中国本国で大いに盛り上がり、その後ケン・リュウによる英訳で米国を中心とした英語圏で大ヒット。日本でも第一部が刊行されるや否や話題に火がつき、SFとしてはありえないような話題と部数が出た──と、国内外問わずその部数だけみても化け物級の力を持った作品だが、重要なのは部数より作品のおもしろさ、それ自体である。
寂寥感を覚えるほどの傑作
どれだけ部数を重ねようがおもしろさはどうだろうかという作品もあるわけで、本作はどうなのよという話になってくるわけだけれども、これについてはもう何の疑いもなく、傑作であると断言することができる。それも、人生にそう何冊も訪れることのない、記念碑的な傑作だ。本でもゲームでも映画でもなんでもそうなのだが、ある種の傑作にあたると、自分はこれから先の人生でここまでの作品にあと何度出会えるのだろうかと、傑作に出会った嬉しさと、それを通り過ぎてしまった寂寥感にとらわれるものだ。『三体』三部作では久しぶりにその感覚を味わわさせてくれた。
特に二巻、三巻に関しては、起こっていることの凄まじさに圧倒されるより前に、こんなことを全部一人の人間(劉慈欣)が考え出したのか!?!?!?! と、人間の可能性それ自体に読んでいて手が震えてくるほどだった。この『三体』三部作では、異常な速度で物語が展開し、「個人」と「人類」の変遷を描き出していく。ある種の異常状況下に置かれたときにいったい人類はどのような振る舞いに出るのかを事細かく、されどダイナミックにシミュレーションし、物語の途中からは人工冬眠技術などを用いながら時間を数百年単位でズパズパ飛ばしていくので、人類の文明レベルも、社会も、この三部作の中で何度大きな変転を迎えたかもわからない。その合間合間の重要局面で、人類社会の移り変わり、人類の決断を描き出していく。
数十ページごとに考え抜かれた作戦や思考がかけめぐる、異様な情報量と複雑さ。人類と地球の存亡をかけた大スケールの物語であるにも関わらず、プロットの中心軸には1、2、3巻ともに男女のロマンスや個人の葛藤が据えられていて、個人のドラマに夢中になっているうちに人類スケールの話がスッと入ってくる作りになっているのも(翻訳の素晴らしさもあると思うが)その異常なおもしろさを際立たせている。
SFとしてだけでなく、ミステリの要素も併せ持っており、なんといってもエンターテイメントとして、突き抜けておもしろい作品なのである。以下、あまり各巻の核心に触れないようにしながら、全体のおもしろさについて紹介してみよう。
一、二、三巻をざっと振り返る。
物語は、文化大革命からはじまり異種知性とのファースト・コンタクトが描かれる比較的現実路線の一巻。ファースト・コンタクト後、人類最高峰の知性が異種知性にたいして知能闘争を仕掛ける知略戦の二巻。惑星規模を超え全宇宙における生命の戦略にまで話のスケールが及ぶ、宇宙規模の三巻と、部ごとに様変わりしていく。エンターテイメント小説として純粋に評価が高いのは、解説者である陸秋槎によれば第二巻となるだろうが、SFとしてスケールが広がるのは間違いなく第三巻である。
一巻が刊行されたときの読了者で、「いうほどじゃないやんけ」と言っている人も幾人も観測したが、そうした人でも二巻、三巻を読めば本作に対する印象は大きく変わるだろう。二〜三巻と一巻ではギアの入り方が3段階ぐらい違う上に、方向性も大きく異なっている。特に三巻に関しては、SFファンにしてもついていけるかどうか怪しくなるほどに架空の物理法則や架空概念、太陽系をはるかにこえたレベルの思考がぎっしりと繰り広げられ、ありえない風景が連続していくので、SFファン以外は呆然としてしまうのではないか……と思うような内容なのだけれども、訳者あとがきによると意外にも中国でシリーズ全体の人気に繋がったのはこの第三巻なのだという。
劉慈欣のエッセイでは、最初の二巻はSFファン以外の一般読者に広く受け入れてもらうべく、現代やそれに近い未来を舞台にし、物語の現実感を高めた。しかし、はるか未来にまで時間がのびる第三部においてはもはや不可能であり、出版社と劉慈欣は第三巻が市場で成功することはありえないと判断。劉慈欣はハードコアなSFファンと自任する自分に心地良い〝純粋な〟SF小説を書くようにしたたと語られている。
だが、ふたを開けてみれば、それこそが受け入れられたわけだ。三巻の評価が高いのは中国語圏だけでなく、英語圏でも同じだった。SFファンか否かに関わらず、「おもしろい物語は、ハードルがあろうが、おもしろい」、ということなのかもしれない。
実際、本作の第三巻は、それまでとは全く異なる世界と風景、理屈が展開し、異なる頭の使い方を要求されるが、それは間違いなく「おもしろい」のだ。もちろん、この三巻はSFファンに向けて書かれているとはいえ、不器用な男女のラブロマンスを中心軸においており、そうした技もあるけれど。
もう少し具体的に
ざっくり魅力について語ってきたが、僕が『三体』について感じているおもしろさのコアの部分は、圧倒的なケレン味とその基礎となる科学についての描写だ。な、なんて馬鹿みたいなことをここまで真剣に考えているんだ……!! というぐらいに無茶苦茶な情景を導入し、それを科学と描写力の豪腕によってねじ伏せてみせる。
一巻は他と比べると相対的に地味な巻だが、それでも冒頭から「次々と自殺していく物理学者たち」「物理法則が時間と空間を超えて普遍ではないと明らかになる」、主人公のカメラにだけ謎のカウントダウンがうつりこむといった「この先どうなっちゃうの!?」というサスペンスが押し寄せ、異なる惑星を体感させるために作られたVRゲーム「三体」では、三千万人の人民に〈入力1〉〈入力2〉〈出力〉の役割を担わせ「人間論理演算システム」を作り上げる異様な情景を描き出してみせる。
二巻では、人類の情報が敵に筒抜けになった状態でいかにして敵を打倒するのかという難問に対して、「人類最高の知性を選び出し、心中を完全に秘匿させたまま人類のリソースを委任し、敵を打倒する」という無茶苦茶な計画を描き出していく。人類最高の知性がもたらす作戦はどれも現在の科学の延長線でほぼ可能ながらも人類のリソースと太陽系資源を大きく食いつぶすもので、ハードSF的に楽しませてくれる。
三巻は豪腕が発揮される巻だがひとつ挙げると、「ある文明が、はるか彼方に存在する異星知性にたいして自分たちは無害な存在であり、絶対に攻撃することはないと宣言することは可能なのか?」と問いかけがなされていく。「そんな宣言できるはずがない」と思うし、作中の人物らもそう考えるのだが、冒頭でミステリとしても一級と書いたのは、こうした「謎」とそれにたいする「答え」が鮮やかに展開するからだ。
「大きすぎる風呂敷と情景」と、それを支える「強固な理屈・科学・歴史の両輪」。この奇跡的な両立が、本作を馬鹿馬鹿しくなるほどに壮大ながらも、それでいて地に足のついたエンターテイメント小説として成立させている。