本書は主に疫病に対抗する疫学がどう発展してきたのかの歴史をたどるわけだが、そこからさらに踏み込んで「疫学の発展に大きな貢献を果たしてきたにもかかわらず、これまで歴史からその存在を抹消されてきた人たち」に光を当てた一冊である。どういうことかといえば、1700年〜800年代はまだまだ観測技術や遺伝子についての理解も進んでいなかったから、医学の理論や検証のために用いられてきた主な手段は現場を観察し法則を見つけたり検証を行う事例研究であった。で、一般に住まう市民などさまざまな人がその対象になっているわけだが、病において多くの有益な情報を提供していたのは、ひどい扱いをされた奴隷や植民地現地民たちだったのである。
彼らはその命を軽く扱われ、船旅に際して栄養も換気も不十分で窓もない船底のスペースに何百人もが詰め込まれることもあった。彼らはそこでは息ができないと苦しさを訴えた記録が残っているが、過密な空間がいかに人体に有害かすらもろくに理解されていない時代(1700年代中頃)は、彼らの証具体的な症状や死者数のデータを足がかりにして、当時の医師たちは理論を組み立てていったのである。つまり、奴隷の人々の犠牲の上に現在の医学や疫学は成り立っているともいえるのだ。
本書は、統計、データ収集、聞き取り調査、それに医学的監視を用いる手法が、帝国主義、奴隷制度、及び戦争──そのどれもが暴力を基盤としている──によっていかに拍車をかけられたかを明らかにしている。疫学は、それ自体の歴史から抹消された人々と場所に対する大規模な侵犯行為の結果として誕生したのである。(p.203)
そして、実はそうした「奴隷や植民地現地民が医学にどのように寄与したのか」というのはこれまで歴史から抹消されてきたのだと著者は語る。彼らを観察した結果であったり、そのデータは最終的に科学的原理として体系化されたが、当事者たちのエピソードや悲惨な状況それ自体は積極的に書き残されることもなかったからだ。
従来の医学史研究において、彼らは存在しないも同然であった。彼らの名前と声はしばしば忘れ去られ、時には歴史的文献から作為的に抹消された。本書が目指しているのは、彼らが姿を消した状況を明らかにし、その歴史的功績を本来の形で伝えることである。(p.11)
けっこう専門的な本ではあるのだけど、難解な表現はほとんどなくどのエピソードも興味深いものばかり。知的関心を満たしながらもサクッと読み終えられるだろう。
奴隷船の過密な空間。
最初に取り上げられていくのは、奴隷や捕虜が船底の過密な空間に押し込まれた状況と、それがもたらした医学的知見についてである。1700年代半ば頃、人間の生存に空気が必要不可欠であること自体は知れ渡っていたが、空気の有効性が過密な空間で失われる理由を詳しく理解するまでは至っていなかった。科学者たちが実験室で空気の構成を調べていた時、医師たちは密閉空間で過ごした人々に注目していた。
密閉空間が人体にどのような影響を与えるかについての有効な事例になったのが、奴隷を運ぶ船なのだ。たとえばイギリス海軍に所属していたトーマス・トロッター医師は、1783年から84年にかけて奴隷船ブルックス号で行なった観察の結果を数多くを残している。ブルックス号には西アフリカに到着すると100人以上の奴隷を購入し、二人一組にして腕と足を鎖で縛り、窓も換気装置もなく空気が淀んだ船底に押し込めたのである。船底のスペースは空間の高さは1.5mから1.8mほど。窓もなければ換気システムも存在しないから、室内の暑さもひどく35度を超えたこともあった。
当然呼吸は苦しかったようで、トロッターは奴隷たちが苦悶の表情を浮かべながら必死に呼吸している姿や、自分たちの母語で「息ができない」と叫び声を上げていた様を目撃している。彼は換気の重要性を訴え、従来よりも少人数を船で運ぶように推奨するようになった。のちにトロッターの奴隷船に様々な事例を付け加えながら(インドの換気の悪い監獄内でイギリス人捕虜たちが123人窒息死していた事件など)新鮮な空気とそれに伴う換気は人間の生存に必要不可欠であるとを訴えたロバート・ソーントン(1768-1837年)もいる。要するに当時は過密状態や空気の不足が病気や死を招くという、今では当たり前の知識すらも事実として定着していなかったのだ。
多数の人間を過密な密閉空間に幽閉するのが当たり前奴隷貿易が、あらたな医学理論の誕生を促したといえる。このように奴隷船はきわめて重要な調査対象だったわけだが、医学専門誌や報告書では「事例」や「船舶」といった表現に置き換えられ、通常奴隷の存在は科学的事実とは無関係のものとして抹消されてきたようだ。
天然痘と奴隷
他、個人的に印象に残ったのは天然痘の予防接種の初期において、人体実験的に黒人奴隷が用いられていたことを明かす第七章「歌え、葬られぬ者たちよ、歌え」だ。
天然痘は古くから二度はかからないことが知られていた。そのため、アフリカやインドでは天然痘の予防のために天然痘患者の膿やかさぶたを感染していない人の皮膚に植え付ける「人痘接種法」というやり方で予防接種が実践されてきた。1700年代初頭、アメリカではまだ人痘接種法は行われていなかったが、当時の医師は天然痘の大流行に対抗するため、奴隷の身体を使ってその実験を行ったという。
ボイルストンは、接種後の様々な段階を〔奴隷の身体を使って〕観察し、記録した功績をマザーと共に称えられた。北アメリカのイギリス植民地で予防接種が新たな医学的処置として定着したのは、奴隷制度に負うところが大きかった。(p.198)
天然痘と奴隷の関係はそれだけではない。アメリカの南北戦争時にも天然痘は猛威をふるったが、戦中であることも手伝って予防接種のワクチンの数は足りなかった。そこで、人痘接種と牛痘接種の双方において、奴隷の子供たちを意図的に天然痘に感染させ、発熱し膿疱ができたらそこに薄く切り目を入れて痘苗にするための漿液を採取していたのである。当時大農園には何百人もの奴隷の黒人の子供がいて、そこは痘苗の大規模な生産現場であると同時にその後の追跡調査の実験場となっていた。
おわりに
本書では他にも疫学者としてのナイチンゲールを評価しようとしたり(彼女は戦時中に収集した死亡率のデータと国内の死亡率統計を比較して兵士のリスクを分析したり、兵舎病院と総合病院で様々な要素を追跡するための記録管理システムを開発したりとデータを駆使し仮説を導き出す最初期の疫学者であった)と、植民地主義や戦争がどのように現代でも用いられている疫学的手法につながっていたのかが語られている。
当時の人々のリアルな観察結果や証言から、どのようにして疫学とそもそもの「科学的手法」が発展・立ち上がってきたのかがよくわかる。おもしろいだけでなく、いまのわれわれの社会を支える貢献者たちに敬意を持つためにも、重要な一冊だ。