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「幸せ」を追求するのはいいことなのか?──『ハッピークラシー――「幸せ」願望に支配される日常』

「幸せ」であることは、良いものであるように思える。なぜなら、幸せは良いものだからだ。トートロジーだが、こう考える人は多いだろう(僕もそう思っていた)。

本書は、そうした幸せであることは無条件に良いものである、とする幸せへの理解が、適切ではない形で広まった結果として、結果的に我々を縛るものになってしまっている、と批判的に検証していく本である。著者はスペインにある大学の心理学教授であるエドガー・カバナスと、ヘブライ大学の社会学教授であるエヴァ・イルーズの二人。その性質上、欧米を中心に流行しているポジティブ心理学への批判が中心であり、日本の「幸せ」の受け入れられ方とは異なる面もあるのだが、「幸せ」産業の発展はグローバルで進行しているものだから、関係がないわけではもちろんない。

幸せの追求はじつのところ、アメリカ文化のもっとも特徴的な輸出品かつ重要な政治的地平であり、自己啓発本の著者、コーチ、ビジネスパーソン、民間団体や基金、ハリウッド、トークショー、有名人、そしてもちろん心理学者をはじめとするさまざまな非政治的な関係者らの力によって広められ、推進されてきた。

ポジティブ心理学とは、1998年に心理学教授のマーティン・E・P・セリグマン博士によって創設された分野であり、「幸せの科学(science of happiness)」の別名にあたる。この心理学者らの主張によると、人はだれでも生まれながらに幸せになりたいという衝動に駆られており、幸せの追求はごく自然なことであるという。

そして、心理科学はすでに「幸福」であるとはどういう状態なのかを定義し、人がより幸せな人生を贈るために役立ついくつかの要素も発見している。つまり、専門家の助言に従うことで、誰でも幸せになることができる──と主張した。実際、ポジティブ心理学創設以降、幸せは曖昧な概念ではなく、誰もが追求し測定可能な目標となり、幸福であることは個人の努力次第で達成可能なものになってしまった。それは、自分の人生は不幸だ、ということが恥や罪悪感のもととなることも意味する。

そこでもちあがるのが、幸せは誰もが目指すべき最重要な目標なのだろうか、という問いだ。ひょっとしたらそうかもしれない。だが幸せの科学者たちの言っていることを考えれば、批判的にならざるをえない。本書は幸せに反対するわけではないが、幸せの科学が説き広める「いい人生」という還元主義的な考えには反対する。

幸福は客観的に評価可能なのか。また、その帰結。

本書の指摘のひとつに、そもそも幸福は客観的に評価可能なのか、がある。アンケート調査や尺度には数多くの種類がある。オックスフォード幸せ調査、人生満足感尺度、経験サンプリング法、一日再現法など。これらを用いて心理学者と経済学者は幸せには客観的な基軸があるとを主張したが*1、これには未だに疑問が残る。

たとえば、幸せについての質問で誰かが10点満点で7点をつけたとしよう。ある人の7点と、また別の人の7点は意味が異なる可能性がある。アイルランドに住む誰かの7点は中国や日本に住む人の7点と同じなのだろうか。ある人は自分の中に基準があって5点以下を絶対につけないかもしれないし、5点以下だけの人もいるだろう。

また、幸せが完全に定量化可能なものになると、国の政策でも取り扱われる対象となり、政治経済の構造的な欠陥を隠す煙幕として用いられることもある。たとえば、2010年にイギリス保守党のキャメロン政権では、史上最大規模の財政支出削減を発表した直後に、イギリスは幸せを国家発展の指標として採用するべきだと述べた。つまり、経済的な発展がみられなくても、保障が削減されても、失業率が高くなったとしても、「幸せ」が高いことが重要なのだ──という考えを広めることに注力したわけだが、これは当然複雑な社会経済指標(の悪化)から目をそらせる戦略にすぎない。

現在も、アラブ首長国連邦やインドなど、広範囲の貧困と人権侵害が存在する国々では、政策を評価する尺度として幸せを積極的に採り入れようとしている。民主主義国家の管理領域は広がりすぎ、難しくなった。そのため、『数量化可能で、判断や信念を均質化できて、維持困難になりつつある社会福祉を連想させる幸せのような概念が便利な道具になった。これを使えば、わずかな民主主義を与えるだけで、本物の民主的な決定につきものの制御不可能な結果や政治的課題を扱わずに済む』

「持続可能な」幸せの追求

「幸せ」の特徴のひとつは、それが終わりのないプロセスだという点にある。なぜなら、一瞬幸せになっても意味はないからだ。持続的に、10年、20年というスパンで幸せであることが求められる。「幸せであることは重要な使命であり」同時に「常に求め続ける必要があるもの」というポジティブ心理学がもたらすこの仕組は、幸せを貴重な商品へと変えてきた。『二一世紀の資本主義が巨大で強力な幸せの経済を生んだ。これは比喩的な表現などではない。幸せそのものが、世界中で生まれ拡大しつつある数十億ドル規模産業において、盲目的に崇拝される商品となったのだ。』

マインドフルネスをはじめとしたストレスへの対処法、リラクセーション、認識の柔軟性を高める手法の数々に感情のコントロール手法、ポジティブ心理学に基づいて助言を行うアドバイザー、自己啓発関係者まで、人間が今よりも幸せになるために試すべき手法は世に溢れかえり、この自己改善=幸せに終わりはない。幸せ産業は、幸せではない状態を恥だと考える人々をつくりだし、ネガティブな気持ちや行動を表に出さないように働きかけ、終わりなき自己改善に駆り立てる。そうなってしまったら、幸せの追求はポジティブな効果だけをもたらすとはいえないだろう。

おわりに

本書で危惧しているほどに日本でポジティブ心理学的な考え方が蔓延しているとは個人的には思わないが、社会と経済の指標が悪化してきた国が政策を評価する尺度として幸福を取り上げ始めたり、我々が同様の問題に直面することもあるだろう。

将来的に、オルダス・ハクスリーによるSF『すばらしい新世界』で描かれた、飲むだけでいつでも楽しく安定した気分になれる薬「ソーマ」のようなものが出てくる可能性だってある(「ソーマ」は現在われわれを制御しようとしている幸せ産業と同じだ、と著者は語る)。その時我々は幸せを絶対的に善なるものとして扱うのか。そうした、幸せについてあらためて考えさせてくれる一冊だ。

*1:一見、心理学者と経済学者はこれらの方法で二つのことを証明したように見えた。ひとつは、幸せの快楽の質には客観的な基軸があること。エドガー・カバナス,エヴァ・イルーズ,山田陽子. ハッピークラシー「幸せ」願望に支配される日常 (Japanese Edition) (p.41). Kindle 版.