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全世界の誰もがこの人間の影響を受ける、お騒がせ男初の公式伝記にしてアイザックソンの最高傑作──『イーロン・マスク』

この『イーロン・マスク』は、その名の通りイーロン・マスク初の公式伝記である。マスクの伝記自体はこれまでにも出て、翻訳もされている(読んだけどおもしろい)が、その中にあって本作の特徴は刊行された直後だから、つい最近のツイッターの買収など”最新の情報・エピソード”まで網羅されているところにある。

そしてもう一つの特徴は、スティーブ・ジョブズをはじめとした無数の偉人たちの伝記を書いてきた、伝記の名手であるウォルター・アイザックソンがその私生活にまで密着して描き出している点にある。僕もアイザックソンの本は昔からファンでほとんどすべてを読んでいると思うが、これまで彼が手掛けてきた伝記の中でも本書の書きぶりには熱が入っていて、しかもこれまで書いてきた天才・偉人たちとの比較という評価軸もうまく機能しており、最高傑作といえる内容だと思う。

全世界の誰もが、このお騒がせ人間の行動の影響を受ける

ブルドーザーのような性質上マスクに否定的な人間は多いが、肯定的か否定的かはともかく、このトンデモお騒がせ人間の行動の影響は全世界の人間に及ぶのだから──電気自動車、自動運転車、インターネット、ロケット開発、人型ロボット開発、ブレイン・マシン・インタフェースにAIなど──、人類の未来について考えるにあたって、我々はマスクの思考・形成プロセスを知っておく必要がある。

マスクの周囲の人間は多かれ少なかれその行動や言動の被害を受ける。彼こそが世界を変える人間だと付き従う人間もいるが、離れていく人間の方が圧倒的に多い。アイザックソンは周囲の人間にも膨大なインタビューを行っているが、多くの人が「彼はすさまじい人間だが、彼のすさまじい成果とあの性格はセットでなければならないのか? 性格を矯正したら成果も出なくなってしまうのか」と疑問に思っている。

本作では、マスクの善性も悪性も含めて全面的にその人物像を描き出している。ルーツから、プライベートから、会社の中から。初の公式伝記とはいえ、アイザックソンはマスクを持ち上げるばかりではなく、時に強烈にディスってもいる。

マスクは心のありようから陰謀論に傾きがちで、自分に対するネガティブな報道は、基本的に、報道機関の人間がなにがしかの意図でわざと流していたり、あるいは、よからぬ目的があって流していると信じている。*1

マスクの人物としての是非はともかく──本書にはいくつものテーマが流れているが、その一つに「性格や行動が最悪な人物が凄い成果を残している時、その性格と成果は不可分なのか?」というテーマもある。許されるか許されないかはそれとはまた別の問題なのは無論だが──彼が無類におもしろい人間なのは間違いない。

上巻と下巻の内容について

本作は上下巻に分かれている。ざっくりとした区分けとしては、上巻では幼少期の話からはじまってどんな家庭で育ち草創期にどんなことが起こったか、また数々の事業の創業を経て苦難をいかに乗り越えていったのか(たとえばロケット打ち上げの民間企業スペースXも、電気自動車のテスラも、どちらも資金ショートの間際の局面を乗り越えている)がメインとなっている。上巻はだいたい2019年頃までの話だ。

そして下巻では、主に2020年代の話が語られる。スターリンクがウクライナに通信を開放していたがロシア軍への攻撃に用いられそうになったので(ひいてはそれが核戦争に繋がりかねないことを危惧して)突如として遮断した話や、ツイッターの買収、そして「有能なエンジニアだけ残して後は全部切り捨てる」決断をした舞台裏など、そのあたりは下巻でみっちり触れられている。この二つは特にニュースバリューや興味関心が集まるだろうが、そのへんの裏話が知りたい人は下巻だけ読めばいい。

幼少期の話──スペースX・テスラの安定まで

上巻は幼少期の話から始まるが、これがまあとんでもないエピソードの連続だ。たとえばマスクは南アフリカで育ったのは有名な話だが、12歳の時にベルドスクールなる荒野のサバイバルキャンプに放り込まれたという。配給される水も食料も少なく、人の分を奪うのは自由でむしろそれが推奨される、蝿の王の実験版みたいなキャンプで、殴る蹴るのが当たり前の環境だったという(何年かにひとり死者も出るとか)。

マスクは幼少期のエピソードも50代のエピソードも対して印象は変わらない。SFが好きで(よく名前があがるのは『銀河ヒッチハイク・ガイド』だ)ゲームが好きで(超多忙なはずなのに隙間をみつけて対戦ゲームもやるしエルデンリングもやっている様子が本作では描き出されている。しかも対戦系ゲームはめちゃくちゃ強かったらしい)、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』もやり──と、ゲームやSFに熱中しながら、それを”フィクション”で終わらせずに現実のものにするために活動力を費やしている。

上巻の盛り上がりどころの一つは、テスラもスペースXも資金がショートしかかり絶望的だった2008年、スペースXの3連続で失敗したロケット打ち上げが、最後ぎりぎりの部品をかき集めて臨んだ4回目で成功し、NASAからの受注も入りテスラの工場も正常に稼働し始めた2008~2009年あたりだが、このあたりは胸が熱くなる展開だ。下記は3回失敗してもうキャッシュに後がない状態で、再起をはかるシーンである。

 だがマスクは、ロサンゼルス工場に4台目の部品がある、それを組み立て、なるべく早くクワジュに運ぼう──そう提案した。期限は、ぎりぎりなんとかなりそうな6週間だ。
「あの状況で『がんばろうぜ』ですよ。感動しました」とケーニヒスマンは言う。*2

その根本的な行動原理

マスクという人間はこうして本で読んでみると行動原理は単純で、とにかく幼少期から思い描いてきた壮大なヴィジョンの実現のために、できることは何でもやる。その夢はたとえば人類を複数惑星に入植させるみたいに普通にやってたら数百年かかってもおかしくない事業なので、それをなんとか自分が生きている間に間に合わせるために一日中働くし自分の部下にもみな同じような水準の労働を求める。

その過程で他人と喧嘩しまわりを不幸にするが、実現のためにありとあらゆることをやるせいで既存の因習だったり思い込みを打破して結果的に多くの人に利益をもたらすこともある。テスラで内製にこだわって徹底的にコストカットしたのも、スペースXで実費精算(かかった金額分だけ請求できるので、できる限り作業を引き伸ばすのが儲かる)でぬるま湯に浸かっていた宇宙産業に乗り込んで徹底的にコストにこだわって実費精算以外の民間ロケットの道を示したのも、そうした特性からきている。

ジョブズとマスク

著者のアイザックソンがスティーブ・ジョブズの伝記も書いているのも関係しているだろうが、本書にはジョブズとマスクを比較する描写も多い。たとえばどちらも強迫性障害のような特性があり、問題に気づくとなにがなんでも解決してしまう。

そうせずにはいられない性格だからだ。しかし、どこまで解決しようとするかの範囲が二人は異なっている。ジョブズは概念とソフトウェアを押さえてデザインにこだわったが、生産は委託していた。ジョブズが中国の工場を訪れたことはない。だが、マスクはデザインスタジオより組立ラインを見て歩くことを好む男だ。

『マスクがジョブズと違うのは、製品のデザインに加え、それを支える科学や工学、生産にまで強迫的な接し方をする点』だという。マスクは生産や材料、巨大な工場を脅迫的なまでに効率的にしようとする。工場好きが講じて、カリフォルニア州の工場をトヨタが売りに出していたのを知ってトヨタの豊田章男社長を自宅に招いて資産価値10億ドルと言われたこともある工場を4200万ドルで買うことに成功している。

工場改善男

僕が本作を読んでいて特に印象に残ったエピソードも工場絡みのものだ。マスクは生産工程においては5つの戒律があり、たとえば第一の戒律は「要件はすべて疑え」だ。

ネジがその本数である理由、ネジカバーを使わないといけない理由、そのすべてに「理由があるのか?」ときいて回る。当然「安全のためです」などと返答があるわけだが、本当に耐荷重の計算を行って数値的に必要なのか? としぶとく問い詰め、結果必要なければ全部とっぱらってしまう。その工程を部下に強いるだけでなく、マスク本人が実際に工場に何日も寝泊まりしてでもやりとげるのがすごいところだ。

たとえばテスラの工場では、車のボディのボルトの本数が6本なのはなぜなのか? もっと減らせるんじゃないか? と問う。ボルトが6本なのは事故のときに外れないようにですと返答されるが、事故の力は基本的にこのレールを伝わってくるはずだ、と力が加わるはずの箇所すべてを頭に思い描きそれぞれの許容値を挙げ、もっと減らすことができるだろう──と設計の見直しと試験を技術者に伝えたりする。

彼の指示はとんでもなく間違っているものもあるが、とはいえあっているものも多く、あっていた場合はボルト一本、ネジ一本、ネジカバー一本単位で工程から削減されていく。この徹底した要件定義の見直しによる工場の効率化によって、最終的に破壊的な製品を産んだり、無茶な生産期日がまかり通ってしまったりする。

工場を歩きながら、1日に100回は指揮官決定を下しただろうとマスクは言う。
「2割はあとでまちがいだとわかり、直さなければならなくなるでしょう。でも、ああして私が決断を下して歩かなければ、我々は死んでしまうわけです」*3

とは本人の弁。「2割はあとでまちがいだとわかり」の比率はもっと高いと思われるが、仮に6割が間違いだったとしても、物事を前に進めるためにはプラスになるのかもしれない、と本書と彼が成し遂げてきたことをみると思う。

それを特に実感したのは、2010年に無人宇宙船を軌道に打ち上げ、戻ってくるのを目的とした試験のエピソードだ。高難度なので民間ではもちろん国レベルでも成功例は少ない(米国、ロシア、中国)。その打ち上げの前日に、2段階目エンジンのスカート部に小さな亀裂が二つはいっているのが見つかった。宇宙では少しのことが命取りになるので、通常万全を期す。NASAの関係者は、みんな何週間か延期になると思ったそうだが、マスクは「亀裂が入っているスカートを切ったらどうだろう」という。

スカートを切ったら推力が少し落ちる。しかしミッションに必要な推力は得られるはずだと計算が出て、翌日の打ち上げは無事行われ、そして成功したのである。

おわりに

通常の書評の文字数を超えて紹介しすぎた感もあるが、これでも全体からするとほんのわずかなエピソードに過ぎない。普通の人間ならテスラかスペースX、どちらも軌道に乗った時点で満足するだろうに、リスク大好き人間のマスクは歳をとっても何も変わらずに新しい対象にキャッシュをベットし続けている。そもそも彼の目標は金持ちになることではなく人類を複数惑星に住まわせることなわけだから。

最終的に彼の旅がどこまで届くのかはわからないが、本書はその旅の現時点で最新で最良の記録書である。

*1:ウォルター・アイザックソン. イーロン・マスク 下 (文春e-book) (p.64). Kindle 版.

*2:上 (文春e-book) (p.264). Kindle 版.

*3:ウォルター・アイザックソン. イーロン・マスク 上 (文春e-book) (pp.408-409). Kindle 版.