基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

索引の歴史は、時間と知識についての物語である──『索引 ~の歴史 書物史を変えた大発明』

主に重要な単語や人名が何ページに出てくるかを示すために巻末についている「索引」。索引はノンフィクションについていることが多いが、これに注意を払う人はあまり多くないだろう。調べ物でもなくただそのノンフィクションを頭から尻尾まで楽しみたい人にはそこまで必要なものとはいえない。実際、僕も読まない方が多い。

しかし何か具体的な目的を持ってある本を読んだり、読み返したりする人にとってはとても重要な存在である。えーとこの本のフロイトについて言及してる箇所が知りたかったんだけどどこだったっけな……という時に、電子書籍なら検索で一覧が表示されるが紙の場合は索引がなければ最初から読み返す必要があるからだ。

本書『索引 ~の歴史 書物史を変えた大発明』は、そんな索引の歴史について書かれた一冊である。僕が日頃読むノンフィクションには日常のように索引がついているので、あまりそのありがたみを感じたり存在自体を意識することもなかったが、いうまでもなく索引も書物、読書の歴史の最初から存在していたわけではない。むしろその登場は書物の歴史の後期にあたり、索引をめぐっての様々なドラマや野望も、歴史には存在していたのだ。そして索引は永久不滅の存在ではなく、その時代ごとによって立ち位置を変えてきた。紙の本から電子書籍への変化、そして今ではAIだ。

索引なんてものがついていたらみんな抽出して読みたいところだけ読んで、じっくりと本と向き合う人や自分自身で体験を求めに行く人なんていなくなってしまうのではないか、誰もが手軽に情報を手に入れられたら、本なんか読まないし書かないだろうという、今では信じられないような議論だって巻き起こった。

 索引の歴史は、じつは時間と知識についての物語であり、この両者の関係を語るものである。情報にすばやくアクセスする必要性が高まるにつれ、本の内容が分割可能で非連続、抽出可能な知識の単位で構成されることが望まれるようになってきた。これは情報科学という分野の問題であり、索引は、この分野の基礎をなす構成要素なのだ。(p10)

いってみればGoogleが検索エンジンでやっていることも「知の索引」である。Googleが検索エンジンを作るずっと前に、知の総合索引を作るぞと冒険に繰り出した人々もいて──と、地味な歴史かと思いきや意外なほどドラマに富んでいる。誰が読んでもおもしろい本ではないが、読書好き、特にノンフィクション好きにはたまらない一冊だ。これを読めばこれから先の本の索引に注意を向けずにはいられない。

索引の定義

最初に索引の定義について確認しておこう。一般的に索引とは、一冊の本を登場人物、主題、個々の単語などに細分化し、アルファベット順(日本語ならあいうえお順)に並び替えたものである。これはどこを探せばよいのかを教えてくれる時短のためのシステムとして考案された。そして、索引は中でも大きく二つに分けられる。

用語索引(フロイト、のように人名や単語の出現箇所を機械的にピックアップしたもの)と、主題索引(作品中の主題を見出し、語として抽出する)の二つだ。用語索引の方はある程度機械的に対応できるのにたいして、主題索引は対象の本の読解・解釈能力や、取捨選択において個人差が出る。主題索引の作製は人間の個性が発揮される場だ。奇遇──というよりも必然的に、この両者は1230年頃に生まれている。

索引の誕生

索引について考えたときに必須に思えるのは、アルファベット順(とかあいうえお順とか)に並んでいること、また見出しになっている単語の位置情報が付随する点にある。「どこにその単語が出てくるよ」という位置情報がなければ意味がない。

つまり石板や粘土板や巻物に文字を書き連ねていた時代には索引(の萌芽があったとしても)それ自体は生まれようがなかった。で、それが生まれる土壌が整ったのが、1200年代初頭だったいえる。12世紀ヨーロッパには多くの人が都市に流れ込んで異端宗派の影響もあって、教会は説教に力を入れていた。その過程で托鉢修道会が生まれ、彼らは人々の中に混じり、ラテン語ではなく民衆が使う言語で広く説教をした。

当時人々に効率よく情報を伝える必要性が高まったわけだが、そうなると必然的に、聖書という原典を素早く・的確に整理・参照できる能力が必要とされた。そこでいきなり索引が生まれたわけではなく、最初は章・節分けなどがなされるわけだが、その流れで索引が生まれたのだ。たとえば、主題索引はロバート・グロステストが編纂した『語義識別目録集』が最初のものとされている。これは彼がこれまでに読破した大量の本についての主題索引で、「神」や「永遠不滅」「想像力」「真実」など、主題ごとに広範な情報とそれがどこにあるのかの位置がまとめられている。

聖書や教父の著作、古代哲学、さらにはアビケンナやザーリーのようなイスラム思想家も網羅する包括的な『目録』は、一三世紀の検索エンジンにして羊皮紙上のグーグルであり、主題を取り込み、。知られているあらゆる文献に向かって光を発散させるようなレンズなのである。(p90)

もう一方の用語索引も同時期に生まれた。こちらを作ったのはヒューという修道院長で、修道会士たちを使ってその作業にあたった。そこで作られた用語索引はラテン語聖書についての単語ベースの索引で、一万語以上がアルファベット順に並んでいる。ただし、現在のものと違うのはページがないことだ。そのため、章分けされた聖書の章をさらに七等分し、索引では大まかな場所を章とその7つのうちから示している。

ページの発明

今では索引にはページがあるのが当たり前だからページがない索引が当然だった時代があると言われると驚くが、1200年代初頭は印刷術は発明されておらず、まだ人が手で書き写していた時代である。そうするとどこで・だれによって書き写されたかによってページも変わってきて、その偶発的な一冊だけにページを振っても意味がない。

しかし印刷の大量生産が可能になると、どの一冊一冊にもまったく同じ文章・同じレイアウトが適用された画一性が生まれ、誰もが共有できる”ページ番号”が割り振れるようになる。言われてみれば当然だが、大印刷時代がこないとページが普及するはずがないのだ。以降500年のあいだにこの「ページ」は本の索引において普遍的な参照単位になり、ページが普及するにつれて索引もまた広がっていく──だが、電子書籍の時代でそれもまた変質することになる。

どういうことかといえば、電子書籍では画面上の文章は余白を広げたり文字の大きさを拡大・縮小できるリフロー可能なものだから(リフロー型じゃないのもあるけどそっちは実質本なので割愛)、索引やページの概念はここでは紙とは大きく異なっているのだ。その意味や意義についても語りたいところだが、もうけっこう紹介してきたのでここらで終わりにしておこう。なかなかおもしろい議論が展開している。

おわりに

他にも、現代でめったにフィクションに索引がないのはなぜなのか(失敗の歴史があるからだが、どのように失敗してきたのか)や、最初に少し触れた知の総合索引を作るぞと冒険に繰り出した人々の話など、魅力的なエピソードが満載なので、本記事を読んでおもしろかった人は手にとって観てね。当然本書の索引は、日本語版索引、索引家による索引、コンピュータによる索引と3つもあって、力作であった。