケースでは、補償額は最低25万ドル、最高は700万ドルだった。はたして同じ人命に対して30倍もの開きは本当に公平なのか──? といえば、公平感はあまりない。もちろん、もうその人の経済的状況や扶養家族など一切みず、一律で数百万ドルを給付するという形もあったはずだ。実際、当時の責任者はそうすればよかったとのちに後悔の声をあげている。ただ、連続殺人鬼とノーベル賞受賞者の命の損失の区別がついていないじゃないか、という批判はある。完全な公平は存在しない。

そして、こうした「命の値付け」は至るところで行われている。たとえば、死亡や病気のリスクを算出する保険はいわずもがなだし、子供を宿した時、その性別や病気を事前に検査し、それが金融的に望むものではなかった時(男子の方が金を稼ぐので)に中絶をする命のことも、命の値段に関わってくる判断だ。中国、インド、ベトナムでは男女の出生率に極端な差があり(男子が多い)、明らかに女子を中絶、もしくは生まれた後意図的にに死亡させることで命の振り分けを行っているとわかっている。

というわけで本書『命に〈価格〉をつけられるのか』は、問いかけの書名にはなっているが、「命に価格はつけられている」という前提のもと、ではそれぞれどのような形で値付けが行われているのか。そして、それは妥当なのか。それよい形の命の値付けの仕方はあるのか──を模索していく一冊である。当事者として誰かの命の値付けを行うことはあまりないだろうが、自分自身は常に様々な指標によって値段をつけられている。それを把握しておくのは、生きていく上では重要だ。

 命の価値がどのように決められているかに無頓着でいると、自分の健康をリスクに晒し、安全をリスクに晒し、法的権利をリスクに晒し、家族をリスクにさらして、最終的に自分の命そのものもリスクに晒す可能性が高くなる。誰の命も公平に扱われて、十分に守られていると確信できるようにするには、知識を獲得して、用心を怠らないようにするしかない。

民事裁判における命の値付け

もう少し命の値付けがされる例をみていこう。身近なところでいうと、一つは民事裁判で行われる。自動車事故のような不注意や過失によって人の命を奪ってしまった場合、被告が原告に賠償金を支払うべきか否か、いくら支払うべきかが争点となる。

これは当然、命の値付けである。さて、どんな値がつくのか。たとえば、葬儀費用や、被害者が扶養家族に行っていた経済的援助など、過失致死においては様々な費用が発生する。民事裁判の場合は、9.11の時と同様に被害者の想定される生涯収入などの機会費用+葬儀代などの諸費用が請求されるケースが多いようだ。日本の判例では、交通事故では被害者本人分として2500万程度の慰謝料+逸失利益(働いていたら得られたであろう利益)などが合算されていると思う(素人調べ)。

この方式に(給与自体に人種問題やジェンダー問題が絡んでくることも有り)問題があるのは先に書いたとおりだが、実際の判例として「成人の命がマイナスの値をとることがある」ケースが紹介されている。どういうことかというと、たとえば精神病療養施設に入院している重度の障害者で、監督不行き届きにより病院で死亡したケースでは、死亡した被害者は仕事はしておらずむしろ家族から金銭的援助を受けており、死亡時におそらく苦痛がなかったこともあって、賠償に値する損害なしとして片付けられてしまう。場合によっては、命の値段がゼロになってしまうのだ。

現在の命の価値より未来の命の価値の方が低いのか?

もう一つ、規制策定時などに使われる費用便益分析も、命の値付けと絡んでくる。たとえば、火力発電所に新たな規制を導入するとして、周辺住民の健康被害や長期的な死亡リスクを計算し、利益と見比べて見る必要がある。たとえば、単純化した例ではあるものの、1.導入した初年度に800人の命が救えるけれど、それ以降は一切救えない規制案。2.規制導入の10年後に1000人の命が救えるけれど、それ以前とそれ以降は1人の命も救えない規制案の2つがあったとして、どちらを選択すべきだろうか?

投資では未来の利益は現在の利益とイコールではない。いま10万円もらえるのと1年後に10万円もらえるのであれば、いまもらえる10万の方が価値が高い。なぜなら、今10万もらえればそれを投資にまわして増やすことができるからだ。なので、未来に受け取れる利益には、価値を減らす割引率が導入されるのが普通である。だが、「未来の利益は現在の利益よりも安くなる」という概念は、命に適用すべきだろうか? 

たとえば3%の割引率を設定して先の2つの事例にたいして費用便益分析を行うと、最初の選択肢が有利になる。だが、1%の割引率で行えば、2つ目の選択肢が有利だ。割引率0なら、2つ目の案の方が200人も助かる命が多い。仮に、ここで0以外の割引率を適用するのであれば、未来における人の命は現在の人の命よりも価値が低いと仮定することになる。割引率が3%とすると、今日の5000人の命は1世紀後の10万人の死と等価になるが、これははたして許されるのだろうか。気候変動など長期に関わるリスク計算においては、こうした未来の命の価値に関する考え方も重要になってくる。

死亡率のように目に見える数字ならともかく、QOLのような数値化しづらいものは計算に入れづらいなど、費用便益分析は欠陥だらけの手法だが、現状幅広くリスク分析に用いられている。ある程度、その穴は認識しておいたほうがいいだろう。

おわりに

と、本書はこうした事例の他に、保険の例であったり、「男の子を産んだほうが、女の子を産むよりよい金融投資になる」と判断した親による中絶、また先天性異常のある子どもの中絶などの問題を広く取り上げていく。なんでも、男女の産み分けが行われている数字を世界で合計すると、世界の総人口の約40%にもなるという。

昨今のコロナ禍でも、医療体制の逼迫が続けば「優先的に誰を助けるべきなのか」という命の選別、またそれに伴う「命の値付け」が、より積極的に行われるようになる。こうした時に、我々はどのように計算するべきなのか。これは、まさに今我々が直面している問題でもある。