基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

経済から文化まで、未来を知るにはまず人口に注目すべし──『人口は未来を語る 「10の数字」で知る経済、少子化、環境問題』

未来に何が起こるのか予測するのは簡単なことではないが、人口は比較的確度の高い予測が可能な分野である。日本の人口が突然倍増することはありえないし仮に数々の施策を打ったり移民受け入れが進んだとしても、増える人口はわずかでしかない(からシミュレーションしやすい)。さらに、人口は国家のあらゆる側面に関わってくるから、「未来を語りたい」のならばまずは各国と世界の「人口」に注目すべきだ。

というわけで本書『人口は未来を語る』は、人口学者のポール・モーランドによる「人口統計を使って未来を考えてみよう」という一冊である。たとえば世界人口はいつ頃減少をはじめるのか、またそうなった時各国の経済はどうなっているのか。人口が減少し高齢化が進んでいく国と紛争・革命の関係、人口はまだしばらくは増えていくと思われるが、食糧生産は問題ないのだろうか。また、少子化を止め、出生率を上げるためにできる手段はあるのか、その効果はどれぐらい出ると思われるのか──そうした人口にまつわる様々なトピックを扱っていて、本書を読むと今後の社会でどような変化が起きるのか、その見通しがぐっと良くなるだろう。

世界人口は今後どう推移していくのか

今、先進国の多くは出生率が人口置換水準(2.07)を下回っている。その原因はいくつもあるが、ひとつには教育水準や衛生基準の進歩が伴って幼少期に子供が亡くなることが減り、たくさんの子供を産む必要がなくなったことがあげあれる。

また、中世ヨーロッパの社会では人口の90%が農業をして暮らしていたが、そんな時代では子供は働き手となり家計を助けてくれるので「投資」になった。しかし都市化&都市への移住が進むと、子供は労働力にならないどころか現代の高水準化した労働環境に適用させるために20年以上にわたって高コストな教育を与える「負債」になってしまい、そう何人も産むことが難しい。男女平等がすすみ、女性も男性と同様に働くのが当然という社会に移行すると当然それに伴って子育てのコストもあがり、より出生率は下がる──といった流れで、特に先進国ではどこも出生率が下がっている。

たとえば韓国の合計特殊出生率(すべて2021)は驚愕の0.81、シンガポールは1.12、中国は1.16、日本1.3と東アジア地域は軒並み低い。欧米も状況はたいして変わらない、米国1.66、イギリス1.56、ドイツ1.58だ。南欧と東欧も状況はかわらず、クロアチア、セルビア、ウクライナなどどれも特殊出生率は1.75を下回っている。2023年、中国を追い越して人口世界一の国になったインドも出生率は年々下がり出生率は2.0、特に都市部では1.6と大幅な下落が認められる。世界的に少子化傾向なのだ。

とはいえ依然として上昇している地域(アフリカの諸地域。たとえばニジェールは2021年の合計特殊出生率が6.82だ)があるので、世界人口自体は増え続けている(増加速度は鈍っているが)。人口が今伸びている地域もいずれ先進国と同じように衛生水準や教育の普及が進めば、先進国と同じように出生率は低下していくはずだが、それがどのような速度と度合いで進むかは、人口学者の間でも意見が割れているようだ。

2014年にランセット誌に掲載された研究によれば、世界人口は2064年で100億人弱でピークを迎え、2100年には90億人を切るという。一方、国連の2022年の予測では世界人口は2086年に104億人でピークに達しその後も減少に転じず緩やかに推移するという。『2050年 世界人口大減少』によれば、人口減少が始まるのはもっと早く、2050年から人口が減り始めてもおかしくないとするシミュレーションもある。

人口推移のシミュレーションにこれだけ幅がある原因

世界人口推移のシミュレーションに幅がある原因のひとつは、アフリカの人口推移が読みづらいところにある。たとえばアフリカでももちろん教育水準の上昇や幼児死亡率の低下も進み、出生率も徐々に下がっているのだが、その歩みは相対的に遅い。

たとえばイランと中国は合計特殊出生率が6から3になるまで10年しかかからなかったが、ナイジェリアは2021年は5.24で、20年前の6からの減少幅はわずかだ。これには行政サービスの不備、政情不安、女性の識字率の問題などいろいろな要因があるが、根強い多産奨励主義のような「価値観」も関係している。この価値観がどこまで実際の出生率に影響を及ぼすのかがわからないので、予測にも幅がでてしまうのだ。

著者は、アフリカの合計特殊出生率は少しずつ下がっていくが、最終的に人口置換水準の上で推移するのではないかと予想をたてている。とはいえどちらにせよ今後しばらくはアフリカの人口が増えていくのは間違いなく、世界の人口バランスは大きく変わっていく。それは経済に人口ボーナス効果を与え、新しい才能も次々と現れるだろう。ナイジェリアの映画産業ノリウッドがハリウッドに肩を並べるような時代がくるのかもしれない。世界人口の3分の1がアフリカ人になるような時代がくれば、国連安全保障理事会にアフリカの国が入ることも現実的になる。

長期的観点に立てば、人類の未来は子供を産み育てることを望む文化や社会のものになる。ヨーロッパ、東アジア、アメリカ大陸の大半はこの試験に落第しそうなので、人類の希望はかつてヨーロッパ人が「暗黒大陸」と呼んだアフリカにかかっていると言うべきなのかもしれない。(p87)

「価値観」による出生率の増減は、実は意外と重要な観点かもしれない。たとえば超正統派ユダヤ教徒(ハレーディーム)は信仰上の理由から出生率が高い。アメリカにハレーディームのコミュニティは複数あって、どれも人口は急増している。ユダヤ教徒の多い中東イスラエルの合計特殊出生率は3.04(2020年)で、主に先進国が加盟する経済協力開発機構では最も高い数値だ。仮にこうした「信仰による多産」が継続可能なものなのだとしたら、国家の大半が少子化に向かう地球の未来は、そうした「多産を良しとする価値観のコミュニティ」が担うことになるのかもしれない。*1

高齢化と暴力の関係

少子化が進むと当然高齢化社会が現れるわけだが、その関連でおもしろかったのが「高齢化と暴力の関係」を扱った章。意外というほどではないが、人口動態で平均年齢が高齢に寄っていると、紛争や戦争が起こりにくくなるという統計がある。

たとえば数十年にわたる研究によって、人口の55%以上が30歳を超えている国では内戦がほとんど起こらないことがわかっている。ナチスの台頭もドイツ人口に占める若い男性の割合の急増の時期と重なっていた。若さが関係しているのは戦争・紛争だけでなく、革命や犯罪の頻度とも関わっているようだ(その理由として、ホルモンの分泌量などの生物学的差異と社会的差異が挙げられているが、この記事では紹介は割愛)。

おわりに

世界的に少子高齢化に向かっていくわけだが、日本はそうした未来における象徴的存在として本書では語られている。

 出生率に関して、今後アフリカが急速にほかの大陸のあとを追い、スリランカのような国でももう1段階の低下が起こるとしたら、世界全体が「日本化」することもないとはいえない。それはつまり、どの国も教育が行きわたって豊かになるが、合計特殊出生率は人口置換水準を下回り、男性にも女性にも多くの子供を育てる時間的・金銭的余裕がないという世界である。(p148)

先にも書いたが、人口は未来を考えるにあたってもっとも主要な要素といえるので、本書は何度も参照することになるであろう重要な一冊だ。著者の前作である『人口で語る世界史』もこの前文庫化したばかりなので、あわせておすすめしたい。

*1:多産を奨励する政策でもなんとかなるのではないかと思うかもしれない。実際、多くの国が少子化対策に予算を投じているが、予算のわりに効果が出たと思っても一時的なものだったりと評価は芳しくない。短期的な時間稼ぎ、人口の急速な減少を防ぎソフトランディングさせることはできるので無意味ではないのだが、長期的に出生率を上昇・維持し続けるのは難しいとみられている

技術革新を不平等に向かわせないためには、何が必要なのか──『技術革新と不平等の1000年史』

この『技術革新と不平等の1000年史』は、技術革新の歴史を概観しながら、それが経済成長や不平等とどのように関連したのかを解き明かしていく一冊である。

技術革新が起これば生産性が上がり、経済は成長し、新たな雇用が生まれ、回り回って市民の賃金も生活も向上する──一般的にはそう言われてきたが、実際にはそうとは限らない。たとえば近年ChatGPTをはじめとした数々の進歩が起こって生産性も向上したはずだが、生活がよくなっている実感はないだろう。先日厚生労働省が発表した日本の毎月勤労統計によると2023年11月の一人あたりの実質賃金は前年同月比3.0%減り、マイナスは20ヶ月連続で、物価上昇に賃金が追いついていない。*1

実は、一〇〇〇年にわたる歴史と現代における証拠から、一つの事実がきわめて明白になる。つまり、新たなテクノロジーが広範な繁栄をもたらすということに関して、自動的な部分はなにもないのだ。新たなテクノロジーが広範な繁栄をもたらすか否かは、経済的、社会的、政治的な選択にかかってくる。

技術革新はいいことではあるのだが、その使い方によっては人々を以前よりも不平等で貧困にさせることがある。結局、その技術を誰がどう使うかが(不平等の解消にむけて)重要なのだ。本書では上下巻を使ってそうした事例を集め、どうしたら「不平等にならない形で、技術革新の成果を使えるのか?」について考察していく。

「技術革新が使い方によっては不平等に繋がることもある」はあまりに当たり前のように感じるし、そうした事例を大量に読まされても(特に上巻)「だからなんなんだよ」以外の感想がわいてこないところもあるのだけど、そうした歴史をふまえて、あらためて下巻で「では、現代はどういう時代なのか」、「社会はどのように技術革新を活かせばいいのか?」を問うターンになると俄然おもしろくなってくる。

技術革新に伴う生産性の向上が賃金の上昇に繋がらない時

技術革新によって生産性が向上すると賃金が上昇するするには、主に二つのステップが必要になる。一つ目のステップは、技術革新によって生産性が向上し、それに伴って企業は増産と雇用拡大を行って利益を増やそうとすること。二つ目に、労働者への需要が増大すると、雇用の確保・維持に必要となる賃金は増加する。

しかし、この二つのステップはどちらも確実なものとはいえない。たとえば、技術革新で生産性が向上し、企業が増産しようとしたとしても、それが雇用拡大に繋がるとは限らない。なぜなら、企業は生産性を向上しようと思った時、自動化を進め雇用をしないことも選択できるからだ。新たなテクノロジーが業務を自動化し、労働者を不要なものとする方向に使われるなら、労働者に利益が生み出されるはずがない。

無論、自動化が悪というわけでもない。フォード主導による自動車製造の再編の際には、自動化に伴って設計、技術、機械操作、事務といった新しい仕事が次々生み出され、労働者の利益も底上げされた。フォードがやった自動化が本当に生産性を向上させるケースであれば経済全体では新たな雇用を生み出すが、ここで問題になっているのは(人間を雇用しているときと比べて)生産性を向上させないタイプの自動化だ。

これにはたとえば食料品店のセルフレジが挙げられる。セルフレジは商品をスキャンする作業を従業員から顧客に移しただけで、これを導入するとレジ係は減るが、生産性が向上するわけでもない。これで食料品はたいして安くならないし、食糧生産は拡大しないし、買い物客の生活は何も変わらず、ただ仕事と賃金が減っただけだ。

もう一つのステップ──労働者への需要が増大すると、雇用の確保・維持に必要となる賃金は増加する──も、そううまくいくわけではない。まず、雇用者と被雇用者の間は完全に対等なわけではなく、奴隷制などの時代における主人と奴隷の関係では賃金が増加するはずもない(綿繰り機のようなイノベーションで生産性が飛躍的に向上した時のアメリカ南部の奴隷のように)。また、労働組合などの結束した組織がない状態でや、労働者側に力がない状態で賃金交渉をするのは通常、難しい。

苦難の時代

つまり、技術革新による生産性の向上の恩恵を賃金などに反映させたいのであれば、こうした各所の課題を解決するように「選択」してやる必要がある。本書の著者らの言葉を要約すれば、現代はその選択に「失敗」した時代なのだといえる。たとえば今では労働者をAIや自動化によって置き換える流れは避けがたいもので、人間はミスを犯す、労働環境において邪魔な存在なのだ、と公然と語られるようになってきた。

 現代AIは、テクノロジーのエリート層が手にしているツールを増強して、彼らにやりたいことをよりいっそうやらせる力を与えている。彼らは仕事を自動化し、人間をどかして、(彼らの言う)あらゆる善行──生産性の向上に、人類が直面する大きな問題の解決──をこなすための方法をもっといろいろ編み出すことをやりたいのである。AIによっていっそうの力を得たこれらのリーダーたちは、もう自分たち以外の大勢の人びとに相談する必要をさほど感じなくなっている。それどころか、少なからぬ人数が、大半の人間は大して賢くないし、なにが自分のためになるかもわかっていないかもしれないとまで思っている。(下巻.p.165)

このまま人間の労働者の置き換えが進めば、仕事がなくなってベーシック・インカムなども必要になるだろうが、それは仕方がないことだ、とも語られる。しかし、テクノロジーの使い方次第で「人間を補完し、雇用を生み出すこともできる」視点に立てば、それは単なるテクノ・オプティミズム(技術楽観主義)による、一面的で偏った見方にすぎないこともわかってくる。『言い方を変えれば、UBIは二層に分かれようとするわれわれの社会の傾向に対処するのではなく、その人工的な分断を固定化する。』重要なのは人間の機能を補完し、労働から排除しないテクノロジーの使い方だ。

現在の難局から抜け出る方法

本書ではそうした「補完し、排除しない」テクノロジーの使用例として教育現場で個々の生徒の進み具合を把握し、それぞれのグループごとに適切な教育を提供することなどを挙げている。当然、それを行うためには今以上に教員を増員し、それぞれにより教育にフォーカスした高度で適切な仕事をしてもらう必要がある。

なぜそれが現在ほとんどの教育組織で行えないのかといえば、どこも経費削減を求められろくに人材が雇えないからだが(そして少ない人数で回すために自動化がより求められる)、そもそも労働者を余分な経費として排除する方向に向かわざるを得ないこと、それ自体がおかしいのだ、というのが本書の主張になる。労働者を減らすのではなく、意図的に増やす方向に(政策も、テクノロジーも)舵を切るべきなのだ。

なので、税制改革など様々な手段を通して、自動化よりも労働者を雇ったほうが得な方向に誘導する必要がある。たとえば先進工業国の多くの税制度は自動化を奨励するものだ。アメリカでは給与税と連邦所得税のために労働者に平均25%の税を課すが、設備・ソフトウェア資本にはそれよりもかなり低率の5%未満しか課税していない。企業が雇用を増やして労働者に年間10万ドル払うと、企業と労働者にはあわせて2万5000ドルの給与税が課される。一方、10万ドルを投じて新しい設備を購入すると、支払う税金は5000ドル未満で済む。これは、変えられない状態ではない。給与税の大幅な減税か、もしくは全面的な廃止を行うことで、状況は大きく変わるだろう。

本書では他にも、労働分配率(付加価値に占める人件費の割合を示す値で、自動化テクノロジーの導入は基本的に労働分配率をかなり減少させる)を上げるテクノロジーへの助成と方向転換、現在の大手テクノロジー企業の解体、現在の「扇動的な見出しや内容で他者の注目を惹きつけ、広告料を稼ぐ」、デマや誤情報の震源になっているカスみたいな広告事業の力を削ぐために通信品位法第230条*2の撤廃、安くはない広告税の導入を行って最低賃金の引き上げについてなど、広範な提言を行っている。

おわりに

正直本書で語られている「人間の機能を補完し、排除しないテクノロジー」の具体的な活用例などふわっとしていてどこまで真に受けていいものやらというのが最初に浮かんできた感想だった。だが、実際問題現在のテクノロジーの矛先の多くが自動化&労働者の排除に向かっていて、それに対抗すること、新しい方向性にテクノロジーを活用することが重要だという主張の肝の部分には大いに同意できる。

僕もSFやテクノロジーが好きで、未来はテクノロジーでよくなると楽観的になり、仕事をあまりせずともベーシックインカムで生活できるのならどちらかといえばそっちのほうがええやん、という傾向があったから、本書には自分の「偏り」を自覚させられることが多々あった。重要な一冊だ。

*1:これはあまりに短期間かつ局所的な話なのでたとえ話にすぎないけれども

*2:双方向コンピューターサービスのいかなるプロバイダーあるいはユーザーも、別の情報コンテンツのプロバイダーが提供した情報の発行者あるいは発言者として扱われない

仕事ごときで燃え尽きてしまわないために、何をすればいいのか──『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』

この『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』は、日本語では燃え尽き症候群、英語ではバーンアウトと言われたりする症状──それまで熱心に仕事をしていた人が、やる気を失ってしまうなど──について書かれた一冊である。

著者のジョナサン・マレシックはもともと大学の神学教授で終身在職権も獲得した、一般的には「勝ち組」と言われそうなステータスのある状況にいた人物だが、彼自身が燃え尽き症候群に陥り、仕事どころではなくなってしまう。

本書は、彼のそうした実体験も合わせながら、燃え尽き症候群とはじっさいに何なのか、どのように定義できるのか。また、われわれは今後燃え尽き症候群に陥らないように、どう対策をうっていけばいいのかについて語っている。僕自身は仕事をしていて燃え尽き症候群といえるような状態に陥ったことは一度もないが、周りには幾人もそれに近いと思われる人たちがいる。燃え尽きても、子どものためにやめるわけにはいかないとがんばる人も多い。本書は主にアメリカの事例をもとにしているが、仕事に対する価値観や考え方の多くは日本と似たりよったりで、自分が問題なかったとしても本書を読むことは周りの人を助けるきっかけにもなってくれるだろう。

仕事にたいする価値観は今、様々な観点──能力主義や、人間の仕事がなくなっていく時代の尊厳の在り方についてなど──から変更を迫られていることもあって、燃え尽き症候群の解説だけではなく、「仕事を捉え直す本」として、良い一冊だった。

燃え尽き症候群(バーンアウト)とは何なのか?

バーンアウトは一般的に、先にも書いたがそれまで熱心に仕事をしていた人が、やる気を失ってしまう状態に陥るようなことをさすが、その定義は明確なものとはいえない。バーンアウトを複数の業界が利用していて、みな好き勝手にその定義を決めているからだ。たとえばマーケティングの観点からいうとできるだけたくさんの人をバーンアウトの定義に含めたほうが商品やサービスを売るのに役に立つし、企業側にはこれを人員整理の際に役に立たない人間を特定するのに使う人もいる。

現在、バーンアウトという言葉、概念はヨーロッパやアジアをはじめとして世界中に広まっているが、臨床的な定義はほとんどの国で存在しない。定義も曖昧なものを論じられるの? と思うかもしれないが、明確な定義がないにも関わらずこれだけ広まり、語る対象になっている事実は、これが文化的な問題であることを示している──というわけで、本書では燃え尽き症候群を生み出すこの社会、文化そのものについて、なぜそれが生まれ、語られてきたのかを語っていくことになる。

英語圏の文化で最初にバーンアウトが登場したのは、グレアム・グリーンの職業病について書かれた小説『燃えつきた人間』で、その後定着したのが1960年代後半から70年代にかけてのこと。この60〜70年代にバーンアウトが突如として「発見」されたのは決して偶然ではない。ニクソン政権とベトナム戦争が不名誉な終わりを迎えたことで国の政治制度に対する信頼がゆらぎ、オイルショックや急速なインフレといった変動に、アメリカの製造業も労働者もまきこまれた。

負の感情を抑えて陽気なプロフェッショナル精神を演じるといった感情労働を強いられれば、労働者がバーンアウトする可能性は当然高まる。そのうえ会社が人員削減を頻繁にすれば、残っている従業員が感じるプレッシャーは増大する。こうして労働環境は悪化の一途をたどり、自分自身やほかの人のために成し遂げたいと思っていた理想から現実はどんどん離れていく。そして仕事上の理想と日々の現実の両方を維持しようと無理をするうちに、労働者はバーンアウト・スペクトラムの症状をさらに悪化させてしまうのだ。

そうした労働環境の激変を背景として、バーンアウトが目立つ事象として浮かび上がってきたのだ。また、その後バーンアウトが継続的に語られ続けているのにも、やはり文化的な背景が関係している。

理想と現実のギャップ

たとえば本書ではバーンアウト、燃え尽き症候群が発生するのは、『自分のしている仕事が、自身が期待する水準を満たさない時』と簡潔に定義されている。ようは、理想と現実のギャップが大きくなった時、バーンアウトしやすいわけだ。

理想や期待は個人だけで生まれるものではなく、文化的なものでもある。たとえば仕事こそが人生の中心であり、仕事で会社に、社会に、貢献するのが大人なのだ、一日の大半の時間を費やす仕事で楽しまなかったり自己実現をしないやつはバカだ──というありふれた言質は、一時の価値観にすぎない。だが、そうした価値観の中に浸かって暮らしていれば、当然「理想と現実」のギャップは起きやすくなる。

とはいえ、仕事上の理想と現実が乖離したからといって誰もがバーンアウトになるわけではない。たとえば、理想を捨てて妥協して現実を受け入れるルートもあれば、あくまでも現実に抗いながら理想を維持するルートもある。その場合、長い間無理をすることで、引き裂かれてしまうこともあるわけだが、それがバーンアウトに繋がってしまうわけだ。一般的に、理想と現実のギャップがバーンアウトを引き起こすことから高い理想を抱きがちな職業や若い人ほどバーンアウトを起こしやすい。

たとえば医師や看護師のような人の命に関わる職業。アメリカとカナダの病院で実施された調査によると、5から10%がバーンアウト研究でよく言われる三側面(消耗感、脱人格化、個人的達成感の低下)すべてのスコアが高い完全な「バーンアウト」だったという。

労働と尊厳について

アメリカの労働者の間で仕事が「尊厳」、「人格」、「目的」の源だ、とする価値観が蔓延したのは1608年の開拓地ジェームズタウンの指導者になったジョン・スミスの布告に端を発しているというが、アメリカ人は(そしてそのアメリカと同様の労働にたいする価値観を持つ国の人々は)その呪いにいまだにとらわれている。

仕事を通じて自分の存在価値を示せと絶え間なく求められることで、「トータル・ワーク」の社会が生まれ、それがポスト工業化時代の理想的とは言えない労働状況とあいまって、バーンアウト文化をつくりだす。それでも前進を続けるには、自分はなくてはならない存在だと自らに言い聞かせなければならない。そしてこれもまた、例の労働倫理の檻を構成する鉄の棒のひとつなのだ。

では、そうしたバーンアウト文化から抜け出すにはどうしたらいいのか。尊厳の充足の大部分をこれまでは「仕事」が担ってきたが、われわれはその状態を脱する必要があるのではないか──といって続くのが、本書第二部で展開していく議論である。ここは先に書いたように、今後の労働観を考え直すきっかけを与えてくれる箇所だ。

この3年ぐらいで、「労働と尊厳」に関する重要な論点を持った本が次々と刊行されている。たとえば2019年にノーベル経済学賞を受賞したバナジー・アビジット・Vとデュフロ・エステルによる『絶望を希望に変える経済学』は、社会政策は生活困難に陥った人々の尊厳を守ることを目標としなければならないと提言した一冊だった。

何の意味もない、仕事のための仕事が増えているといったデヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』の(日本)刊行は2020年。良い大学にいって、良い会社にはいって良い生活をするのは「自分自身の努力と勤勉さで成功した」という考えを否定し、出世できなかった人たちの尊厳を守る議論にも繋がるマイケル・サンデルの『実力も運のうち』が2021年。また、給料を決定する要因は権力、慣性、模倣、公平性の四つだとして、給料はあなたの技量や能力に直結した「価値」ではないといったジェイク・ローゼンフェルドの『給料はあなたの価値なのか』(2022)も重要だ。

「労働と尊厳」の議論が活発化する要因のひとつに、人工知能の発展に伴い人間の労働が少なくなっていく状況がある。その文脈でベーシックインカム研究や、それに関連した本(『WORLD WITHOUT WORK――AI時代の新「大きな政府」論』など)も多数でているが、こうして仕事がなくなった時にこそ「尊厳」が問われるのだ。

たとえば仕事だけが他者からの承認を得る唯一の場になっている人が現状数多くいるが、仕事は選ばれた人だけができるものになっていった時、そういう人たちの尊厳はどうなってしまうのだろう。仕事がなくても尊厳を満たすためには、どんなコミュニティを作ったら良いのか、と盛んに議論されるようになってきたのである。

本書(なぜ私たちは〜)でも、旧来の仕事観を脱し、尊厳を賃金労働の代償ではなくすべての人が無条件に享受できる普遍的な方法にするためはどのようなものがありえるのか、と問いかけていく。長くなったので紹介としてはここで切り上げるが、「労働と尊厳」の問題は、明確な答えがないだけに今後より重要なテーマになっていくだろう。

おわりに

他にも、バーンアウトとうつ病の関係についてなど、ここで取り上げなかったいくつもの要素が本書では語られている。興味がある人はぜひ読んでみてね。

AIによる「自動化」の背後に隠れて生み出された、大量の人間を必要とする仕事について──『ゴースト・ワーク』

『ゴースト・ワーク』とまるでホラー小説のような書名だが、ノンフィクションである。「ゴースト・ワーク」とは本書の造語で、人工知能やウェブサイトの動作を支えている、見えづらい(あるいは、意図的に隠されている)裏側の人間の労働のことを指している。わかりやすい例でいえば、人工知能のモデルに学習をさせるために、猫の画像に猫のラベルを貼りつける、あるいはフェイスブックやインスタグラムやツイッターのようなSNSで、暴力的なコンテンツとAIが自動で判定したコンテンツが、本当にまずいものなのか、誤判定されたものなのかをチェックする仕事である。

GPT-3〜4の登場もあってAIの発展著しい昨今、AIは多くの人間の仕事が奪われると恐怖と共に語られることが多いが、まだまだ完全に人間の仕事を置き換えることは難しい。それは逆にいえば、「一部の仕事を置き換える」ことは可能になっているということだ。そして、一部が代替されると「AIの取りこぼした部分の仕事」、あるいは「AIのサポートをする仕事」が生まれる。そうした仕事を行うのは正社員や派遣社員ではなく、APIなどを利用して効率的に仕事を受発注するプラットフォーム上で要求に応じて(オンデマンド)割り当てられる、オンデマンドワーカーたちだ。

彼らは大抵の場合ランダムな数字や文字列が割り当てられ個性や属性が剥奪された状態で仕事が振られ、その姿はみえにくくなる。ゴーストワークには、良い側面もたくさんある。たとえば大半のゴースト・ワークは仕事をする場所を選ばない(リモート)し、発注側からすれば誰がやってもいいので作業従事者がどのような属性の人間であるかは考慮されない。また、時間拘束がないタスクも多く、その場合育児の合間とか、作業者の好きな時間に仕事をはじめ、終わらせることができる。

しかし、問題もあって──と、本書『ゴースト・ワーク』はたくさんのゴーストワーカーたちへの調査をもとに、どのような仕事があってどんな動機で従事している人が多いのか。どんな問題があるのかを解き明かしていく。

自動化のラストマイルのパラドックス

AIが進歩するにつれて、AIが対応できない予測不能なタスクをこなすための労働市場が生み出される。それが解決されたと思っても、人間から労働を完全に取り除こうと思うとまた次のゴールが生まれ、「完璧な自動化」は遠ざかっていく。

こうした問題はタスク完了の最後の一歩(ラストマイル)に常に人間を必要とすることから、「自動化のラストマイルのパラドックス」と呼ばれる。AIが完璧で究極の存在になるのはまだ先のことだろうから、しばらく解決することはないだろう。そうすると、AIの仕事領域が増えると正社員を使うまでもないこぼれ仕事は増し、ゴーストワークの数も増えていく。その時に備えて、ゴーストワークの問題点を整理し、どうしたらもっとよくなっていくのかを考えるのは重要といえる。

たとえばどんなオンデマンドワークがあるのか

本書で多く取り上げられるオンデマンドワークのひとつは、アマゾンが所有・運営しているアマゾン・メカニカルターク(Mターク)という市場だ。たとえば、ツイッターやマッチングサイトのようなSNSユーザーが「不快」のフラグを立てた写真にラベルをつける仕事など、たくさんの軽微な仕事がここには登録されている。

タスクを発注する人はリクエスターと呼ばれ、タスクをワーカーに投げる。ワーカーはタスクの一覧をみて、自分のやりたいものをやって、リクエスターから金銭的報酬を得ることができる。タスクを発注するのはオープンAPIなどを使ってできる。APIは個々のリクエスターやワーカーにランダムのようにみえる文字と数字列を割り振るので、発注者も受注者も単なる識別子だけの存在に還元される。

 Mタークでは、従来のような雇用者と被雇用者の関係は見られない。
 ワーカーはおおむね匿名で、たいてい自律的に働く。つまりリクエスターは、仕事を実行する人を指定できないし、いったんワーカーがタスクを請け負ったら、それをどうやり遂げるかを指示することもできない。一方、Mタークからの収入にかかる税の処理は、ワーカーがいっさいの責任を負う。

報酬は仕事によって様々だ。たとえば、報道記事を読んでそれに政治とかスポーツとかいったカテゴリーを選んでいくタスクは、一つあたり2セントだという。Mタークでは、タスクを完了させてアメリカの連邦法で定められた最低賃金である一時間7ドル25セントを稼ぐことができるのは4%だ。稼げている人が圧倒的に少ないしそもそも報酬が安い! と思うが、ネットフリックスをみながらなど、わりと自由に楽しみながらやっている人も、インタビューによるといるようだ。

良い面と悪い面

本書では他にももっと規模の大きく継続的な仕事(翻訳とか)のあるプラットフォームも紹介されていくが、こうしたオンデマンドワークには善悪両方の面がある。

良い面は先に書いたので、悪い側面を取り上げよう。たとえば、こうしたプラットフォームには安い賃金でこき使ってやりたいと思う悪い発注者もいるので、ワーカーが良い条件の仕事をしようと思ったら、条件の良い仕事を受注できるように常に気をはって調べなければならない。また、一般的な労働者のように誰かが仕事の仕方や探し方をガイドしてくれるわけではないので、そうしたすべてを自分で学ぶ必要がある。

その仕組み上ワーカーは孤独であることが多い。他のワーカーに相談できないし、あるタスクが自分にできるかどうかなど、誰かに相談できることもない。仮に一か八かでやってみて失敗すると、自分の評価値に響き仕事が受けられなくなることもある。ゴーストワーカーは互換性がある存在として扱われ、オンデマンドワークの世界ではプラットフォーマーが絶対的な権利を持っているので、気軽に切られてしまう。たとえシステムのバグや一時的な不具合でタスクの失敗とみなされたり登録が消されても、ワーカーを企業や発注者が助けてくれるわけではない。「ゴースト化」され、見てもらうことのできない、圧倒的な弱者なのだ。

おわりに

もし将来的に多くの労働者がこうしたAPIを通して機械的に仕事が振られたり剥奪されたりするのならば、「雇用契約」が実質的にプラットフォームの「利用規約」になっていくのかもしれない。しかし、それは良い未来とはいえないだろう。

本書では、よりよいオンデマンドワークを構築するために、何が必要かも論じている。たとえば、適切なガイドラインだけでなくワーカーたちが相談したり協同したりできるシステムのプラットフォームへの構築。仕事中の事故や補償が必要な事件に備えた保険・補償の整備など、多数の提言が行われていて、どれも納得できるものだ。

欧米だけでも2500万人を超えるゴーストワーカーがいるとされるが(原書の刊行は2019年でデータは少し古いんだけど)、今後自動化が進む仕事の割合などからいって、著者らは"2055年までに全世界の雇用の6割が何らかの形でゴーストワークに変わる可能性が高い"とまで言っている。実際どうなるかはわからないが、僕もこの見立てに近い状態になるのではないかと思う。発注側なのか受注側なのかはともかく、誰もがゴーストワークに関わるようになるだろうから、今読めて良かった一冊だ。

資金洗浄し放題になると何が起こるのか──『クレプトクラシー資金洗浄の巨大な闇―世界最大のマネーロンダリング天国アメリカ』

この『クリプトラシー資金洗浄の巨大な闇』は、米国でこれまで行われてきた資金洗浄の実態について書かれた一冊である。僕のような一般市民からすれば資金洗浄、マネーロンダリングと言われても一部の汚いカネを持った富裕層はそういうことを演る人もおるんやろなぐらいの認識で、特段それについて深く考えたり、問題に思ったことはなかったが、本書を読むとなかなかに被害の大きい行為であることがわかる。

副題に「世界最大のマネーロンダリング天国アメリカ」と入っているように、本書の事例はアメリカのみなので(資金洗浄を行いたい日本人も出てこない)日本人読者からすれば距離のある話ではあるが、アメリカでいかにマネーロンダリングが盛大に行われてきたのか。それを許してきた司法のシステム、抜け穴とは何なのか。実はトランプ前大統領もこのマネーロンダリングには大きく関与していて──と多少なりともアメリカ文化、金の流れに興味がある人なら誰でも楽しめるだろう。

マネーロンダリングって何?

そもそもマネーロンダリングとは何なのかという話から始めるが、ようは汚い金をきれいな金に変える行為である。汚い金とはどういうものかといえば、不正な手段、あまりおおっぴらにはできない手段で手に入れた金だ。たとえば独裁に近いかたちのトップ、あるいは上層部が不当にふところに入れる市民の金などである。

汚い金は、自分たちが支配できているうちはいいが時に政権打倒や逮捕などさまざまな理由によって権力が失墜したとき、口座や金の流れを調べられて回収される危険性がある。だからこそそうした汚い金を持っている人間は、自分の口座から切り離して自分とは無関係な──されど実質的には自分が所有している──きれいな資産に変えたいと願う。これがマネーロンダリングとそれが行われる理由の一つだ。

不法な資産逃避の問題に取り組んでいるアメリカの民間団体が作成したデータによれば、開発途上国から1980年以降記録に残らないまま国外に持ち出され失われた金は16兆3000億ドルと試算されている。全世界の富の10%近くが海外のオフショアのタックスヘイブンに移されているという試算もある。『こんな実態に驚いたとしても、それはあなた一人ではない。世界屈指のオフショア/オンショア・センターとしてのアメリカの地位は、それにふさわしい注目をあまり浴びてこなかったせいだ。』

なぜアメリカがマネーロンダリング天国なのか?

なぜアメリカはマネーロンダリング天国になってしまったのか? その大きな理由のひとつに、アメリカでは「匿名のペーパーカンパニー」を簡単に設立できたから、というのがある。たとえば歴史を振り返ること1986年。この時代アメリカで二番目に小さな州であるデラウェア州は匿名のペーパーカンパニーの設立が完全に合法化され、州の長官はまさにそれをウリ文句にして様々な国に投資を呼びかけて回った。

長官が各国で配っていたパンフレットには、「本国で敵対勢力による反乱や侵攻などの緊急事態が発生した場合、あなたの会社の所在地を一時的または恒久的にデラウェア州に移転させることで、当州の法律によってあなたの会社を保護することができます」と書かれていた。もちろん大勢の人間がデラウェア州を目指し押し寄せてくる。

匿名のペーパーカンパニーは、株主もいなければ従業員もいない。いつどこで設立された会社で、登記情報を誰が州政府に提出したのかぐらいは知ることができるかもしれないが、そんなものはいくらでも代理の人間が担当できた。で、具体的にその匿名のペーパーカンパニーで何ができるのかといえば、ものすごく簡単な話である。ペーパーカンパニー名義で口座を開設し、金を移して不動産でもヨットでもなんでも好きなものを買い漁ればよい。もちろん念には念を入れ、そこからいくつかのペーパーカンパニーをかませてもいい。どうせ対してコストは変わらないのだ。

でも、そんなふうに匿名のペーパーカンパニーを作れるのはアメリカだけじゃないんじゃないの? と読みながら疑問に思っていたのだが、実はそういうわけでもないらしく、アメリカほどもっとも容易にダミー会社が設立できる国はないという。これについて調べた研究者によれば、アメリカでは(調査当時)5分の1以上の企業サービスプロバイダーは申請者本人の身分証明写真を求めず、ほぼ半数が公的書類の提出さえ要求しなかった。国際的な最善慣行に準拠していたのはわずか1.5%だった。

大半の国では会社の設立は中央政府が管掌しているが、連邦制のアメリカでは規制の主体は州政府であり、これらは法人誘致をめぐって競い合っている。ペーパーカンパニーの設立を容易にしたほうが誘致できるなら、州政府はそうしてきたのだ。

何もしてこなかったわけではない。

とはいえアメリカも何もしてこなかったわけではない。たとえば同時多発テロが起こった直後には、資金洗浄の防止を目指す法案が承認され、アメリカの銀行は資金洗浄防止につとめなければならなくなった──はずだが、これもまた抜け穴のあるものだった。ブッシュ政権化の財務省は資金洗浄規制法の対象から複数の業界を除外したが、その中には不動産業者やその売買を仲介するエクスロー口座に関する業者、プライベートジェットや何百万ドルの自動車など超高級品の販売事業者が入っていた。

不動産業者は提供された知識が資金洗浄規制法に引っかかるものかどうかチェックする義務はないから、資金洗浄したい人間らには利用された。実はこれにはトランプ前大統領のトランプ・タワーもかかわっている。彼の所有するビルの多くは匿名、あるいはマネーロンダリングが疑われる顧客によって買われており、ニューヨークのマンハッタンにある「トランプ・ソーホー」などは実に77%もの顧客がマネーロンダリング目的でしたとみられていて、実質マネーロンダリング用のビルだ。

おわりに

高額な不動産の売買でマネロンが行われようが市民には関係がないと思うかもしれないが、実際にはこれによって不動産の値がかなり釣り上がっている。アメリカでは新たな不動産売買規制によって実質的所有者の特定が厳しくなった結果、マネーロンダリングが盛んに行われている都市の住宅価格が5%近い幅で下落したりもした。

不正融資を引き出すための窓口としてアメリカの製鉄所が利用され、表向きは融資がされながらも実態は富豪のもとに通過していくなどの操作が行われ製鉄所はろくに管理も整備もされずに事故が多発するなど、一般市民の生活とはまるで関係がなさそうなマネーロンダリングの余波がいかに大きいのかも語られている。

抜け穴だらけだった資金洗浄規制も2021年を境に匿名のペーパーカンパニーの設立を禁止する国防権限法案が可決されるなど、徐々に状況は改善されつつある。資金洗浄の必要性はいつの世にもなくならなず、常に汚れた金は洗浄する場所を求めている。そうした、お金の流れが見えてくる一冊だ。

すべてが成長する時代は終わり、素晴らしい停滞の時代が始まる──『Slowdown 減速する素晴らしき世界』

この『Slowdown 減速する素晴らしき世界』は、世界人口の増加も、経済の発展も、平均寿命も、負債も、技術革新も、すべての「加速」が終わって減速、あるいは停滞に向かうことを各種データから示していく一冊だ。加速する世界がいいもので、停滞は悪いものだとする価値観があるが、本書は副題に「素晴らしき世界」と入っているように、決して次にくる停滞の世界が「悪いものである」という立場をとらない。

たとえば世界の人口はこの先一度100億〜110億あたりで天井へと至り、その後急速に減少していく。個々の国々からしてみれば人口が減少することは生産年齢人口が減ってGDPも税収も減少し国内市場が減少しと良いことがないが、世界的にみればこれは朗報だ。人数が少なければ少ないほどスムーズな意思決定が可能になる。ゴミを出し、エネルギーを必要とし、資源を使う人間がそれ自体が減れば、今問題となっている環境問題がぐっと解決に近づくはずである。停滞、減速には良い面もある。

 停滞は悪だと考えるのはやめなければならない。スローダウンが進むということは、学校も、職場も、病院も、公園も、大学も、娯楽も、家庭も停滞するということだ。過去6世代と違って、世代が代わるたびに変容していくことはもうない。モノを長く使うようになって、ゴミが減る。いま私たちが心配している社会問題や環境問題は、将来、問題ではなくなる。もちろん新しい問題は現れる。いまの時点では想像もつかないような問題も出てくるだろう。

停滞する停滞するっていってるけどそれってほんとなの? 停滞したとして、そのさきの社会はどのようなものになるのか? というのが本書では語られていく。

人口減少の時代がくる。

最初に、もっともわかりやすい「減速」の要因のひとつである人口減少についての部分を紹介しよう。かつては人口は大爆発して人類は宇宙に飛び出さねばならないと真面目に話されたものだった。今ではそんな危険性を語る人はいなくなった。

今年の7月11日に、世界人口デーにあわせて国連の人口部は世界人口推計2022年版を発表している。その推計では、2080年代に世界人口は104億人でピークに達し、2100年までにその水準が維持されると予測されているが、この「ピーク」の値は発表されるたびにどんどん少なくなっている。なぜ最大値が減っているのかといえば、国連の人口の予測は「世界全体で子供の数は2人」になることを標準に計算しているが、これには何の科学的根拠も、歴史的根拠もなくあてにならないからだ。

世界では、あらゆることが変化し、子供を持たない、あるいは1人しか産まないという選択をとる人が増えている。そうした人が増えれば子供は減り、一度子供が減ると次に生まれる子供の数も流れで減るので、人口減少は加速していく。人口統計学の世界的権威のウォルフガング・ルッツは、世界人口は2050年までに安定し、その後減少し始める(2100年の人口は国連の推計値を20億〜30億人下回る)と予測しているが、これも特殊な意見でもなんでもなく、幾人もの統計学者が似た数値を出している。

経済の減速

経済においても減速を示す証拠は多くある。1972年には世界のひとり当たりGDPは262ドル増加し、増加率は3.75%だった。2006年には470ドル増えたが、増加率は3.38%。1964年以降で増加率がこの数字を上回ったことは一度もなく、2008年には減少し、その後の10年間で増加率が2%を超えたのはわずかに3回だけだった。

各国版でみていっても、たとえば中国では2006年以降GDPの成長率自体は+推移だが増加率は年々下がり続けている。2006年以降中国のDGPの増加率は14%を下回り、10年以降は12%を、17年以降は7%を──と年々増加率が少なくなっている。

テクノロジーとデータの減速

イノベーションも起こりづらくなっている、と著者は語る。そんな馬鹿な、最近だってすごい絵を簡単に生成してくれるAIが出てるしすごいテクノロジーは次々出てるじゃないか、と反論したくなるが、ここで言っているのはわずか一世紀ほどの間で移動手段が馬からジェット機へとかわるような急速な変化とイノベーションのことだ。

今から100年後に我々がジェット機を遥かに超える移動手段をつかっているとは想像できない。VRなど今まさに発展している領域も多いが、こうした技術の発想と開発の着手自体は数十年前に行われていたものだ。技術はあらゆる領域で進歩している。しかし、そのスピード、量や質は以前と同じではない。

私たちは、長い目で見れば、変化がどんどん少なくなる世界に十分に対処できるだろう。すでに始まっている変化にうまく適応できるはずである。しかし、物事はもうスピードアップしていないことを認めるまでは、テクノロジーの小さな発見があるたびに、多くの人がそれを大きな前進だと言い張るだろう。

ウィキペディアの成長率は鈍化し、新刊の出版点数といったデータの多くも減少傾向にあることが本書では示されている。

おわりに

子供が減っていく社会では幼児保育施設や学校が減り、家族と子供を中心とした社会から個人を中心とした社会へのシフトが起きる。国内需要だけでやってこれた企業も操業できなくなり、潰れるか国外に活路を求めるかの二択を求められるようになるだろう(日本は2065年頃には8800万人まで減るとする推計がある)。

こうした変化が、技術分野、経済分野などあらゆる場所で起こるだろう。本書では終盤、女性の自由の拡大や不平等の是正などいくつかの観点からそうした未来の社会を描写している。長々と紹介してきたように今後変化のペースは遅くなると考えるべきだが、変化が遅くなるというここ最近なかったこと自体が「大きな変化」であるし、それは今後数百年以上にわたっての「当たり前」なのかもしれない。そうした事態にこれから立ち会えるのは、ある意味ではおもしろいことともいえるだろう。

億万長者は金とその影響力によって政治を好き勝手操作する──『ダボスマン 世界経済をぶち壊した億万長者たち』

「ダボスマン」とは、スイスのダボスで行われる世界経済フォーラム総会(ダボス会議)に参加する億万長者たちの呼称である。大勢いるが、有名所では、アマゾンのジェフ・ベゾス、投資ファンド運営の大物スティーヴ・シュワルツマン、合衆国最大の銀行を切り盛りするジェイミー・ダイモンといった面々のことを指している。

で、本書は副題に「世界経済をぶち壊した億万長者たち」とあるように、ダボス会議に参加する億万長者たちを非難する一冊である。こうした億万長者たちはダボスに集まって気候変動や感染症、ジェンダー間の不平等といった話題について、国家の枠を超えて対処が必要な多くの議題を討論する。ダボスマンは表向きは世界のため、地球のために私財をなげうってでも献身する──そんなイメージを発している。

たしかに彼らは一般的な生活をしている人々からすれば多額の金を慈善事業に投資しているように見える。しかし、その裏側では寄付された金額の何十、何百倍にもなる金を税金でとられぬために保護、移動させているのだ。慈善活動にあてられる金額など、そうやって逃れた税金からすれば僅かなものだ。彼らは莫大な金をロビー活動に費やし、富裕層向けの税を減額させ、それがかなわない領域についてはできるかぎり国外へと資産を移し奪われないようにしてきた。

ダボスマンがグローバル資本主義の果実を独占するようになったのは、偶然ではない。彼らは、政治や文化の中に、「果てしない噓」をこっそりと浸透させてきた。減税や規制緩和をすれば、最富裕層がいっそう豊かになるばかりか、その恩恵は大衆にまで及ぶと、まことしやかに主張している。だが、そんな恩恵の波及が起きたことは、現実には一度もない。

具体的な事例

620pもあるので本作は億万長者が政治をハックする具体例に満ち溢れている。

たとえばクラウドサービス企業のセールスフォーム・ドットコムの創業者マーク・ベニオフ。2018年にサンフランシスコでは、セールスフォースも含むサンフランシスコの企業に新税を課しホームレス問題解決の財源とする案が住民投票にかけられたが、ベニオフは彼個人と会社で700万ドルを寄付して支援することで条約を成立させた。

これによってセールスフォースには年間1000万ドルの追加負担が生じると見積もられた。これだけみれば、ベニオフは社会のニーズ、正義のために自らの利益を犠牲にできる勇気ある億万長者のようだ。しかし、ベニオフが新税を後押ししたのと同じ年、彼の会社の収入は130億ドルを超えたが連邦税の納付額はゼロだった。

セールスフォースは海外子会社を14社も立ち上げて、そこに資金や資産を移動させ、課税対象となる収益を消失させた。低い法人税の国に子会社を設置し、そこへ自社の知的財産権を移し、そこがグループ内のほかの法人に法外な額の知的財産権使用量を請求することで、米国内の本体企業は赤字製造機のような状態となって税金を払わなくてよくなった。こうやって節税される金額からしてみれば、1000万ドルなど誤差の範囲にすぎず、これで慈善活動家のように思ってもらえるのなら安い投資といえる。

ダボスマンの多くが主張するのが、富裕層に向けて余計な課税をされると、無能な公的機関の官僚がその金を必ず浪費してしまうという理屈だ。そうであるなら、自分で寄付先の活動を選定したほうが効率的に慈善活動を行うことができる。なるほどもっともな部分もあるかもしれないが、そうやって彼らが慈善活動に割り振るのは、本来徴収できるはずだった税を大幅に下回る額でしかないのだ。

法人税の引き下げ

これは表向き合法な税逃れだが、法人税率を引き下げる働きかけは常に行われている。たとえばアマゾンは売上税の導入を州が検討すると、州内での事業を別の州へと移すかもしれないと脅した。2018年の段階でアマゾンがワシントンで雇っているロビイストは28人。それに加えて100人以上が契約で業務を請け負っているという。

ベゾスは長年基本給を年8万ドルしか受け取っていないので、その給与にたいした税はかからない。無論、彼の莫大な資産を形成するアマゾンの株式を現金化する時にはキャピタルゲイン税はかかるのだが、それもまたロビイストたちの提案によって80年代はじめから現在までの間で最高税率は35%から20%まで引き下げられてきた。

ダボスマンが法人税引き下げに奔走する事例はいくらでもあげることができる。LVMHモエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトンのCEOベルナール・アルノーは、経済相に在任中のマクロンと毎週のように夕食をともにしていた。アルノーは税金を回避するため資産を租税回避地のペーパーカンパニーに移して自分自身には「貸し出す」形で提供するなど猪口才な節税手段を駆使し報道もされていたが、マクロンはその事実を指摘されても徹底的にアルノーをかばい(法律上刑事罰に処すことはできないといって)、所得への課税などの政策提案にたいしても経済相として反対を繰り返した。

これによってマクロンは使える候補者として認定され、ほかの富裕層からも彼の選挙運動への寄付を促す結果になった。彼の選挙資金集めは銀行家、起業家、ロビイスト、インフルエンサーたちを標的にし、税負担からの解放を約束していた。

マクロンはその後も富裕税を骨抜きにし実質的に70%削減。億万長者を厚遇すれば海外からの投資を呼び込みさらなる経済成長に繋がると主張し続けたが、結局下向きの波及効果など存在せず、ただただ富裕層への贈り物をしただけだった。

推定によればダボスマンらは租税回避地を使って7兆6000億ドルを秘蔵しており、こうした金の大半は未申告状態で各国の税務当局の手が及ばない。米国では収入最上位1%の富裕層は収入の2割以上を税務当局から隠していることを示す研究もある。

どうしたらいいのか

ただでさえ富は富を呼ぶのに、一部の億万長者はその資産をつかって税までも自分たちの都合の良いようにコントロールする。ではどうすればいいのか。もちろん富裕税を導入するのはそのひとつだろう。資産にたいして課税すればよい。

米国のエリザベス・ウォーレン上院議員は5000万ドルを超える資産に毎年2%、10億ドル超えは3%の富裕税の導入を提案している。サンダースはもう少し攻め、3200万ドル以上の場合は年1%、その後累進的に増加し100億ドル以上なら年8%まで増額する案を提案した。これが成立すれば3兆ドル以上の歳入が生じるはずである。

とはいえ、当然億万長者は激しく反発している。こんなものが導入されればみな出ていくだろうとか、資産を推計するのは不可能だ、などお決まりの理屈である。こうした富裕税で持っていかれる金額は彼らが慈善活動として寄付した金額の7倍以上になるのでそれも当然だ。本書はダボスマンから権力を奪還するために必要なのは民主主義を賢く使いこなすことだけだ、といって締められるが、正直人間が金や権力や動員によって動く存在である限り、この流れを変えるのは簡単なことではないだろうな。*1

おわりに

ダボスマンとは言えない人までが取り上げられていて正直ダボスマンというくくりが必要だったのかいまいちわからん本でもあるのだけど、本書では他にも億万長者たちがベーシックインカムに賛成する理由、パンデミックをだしに莫大な儲けを出したのは誰なのかとその手法、年金を食いものにするダボスマンなどこの記事で取り上げていない事例が山盛りになっているので、興味がある人は読んでみてね。

*1:2022年の3月にはバイデン政権では富裕層の未実現キャピタルゲイン最低20%課税を提案するなど、攻めてはいるようだけれども

世界的に少子高齢化が進展した時、世界経済はどうなってしまうのか?──『人口大逆転 高齢化、インフレの再来、不平等の縮小』

日本が少子化対策に失敗し続け、少子高齢化が進行しているのは誰もが知っていることだと思うが、この傾向は何も日本に限った話ではない。先進国は軒並み出生率が減少傾向にあり、世界的に少子高齢化が進行していくのは間違いがない事実である。

たとえ手厚い支援をしたとしても厳しい状況にある。スウェーデンは数十年にわたって手厚い出産支援を行い、保育サービスの時間延長、育児休暇480日、ほぼ全期間で収入80%が補償、子供ひとりごとに手当が増える家族手当、ベビーカーを押している場合公共交通機関が無料など幅広い取り組みが行われているが、そこまでやっても出生率は1.84で、人口置換水準には及ばない。しかもそうした施策には莫大な費用がかかるので、不況に突入し手当が縮小するとあっというまに出生率も下がってしまう。

平均寿命の伸びにより高齢者も増大する。国連のリポートによれば、世界の60歳以上の人口比率は2015年の12.3%から30年の16.5%へと4%以上増加する。同じく、世界の60歳以上の高齢者人口は9億万人から14億人まで56%増加、50年には、世界人口の44%の人々が、60歳以上の高齢者が人口の20%を占める高齢化した国に住み、4人に1人は60歳以上の高齢者が30%以上を占める国に住むことになる。

世界的に少子高齢化が進行すれば、そのぶん生産者は少なくなるはずなので(あるいは、高齢者が元気なまま働くようになって、働き手の総数が変わらない可能性についても検討されていく)、経済にも大きな変化が起こるはずだ。本書『人口大逆転』は人口の観点からみた将来の世界経済の行方を分析した一冊である。

世界的な少子高齢化が進行すると、世界経済にはインフレが再来する。

いくつかの論点があるが、一つは世界的な少子高齢化のプロセスは今後数十年にわたってインフレ圧力に繋がる、というものだ。日本が長くデフレに苦しんでいるのでそんなまさか、と思うが(後に触れる)、インフレに向かう根拠はたしかにある。

ひとつは、労働者不足が労働者の立場を強くし、賃上げを要求、あるいは賃上げをしなければ雇えなくなるという単純な理由。もう一つの大きな要因は、「高齢化はインフレ圧力を生む」ことからくるインフレへの転換である。たとえば、生産をせすただ消費を行う人が多ければ、物資やサービスは減り続け希少性が増すのでインフレ圧力に繋がる。労働者の増加率が依存人口(働かない・働けない若年層・高齢層)の増加率よりも多ければ世界経済は過去数十年間と同じようにデフレ圧力を受けるが、これからの数十年間はその関係が逆転し、今度はインフレ圧力へと転じることになる。

さらには、55歳から64歳までの年代層や女性の労働参加率が先進国を中心にすでに相当な水準にまで上昇していることから、年齢にかかわらない労働者の総数が変わることも今後期待することも難しい。

逆にいえば、これまではデフレ圧力が強かった状態にある

人口大減少社会への転換に伴ってインフレに向かうということは、逆にいえばこれまではデフレ圧力が働いていたということでもある。要因のひとつは中国だ。1990年から2018年にかけては中国の台頭著しく、中国をグローバルな製造業の生産網に統合するだけで先進国の貿易財生産のための労働供給量は2倍以上に膨らんだ。

それに加えて、ソ連の崩壊に伴って東欧全体が世界貿易システムに組み入れられ、労働力に占める女性の割合の上昇、先進国における良好な人口構成などすべての要因が関係して労働者の供給量は急上昇した。それに伴って労働者の交渉力は弱体化し、多くの国はインフレターゲットを設定し大規模な金融緩和政策と財政拡大政策を行ってきたものの、それでも目標(多くは2%)を下回るほどデフレ圧力が強く働いてきた。

日本はデフレじゃん

そうした状態が、中国の少子高齢化の進行と先進国の人口構成の変化で終わりつつある。とはいっても少子高齢化先進国である日本はずっとデフレで、労働者はどんどん減っているにも関わらず賃金上昇もべつに起こってなくない? 全部間違ってるんじゃないのか? と疑問が湧いてくるが、著者らはこれに一章を割いて答えている。

たとえば、ニューヨークの一部の道路で交通渋滞を引き起こす事故があったとしよう。その場合その道を通ることはできないが、迂回して目的地につくことはできる。しかし、ラッシュアワーのように住宅地区への道路がすべて混雑している状況では、迂回してはやくつくことは不可能である。著者らによれば、第一のシナリオが日本で数十年にわたって起きていたことで、日本が一足先に労働供給が減少した時に世界は労働供給で溢れかえっており、日本企業は国内の労働力不足をグローバルな労働力供給(製造業を中心とした日本の貿易財部門は、生産拠点を海外、特に中国に移していた)で補うことができた。だが、今は第二のシナリオの状況なのだという。

また、国内の労働力が減少し続け、失業率が低い状態で推移するのであれば、通常は賃金の上昇が起こるはずだが、日本の場合は雇用者が景気後退時であっても正社員の雇用を守り、景気後退に伴う調整は労働者が労働時間の増大や賃金カットを受け入れる形で行われるという特殊な雇用慣行があったので起こらなかったのだとしている。

日本の雇用は多くの労働者を解雇することによって素早く調整できないので、労働市場の調整は雇用構造の変化と、労働時間および賃金に対する容赦のない下方圧力によって行われた。日本的慣行である長期雇用、内部労働市場、さらに年功序列に基づく賃金などは、全体としてこの傾向を強めた。(p.310).

今は中国の成長も終わり、先進国は軒並み少子高齢化社会に転換しつつあるので、かつての日本のように世界の労働供給に頼ることも難しい。欧米諸国には日本のような雇用慣行はなく、労働者の賃金が上昇することも避けられない。55〜64歳の労働参加率はすでに高い状態にあり、高齢者予備軍の労働参加率の増加にも期待できない──なので「インフレに向かうしかない」というのである。

じゃあどうしたらいいの??

世界の生産性は落ちていき、インフレになったとして、じゃあどうすればいいのか? たとえばインドやアフリカの人口はまだしばらく増加していくことが期待されている。第二の中国をそこに求めるのはだめなのか? 自動化、オートメーションの活用、あるいは移民で生産性を維持することはできないのか? 労働者の減少によって税収が減り、高齢者の割合が増加することで年金と医療と介護を提供する公的部門の支出が増大する中、国家の財政が苦しくなっていく状況をどう脱したらいいのか?

人口の構成に端を発している問題なので簡単な解決方法は存在しないのだが、本書では税や投資、政策など様々な観点からこうした問いかけに答えている。紹介しきれる分量ではないので、このあたりはぜひ読んで確かめてもらいたいところ。

おわりに

本書と著者らが提示した仮説は賛同も反論も合わせて波紋を呼んでいるので、これが経済学者らの一致した見解というわけではないのだが、世界経済の趨勢を考えるにあたって世界人口の推移は主要因としてシミュレーションに含める必要があるだろう。必ずしもすべての仮説に同意できるわけではないのだけど(そもそも日本の状況を説明するのに日本の特殊な雇用慣行を持ち出しているのもうーんと思うところだし)今後の経済の行方を考えるために、読んで損はない一冊である。

仕事が行き渡らない世界がやってきたら、我々はどうやって生きていけばいいのか?──『WORLD WITHOUT WORK――AI時代の新「大きな政府」論』

近年、AIなどのテクノロジーの進歩は、人間から仕事を奪う。いや歴史が証明しているようにテクノロジーの進歩は新しい仕事を作り出すから人は新しい仕事へと移るだけだ。その移行には数十年かかるから現代を生きる我々の救いにはならない! など、さまざまな「テクノロジーの進歩と仕事」についての主張が交わされてきた。

数十年に渡るそうした論争の末、近年のノンフィクションでは、「多かれ少なかれテクノロジーの進歩は人間の仕事を奪う」方向に傾いているように思う。たしかにこれまで多くの仕事は、自動車やトラクターが馬を(少なくとも移動の手段としては)不要としたように、テクノロジーの進歩によって消え、また新たな仕事を作り出してきた。だが、それはいうても新しいテクノロジーが結局人間の完全な代替にはならなかったからだ。車ができたからといって、それを運転する人間は必要であった。

今も完全に人間を完全に置き換えるAIは存在しないが、かといって世の中に存在する仕事の大半は人間をそっくり代替しなくても問題ないものばかりである。運転でも、囲碁でも、将棋でも、がんの診断でも、狭い領域であればプログラムは人間よりもうまくこなす。しかも、プログラムが担当できる領域は広がり、逆に人間にしかできない領域はこれまでよりも格段に高スキルを必要とするようになっている。

一部の仕事は間違いなく当面は存続する。だが、その仕事は徐々に多くの人にとって手の届かないものになっていくだろう。そして21世紀が進むにつれ、人間が行なう仕事に対する需要は徐々に目減りしていくだろう。最終的に、従来のように仕事をして稼ぎたいと望む人全員に割り当てられるだけの仕事がない、という状態になる。

仕事がなくなった世界で

本書『WORLD WITHOUT WORK』は、テクノロジーによって人間の仕事は失われていく一方だという前提を置き、それではそうなった時、我々はどのような社会を構築していけばいいのか? と問いかける一冊だ。富はこれまで基本的に労働に対しての報酬という形で分配がなされてきた。もしその前提が崩れ、つける仕事がなくなるのだとしたら、我々は労働以外の形で富を分配する必要がでてくるだろう。

本書は、そうした状況の解決に際し、副題にも入っているように「大きな政府」、国家が社会の富の分配に大きな役割を果たすべきだ、としている。たとえばベーシックインカムもその選択肢のひとつだが、多くのBI論者が無条件に全国民への配布を前提としているのと違って、条件付きベーシックインカム(CBI)を提唱している。

また、仕事がなくなる社会において考えなければいけないのは、富の分配だけではない。たとえば、人生の意味や目的をどう見つければよいのか。仕事一筋で生きてきた人が定年後抜け殻のようになってしまった、というのはよくきく話だが、これからの世界はそれがもっと大規模に、世界的に起きる可能性がある。仕事から解放される喜びにひたる人も多いだろうが、増えた余暇をどう扱えばいいのか、娯楽に興じるだけでいいのかなど、「余暇多き人生」について考えるべきことは多い。

本当に仕事は減っていくのか?

本書で最初に論じられるのは、そもそも本当に仕事は減るのか? という前提部分の詰めだ。進歩が仕事を奪うという時、多くの人は「無くなる職種は何なのか?」と問いかけるが、実際はこの問いは間違っている。というのも、特定の職業、仕事を分割不可能なひとかたまりの活動と想定しているからだが、たとえば「医師」と一言でいってもその仕事は多岐に渡る。診断もあれば手術もあり、書類仕事もあるのだ。

そうした無数のタスクは「やり方を手順化できる定型タスク」と「言葉にできない暗黙知に頼る非定形タスク」に分けられ、前者は自動化できる。マッキンゼーの調査結果によれば、エレベーターガールのように既存の技術によって完全に自動化可能な職業は5%にも満たない。だが、すべての職業のうち60%以上は、行っている作業のうち3割は自動化可能であるという。つまり、私の仕事は人間にしかできない部分があるから、機械に奪われることはないというのは、安心できる根拠ではない。

非定形タスクは自動化できないなら、人間はそうした仕事に移っていくはず(だから仕事はいつも生み出される)だ、というのは理屈は通っているが、人間にしかできない領域は日々少なくなっている。かつて起こったような、農場から工場への移行は、たしかに仕事は変わったが、必要とされる新たな技術の習得は充分に可能だった。

今では、それは難しくなってきている。必要とされる仕事のスキルはより深くなり、その習得はより困難になっている。それでも──と反論する人は多い。人間はそ簡単には置き換えられないはずだ、と。著者は、それは人間は特別な存在だと思い込みたがった人間の決めつけであり、経済が成長しあらたに生み出されたタスクは結局人間にしかできないという思い込みのことを、「優越想定」と呼んでいる。

僕はこれを「優越想定 superiority assumption」と呼ぶ。未来を楽観視する根拠として、過去に威力を発揮した補完力の効果を持ち出すときにも、この思い上がりassumptionが強く作用している。

たしかに、歴史的にみてこれまでは人間の領域は機械に侵されてこなかったかもしれないが、これからも変わらないというのはあまりに楽観的にすぎる。

対策

では、今後どうしたらいいのか? ほとんどの同じテーマを扱った本が大きく語るのは、まずなにをおいても「教育」だ。これから先人間に必要とされるより複雑な仕事をこなすために、より長い時間をかけて教育するのだ、生涯学習だ! と。

本書も教育の重要性は認めつつも、新しいスキルなんてそう簡単に身につかない、と一蹴しているのがおもしろい。はじき出された労働者は新たなスキルを学べばいい、簡単にいうが、人間には適正や生まれ持った才能があり、新しいスキルを本当に学ぶには時間と労力がある。必要なスキルはこれだと指示されたからといってそれが学べるわけではない。また、構造的テクノロジー失業が発生する社会では仕事そのものが社会に充分になくなるので、そうなれば世界トップの教育も無用の長物である。

つまり、仕事を通じての金銭の分配は諦め、労働市場に頼らない別の方法である必要がある。そこでようやく「大きな政府」論、どのようなベーシックインカムが必要とされているのか、その財源は──が本書では論じられていくことになる。

尊厳と価値があらためて問われる時代

その具体的な試算についてはぜひ読んで確かめてもらいたいところだが、おもしろかったのは最初にも書いたように本書が「余暇」や「尊厳」の問題も扱っているところだ。仮にBIが実現したとして、仕事がなくなった人たちはどうしたらいいのか?

近年、あなたの学歴や収入は、勤勉さや努力の結果ではなく、運の影響も大きいのだと主張したサンデルの『実力も運のうち』。給料は政治権力によって決定すると論じ、給料はあなたの価値ではなく、低くとも自尊心を傷つけられる必要はないと論じたローゼンフェルドの『給料はあなたの価値なのか』など、「あなた個人の価値をどこに見出すべきなのか」をあらためて問い直す本が立て続けに出ている。

それは、本書が論じているように、我々は今後仕事や給料の存在しない世界に突入していくから、というのが背景にあるのだろう。その時、我々は仕事以外の場所に自分の価値や尊厳を求める必要がある。本書では、その展望のひとつの例として、受給者に有償のしごとではない、「自分が選ぶ活動」と「コミュニティから求められる活動」に従事する条件を課した「条件付きベーシックインカム」を提案している。

それは芸術活動や文化活動かもしれない。読書や執筆、楽曲の制作かもしれない──。これは単なる推測にすぎないが、仕事なき時代にどのような社会をデザインするべきなのか、金銭の分配にとどまらず考えなければいけない領域は多い。断言できることは多くはないが、そうした未来を考えるきっかけになってくれる一冊だ。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
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あなたの給料はなぜその額なのか?──『給料はあなたの価値なのか――賃金と経済にまつわる神話を解く』

自分が毎月いくらもらえるのかは、日本・世界経済がどうこうよりもよほど重要な目先のテーマである。だが、それ=給料はどうやって決定されているのか。真っ先に思いつくのは職種や立場だろう。大企業のCEOがマクドナルドのバイトよりも稼げるのは間違いない。介護職の大半よりプログラマの方が稼いでいるだろう。そうした立場・職種に加え、個人の成果でも給料は変化する、すべきだと信じられている。

しかし、それはどこまで本当か? 個人の成果はどれほど給料に関係しているのか? 介護職が重要不可欠で需要もあるのに賃金が上がらないのはなぜなのか? 1960年代にアメリカの一般的な経営トップは一般労働者の20倍稼いでいたのが、21世紀に入ると224倍から271倍も稼ぐようになったのはなぜなのか? それは本当に公平な分配といえるのか? 本書『給料はあなたの価値なのか』は、そうした給料にまつわる数々の疑問について答え、どうしたら改善していけるのかを探る一冊である。

給料を決める4要因

 自分の仕事に対してなぜ賃金をもらえるのか、という問いに対して、アメリカでは学者も働く人も給与を決める人も、個人の成果が重要だし、重要であるべきだと考えている。問題はそれが正しいかどうかだ。
 答えはノーだ。

本書では、給料を決めるのは個人の成果や個人の技量などの価値ではなく、権力、慣性、模倣、公平性の4つだとしている。権力とは文字通り会社内で権限を持つ人達が行使する力で、時にこれは従業員を縛り付ける枷になる。たとえば従業員が給与の額に不満があっても、それを発言すると上が処罰で応じる姿勢を示している時。給料の情報を公開させず、比較を制限したり同業他社への転職を禁止したりする時など。

シカゴの食肉加工工場で働く人々は指や足が切断されるかもしれない大きなリスクをおいながらも時給はわずか12ドルと低く抑えられているが、これは雇われている人の多くが在留資格に問題があるヒスパニック系の人たちで、賃金に不満があっても上に訴えることができないからだとされている。これもまた権力行使のひとつだ。

食肉加工の仕事は、第二次世界大戦末期から1980年代までは製造業の平均給与を上回り、現在の貨幣価値に換算して2倍以上だった時代もある。労働組合が結集し、食肉加工会社に対峙する環境があったからだ。ある仕事の給料が今低かったとして、これからもずっと低くなければいけない理由はない。しかし、一度決また給料は最低賃金の引き上げなどの強制的な力なくしてなかなか変わらない。それが「慣性」だ。

模倣は給料の確定に際し採用者の前職の給料を参照したり、同業他社の給料を参照することを示している。公平性はそのままの意味だが、自分だけ変わらず他の人達が昇給したら不公平感を覚えるように、従業員の感情に配慮し時に給料は大きく調整される。たとえば、最低賃金が上がり賃金を引き上げると、最低賃金より少し上の時給で仕事をしていた人たちが不公平感を覚え抗議運動が起こる。こうした4つの要因が複雑に絡み合って、ある職種/会社の給料が決定されることになる。

測定の問題

この権力、慣性、模倣、公平性がそれぞれ実際どのように給料に関わっているのかを各章で紹介していくわけだが、それと並行して行われるのが、給料が決まる大きな要因とされる「個人の成果説」などがなぜ間違っているのかについての解説だ。

個人の成果によって給料が決まるべきだというのは公平性の観点からもわかりやすいが、実際にはこれが難しいことが近年の研究でわかっている。数年前に同じくみすず書房から出た『測りすぎ』の方が本書よりも問題点について詳しいが、どんな仕事でも仕事における成果物・生産物の定量的・客観的な評価は難しく、無理やり数値評価を導入しても従業員は数字をごまかすだけだ、という研究が広く揃っている。
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たとえば外科医が成功率に基づいて報酬が決まるようになると、より複雑でリスクの高い症状を拒否するようになり、警察が犯罪発生率の引き下げを目標にあげると、現場の警官たちは犯罪を隠すようになった。ジャーナリストがWebのクリック数のみを基準に評価されたら、性や暴力を押し出した訴求力だけはある見出しを繰り返すように、簡単に測定できるもので評価を決めようとすると歪みが発生する。

働くほぼすべての人は成果によって給与を払ってほしいと思っている。給与を決める側も個人の成果をもとに給与を分配したいと考えている。理屈としては難しくない。実際には、信じられないほど複雑で、多くの場合は実施不能であり、行われているところはほとんどない。

労働組合の力

トラック運転手や建設労働者など、やることが数十年大きく変わっておらず生産性も減っていないのに給料が減っている職種がある。アメリカでは1980年から2017年までの間でシカゴとアトランタで運転手の賃金の中央値は3分の1近く下落し、建設労働者の賃金は1970年代と比べて今は1万ドル下がっている(インフレ調整後)。

そうした下落の理由としてあげられるひとつが、労働組合の消滅だ。70年代には民間の建設労働者の40%が労働組合に所属していたが、今では13%になっている。建設労働者の賃金は、労働組合を認めない企業の増加とともに下がっていった。『大勢のアメリカ人が、給与の停滞あるいは下落を経験し、もともとは良い仕事だった悪い仕事から抜け出せないでいる。念頭におくべきは、仕事の良し悪しを決めているのは、仕事固有の性質ではないということだ。それは賃金と労働環境の問題である。』

どうしたらいいのか?

重要な仕事にも関わらず賃金が上がらず困っているのは日本だけでなくアメリカも同様のようだ。では、どうしたらいいのか? 本書では、より公平な賃金を目指すため、最低賃金の値上げ、ミドルクラスの拡大、天井の引き下げの3つを提案している。

最低賃金引き上げに関しては失業が増えるとよく言われるが、実際には雇用への悪影響がみられないことを示す研究が多数ある*1。また、最低賃金の上昇が起これば、最低賃金以上の人たちも公平性の問題によって上昇し、ミドルクラスの拡大も目指すことができる(本書ではそれに加えて労働者組織の立ち上げと、バカにされがちな年功序列制度の採用も議論されている)。天井の引き下げは富裕層、経営層の桁外れの報酬への対抗で、富裕層への増税、取締役会へ従業員の代表を加えることなどである。

おわりに

給料の問題は自尊心や尊厳とも深く関わってくる。給料が高ければ価値のある人間で、低ければ価値がないと嘆く人は多いし、資本主義社会ではそう思いたくなるのも無理はないが、その考えは間違っている。給料はあなたの価値ではないのだ。

給与は、個人の成果や職業の特性によるものではなく、ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマンが言うように、「単純に需要と供給によるもの」であると同時に「社会的な力と政治的権力によるもの」であると定義しなおせば、自分の能力が足りないと嘆く必要も、自尊心を傷つけることも、幸運にもたくさんもらっている人が優越感を持ってうぬぼれることもなくなるだろう。

すべてアメリカの話なので労働組合周りなど日本と状況が異なる面も大きいが、介護職の低賃金問題や派遣会社が増えることによる低賃金圧力、最低賃金を導入することに関する様々な恩恵についての議論など、本邦とも共通する部分は数多いので、自分の現在と未来の給料についてよく理解したい人にはおすすめしたい一冊だ。

インディーゲームを作り続けていくための現場の知見と悩みが詰まった最良のガイドブック──『インディーゲーム・サバイバルガイド』

この数年、UnityやUEのようなゲーム開発エンジンが発展し、ダウンロード販売が当たり前になり、スマホのスペックが上がり自由度が増したなど複数の要因が重なって、少人数で制作・販売されるインディーゲーム界隈が大いに盛り上がってきた。

盛り上がっているとはいっても、よーしじゃあ自分もゲームつくるかあ! と入っていくにはハードルが高い。UnityやUEは手軽とはいえそれでもかなりの知識量や根気が求められるし、多くの人を楽しませるゲームを少人数で作ろうと思ったら、数年単位の時間はかかる。本業を持って片手間で制作を進められればそれが一番安全だが、それだといつまで経っても完成しなかったり、モチベーションを保つのも難しい。

ゲームを作ると一言でいっても、そこにはプログラムやグラフィック以外の多くの知識と手間も求められる。本書『インディーゲーム・サバイバルガイド』が取り扱っているのは、そうしたゲーム制作における具体的な開発以外の部分の情報、ガイドである。それも、ゲームをただ開発してストアに登録するだけではなく、それで食っていく、マネタイズのためにどうしたらいいのか、という知見が豊富に含まれている。

たとえば、作ったゲームをどう宣伝すればいいのか。プレスリリースを打つときに、何が必要なのか。キービジュアルの作成方法。パブリッシャーとの契約やイベントに出展する方法やその意味、税金や法人登記について。モチベーションを保ち続ける方法、海外展開の場合は翻訳家の探し方、収益の得方、販売計画の立て方、法律をおかさないためのTIPS、声優への依頼の仕方や相場観、デザイナーやシナリオライタに仕事を発注する分業のやり方、ゲームプラットフォームの手数料など、ゲーム開発に必要な、プログラミング周り以外の情報がここで網羅されているといっていい。

有名なインディーゲーム開発者らの対談

おもしろいのは、そうしたTIPSの合間にインディーゲーム開発者らの対談が挿入されていることだ。ほぼ個人で作っている人もいれば、少人数チームを組んで制作している人も、フリーランス的に働きながらその合間にゲームを作っている人もいて、と様々なスタイルの開発者がいて、どの対談もゲーム制作において参考になる。

たとえばカニ同士の対戦ゲームで大会が開かれるまでになったゲームである『カニノケンカ -FightCrab-』の開発者ぬっそさんと、猫耳少女のアンニカの冒険を3D環境で描き出し話題になった『ジラフとアンニカ』の斉藤敦士さんはどちらもゲーム開発会社に就職して経験を詰んだ後に独立してゲーム開発で食っている人たちで、経験があるからこその見積もりや見込み、また不安が語られていてまたおもしろい。

まだ環境が整備されているわけではないうえに、インディーゲーム開発は長ければ5年以上かかったりもするので、個人でゲームを開発して食っていく人生を選択することは、かなりの博打要素を含んでいる。それをどう軽減するのかが独立にあたっては重要だ。斎藤さんの方は、会社に勤めている最中にインディーゲームイベントに出していくうちにパブリッシング提案が5社ぐらいからきて、契約金もしくはミニマムギャランティーの話があったので2年位は生活が大丈夫かな、という目算があったからこそ退職に踏み切ることができたという。そのへんの見積もりの立て方というか、ダメだった時の退路を確保してこの道を選ぶのが、インディーゲーム開発を継続的に続けていくためには必要なことだ、というのは本書を通して繰り返されることでもある。

私がちょうど会社を辞めたときって、『ジラフとアンニカ』が50%くらいできていたんです。ちょうどそれくらいの進捗を出している人向けにいうと……みんながみんなこのやり方がいいかはわかんないんですけど、私は「あと2年で完成させる」とまず期限を切ったんです。2年間ぶんのスケジュールと予算を立てたんですよ。50%もできていると、あとはなにが足りなくて、なにを作らなくてはいけないかがある程度わかると思うので、そこを全部細かく書き出しました。誰に頼むかとか、ここにはこれくらいお金がかかるとか、計算して出しました。

一度ゲームをリリースして、ヒットしてお金が入ってきても(『ジラフとアンニカ』も『カニノケンカ』もインディーゲー界隈ではヒットしている方)、次作はどうしようか、という悩みもあるわけで、そのへんの不安も赤裸々に語られている。

現場の知見

対談では、実製作者たちならではの現場の知見が対談に多く盛り込まれているのもおもしろい。元チュンソフトの和尚さんと、『くまのレストラン』などで知られるDaigoさんのスマホゲーム開発者同士の対談では、ワールドワイドで遊んでもらえる可能性のあるゲームの場合、そもそも発展途上国でお金が払うことができなかったりすると広告を見れば最後まで遊べるアプリはすごく喜ばれるし、(ゲーム制作者側としては広告を入れるのは恐怖だが)そもそもユーザも広告モデルに慣れてきているとか。

投げ銭機能を入れても誰も課金しないから、ゲームクリア後にお金を払うことでスタッフロールやクレジットに名前を載せられる仕組みを開発したり、「課金の代わりに広告を(連続で)200回見てくれるなら遊んでもいいよ」システムの導入だったりと、マネタイズに関しての実験的な話が勉強になる。200回も広告なんかみねえだろ、と思いながら読んでいたのだが、そこにまた別のミニゲーム要素を追加することで広告を見るほうへユーザの行動を誘導していたり(具体的な手法は読んでほしい)、それもABテストで実施していたり、経験豊富なゲーム開発者ならではの手順を踏んでいる。

おわりに

他、対談では少人数のゲーム開発会社を立ち上げて制作を行う『グノーシア』の川勝徹さんと『ALTER EGO』の大野真樹さんだったり、フリーランスとして仕事もこなしながらゲーム開発を行う『アンリアルライフ』のhako生活さんと『in:darkインダーク』を出したおづみかんさんの対談だったりと、ゲーム開発を持続的に行い、マネタイズするためにはどうしたらいいのかについて、異なる視点の知見が溢れている。

『グノーシア』は複数人でプレイされる人狼ゲームをひとり用に落とし込んだゲームだが、こうしたチャレンジングなゲーム(データとして需要の確証がとりづらいこと、ひとりで遊ぶ人狼ゲームのデザイン上のノウハウがわからないことなどが参入障壁として挙げられている)を出せることこそがインディーの必要性なんだ、という話も対談中にはあって、「インディーだからこそできること」の観点がまたおもしろかった。

超具体的な本なだけに誰もが必要とする本ではないが、これを読むと個人・小規模ゲーム開発がより身近に感じられるようになるだろう。これからゲーム開発エンジンも発展していくだろうし、インディーゲームはこれからもっとおもしろく、数も増えるに違いない。本書を読んでインディーゲーム開発者が増えてくれれば、一介のゲーマーとしても素晴らしいことだ。

我々の行動のほとんどすべてに関係してくる、税金の機能とその歴史について─『税金の世界史』

この『税金の世界史』は、その書名のまんま、税金の歴史について書かれた一冊である。税金というのは、たしかに言われてみればこれはおもしろいテーマだ。我々は消費税増税が起これば大反対をかまし、増税が実際に行われる前に必要なものは少しでも多く、あるいは高いものは先に買っておこうと行動を変える。タバコ税などもあるが、喫煙者の方は値上げするたびに何ヶ月、何年分を買いだめする人も多いだろう。

選挙においても税をどうするのか、といったのは常に一大トピックのひとつだ。我々一般市民からすれば税金は安ければ安ければありがたいものである。しかし、医療、福祉などにおいて必要があるから集めているわけであって、税をゼロにすることは難しい。であれば、どこまで低くできるのだろうか? また、今の税の徴収の在り方は本当に理にかなっているのか? 本書はそうした税金についての疑問に歴史を通して答え、国家運営の中で税金がどのように機能してきたのかを紹介してみせる。

窓税

昔はこんな変な税があったんだなあ、と、シンプルに税博覧会のように読んでもおもしろい一冊だ。たとえば、1696年、イングランドでは紛争が続いていて税収が必要だった。そのため、新税が導入されることになったのだが、それは「家屋、明かり取りおよび窓税」と呼ばれるものだった。何に課税されているのかといえば、窓である。徴税人は人々の家の外から窓の数を数え、その数に応じて課税額が増えた。

それまでは炉税というものがあり、徴税人は家の中に立ち入って炉がいくつあるかを確認していたが、窓税なら屋内に踏むこむ必要はなく、しかも隠すことも難しい。窓がいっぱいついている家は要するに部屋がいっぱいあってでかい家だから、高い支払い能力があるだろうという推測もそれなりに理にかなっている。だが、一時的にうまくいったとしても長期的にうまくいったわけではなかった。この「窓税」は、税金に関するよくあるエピソードが満載で、格好の教材になってくれる。

たとえば、新税は窓税のように平時よりも何倍もの金が必要になる戦争や紛争を乗り越えるために導入されることが多い。導入時には期間限定であるとか、一回限りであるという但し書きがついているが、そのまま恒久法になってしまう。また、市民はできるかぎり税を逃れようとする。窓税でいえば、市民は家の窓を塞ぎ、家屋は建築時から窓数を減らして建てられるようになる。窓税が政府の期待通りに集まらないと、次に行われるのは窓税の撤廃ではなく、窓税の引き上げが行われる。

一七九七年、ウィリアム・ピット政権時代に窓税がそれまでの三倍に増税されると、ある大工は、本人が議会で証言したところによれば、一本の通りに面したすべての家から依頼され、レンガ、もしくは板で窓を塞いでやったという。

あまりにも馬鹿げているように思えるのだが、税金の歴史にはこうした例が多い。これで税金がっぽがっぽや!! といって作られた新税は思うように機能せず、市民はそれに対して抵抗をする。窓を塞ぐだけならかわいいもので、納得がいかない場合は反対運動、抗議運動が起こるようになり、最終的には革命に至ることになる。

フランス革命、南北戦争

革命のわかりやすい例は1789年からはじまったフランス革命だろう。当時のフランスはヨーロッパ諸国でも1、2を争う重税の国で、所有地の面積によって徴収されるタイユ税、人頭税などがあり、中でも塩は、実質価格の10倍もの値段を払う必要があったという。ワインには5種類もの税金がかけられていたせいで、農民はワインではなくてリンゴ酒を飲んだ。一般市民は参政権がなく、聖職者や貴族は税金を払わずにすませていたので不満をつのらせ、革命が起こるのも当然の状況であった

もう一つ、税金を理由とする印象的な抗議運動としては、アメリカの南北戦争も挙げられる。南北戦争は奴隷制廃止をめぐっての内戦と説明されることが多いが、当時南部州は綿花の栽培で莫大な富を築いており、その税収をめぐる争いが背景にはあった。1816年に国内産業保護のため輸入に高い関税が課せられるようになり、農機具などの商品を輸入するのと引き換えに綿花を輸出していた南部州は打撃を受けた。1828年頃の連邦税収の75%は南部によって支払われ、南部の金は北部に流れた。

南部が不平等感を感じるのは当然で、南部は連邦脱退を主張し始めることになる。戦争に乗り出した理由について、リンカーンは連邦の存続のためだったと口にしているが、それは南部が連邦政府から離れられると税収の大半が失われ、そのうえ貿易ループから他地域は外れることになり、北部は破綻してしまうからだった。『一般的な歴史認識においては、南部州の行動は謗られ、北部州の行動は偉大で立派であると見なされる。だが実際は、南北は経済的利益をめぐって争っていたのである。』

未来

そうした過去の税金をめぐる戦争や紛争の話だけでなく、本書では現代や未来の話も語られている。たとえば、ウーバーイーツに代表されるようなギグワーカーたちの収入からどのように税金を徴収するのか。また、ロボット、AIの発展によって人間の労働者がお払い箱になっていくのであれば、ロボット税が必要になってくるだろう。

仮想通貨への課税方法、3D印刷に対する課税はどこになされるべきなのか、常に事業投資や買収に回し所在地をどこに定めることも可能な業態のおかげで納税額が少なくてすむテクノロジー企業の台頭など、税金に関する課題は山積みだ。歴史をみると、こうした時、国は既存の税の税率を上げたり、新税を作ったりして税収を増大させようとするものだが、それがろくな結果を産まないことも歴史から学べることである。

税を新しく作り、既存の税率を上げるのは簡単だが、下げたり、定着した税を撤廃するのは難しい。だが、歴史をみれば成功しているのはそれができた国である。

大きな政府と小さな政府、権威主義とリバタリアニズム、古い企業慣行と新しい科学技術、税の種類の追加と削減。これら二者間のイデオロギー的闘争はこれからも続くはずである。どちらの側も自分から引くことはない。だが、国民の税負担が小さい国、税制が公平でわかりやすい国は生き残る。

おわりに

本書では最後に「ユートピアの設計」と題して、著者が考える、香港を参考にした最適な税の設計についても書かれている。そこは実際に読んで確かめてもらいたいところ。個人的にはなかなか納得感のある設計で、これで運営してうまくいくかどうかみてみたいな〜と思った(が、国を一から作るぐらいじゃないと難しいだろう)。