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欧米で話題沸騰の気候変動にまつわるすべての領域を描き出そうとした野心的な気候変動SF──『未来省』

この『未来省』は、『レッド・マーズ』、『グリーン・マーズ』、『ブルー・マーズ』の三作からなる火星三部作や『2312 太陽系動乱』などで知られるキム・スタンリー・ロビンソンが2020年に刊行した気候変動SF長篇だ。キム・スタンリー・ロビンソンは「細部へのこだわりと、世界や社会、人類といった大きなものをまるごと描こうとするヴィジョン」のどちらもを持ち合わせる稀有な作家だが、本作は”気候変動vs人類”という中心テーマに対して、その才能をいかんなく発揮している。

最初に概要と総評を紹介する

近年実際に災害が増えていることもあって、気候変動をテーマにした小説(Climate Fiction)は欧米で伸びているジャンルだが、本作は数あるcli-fiの中でもとりわけ大きく話題になった作品だ。その理由のひとつには、本作が”気候変動vs人類”というシンプルな、されど取り扱うのは難しいテーマに、誰よりもド直球に組み合っている点が挙げられるだろう。このテーマの何が難しいのかといえば、気候変動の影響は全世界、全産業に及ぶから、そのすべてを描こうとしたら、大変なリサーチと書き切るだけの筆力が必要になる。だが、本作はそこに果敢にチャレンジしているのだ。

たとえば、ジオエンジニアリング(上空に粒子をまいて太陽光を反射する日除けを作ったりする”気候工学”を指す言葉)からブロックチェーンからMMT(現代貨幣理論)、3Dプリンタまであらゆる技術が気候変動解決のために動員されている。全人類が一丸なわけではないから、行き過ぎた人々が炭素排出を食い止めるために飛行機に向かってドローンテロを仕掛けて世界の交通を麻痺させたりといった混乱までも含めて、数十年といったロングスパンで”気候変動と人類”の戦いが描き出されていくのだ。

その最中にも、世界の状況はどんどん悪くなっていく。そういう意味では、破滅・終末SF的な魅力もある。とにかく本作が取り扱っている領域は広く、一人の人間がここまで書けるものなのか、と圧倒されてしまう作品だ。

惜しい面もある

一方でその圧倒的な「広さ」を実現するために、物語としての側面は犠牲になっているともいえる。主人公といえる存在はいるが、MMTやブロックチェーンについてや、人類が一年にどれだけの炭素を排出しているのか、トップ1%が富を独占している資本主義の問題について、気候変動にたいして人類の動きがここまで遅くなった理由は何なのかなど、名もなき登場人物が解説する文章が短い区切りでさしはさまれ、部分によってはほとんどノンフィクションを読んでいるかのような気分にさせられる。

本作は僕のように気候変動ノンフィクションもSFも大好きでたくさん読む! という人間にとってはご褒美のような作品だが、そのどちらかだけを求めて読むと、微妙に食い足りない気持ちを抱えることになるかもしれない。

ざっと紹介する。

というわけで、ここからはもう少し具体的に紹介していこう。物語の時間はどんどん進行していくが、最初の舞台は2025年の近未来。2015年に国連気候変動枠組条約第21回締約国会議(COP21)にて温室効果ガス排出削減のための新しい国際的な枠組みである”パリ協定”が(現実で)締結されたが、物語はこの協定実施のための補助機関である未来省が、2025年の1月にスイスのチューリッヒに設立された直後から始まる。

未来省が何をやるのかといえば、基本的には”気候変動に対抗するためのありとあらゆること”である。動物の保護から移民の調整、二酸化炭素収支がマイナスになる農業の模索、空気中から二酸化炭素を取り出す技術、コンクリートの代わりになる炭素ベースの建築用素材、海水を真水にする技術の開発など──だが、メイントピックとして語られていくのは”カーボンコイン”の創造だ。カーボンコインはデジタル通貨で、炭素排出を削減、あるいは炭素を空気中から回収することで発行される。

 燃焼されなかった炭素一トンにつき、あるいは実効性が証明された方法による炭素の回収が、取り決めた期間内に──これまでのこうした議論では一般的に一世紀のあいだ──に達成されたとき、一カーボンコインが発行されます。そのコインはすぐに為替市場で別の通貨に両替することもできるから、一カーボンコインは一定程度のほかの法定通貨に相当する価値があります。中央銀行が一定の最低価格を保証するので、底が割れるのを防げます。しかし同時に、人々がその価値をわかるようになってくれば底値よりも高くなる可能性もあり、そこは普通の為替市場における通貨と変わりありません。(p184)

これはまだカーボンコインが実施される前の構想段階の議論における一節だが、ことはそうすんなりいくわけではない。たとえば世界中の中央銀行(ロシアや中国といった政治体制が極端な国も含む)に協力を要請しないといけない。他にも、炭素を大量に排出している大企業の方がこのカーボンコインを手に入れやすいので、手に入れたカーボンコインで結果的にさらに炭素排出量を増やすのではないか(であれば、その穴をどう塞ぐのか)──といった細かな議論と調整が、本作を通して進行していく。

懸念すべきことは多いが、カーボンコインの価値が安定すれば強力なツールになる。炭素の排出を抑制、あるいは回収することによって得られるカーボンコインの価値が、炭素の排出を続けることによる利益を上回るのであれば、国家から個人を含めたすべての人間が自発的に”脱炭素”に向かって動き出す可能性があるからだ。

炭素を削減するためのインセンティブを与えるのと同時に必要とされるのが”炭素税”の導入だ。これは単純な話で、炭素を排出するほど税金がかかるようにすればいい。しかし問題は脱税が横行していることで、炭素税を設計・普及させる前に、”脱税”が不可能なシステムを作る必要もあって、その前段階としてブロックチェーンを利用した新しいSNSを創り出し──と、あれよあれよというまに規模が広がっていく。

氷河に水を撒く

未来省パートの主人公は、かつてアイルランド共和国の外務大臣を務め、未来省では事務局長となって指揮をとるメアリー・マーフィーなのだが、彼女以外の人々もみなそれぞれの形で気候変動に対抗していく。たとえば、もう一人の主人公といえるフランクは2025年に発生したインドの巨大な熱波(最終的に2000万人もの死者を出した)に遭遇しかろうじて生き延び、地獄をみたことから”暴力を含むあらゆる手段で気候変動を止めなばならぬ”という思想を持ってテロ組織に加入し行動を起こす。

個人的におもしろかったのが、「氷河に井戸を作り水を汲み上げて氷河の上に撒き散らすことで氷河が溶ける速度をゆるめさせる」プロジェクトに挑戦する人々のパートだ。水を輸送するパイプなど設置は手間だが技術的にはすでにあるものだけで出来て、しかもほとんど放置でOKだ。いろいろ気候変動に対するノンフィクションを読んできたが僕も聞いたこともないやり方で、実際に可能かどうかはともかく、このパートだけ抜き出しても土木・工事系のSFとして成立するぐらいにはおもしろい。

おわりに

氷河に水を撒くプロジェクトなど、膨大な量のアイデアが本書には投入されていく。SF好きはもちろん、現実の気候変動について興味がある人にも読んでもらいたい一冊だ。というより、本書はノンフィクション好きの方が楽しめるかもしれない。