基本読書

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世界のワクチン接種運動を考え直すためにも重要な一冊──『ワクチンの噂――どう広まり、なぜいつまでも消えないのか』

この『ワクチンの噂』は、ワクチンの信頼性をめぐる国際的な研究プロジェクトなどに関わってきた人類学者のハイジ・J・ラーソンが「ワクチンにまつわる嘘・デマの拡散」について書いた一冊である。ワクチンは、発熱などのリスクはあるものの、病気が発症するのを防いだり、症状を和らげたりしてくれる重要なものだ。

しかし、ワクチン接種にはそれが科学的に説明されている以上に危険なものだという噂や疑念がつきものであり、そういったことはエビデンスもないしありえない、と説明が何度なされても、それを信じる人達は納得しない。では、なぜそんなことが起こってしまうのか。どうやって噂は広まっていき、誰がそれを受け入れるのか。ワクチンに関して、状況を改善するためには何をすべきなのか──について書かれていく。

 本書が前提としているのは、ワクチンの噂は今後もついて回るが、それは悪いことではないという考え方である。
 私は、噂を否定することにやっきになるのではなく、マイクロバイオーム〔ヒトの体に共生する微生物の集合体〕と同じように、生態系として噂を捉えるべきだと主張する。ワクチンに対する嫌悪感や抵抗感は、単にメッセージを変えることや、「より多くの」または「よりよい」情報を与えるだけで対処できる問題ではない。噂をその都度否定しても、疑念も確信も変えられない。もう遅すぎるのだ。必要なのは、懸念、噂、白熱する議論を育む肥沃な土壌を根本的に変えることである。

本書は今回の新型コロナウイルスのパンデミック前に書かれた本なので現在進行系の状況に対する言及こそ多くないが、ワクチンに関する噂が広まっていく流れは変わらないので、今の状況を重ね合わせて読むこともできるだろう。250ページほどと短い中に、ワクチンの歴史を通して何が起こってきたのかがぎゅっと詰め込まれている。

一方、巻末の磯野真穂解説で指摘されているのだが、日本のHPVワクチンに関する記述に明確に不正確な箇所があったり、記述に具体性が欠けていて何を言っているのかよくわからないところもあったりと書きぶりにノリきれないところもある。

なぜ噂が広まるのか?

なぜワクチンに関しての噂が広まり続けるのか、という問いが最初になされるが、これについては既存の噂や群衆心理についての研究が多く援用できる。

たとえば、噂の強烈さと広がりはエビデンスのあいまいさが重要だという基本原則がある。その他にも噂が広がる特徴的な状況として、「めずらしい、またはなじみがない」「影響を受ける個人にとって未知の側面を多く含む」「集団の関心事である」、「自身の生活に影響を与える重大な決定になすすべがないと感じている状況」などが挙げられているが、これはどれもワクチンをめぐる状況に当てはまるものだ。

ワクチンは強制的、あるいは義務化の対象になりやすいが、市民は自分自身と子供たちの命を左右する選択のコントロール権が自分たちから奪われることに対して反感を覚える。そうした人々が、ワクチン接種に関して自らの手にコントロールを取り戻したいと考えるようになると、積極的にワクチンを否定する情報を集め、抵抗運動へとつながっていく。これは科学の問題というよりも、個人と集団の感情の問題だ。

自己決定、尊厳、そして不信感の問題

それがよくわかる例が、ケニアで行われた反ワクチン運動にみることができる。ケニアでは2014年に破傷風ワクチン接種キャンペーンの裏には産児制限との関係があるのではないかという邪推が生まれ、WHOはこれについて懸念を表明した。

破傷風トキソイドワクチンに流産や不妊の原因となるホルモンが混入されているなどというエビデンスは存在しないし、ワクチンは52カ国で使用された安全なものであると。それでも噂は消えず、ケニアのカトリック司教はポリオワクチンキャンペーンをボイコットするなど騒動は派生し、ワクチン接種の拒否者も数を増した。

カトリックの司教がポリオワクチンのボイコットを呼びかけた裏には、ワクチンの安全性についての懸念だけでなく、キャンペーンの動機とそれを推進する国際機関への不信感というもっと大きな憂慮があった。ナイロビの大司教があるインタビューで次のように語った。「私たちは、今、自らの運命を決定できる状況にある」。ワクチンは「真の」問題ではなかった。これは、自己決定、尊厳、そして不信感の問題だったのだ。

この問題を取り違えると、対立が深まっていく。ワクチン肯定派は科学的な説明をこれだけしてもなぜ意見を変えないんだと憤り、反対者からするとそもそもそんな説明は信じられないのだというだろう。そして、不安を感じ、それはあなたが無知だからだと一蹴されたように感じる人々は、自分の不安や怒りの感情に寄り添って肯定してくれるリーダーに惹きつけられる(ウェイクフィールドやトランプのような)。

おわりに

今のやりかたのままで、世界中の人々が今よりも多くのワクチンを受け入れるという十分な根拠は存在しない。そのため、『世界のワクチン接種運動は再起動する必要がある』と著者は最終的に語る。最終章の話なのでその具体的な方法論などはあまり語られるわけではないが、単純にワクチン効果と副反応(何が起きて、何は起こらないのか)をエビデンスで啓蒙していけばいいというわけではないのは確かだ。

ワクチンに対する不信感は、ワクチン製造会社、国や政府と国民の関係、宗教その他の信念に基づくアイデンティティ、格差、国際機関への信頼性など無数の社会状況と密接に絡まって生まれてくる。著者のアナロジーにならうなら、生態系を維持するように、噂が生まれる土壌に対する総合的な手入れが必要になってくるのだろう。

本書では日本での勧奨が再開されることになったHPVワクチンに対する反対運動とその結果としての勧奨の中断も愚かな行動のひとつとして繰り返し言及されるなど、ワクチンをめぐる噂の流布は日本も他人事ではない。仮に新型コロナが収まっても世界的な感染症は今後幾度も発生するし、そのたびに必ず反ワクチン運動も起こる。一度読んでおくと、見通しがよくなる一冊だ。