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二人組の作家エラリー・クイーンがどのように小説を書いてきたのか、その愛憎入り交じった過程について──『エラリー・クイーン 創作の秘密』

この『エラリー・クイーン 創作の秘密』は、二人組の小説家であった伝説的ミステリ作家エラリー・クイーンの執筆が具体的にどのように成し遂げられてきたのかを、主に1947年から1950年の間の往復書簡から浮かび上がらせた一冊である。国書刊行会からは以前、別著者ではあるが評伝『エラリー・クイーン 推理の芸術』が出ているが、今回の『創作の秘密』とは装丁も同趣向であり、実質姉妹編のような形になる。

僕にとってクイーンはミステリ作家の中でも最上位に好きな方の作家なので、発売日に買って期待して読み始めたのだけど、めちゃくちゃおもしろくて一気に最後まで読み切ってしまった。二人が物語を創り上げる過程は平穏なものではなく、お互いを受け入れられず、強く非難し、説教し、脅し、とまあよくこれでまだ縁を切らずに関係を続けるなと思うぐらいに茨の道なのだが、それでも最後まで離れず、お互いを必要とし、最善のエラリー・クイーンを作り上げようとベストを尽くしていく。

本書がクイーン解体の書としておもしろいのはもちろんだが、それだけでなくより普遍的な内容──、一つの小説作品を作り上げるうえで、どのような苦悩と迷い、そして決断が発生するのかが、往復書簡を通して克明に浮かび上がってくる。クイーンにあまり興味がなかったとしても、何かを(小説に限らない!)作り上げようとしている人には参考になる面があるはずだ。クイーンの場合は二人だったが、一人で書く場合には同じことがその個人の内面で繰り返されるからだ(優しくはなるだろうが)。

どのようなことで揉めていたのか。

ダネイとリーはどのように小説執筆を分担していたのか。そのスタイルは一貫していて、まずダネイがキャラクタを生み出し、数十ページの梗概(新人賞など通常の梗概は数ページのものが多いと思うが、この場合は50〜80ページであったようだ)を書く。そこにはどのような事件が、どんな順番で、どういう演出が施されながら起こるのかが書いてある。そして、それを受け取ったリーが、肉付けを担当する。

なんだ、そんなにぴったり分かれているのであれば揉めようがない、と思うかもしれないが、実際はそんなことはない。作品における題名からプロット、キャラクタまでさまざまな点が論争の種になるが、代表的な流れはこうである。ダネイが自信作であるプロットをあげ、リーがそれを受け取る。リーはそれを実際に小説にするにあたっては、人間や展開にリアリティがなく、ちゃんとしたものにするためにはある程度”自分の裁量権が必要だ”と考え、相談したり書いてしまう。そしてダネイは、自分のもとの構想をリーが理解していないことに憤る。基本は全部この繰り返しである。

ダネイは、自分が細心の注意を払って作り上げた構想を、リーが勝手気ままに扱うのに心を痛めていた。リーはダネイの選択によって束縛されていると感じていて、非現実的で実現不可能に思える設定と作中人物に、必要なもっともらしさとリアリティをたっぷり与えるために、変更を加えた。

本書収録の書簡は、1947年から50年までのものが大半で、その期間はクイーンの中でも評価の高い『十日間の不思議』と『九尾の猫』、そして『悪の起源』が書かれた時期だ。どのような議論がなされているのか、具体的にとりあげてみよう。

十日間の不思議

たとえば、『十日間の不思議』について、リーはダネイから梗概を受け取ったとき、最初の反応として、「物語の構成要素が「陳腐」だ」と言ったか書いたらしい。それにたいして、ダネイは当然反発し、いったい何が「陳腐」なのか? 物語上の出来事か、宝石の盗難や恋愛の三角関係それ自体なのか? 新しい本(十日間の不思議)の基本テーマは〈十戒〉の犯罪だ、もしこれが陳腐だというなら、私のお手上げだといって長々と十戒が持つテーマ性の深さについて(書簡で)一席ぶってみせる。

対するリーは、十戒のもろもろが明らかになるまでは、それまで起こったことがありきたり以外にみえないことを問題にしている、と反論する。また、リーは舞台が『災厄の町』と同様のライツヴィルであり、『災厄の町』を要素的にも連想させすぎ、弟と母が作中不必要な人物であるとも批判する。弟には一貫性がなく、人格がない。このままでは、僕は弟を傍観者という位置づけで造形しなければならないだろう、と。

こうやって、プロットや作品それ自体の出来栄えについて細かいものからエラリー・クイーンの今後を左右するような重大なものまで、指摘が続くのである。

反論を受けてダネイはまた再反論を加えていくことになる。たとえば、十戒のテーマが明かされるまですべてがありきたりに見えることに同意しつつも、しかし「平凡に見える出来事は、無理なくリアリティをかもしだしこのリアリズムの果実を利用することができる」という。『災厄の町』と似すぎているという指摘も、実際にはそんなに似てねーだろうが! と反論し、また、一貫性がないと批判された弟については、彼がいかにこの物語に必要なのか──「怪しいと読者に思わせる役割」があるのだと(本文ではもっと何ページも使って)そのままでの必要性を訴えかけてみせる。

おもしろいのは、読者は結局は出版済みの最終稿しか読んでいないので二人のやりとりでどちらに理があるのかを判断はできないが、書簡だけ読んでいるとどちらの言い分も間違いではなさそうに思えることである。ダネイは自分が作り上げたプロットやキャラクタの正当性を守る位置をとることが多いが、結局「大丈夫だから大丈夫なんだよ!!」以上の情報がないことも多く(たとえば十戒が明かされるまでありきたりに見えることへの反論はさすがに弱いのではないか)、疑問に思うこともある。

『九尾の猫』では、最初の7件の殺人で都市がパニックになったというけど、7件ごときでパニックにならなくね?? もっと殺さないとだめじゃね?? など、リーの批判は細部にまで及ぶが、このような一切の妥協なく疑問点を追求し、ダネイがそれに応答する過程こそが、クイーンの作品の質を高めていたことは間違いないだろう。

一方で、追求される側もきつければ、自分が納得いきかねるまま書き進めねばいけない側もきついだろうと容易に想像でき、合作の難しさの理由が、ここには余すところなく描かれている。そして、そんなに気に入らないことがあるんだったら別々で書けばええだけの話やんけ、と思うし、書簡でも梗概が気に入らないんだったら送り返して勝手にしろ!! と書かれてもいるのだが、結局二人は離れられないのである。

二人は二人が完全に満足できるものはできなかったとしても、なんとかして双方をかなりの程度まで満足させるレベルまで持っていこうとぎりぎりまで努力する。書簡を通して浮かび上がってくるのは、憎しみだけではなく、愛情と尊敬なのだ。

おわりに

ここには、創作者がどのような不安に襲われるのか、そしてどれほど細かいことを時間や思考をかけて検討しているのかもよく描かれている。エラリー・クイーンファンにはもちろん、(特に)小説を書く人にも読んでもらいたい一冊だ。