基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

『三体』の劉慈欣と並び称される作家・韓松による超ド級のSF長篇──『無限病院』

この『無限病院』は、中国SF四天王の一角にして『三体』の劉慈欣と並び称される韓松による〈医院〉三部作の開幕篇だ。帯の惹句には劉慈欣が『中国のSFをピラミッドとするならば、私が書くような二次元のSFはその土台、韓松が書く三次元のSFはその頂点だ。』と寄せていて、読み始める前からハードルは上がりに上がっていた。

それが実際読み始めると冒頭130ページほどは正直いって何を言っているのかよくわからず、そもそも世界はおかしいのだが、同時におかしな登場人物たちが理屈が通るような通らぬようなことをばらばらに語っている。冒頭は不条理のカフカか幻覚のディックかといった間をふらふらとさまよいつつ、次第に物語は世における医療と未来を問う医療SFと化し、そのままSF的に展開するのかと思いきや、中盤以降は突然村上春樹的なメタファーとセックスに溢れた世界に突入し──と、読み進めるごとにどんどんジャンルと読み味が変貌していく、摩訶不思議かつ唯一無二の作品であった。

読み終えてみれば劉慈欣が書いた「自分は二次元だが韓松は三次元の頂点だ」という言葉の意味がよくわかる。劉慈欣が超理論などをいくつも持ち込みながらも基本的にはこの宇宙の物理学の理屈の中で物事を展開させていた一方で、韓松は軽々とこの宇宙の制約を超えて、(病院・医療というテーマを踏まえたうえで)「本来宇宙はどのようにあるべきなのか」と問いかけてみせるのだ。この宇宙は病んでいるのではないか。であれば病んでいない宇宙とはどのような宇宙なのか。宇宙を治療することはできるのか。医療とは、家族とは、国家とは、生と死とは、どのようなものなのか。

そうした諸概念をひとつひとつ解体して再構成していくような長篇で、間違っても『三体』がおもしろかったという人に次に薦めるような作品ではない。だが、確かにこれは劉慈欣とはまた別の「極」としかいいようがない。僕はめちゃくちゃおもしろかったが、誰もがおもしろいと思うかどうかは疑問といえる。

あらすじ・世界観など──謎の多いプロローグ

物語はまず「プロローグ 火星の紅十字」という短いパートから始まるが、これは相当意味のわからない話だ。舞台は宇宙船〈孔雀明王〉。地球を出発してしばらくたち火星の周回軌道に入っているが、その目的は火星で仏陀を探すことだという。

どうやら世界では戦争で帝国はすべて崩壊してインドやネパールが世界をコントロールしているようで、それに伴って仏教がグローバルな復興を遂げて、新時代の支配的な信仰となっている。そこまでは理解できるが仏陀を探す理由はわからない。それは登場人物も同様のようで、この世界では技術の進歩で老、病、死、苦は軽減され、かつて仏陀が旅の途上で出会ったような病んだ人々は容易に治療できる。そんな時代に仏陀を見つけ出す必要があるのでしょうかと司令官に問いかける人もいる。

われわれは長く生きるようになったら、最終的に、誰もがいつどこででも尊師仏陀に見えることができるようになるはずだ。なぜなら真理はわれわれの心の内に存在するのだから。ならばなぜ火星に仏陀を探しにいくのかと。こうした議論の果てに、人工の生命や非生命体も仏性を獲得できるのか、獲得できるのだとしたら、あらゆるもの──たとえば宇宙だって仏陀のレベルにまで進化することがあるのかもしれない──といって物語はある情景にたどり着くのだが、この時点では意味がわからない話だ。

あらすじ・世界観など──本篇

それに続くのが本編なわけだが、こちらはこちらでまた別ベクトルに不条理な物語になっている。物語の舞台はおそらく中国のC市。中心となるのは40代ぐらいの政府職員、副業としてソングライターをやっている、楊偉(ヤン・ウェイ)という人物だ。彼は最初ホテルに宿泊しているのだが、突然胃が激しく痛み始め、三日三晩意識を失ったのちに気がついたら女性従業員二人に有無をいわさず病院へと連行されてしまう。

これぐらいなら「そういうこともあるかな……」という感じだが、すべての様子は次第におかしくなっていく。楊偉の採血タイミングで、私の血を採ってもらってもいいのよと腕を差し出してくる女性の看護師。原因はホテルのミネラルウォーターであると喝破し、腸閉塞、尿管結石、十二指腸潰瘍、胃穿孔などあらゆる可能性を列挙する医師。どこが悪いのかと聞いてもそれは患者が知る必要のないことだと返す外科医──ひとつひとつは小さな違和感だが、積み重なるとめまいがしてくる。※以下、少しだけ中盤(410p中の143pあたり)の展開に触れているので注意。

《医療の時代》

まるで現代の病院への風刺かのように楊偉の治療ははじまらず、診断はつかず、患者の家族による爆弾テロが起こるも一瞬で当局によって鎮圧される。治療に入ったと思ったら、楊偉は同じく患者で女性の白黛(バイ・ダイ)と出会い、彼女から『「医者がどんなふうに死ぬか知りたくない?」』と謎めいた問いかけをされることになる。

医者も人間なんだから普通に死ぬだろ、と最初に思うのだが、どうもこの世界では楊偉も、白黛も、医師が死ぬ姿をみたことがないようなのだ。医師は患者の上位、絶対的な存在であり、医者の死について語るなど御法度とされる。なぜそんなに医師が上位存在として扱われているのかといえば、それはこの社会において生命の価値と、それを救う医師の地位が高いからで、実はこの世界世は大《医療の時代》なのである。

これは大海賊時代にかけたジョークではなく、本作の重要なテーマで、作中の用語だ。この時代、もっとも重要なのはシリコンではなく「生命」であり、あらゆる技術リソースは人工生命、データ開発、人体改造までも含めた”医療”へと振り向けられるようになっている。そのためソニー、グーグル、マイクロソフト、名だたる企業はみな病院か医療センターを開設していて、このC市はそれ自体が巨大な病院なのだ。

生命がすべての中心にあるこの《医療の時代》にあっては、もはや健康ではない個人は存在が許されない。しかし、これを原理的に達成するためには、「生と死」、「健康と病気」、「生命」、あらゆるものの定義を問い直さねばならない。

しかし、生命とは、正確には、何なのか。どのように尊重され、どのような尊厳を持って扱われなければならないのか。これらの問いに答えることができたものはいまだかつていない。〝生命〟は、何万年もの間、曖昧な混乱した概念でありつづけてきた。(……)近代に入ってからというもの、生命は、暴力的な西洋の列強によって暴力的に踏みにじられてきた。(p.143)

白黛によれば、《医療の時代》の基本原則は次のとおり。1.すべての人が病んでいる。2.患者は役に立たない。3.病はいっさい治療できない。4.病んでいるなら、治療を求めねばならない。5.病なしに存在することは、すなわち病んでいることである。6.深刻な疾患とは、実のところ、まったく病んでいない状態のようなものである。

個々人に特化された医療はあらゆる人間を「病気」と判定する。仮に遺伝子改変したとしてもエピジェネティクスな変化は必ず起こり病気の兆候を示すからで、完璧な人間の資格を得られるのは病んだ人間だけであり、治療するか、しないか。それだけが社会の問題となる。もっとも、結局は誰もが治療されることになるのだけれども──それを聞かされた楊偉は、自分の全人生それ自体が慢性疾患であったこと、病院は永遠の最終目的地であったことに気がつき、さらなる治療へと邁進していく。

おわりに

こうした内容自体は伊藤計劃『ハーモニー』のような医療SFが描いてきたテーマ(病気になることが許されず、健康であり続けねばいけない社会の問題)と重なる面があるので、理解自体はそう難しくないだろう。重要なのは、本作においてはこうしたテーマは最初のステップにすぎず、《医療の時代》は遺伝子改変のテーマへとつながり、それは〝家族〟や〝国家〟や〝文化〟の変容へとつながり、遺伝子改変テーマの拡張さえも乗り越えて次なる領域へと向かい、最終的にはプロローグで語られた仏教、仏陀、悟りといったテーマへとアクロバティックに再接続してみせる。

最初は荒唐無稽にしか思えなかった「医者の死が知りたい」という白黛の目的の意味も読みすすめるうちにわかってきて、当初不条理か幻覚か、としか思えなかった内容が、意味を持って迫ってくる。三部作の第一部というが、ここからどう続くのかまるで見当もつかないので、本作だけ読んでやきもきすることもないだろう。