基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

更新世へのタイムトラベルを通して、現代人類とホモ・ハビリスのロマンスを描き出す異色の時間・文化人類学SF──『時の他に敵なし』

この『時の他に敵なし』は、1982年に刊行されネビュラ賞も受賞した、マイクル・ビショップによるタイムトラベル・ラブロマンスである。今回が本邦初訳で、この時代にあらためて翻訳される約40年前の作品ってどうなんやろなあと思いながら読み始めたものの、いやはやこれが確かにへんてこな話だが、たしかにおもしろかった。

パズルのように時系列、時間がバラバラになっている小説で(大部分は時間軸順に並んでいるから混乱はしないけど)、一度読んだだけではよく全貌がつかめないので今回この記事を書くためにも二回目を読んだのだが、これがまるで苦ではないぐらいにはおもしろい。物語の多くが200万年前の更新世初期で展開し、言葉を喋ることもできないホモ・ハビリスとの生活を描くことで、会話が封じられた小説として難しい状況が続く本作の性質を考えると、二度読むのが苦ではないのは、驚くべきことだ。

世界観など

本作は書名に「時」が入っているようにタイムトラベルを扱う時間SFなので(原題は「No Enemy But Time」)、そのあたりの紹介からはじめよう。まず、語り手であるジョシュアはスペイン人で娼婦の母とアメリカの黒人の軍人の父の間に生まれるものの生後一年ほどで(父はすでにおらず、母親も生活が苦しかったので)捨てられ、その後偶然にもアメリカ軍人の家庭に養子として受け入れられることになる。

親に捨てられ、コミュニティというものを持たぬまま異分子として人生をスタートしているジョシュアだが、彼には太古の時代を繰り返し夢にみるという異常さもあった。幼少期こそ異様な夢を見る、というだけの話だったが、知識がついていくにつれ、彼は自分が繰り返し夢にみる世界が、地球の過去の時代なのではないかと気がついていく。彼が夢で過去を見ていると受け入れる人は最初はいないが、彼は自身の体験談をもとに古人類学者に直接訴えかけに行くなどし、徐々にその事実が認められ、彼を実際に更新世へと送り出すプロジェクトがスタートすることになる──。というわけで、この世界ではタイムトラベルはまずジョシュアによる「夢」があってこそであり、行けるのは一部の人間のみ、それも特定の時代にしか行くことができない。

物語は、ジョシュアの誕生からはじまって、彼が夢をみ、それに気がついていく過程。養子となった軍人家族での成長と、周囲の人間からうけるいわれなき差別。そして、その能力が認められ、国家的プロジェクトであるホワイト・スフィンクス計画に招き入れられるまでがバラバラの時系列で描かれていく。また、このジョシュア成長パートと交互に、彼の能力がホワイト・スフィンクス計画に採択された後、実際に彼が夢に幾度もみてきた更新世へと身体ごと移動し、そこで現在わかっている限り最も初期のヒト属であるホモ・ハビリスとの邂逅と生活が描かれていくことになる。

ひたすらにホモ・ハビリスらとの生活が描かれていく

多くの場合タイムトラベル物は「時間を移動した先に何か変更を加える」ことを目的としているものだが、ホワイト・スフィンクス計画の目的は、ホモ・ハビリスの調査それ自体である(他にも時間転移装置の射程距離と有効性の検証などいろいろあるが)。『二つめに、ザラカル政府に対し、自説を曲げない内務大臣という存在を通じて、我々の種の「人間」と認められる最も古い祖先が、キボコ湖とサラカ山およびその周辺の、呼べば声が届く範囲に住んでいたことの証拠を提示することだった。』
更新世初期へと移動直後から時空間通信装置が機能せず、不測の事態に備えてあらかじめ決めておいたはずの定時の迎えもなぜかこないこともあって、諦めてジョシュアはホモ・ハビリスたちと接触、生活をはじめるのだ。つまり、この物語の大半はジョシュアとホモ・ハビリスたちとの生活で埋まっているのだが、当然ながらホモ・ハビリスたちは誰もホモ・サピエンスのようには喋れないわけである。

何か言葉を発しはするものの、意味のある文章は紡ぎ出さない。つまり、ジョシュアはひたすら無言で彼らの生態──たとえば何を狩り、どのように性交し、食べ、寝て、移動するのか、旱魃による獲物の減少と飢え──を描写し続ける。正直な話、おもしろくなりそうな気がしないのだが、これがまた文化人類学的におもしろいのである(とはいえ、この生活の描写をつまらないと思う人間も多いと思うが)。

それどころか、ジョシュアは、ホモ・ハビリスの一つの群れの中にいた、ヘレンという(ホモ・ハビリスとしては)大柄の女性と出会い、惚れ込み、性交し、夫婦の間柄になっていく。ヘレンは単語ぐらいはわずかに覚えられたが、彼との間に会話といえるほどのものは存在しない。彼が異分子であることはこの更新世でもかわらないが(『ひと言で言えば、ぼくは二級市民だった。洗練された衣装を別にすれば、ぼくはミニドのところに滞在しているニガーであり、狒狒やアウストラロピテクスよりはまだマシというところだった。この地位と役割はまったく初めてのことでもなかった』)、ヘレンの手助けもあいまって、彼はこの土地に、自身を深くなじませていくことになる。

考えてみればこれは言葉と時代どころか、種すらも遥かにこえた壮大なラブロマンスであり、ジョシュアとヘレンの愛情の深さ、その描写の数々は荘厳で、神話的な感動がある。同時に、本作は、差別──というよりも、「壁を乗り越えることについて」の物語であるともいえる。ジョシュアは幼少期からこの世界とホモ・ハビリスと夢見てきたせいか、比較的やすやすと壁を乗り越えていくが、現代人の感覚からすれば彼のやっていることは異常だ。そうしたテーマ部分を、本作は決して押し付けがましくもなければ、読んでいて苦しくもない形で、どこかユーモラスに伝えてくれる。

おわりに

さすがに刊行から40年近くがたってホモ・ハビリスと現生人類の繋がりについてなど情報が変わってきている面もあるが、読んでいる最中はまるで気にならないぐらいには現代の物語として読むことができた。よく調査がされていることもあるが、中心にあるテーマのひとつがいまなお我々が乗り越えることのできない、普遍的な「差別」であることもこれには関係しているのだろう。