本作もいわばそうした流れに連なる宇宙開発ものの作品なわけではあるけれども、他作品と異なる本作ならではの特徴は、著者クリス・ハドフィールドが、カナダ出身の引退した宇宙飛行士であるという点だ。しかも、カナダ人としてはじめて宇宙空間で船外活動を行い、2回のスペースシャトルミッションに参加。国際宇宙ステーション(ISS)のコマンダーも務め、『宇宙飛行士が教える地球の歩き方』などのノンフィクションの著作もある、問答無用で本物の宇宙飛行士なのである。
なぜ元宇宙飛行士が宇宙開発SFを書いたのか??
そもそもなぜ宇宙飛行士としてキャリアを築いた後に『アポロ18号の殺人』(原題:THE APOLLO MURDERS)などという書名の作品を書く必要があったのか?
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それを知りたくてインタビューを漁っていたが、上記に答えが書いてあった。著者はもともと副業レベルで文章は書いていたが、数年前レイ・ブラッドベリの遺族から、『火星年代記』の限定版序文の執筆を頼まれたのだという。結局その序文はうまくいき、遺族からも高い評価を受けたが、それだけではなくイギリスの出版社から「おい、あれを読んだら、君は殺人フィクションのスリラーを書けると思うんだ」と声がかかり、「アポロ殺人事件」というタイトルまで含めて提案してくれたのだという。その序文は読んではいないが、相当才気あふれる文章だったに違いない。
そうして出来上がったのが本作なわけだが、まずいうまでもないことだが宇宙飛行士周りの描写、説得力は突出している。本作の舞台は1973年のことだが、打ち上げ時の緊張感とG、補欠パイロットと正パイロットの間に流れる緊張感など、どれも素晴らしい。また、それ以外の部分、殺人事件のサスペンス周りの演出だったり、それを取り巻く世界情勢の話だったりの書き込みも相当にハイレベルで、著者のことを知らずに読んでも、凄いスリラー作家の新人が現れた! と驚いてしまうはず。
あらすじ、世界観など。
物語の舞台は1973年のこと。最初にも少し書いたが、現実ではアポロ計画は月着陸を果たした11号以後にも続き、1972年には17号まで飛んでいた。だが、月みたいな資源も何もないところに莫大な金をかけて人をやってどうするんだというもっともな批難もあり、月飛行計画は終了に向かう。それでも、実際には18号、19号の打ち上げ計画と機材の製造も進行しており、本書はそのあたりの史実が元ネタになっている。
現実には打ち上げられなかったアポロ18号だが、本作の世界ではニクソン大統領がうまくやり、国防総省に予算をもたせる形で月探査は継続されている。しかし、18号は国防総省に予算が移っていることもあって、アメリカ発の完全軍事目的での打ち上げ計画となる──というのが、物語開始時点の背景となる。軍事目的といっても何しに宇宙に行くの? と疑問に思うところだが、ソ連は軍事偵察ステーションアルマース(実在する)を打ち上げており、これに接近しての偵察。また、ソ連は独自の無人探査機を月に着陸させているので、月面着陸をしてその調査も行うのが具体的な目的だ。
アポロ計画で幾度もの有人月探査を成功させてきたからこその高難易度ミッションであり、歴戦の宇宙飛行士たちも腕がなるところだが、打ち上げの一ヶ月前にヘリの単独事故によってメインパイロットのひとりが死亡。明確な事故原因は見つからず調査が行われるが、パイロット自体はバックアップクルーへと変更され──とばたばたの中事態が進行していくことになる。無論「殺人」が書名に入ったフィクションで起こる死亡事故が単なる事故で終わるわけもなく、そこには陰謀の匂いが漂っている。
また、軍事偵察ステーションアルマースは最先端の光学系を搭載しているとみられ、アメリカの地上の情報が筒抜けになると軍事行動が制約を受けることから、18号クルーは単なる偵察ではなく”破壊”まで視野にいれた作戦行動も求められる。
「つまり、われわれの任務はアルマースを近くから撮影することだけではないのですね」
二人の上級将校はうなずいた。カズは続ける。
「アポロ18号のクルーにソ連の宇宙船を無力化させろと」
二人はまたうなずいた。
背すじが寒くなった。
「史上初めてアメリカが宇宙空間で敵国資産への軍事行動をおこなうことになる」
”ソ連と米国がどちらも宇宙開発の手をゆるめなかったら──”の未来を描き出す本作は、現実よりも先に”宇宙戦争”の発端を描き出すことになるのだ。
おわりに
現実のソ連のアルマースの前面にはNR-23機関砲が搭載され、明確に”攻撃”を行うことができたのだが、それが当然本作でも活かされていて──と読み進めていくと、単なる殺人サスペンスにとどまらないより大きな世界のうねりへと繋がっていく。何のためにソ連は月に無人機を送ったのか? なぜ人が殺されなければならなかったのか? の答えなど、ミステリー的にもSF的にも夢中にさせてくれるフックも十分だ。
著者は冷戦期は戦闘機パイロットとして働き、NASAのロシア担当ディレクターとして5年間ロシアに滞在していたこともあって、米ソの緊張感、それぞれが考えていることはよくわかっているようで、両陣営の思考過程の描写は圧巻。70年代の宇宙開発の雰囲気を見事に蘇らせ、もしかしたら、世界はこうなっていたかもしれないとありありと想像を膨らませてくれる作品だ。著者は昔の同僚やアポロの宇宙飛行士に自作を読んでもらったが、誰からも「こんなことはありえない」とは言われなかったと先述のインタビューで答えている。