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パーマー・エルドリッチの三つの聖痕 by フィリップ・K・ディック

パーマー・エルドリッチの三つの聖痕 (ハヤカワ文庫SF)

パーマー・エルドリッチの三つの聖痕 (ハヤカワ文庫SF)

よく構成された悪夢のような本だ。

本書『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』はハヤカワ文庫補完計画の一環で復刊された作品だが、番号を振り直される新版や新訳というわけではないから本屋などで探しにくいかもしれない。最後についている訳者あとがきも1978年に出たノヴェルズ版に手を加えたものがそのまま使われている。それを読むとその当時既に1965年に本国では出版されている本作に対して、「一九六五年? 古いね」などと言わないでくださいと語り始めている通り、当時からして既に出版からけっこうな時間が経っている作品だ。2015年はだから、出版後50年の記念すべき年にあたる。だが、現代においても訳者あとがきの語りだしは効力が失われていない。

ディック長編の中でも傑作と名高い本作だが、僕も好きな方の作品だな。腰を据えてランク付けしたわけじゃないから「2番めに好き」などの基準があるわけではないのだけれども。構成はえらく複雑、プロットも盛り込まれた要素も渾然一体としていまいちすっきりしない面があれど今読んでも何ら古びないドラッグに溺れ、現実感が侵食されていく人間の恐怖、そんなあやふやな現実の中で、それぞれがたどり着く自分なりの「足場」別の言葉でいえば「信念」のようなものに強く魅了される。

あらすじでも

いくつかのラインが混線していてあらすじを単純に語るのが難しい作品ではあるのだが、一応試みておこう。中心プロットは旧ドラッグvs新ドラッグ勢力の争いといった感じ。キャラクタもそれを反映させるように旧ドラッグ陣営vs新ドラッグ陣営vsどっちつかず陣営とばらばらに分かれている。プロキシマ星系から星間実業家パーマー・エルドリッチが新種のドラッグ<チューZ>(なんだこの頭の悪い名前は)を携えて太陽系にやってくるところから物語ははじまる。それは既に火星の底辺労働者に蔓延していたキャンDなるドラッグをさらにアップデートしたような代物という触れ込みであり、当然ながらキャンDを製薬している企業としてはそんな存在を野放しにしておけるはずもない。

キャンD製造元の社長であり、主人公でもあるレオ・ビュレロはパーマーのいる月へと出かけてゆく。彼の目的は当然ながらチューZなどという怪しい薬物を叩き潰すことだ。しかし、レオ・ビュレロはまんまとエルドリッチに捉えられ、早速チューZを体験させられてしまうのだった。もう一人の主人公ともいうべきP・P・レイアウトに雇われていた未来予知能力者のバー二イ・メイヤスンはそんなレオ・ビュレロのピンチを知っていながらも助けに行かなかったことを理由に解雇され、火星の植民地作業に従事することに。そこの人々はあまりに過酷な環境(砂の惑星だからな)から逃れるためにキャンDの常習組だったが新しくチューZを試そうとしていて──という感じで各人それぞれの理由でチューZに溺れ、謎の人物パーマー・エルドリッチとの戦いに巻き込まれていくことになる。

迫真のドラッグ描写

とにかく恐ろしい。最初に「よく構成された悪夢」と表現するに至ったのはチューZを摂取した人々の反応。キャンDは集団に同時に同じ幻覚・深い共有体験を引き起こすドラッグだが一方のチューZは、あくまでも主観にフォーカスしたものだ。服用したものはそれぞれ自分自身の宇宙をつくりだす。長い時間を過ごすこともあれば、短い時間で出たいと思って出てくることもあるが、とにかくそこは概ね自分の望む世界である。問題は──戻ってきた現実が、依然として幻覚なのか、はたまた本当の現実なのかが誰にも把握できないことだ。それを最初に体験するのはレオ・ビュレロ。彼はまんまと騙され、チューZを服用させられるのはさっき書いた通り。その体験をただの幻覚だと突っぱね、現実に戻ってきた、ふふん、所詮ただの幻覚に過ぎないじゃないか──と思ったところでデスクの下から怪物が這い出してくる。

ふう、やれやれだぜ、現実に戻ってきたぜ、と安心していたらまだ幻覚の中にいたんだからそれはもう物凄いショックだ。自分自身が持っている「現実感」になんの正当性もないことが露見してしまった瞬間なのだから。まるで見てきたかのような描写だが、当時はまだディック自身は幻覚剤を使った経験はなかったのだと語っている。雑誌に出ていたLSDの性質と効果に関する記事を参考にしただけだと。それがただの演出で本当はばりばりに幻覚剤を使っていたのか、はたまた本当なのかはわからないしどうでもいいが、迫真性は確かだ。そんでもって、何しろチューZをやった後の主観描写は常に何かが狂っているし、読者からしたらまったく理解できないことを当たり前のように受け入れているので目の前でトリップしている麻薬中毒者がウロウロしているような恐ろしさがある。

これを読んでいて思い出した話がある。『見てしまう人びと』という本の中で、若かりし頃のオリヴァー・サックスがアーテンというドラッグを試した時の体験談だ。ぶっ飛ぶという噂のアーテンだったのに、飲んでも何も変化が起きない。ひどくがっかりしているところに、玄関ドアがノックされ、友人のジムとキャシーが入ってくる。彼らはよく彼の家を訪ねるらしい。オリヴァー・サックスはなんの疑問も持たずに彼らを家に招き入れる。

「入ってくれ、ドアは開いているから」と声をかけ、二人が居間に腰を下ろすと、「卵はどうするのがいい?」と訊いた。ジムは目玉焼きの片面焼きがいいと言った。キャシーは半熟両面焼きが好みだ。私は彼らのハムエッグをジュージュー焼きながら、二人としゃべっていた。キッチンと居間のあいだには低いスイングドアで仕切られていたので、互いの声はよく聞こえた。そして五分後、私は「できたぞ」と大声で言い、ハムエッグをトレーに載せて居間に入った──するとそこには誰もいなかった。ジムもキャシーも、二人がそこにいた形跡もない。ショックのあまりトレーを落としそうになったほどだ。

我々は世界をあるがままに受け取っているわけではなく、所詮主観的に頭のなかで自分なりの世界をつくりあげて、それを世界だと信じ込んでいるだけだ。だからその主観が狂ってしまえば、それがそのまま世界になってしまう。我々読者はそういう意味で言えば、トリップした主観を共有してはいない「客観的な人間」だ。しかし描写は基本的にトリップしている人間に沿って行われるから、一体全体どこまでが「作中の本当の現実」で、どこからが彼らの「幻覚」なのかは我々読者にもさっぱり理解らない。チューZが導入された後の描写は(というよりそれ以前から)、正しいと断言できるものは何もないといった狂気の描写の連続で読んでいてとてつもなく不安になってくる。

現実感の喪失。それは言葉にすればえらく簡単に見えるが、表現するのはそうとう難易度が高い。ただ荒唐無稽な話にすればいいのではなく、「正気の側にいる読者を引きずり込むようにして」描写しなければいけないわけだから。たとえばディックの作品を全部読んでいるわけじゃあないからどれが一番すごいかといった話はできないけど、最近新訳版が出た『聖なる侵入』の狂気の書き方は本当に凄い。「俺は神の法的な父親だ」と警官に食ってかかるシーンがあるのだが、「あんたが神の父親だと言えば──」と適当に把握してあしらおうとしてくる警官に対して律儀に「法的な父親だ」と訂正するところなど、狂気がにじみ出ているもんな(これは作中最もな理由があってそれ込で理屈の通っているシーンなのだが)。

当然ディック以後も幾人もの作家が新境地を切り開いてきたが──ディックほど果敢に切り込んで、なおかつそこに奇跡的なバランスを成立させて魅せることのできた作家がどれだけいることか。いや、居るとは思うけれども、すぐにはピンと来ないな。

終わりはどこにあるのか

カート・ヴォネガットは、『ヴォネガット、大いに語る』というエッセイ集の中で、自身がSF作家と呼ばれることに対して「目を疑った」「なにしろ自分では人生についての小説を、つまり現在まったくひどい状態に陥っている現実の一都市ケネクタティーで、このわたしが見聞きしないではいられないいろいろなことについての小説を、書いたつもりなのだから。」と小説と何ら変わりない眼差しで皮肉ってみせた。これはまったくの本心なのだろうし、これと同様なものをディックの小説から感じる。

SF的な意匠に溢れ、予知能力者が流行を予測し商品を市場に流注させ現実感が喪失し神と人間の関係が紡がれていく物語は、確かにSFではあるが、同時にディックが捉えている「現実感」そのものなのだろうと。そして、そのディックの現実感を読者は確かに共有している。だって我々がみている現実は、誰もが思っているほどしっかりとしたものではないのだから。おとなになったらわざわざそんな不安を口に出したりしないけれど(狂っていると思われる)、でも多くの人はわざわざ言葉にせずとも、実感のレベルでその事を知っているのだと僕は思う。だからこそディックは今日に至るまでほとんど必然的に読み継がれてきたのだ。

本書の一番最初には、主人公のビュレロが物語が終わった後に出した声明がパラグラフとして載っている。ディックによれば、『実をいうと、このパラグラフこそが小説なのです。あとは、つけたし、というより、むしろその一パラグラフの本が生まれるにいたった、すべてのいきさつのフラッシュ・バックなのです。』『この声明は、わたしの信仰そのものだといえます。それは神への──よい神、わるい神、あるいはその両方への──信仰というより、むしろ、われわれ自身に対する信仰なのです。』と講演で語っている。

「いまみてるのは現実なのか、はたまた幻覚が入り混じった世界なのか」という葛藤には、わかりやすい終わりをもたらすのが難しい。自殺してみたら覚めるのかもしれないけどそれが自殺をして覚めたという幻覚でないことが誰にも保証されない。だがディックはきちんと、確信を持って物語を終わらせてみせる。あやふやな現実を前にして我々はいかにして対応すべきなのか──物語に対するその答えが、そのまま彼の「現実感」に繋がっているからこそ納得を伴って受け入れることが出来る。

ヘビィな一冊だが、その分ディック成分は充分に詰まっている。