基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

注意力を取り戻し、社会に潜むコンテクストを深く理解するための「なにもしない」という方法──『何もしない』

この『何もしない』は、「何もしない」ための行動計画書というか、思索書というか、自己啓発書というか、そんな感じの本である。何もしないなんて簡単だろう、何もしないだけなんだから、と思うかもしれないが、自分や他人の生活を考えて見るに、何もしていないだけの時間というのはほとんど存在しないのではなかろうか。

僕も朝起きた瞬間からとりあえずネットを開いて、なんかおもしろそうなニュースや新しい動画がアップされていないか探してしまう。トイレにいってもスマホを持っているので、わずかなスキマ時間も何かをみたり、読んだり、ゲームをしてしまう。最近はポケモンユナイトがスマホでもリリースされたので、トイレで起動するとうんこが終わっても30分ぐらいトイレに座っていることがある(それはただのアホだが)。

「何もしない」時間は、ほぼない。本書はそうした「何もしない」時間の意味をあらためて問い直すための一冊ではあるのだが、たとえばよくあるような、一時的にインターネットや電子機器から離れたデジタル・デトックスの期間をもうけて、生産性を向上させよう! という本ともまた異なっている。

 私が定義する「何もしない」の重要なポイントは、リフレッシュして仕事に戻ったり、生産性を高めるために備えたりすることではなく、私たちが現在「生産的」だと認識しているものを疑ってかかるということだ。私の主張が反資本主義なのはまぎれもない事実であり、時間、場所、自己、コミュニティを資本主義の観点から捉えるよう促すテクノロジーにたいしてはとりわけ警戒している。

本書は、この引用部にあるように、現行のテクノロジー、中でも我々の注意力を奪う技術への警告の書でもある。FacebookやTwitterやInstagramは、絶え間ない通知や不規則的に更新されるタイムラインによって、我々の限りある資源である注意と注意力、わずかな余暇を奪い取っていく。SNSでは多くのニュースが流れてくるが、その多くはクリックを誘導するために無意味に扇動的・釣り的なもので、不安や怒りを煽り、コンテキストや背景といったものがわからない断片的なものだ。我々はその背景を知ることもないし、そもそも知る必要のない情報にさらされつづけている。

注意力を取り戻す

本書でいうところの「何もしない」とは、目をつむってじっとしているような本当の意味での「何もしない」ではなく、上記のようなSNSや、休日も圧倒的成長! とかいって自己の能力をアップさせたり生産性を向上させるのが素晴らしいことだ! といった生産性至上主義を拒絶し、生産性がないことをやろう! という意味である。

公園にいって鳥をじっくり観察したり、道行く人を眺めてその人生を想像してみたり。それらは生産性が高い行動とはとても思われないが、普段の情報の波と狂騒から頭を離し、目的もなく周囲を観察することで、そこに存在するコンテクストに目がいくようになり、注意はより深くなると著者は語る。たとえば、公園での鳥の観察なら、最初は大雑把に「いろんな鳥がいるな」ぐらいにしか捉えられていなかったのが、カラス、ゴイサギ、ミソサザイモドキがよくいる場所が異なることに気がついたり、いる時間といない時間があることに気がついたりする。

それじゃ「何もしない」人じゃなくてただバードウォッチングが趣味の人になっただけじゃねえか、と思うかもしれないが(僕は思った)、いわんとしているところはわかる。決して「公園にいって鳥をみろ」といっているわけではなくて、SNSやニュースから一歩離れ、無目的に周囲を観察し、音を深く聞け、ということである。そして、それが注意を深くする訓練になるのであって、その部分こそが本書の肝にあたる。

デジタルデトックスなどでよくいわれる、SNSアプリを削除したり使用する時間を制限しよう、というわかりやすい決別をするのではなく、その前段階の準備として、注意をコントロールする力をトレーニングで取り戻すことを求めているのである。

注意を向けるのをやめるという営みは、本来は何よりも先に心のなかでなされるものだ。その場合、必要となるのは、何かときっぱり決別することではなく、継続的なトレーニングだ。

おわりに

注意経済と化し、人間の注意をハックしようと手ぐすね引いている企業が大勢いるこの余白が縮小した世界で、我々は自分の注意力を取り戻し、コンテクストを回復しなければならない──というのが本書では著者の実体験や様々な思想書、哲学、科学書を絡めて語られていくことになる。思索書的なのはそうした側面だ。

全体的にもっともな話だと思ったが、何もしないで公園にいったり散歩をしたりして周囲の音をよくきいたり観察することで本当に注意力は深くなるのか? という疑問は残ったままだった。まあ、これについてはやってみなければわからないだろう。僕自身、失敗を繰り返しながら4年ぐらいのチャレンジの末に、TwitterなどのSNSを観る時間を相当に減らすことに成功しているので、少なくとも「注意力を取り戻すためには継続的なトレーニングが必要である」という面には実体験からは同意したい。

資本主義以外の選択肢を模索する、経済学者・政治家によるSF経済書──『クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』

この『クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』は、『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』などで知られる経済学者にして政治家のヤニス・バルファキスによる、資本主義に代わる制度についての提言を記した書というか、SF経済書というかといった感じの一冊である。

体裁としては完全にSF小説で、物語で中心になる時代は2025年と現代よりも少し先の未来。中心人物であるギリシャに住むコスタは、ユーザーの欲望を読み取り、それを擬似的に(脳内で)体験させる装置であるHALPEVAMと呼ばれるシステムを構築する過程で、偶然にも平行世界の自分と通信を確立することに成功し、自分(同名の人物でややこしくなるので、作中ではコスティ)とのやりとりを開始することになる。

で、このコスティの世界は、我々のよく知る現代とは異なり2008年の世界経済危機にあたって資本主義が打倒された世界であることが判明し、コスタは、資本主義が倒れたあとの世界がどのような仕組みで回っているのかを教えられていく──というのが大まかなストーリー。基本的にはSFギミックを用いてバルファキス構想の「資本主義に代わる選択肢」を語るのがメインであって、あんまり物語が重要な作品ではないのだけれども、他に主に登場人物が二人出てきて、思想信条の異なる彼らが「資本主義に代わる選択肢」は本当にありえるのか? を議論をしていく構成になっている。

正直、本書で提示されていく「資本主義に代わる選択肢」はバカげてるんじゃないかと思う案が多くて経済書的な意味ではいまいちなのだが(経済素人の批判だが)、それはそれとして未来の世界における思考実験としてはおもしろい。また、経済についてのみの提言というよりも、Amazonを代表としたビッグなテクノロジー企業の倒し方、Facebookのような市民のプライバシーを無料で吸い上げて儲けている企業から市民に利益を戻させる方法(現在では監視資本主義と言われる問題への対応である)など現在の社会における様々な問題を取り扱っている点もなかなか楽しめた部分だ。

会社の仕組み

で、具体的にコスティの世界は資本主義が打倒された後どうやって回っているのか。ここは本書の肝の部分で分量も多いので全部紹介するわけではないが、主要なところをいくつか紹介しておくと、まずは会社の仕組み・運営について。

この世界では仕事はフラットな組織によって遂行され、プロジェクトごとにチームを組んで動き、終わったら解散するようなフリーランスの集合体のような動きが推奨されている。抜けるのも自由で、欠員が出たら会社の人事部などを通さずに各プロジェクトチームが採用の募集をかける。組織は構造だけでなく給料もフラットで、総収入の5%は国にいき、残りの95%は固定費、研究開発費、人件費(基本給)、ボーナスの4つの項目に割り振られる。この項目に95%をどう割り振るかは、社員の投票によって決定され、その1票は立場や役職にかかわらず、全員一律に1票である。

給与の仕組み

4つの項目の中で一従業員として重要なのは基本給とボーナスだが、この世界の会社では基本給は同じ組織であればキャリアや成果、職分に関わらず全員一律である。ボーナスは、活躍に応じて配分されるのではなく、社員がそれぞれ持っている100の報奨ポイントを自分以外の他の社員に入れることで決定される。よく頑張ったと周囲に認められ、報奨ポイントが与えられた社員は一番多くのボーナスが支払われるのだ。

また、コスティ世界では株式市場が存在しないので、議決権は完全に平等である。資本主義世界では保有株数に応じて議決権が与えられるのが、これは裕福なものほど多くの株を保持し、議決権を行使し、みずからの利益を追求できることを意味する。だが、このポスト資本主義世界では社員は一人一株しか持てず、自分の株は売買できず、銀行からの融資もありえない(この世界ではリテール銀行、投資銀行は必要ない)。

コスティの世界では対照的に、1人1株だけであり、議決権もひとりひとつだけだ。企業の構成員全員が議決権を行使して、経営計画や事業計画から純収入の配分にいたるまで、戦略的に重要な問題の決定に加わる。

じゃあこの世界では稼ぎはみんな横並びでわずかなボーナスだけ報奨ポイントを稼いで積んでいくしかないってこと? といえば他にも仕組みがある。

この世界では生まれたときから中央銀行に「積立」「相続」「配当」の口座が作られる。「積立」は給与所得用で、「相続」は生まれた時に国からすべての国民に同じ金額が振り込まれる口座。「配当」は全国民に定期的に一律で支払われる事実上のベーシックインカムである。この原資は、企業から徴収する5%からまかなうという。

この世界では税金は(5%の)法人税と土地税だけで、所得税も消費税も存在しない。全市民に対する社会給付は全部この5%の法人税でまかなっていると説明される。財源として足りるとは思えないが、具体的な金額が出てこないので検討もしようがない。

土地

当然だが、土地も個人の所有物ではもはやない。土地の所有権は地元当局に移転され、配分され直す。ただすべての決定権がうつったわけではなくて、土地は「社会ゾーン」と「商業ゾーン」に分かれ、前者は公営住宅と社会的企業が、後者には住宅地であり、ビジネス用の商業スペースで金を払って賃貸を借りることを選択した人々が住める場所である。商業ゾーンの売上が、社会ゾーンの開発や運営式に当てられる。

商業ゾーンの土地を誰が使用できるのかは家賃のオークションによって決定され、高い年間家賃を提示したものが(必要な期間をおいたのち)使用できるようになる。既存の使用者は安い値段を提示すれば安い家賃で住めるが、奪われる可能性があるので、そこでジレンマが発生する。この仕組はおもしろいなと思った(絶対イヤだけど)。

おわりに

本書のほんの一部を紹介してみたが、コスティの世界は僕からみると自由が失われ、その代わりに恩恵もあるんだかないんだかよくわからないシステムに置き換わっているようにしか見えない。たとえば給与が一律で、報奨ポイントでボーナスが決定されるとかサラサラごめんだ。似た制度をとっていたベンチャーのIT企業に所属していたこともあるが、報奨ポイントの割り振りは結局うまくいかなかったし。

職務内容が違うと交流もなく、他人の働きなど直接関わりのある人以外よくわからんし、他者に働きや実績が伝わりづらい仕事がたくさんあり、納得のいく結果にはならなかったのだ。しかも作中ではこの報奨ポイントは転職活動時にも重視され、ずっと記録として付きまとうことも明かされており、そりゃどうなんだとか個々の仕組みに異論をつけはじめたらきりがない。とはいえ本書の中でも、コスティの世界の仕組みについて「嫌悪感を覚えずにはいられなかった」と反論が加わったりすることも多いので、そこが理想郷であり単純に目指すべき場所として描かれているわけでもない。

税金が法人税と土地税しかないのであれば増税などの形で調整できず、インフレにたいしての対応ができないのではないかなど様々な疑問に対しても作中で議論されていくので、この記事だけを読んでこんな制度でうまくいくわけがないと思ったとしても、一度読んで見ることをオススメする。個人的には、このコスティの世界で2008年の経済危機後、どのようにして資本主義の転覆が起こった/起こしたのか、というフィクション部分がけっこうおもしろかった。

温室効果ガス排出量を510億トンからゼロへ、ビル・ゲイツの提言───『地球の未来のため僕が決断したこと:気候大災害は防げる』

この『地球の未来のため僕が決断したこと』は、マイクロソフト創業者にして、世界最大の慈善基金団体であるビル&メリンダ・ゲイツ財団を創設・運営している、イメージ的には永遠不動の世界一の大富豪、ビル・ゲイツの20年ぶりの著作となる。

テーマとしては、気候大災害は防げる、といって現在バリバリに進行している全世界規模の気候変動にたいして、我々は何をしてどう考えていけばいいのか、というものになる。ゲイツは実業家で別に気候科学の研究者でもなんでもないわけだから、ただの金持ちが書いた内容を真に受ける必要があるのか、と疑問に思うかもしれないが、ゲイツの場合財団を立ち上げてから10年以上に渡ってこの問題に最前線から取り組んできたわけであって、その知識量・幅広さは凄まじいものがある。

ゲイツは猛烈な読書家としても知られ、毎年オススメの本を何冊も紹介しており本邦でも話題になるが、そこには常に統計や貧困、気候科学や医療についてのノンフィクションが含まれていて、彼が常に最新の情報を得ることを怠らず、勉強し続けていることがわかる。そのうえ、基本的には「人類と地球の未来のために」やっている行動なので、研究者とは違って特定の分野に縛られることもない。

気候変動を防ぐために有望な分野を片っ端から視野に入れて、投資をするにしても30年、40年後に最大のリターンをあげるのは何なのかと対象を厳しく見定める必要がある。何しろ、金は大量に持っているとはいえ、全人類を救うにはほど遠い金額なのだ。しかもこれまでにないことを可能にしようとしている分野への技術投資は、成果が出るのが20年、30年後といったことが当たり前なので、その最初の投資段階で、実現可能性のあるものなのか、詐欺師のプレゼンなのかを判断する必要がある。

そうした判断を積み重ねてきた(そして実際に彼の投資対象は、時間が経ってみてもおおむね納得しかないものだった)背景では、どのような思考が展開しているのかずっと気になっていたのだが、本書にはその一端が明かされている。

510億からゼロへ

本書の主張はある意味では単純なものである。それは510億からゼロへで、510億とは毎年世界中の大気に増える温室効果ガスのトン数になる。この数字は多少の増減はあれ(たとえば新型コロナが蔓延して人の移動が減ると、連動して減ることもある)おおむね増え続けているから、将来的には対処すべき数字はより増える。

なぜ減らさなければいけないのかといえば、これが間違いなく地球の温暖化に一役かっているからだ。すでに気候変動の影響は日々の気温が明らかに暑くなっていたり、異常気象が増えたりといった形で我々の生活に如実にあらわれているが、ゼロにしなければこの流れが止まらない。もちろん99%削減しても意味ないってことかよといえばそうではないが、ゼロを目指すべきだ、ということだ。

ゼロを達成しなければならない理由は単純だ。温室効果ガスは熱を閉じこめ、地球の地表面平均温度を上昇させる。ガスが多ければ多いほど温度は上がる。また、排出された温室効果ガスは非常に長いあいだ大気中にとどまる。いま排出した二酸化炭素のおよそ五分の一は、一万年後も残っているのだ。

どうやったらゼロを達成できるの?

さて、ではどうやったらその「ゼロ」を達成できるのか? というところが本書の肝の部分である。もちろん太陽光発電や水力、風力発電などの再生エネルギーの話は展開するのだが、それだけではだめだ。太陽はずっと照っているわけではないし、風も吹いたり吹かなかったりする。それ以上に、地球全体でゼロを目指すということは、ある地域ではよくても別の地域では使えない的な事例を極力減らす必要がある。

温室効果ガス削減に関してやり玉に挙げられやすいのは車などの移動・輸送手段だが、実は全世界のうち、輸送手段が占める排出量は16%にすぎない。セメント、鋼鉄、プラスティックなどのものの製造が全体の31%、電気が27%、植物や動物といったものを育てるのに19%と、これらすべての領域をゼロもしくはゼロに近づける必要がある。そのため、太陽光や風力、電気自動車の話をしてそれで終わりではない。これをゼロにするためには、幅広い分野で横断的に改革を入れていく必要があるのだ。

グリーン・プレミアム

普通に考えたら難しいわけだが、ゲイツは可能であるという。その達成のための考え方も実業家らしく合理的だ。彼の考え方、シミュレーションの核になっているのは”グリーン・プレミアム”というもの。これは、温室効果ガスを排出しない手法、たとえば炭素を排出するエネルギー源ではなく太陽光などの再エネを使うなどを使うことによって、どれだけの追加コストがかかるのか、という指標である。

たとえば、アメリカのすべての電力系統を炭素ゼロの電源に置き換えると、平均料金は一キロワット時あたり1.3~1.7セント、およそ15%増で平均的な家庭では一ヶ月あたり18ドルのグリーンプレミアムになる。安い額ではないが、受け入れも不可能ではないといったところか。単純化してしまえば、このグリーンプレミアムがマイナスになれば、その温室効果ガスを使わない手法にみんな殺到するはずなので、それが全分野で達成できれば、政策や人の善意に頼らなくてもゼロが達成できることになる。

そして、このグリーンプレミアムを算出することによって、気候問題解決のために最初に手をつけるべきなのは、グリーンプレミアムが高すぎる領域であることがわかる。たとえば、現在セメントの1トンあたりの平均価格は125$。セメントを作るにはカルシウムが必要で、カルシウムを作るためには石灰石を他の材料と一緒に炉で燃やす必要があり、石灰石には炭素と酸素が含まれているので、二酸化炭素が出る。

この過程は化学的に必要なものでなんとかするのは難しく、セメントの製造コストに炭素回収を加えた際の価格は219$〜300$になる。グリーンプレミアムは100$以上になるので、非常に高いといえる。

原子力

セメントなどの物質製造についで温室効果ガス排出量の多い電気だが、こちらでも単純な再エネの技術革新以外に考えることは多くある。たとえば再エネ重視に舵を切った場合の場所の問題(太陽光などを遠くに運ぶのが難しいので、その場所で使う必要がある)。また、それに伴う送電網の構築をどうするのかという問題や、電気をたくわえておくバッテリーの技術革新についても本書では議論されている。

また、再エネだけにこだわる必要もない。原子力があるからだ。福島第一原発のことを思い出すようにリスクはあるが、原子力発電も技術革新が進んでいて、より安全な形での原子炉は一考の余地がある。ゲイツは原発推進派で、テラパワーと呼ばれる新世代の原子炉に取り組む会社を設立している。ほかの原子力施設で出た廃棄物で動き、攻撃から守るために地下に作られ、事故時も人の介在なしで、物理的に状況が収まるような仕組みなど、この分野でもイノベーションは進められている。

おわりに

本書では他にも、蓄電技術について。セメントを作る際の二酸化炭素排出を抑える方法、牛などが出すメタンの量を減らす方法など、様々な分野での最先端技術とこれから研究が進められていく分野についての紹介が行われている。

さらに、全体を推し進めるためには技術だけではだめで、技術革新と政策、そして市場の3つの動きが連動していなければならない──と、「現実的に人を動かす」ための手法にも言及しており、年老いてなおすごいやつだなあ本当に、と思わずにはいられない。また新しい、未知の技術を楽しそうに語るのが良いんだよね。読みやすい本でもあり、サクッと読めるので地球に住むあらゆる人間にオススメしたい一冊だ。

グーグルやフェイスブックによって、人間性が強奪される未来についての警告──『監視資本主義: 人類の未来を賭けた闘い』

この『監視資本主義』は、ショシャナ・ズボフによって書かれた資本主義と人類文化の未来についてを扱った壮大なテーマの一冊である。壮大なのはテーマだけでなく、本文600ページ超え、注釈で+150ページ、値段6000円超えとあらゆる意味でヘビィ。ファイナンシャル・タイムズのベストブックオブジ・イヤーに選ばれ、netflixでドキュメンタリーも公開されるなど、アメリカでは話題になっている本である。
www.netflix.com
で、話題はともかく監視資本主義って何なのよ、ってことさえわからないままに読み始めたのだけれども、これが想像していたよりももずっと射程の長い話で、おもしろかった。想像していたのはグーグルやフェイスブックのような企業が我々のプライバシーを金に換金している!! みたいな話で、実際、その想像通りの話もしっかり展開するが、本書の肝は、それらのさらに未来に何が起こるのかについてである。

監視資本主義とは何か

監視資本主義とは、僕の言葉でまとめてしまえば人間の経験データを、製品のサービス向上の枠を変えて「強奪」し続ける企業・組織によって駆動される、新しい経済システムである。その筆頭企業として本書で挙げられていくのは、グーグル、フェイスブック、マイクロソフトの3社だ。これらの企業はサービスの利用者のデータの吸い上げに熱心で、そのデータを元に利用者の次の行動を予測し、広告を売りつける。

データの取得範囲は年々広まっており、たとえばAndroidであれば位置データが取得され、というように、Google製品が広まれば広まるほど、またセンサー類が安くなればなるほど、我々の行動データはまんべんなく取得されるようになっている。

別に取得されたっていいじゃねえか。何も失われていないし、それでサービスがよくなるなら、というのがほとんどの人の感覚かもしれない。だが、我々の行動データの吸い上げはサービスの向上「にも」利用されているにすぎない。利益をあげるためには少しでも多くのユーザデータを吸い上げることが重要で、我々が提供するデータはさらにまた多くのデータ、プライバシーを侵害するために利用される。

我々は労働をしているのに賃金を受け取れず、そのことに気づいてすらいない無知な労働者なのだ、というのが本書の中心的な主張の一つである。僕も基本的にこの意見に賛成である。こうした企業はユーザデータを集めるのが自身の収益につながるので、あたかも自分たちのイノベーションは正しく、反対するものは愚かで、データを収集するのはあなたのためだと装うが、ユーザの情報を換金したい詭弁でしかない。

 (……)わたしたちはもはや、価値実現の主体ではない。また、一部の人が言うような、グーグルの「商品」でもない。そうではなく、わたしたちはグーグルの予測工場で原材料を抽出・没収される物にすぎない。わたしたちの行動に関する予測がグーグルの商品であり、それらを買うのは、グーグルの真の顧客である広告主であって、わたしたちではない。わたしたちは他者の目的を達成するための手段なのだ。
 商業資本主義は自然の原材料を商品に変えた。そして監視資本主義は、新たな商品を創出するために、人間性の本質を手に入れようとしている。

そして、本書の主張はそこで終わるわけではなく、「人間性の本質」を手に入れた企業が次に実行するのは、「人間性の収奪」であるという。どういうことかといえば、人間から行動データを吸い上げ、次にどのような行動をとるかを予測できるようになった企業がやることは、人間の行動を誘導することなのである。監視資本主義は発展すると人間の行動を制御するようになり、操られている側はそうと気づくこともなく、個性をはぎとられる。新しい形のディストピアの提示が本書の肝なのだ。

人間性が収奪された世界

たとえば、今では誰かが車のローンの支払いをやめたら、車両監視システムに指示を出して、車を発進できなくさせることが簡単にできるようになった。また、保険会社はこのシステムを使い、顧客が安全運転しているかどうかを確認し、保険契約の継続・料金の上げ下げ、契約の終了といった判断をリアルタイムで下すこともできる。

シートベルトをしめているか、速度、アイドリング時間、ブレーキングやコーナリング。強引な加速に長時間の運転、立入禁止区域への侵入まで、すべてのデータが収集できる。こうしたシステムが車に搭載されたら、当然それは人間の行動に影響が出るだろう。保険料金を上げない、あるいは打ち切られないために、みんな法定速度をおかさず、安全運転を志すかもしれない。それは、素晴らしいことだ、と思うかもしれない。みんながみんな安全運転以外許されなくなったら、事故も減るだろう。

もちろん、事故が減るのは喜ばしいことだが、一方でどこまで事故の減少のために自由を明け渡すべきかはよく考えるべきだろう。また、それは本質的には事故の減少が目的ではなく、保険会社の利益のために行われていることである。たとえば、運転データは安全性のためだけでなく、ユーザの運転特性からターゲティング広告が設定されたり、実在する店などへの誘導に用いられることもあるだろう。ドライバーの行動から吸い上げられたデータは、ドライバーを制御するために用いられるようになる。

こうした行動制御は車に限った話ではない。食べすぎていれば冷蔵庫に鍵をかけることも、テレビをきることも、座りすぎた時は椅子を揺らすこともできる。SNS上では、すでにフェイスブックは、ユーザに見せる投稿の種類をコントロールすることで、投票行動を促したり怒りなどの感情を呼び起こすことができることを実験で明かしている。これは、ひとつひとつは良いことなのかもしれない。投票率はあがり、怒る人間を減らし、食べ過ぎを予防し、健康的な人間を増やせるかもしれない。

だが、その行き着く先は個性と自由の剥奪だ。『今わたしたちは、普及する行動修正のデジタル構造のせいで、基本的な未来に対する権利が脅かされる歴史的瞬間に直面している。』恐ろしいのは、中国に信用スコア制度が導入された時モラルが改善されて国民の多くが喜んだというように、こうした行動制御は間違いなく最初は「良いもの」「素晴らしいもの」として導入されるであろうことだ。

本書ではゲームのポケモンGoも、ユーザに詳細が明かされない「スポンサー付きの場所」が存在し、それでいくら受け取っているなどの情報は明かされていないものの、少なくともスポンサーは、訪問とゲーム行動の報告を受けるとして槍玉にあげている。行動制御は制限などの形だけでなく、ゲーミフィケーションの形を通して「楽しいもの」として用いられることもある。

おわりに

肝の部分を中心に紹介したが、本書では他にもなぜグーグルやフェイスブックといった企業はこうした監視資本主義を推し進めることができたのかを解き明かし(多額を費やしたロビー活動、9.11テロ時の諜報機関との連携、自分たちの立場を支持する研究のための研究者への多額の資金援助)、こうした流れが哲学的・社会学的にどのような研究の中のどこに位置づけられるのかをバラス・スキナーなどを上げながら提示してみせる。これ本筋とは関係なくね?? みたいな話や繰り返しも多く、冗長さも感じさせるところもあるのだが、それがまた熱いパッションを感じさせる一冊だ。

6000円超えの本の値段とページ数、そもそも日本ではこの手の本があまり売れないのでたぶん手に取る人は多くないと思うのだが、重要な本であることはあらためて書いておきたい。

法がおよびづらい、海の無法者たちの世界を暴き出すノンフィクション──『アウトロー・オーシャン:海の「無法地帯」をゆく』

この『アウトロー・オーシャン』は、ニューヨーク・タイムズで記者として働き、本書のもととなった「無法の大洋」と名付けられた一連の記事で数々の賞を受賞したイアン・アービナによる一冊である。海は監視が行き渡らないこと、そもそも法的な空白地帯が広いこともあって、陸地では想像もできないような犯罪行為が平然とまかり通っている。当たり前のように人間が射殺され、給料を支払いたくないために船だけ残して置き去りにする雇い主、事実上の奴隷労働など、これは本当に21世紀なのか?? と思うような悲惨な出来事が、日常のように起こり得る世界である。

著者は、5年ほどの取材期間の間に、7つの海をまたにかけ、日本の捕鯨船に攻撃を加えようと追い回すシーシェパードの船に乗り込み、石油企業と海を守ろうとする研究者らとの戦いを調査し、海上の護衛を担当する荒くれ者共の船に潜り込み──と、海の無法者たちの中に突貫していく。本書は普段日のあたらない海で何が起こっているのかを暴き出すジャーナリズムにして、そこで著者がどのように立ち回ってきたのかも冒険譚でもある。上・下巻の大著で、お値段もけっこうするが、今まで知ることのない世界を知れて、これはたしかに値段に見合うぐらいにおもしろかった。

 何だかんだ言ったところで、結局のところ本書の目的は、めったに眼に触れることにない世界を見せることにある。ギリシアの港からタンカーをこっそりと出港させて領海外に持ち出す債権回収人。メキシコの港から妊婦を内密にこの国の法律が適用されない海に連れ出し、陸では違法とされている人工妊娠中絶を行う女医。南大西洋では国際刑事警察機構(ICPO)に指名手配されている違法操業常習船を追跡し、南氷洋では日本の最後の商業捕鯨線を追い回して妨害活動を展開する、過激な自然保護活動家たち。本書にはそうした人びとを描いている。

シーシェパード

本書で最初に取り上げられていくのはシーシェパードの面々だ。シーシェパードは日本人からすると、捕鯨船を狙って危険な行動を仕掛けてくるほぼテロ集団という認識の人が多いだろうが、その認識はアメリカのジャーナリストの目を通して描写されても大きく変わるわけではない。著者は、取材として世界で最も悪名高い違法操業船として知られる〈サンダー〉を追う、シーシェパードの船に乗り込むことになる。

海上活動を規制する法律は曖昧で、そもそも取り締まる自体に大変なコストがかかるので、国際的に有名だったとしても違法漁船が取り締まられることはあまり多くないという。国際刑事警察機構が国際指名手配している違法操業船は、著者がシェパードの船に乗り込んだ年(2014年)にたった6隻しかなく、何十年も捕まらずに操業を続けているので「六隻の盗賊団(バンディット・シックス)」とやたらと格好良い呼び名がついているらしい。シーシェパードは、こうやって世界から見逃されている犯罪者らを取り締まるためにかなりの費用をかけている。『「無償の賞金稼ぎ」を自任する彼らシーシェパードは、世界の果てにある茫漠とした南氷洋で無法者たちの船を探し回っていた。言うなれば、これは勇敢な自警団と名うての犯罪者の戦いなのだ。』

とはいえ、シーシェパードの行為は適法というわけではない。彼らは他の操業船を追いかけ回して妨害する法的根拠として、国連世界自然憲章には各国の司法権の及ばない地域の自然環境保護はNGOに支援を求めるという条項があり、それに基づいていると答えている。が、これは拡大解釈であり、海事法に詳しい法律家たちからは異議が上がっている。違法漁船相手なら誰も文句をいってこないので、やっているというのが正直なところだろう。彼らはそもそも、目的は手段を正当化すると考えており、犯罪行為を阻止するために法の範囲を超えることを厭わないと発言しているのだ。

犯罪なのか非犯罪なのかはともかく、読んでいておもしろかったのが、そもそもどうやって違法漁船を取り締まるのかである。なんもわからんので、なんとなく接近してスクリューに何かを引っ掛けたりして止めて、1週間ぐらいでかたがつくのかなと素人考えで思っていたのだが、実際には2ヶ月にわたってつけまわし、寝返るように説得するメッセージをボトルに入れて相手の船に投げ入れたり、違法漁船が網を放ったら近づいて切ろうとするみたいな地道な追いかけっこを行っているのである。

目的は手段を正当化するという考え方は最悪という他ないのでシーシェパードに対して好意的な感情を抱くわけではないが、それにしたってやるかやられるかの緊張感の中数ヶ月にわたって海上で追かけっこを続ける執念は凄まじいものがある。娯楽もなく、労働は一日15時間、水の節約のためにシャワーは1日3分と最悪の環境なのだ。よくやるものだ、と感心するほかない。ちなみに、乗組員の約半数が女性で、ほとんどが20代30代の大卒の若者なのだとか。船上生活についても詳しく書かれている。

海で中絶する。

おもしろい話だらけで何を紹介しようか迷うのだが、中でも驚いたのは海上で人工妊娠中絶を請け負う特殊組織の話である。洋上での活動が犯罪にあたるかどうかは、それが実行された位置で決まる。たとえば、陸地から22キロメートルまでがおおよそ領海となるので、その先は船舶の国籍によって適用される法律が決まることになる。

そうすると驚くべきことに、人工妊娠中絶が犯罪行為とされる国の国民であっても、人工妊娠中絶が合法の国の船で海に乗り出し遠く離れれば、実質合法的に処置を行うことができるのである。オランダの医師でNGOウィメン・オブ・ウェーブスの創設者であるホンペルツは、大型ヨットにボランティアの医師たちをのせ、まさにそうした処置を担っている。『女性たちを海に連れ出すことで、彼女自身を含めた医師たちと、女性たちの体の管理に口出しする国家を排除するのだとホンペルツは言う。』

たとえば、ローマ・カトリック教会の勢力が強く人工妊娠中絶は大半の地域で違法とされているメキシコ人女性がこうしたNGOに助けを求めるという。本書で紹介されていく事例は、ほとんどが脱法行為で金を稼ぎたい犯罪者と被害者の実態なわけだけれども、この事例はその中でもまれな、揺るぎない信念のもと海事法の歪みを利用する人々の話である。

おわりに

他にも、密航者たちが陥る悲惨な現実を追った章(大海原の真っ只中に放り込まれて死ぬまで漂流し続けることになることが多く、そうした漂流者には「ラフテッド」という名称までついている)や、雇い主と連絡が途絶え船の上で賃金の支払いもなく置き去りにされる人々の話など、おもしろい話がいっぱいあるのでぜひ読んでみてね。

惜しいのは、調査期間が主に2014〜17年のことで、今は状況が変わっているのではないかと思える部分が多々あることである。たとえばシーシェパードは日本語で検索しても英語で検索しても大した情報が出てこないが、2017年以降は活動がにぶっているようにも見えるし(2017年は日本の捕鯨船に対する妨害活動を諦めている)。犯罪状況も、著者による報道のおかげもあってか改善に向かっているのではないか。普段日の当たらない部分に日を当ててくれた好著だが、次弾も読んでみたいものだ。

寿命が短くなっていく国アメリカで何が起きているのか──『絶望死のアメリカ――資本主義がめざすべきもの』

アメリカでは今、絶望死が増えている。絶望死とは、アルコールや薬物依存による死亡、自殺の死因をまとめたもので、45歳から54歳の白人男女による絶望死は、90年には10万人中30人だったのが、17年には10万人中92人まで増えた。自殺率も、アルコール性疾患による死亡率も、薬物の過剰摂取による死亡率も増加している。

20世紀から21世紀にかけて、食糧事情も改善し医療の発展があったこともあって、死亡率は改善されてきた。アメリカでも、45〜54歳の白人が心臓病で死ぬリスクは、80年代までは年平均4%で落ちていた──が、90年代には2%に鈍化、00年代には1%にまで落ちて、10年代からは逆に上がり始めた。ここでは中年の白人に限定しているが、若年層の絶望死も増えており、さらには(死者の数が明確に増えているのが白人というだけで)、アメリカ人自体の平均寿命が3年連続で低下している(絶望死が増えている理由とは間接的な関係だが、20年は新型コロナの影響で40万人近くが死亡し、1年以上平均寿命が減るとみられている。現在の総死亡者数は47万)。

絶望死の内訳を細かくみていくと、死者が増えているのは4年制の大学に行っていない層であることがわかる。学士号を持たない層では、95年から15年の間に絶望死が10万人あたり37人から137人へと増えているが、学士号を持つ層では、そのリスクはほとんど変わらなかった。45〜54歳の白人死亡率は90年前半から一定を維持してきたが、実は学士号未満の白人は死亡率が25%増加していて、逆に学士号を持つ白人は40%も減少していた。大学進学の有無が絶望死のみならず死亡リスク全般を高めているのは明らかで、そこにはグローバル化による工場などの海外移転、仕事の自動化に伴う低学歴層の仕事の喪失、格差の蔓延など、多くの理由が関係してくる。

しかし、グローバル化や自動化の波を受けているのは、アメリカだけではない。それなのに、アメリカだけでやけに絶望死が増えている理由は存在するのだろうか。本書は、「アメリカだけで絶望死が増えている理由」を様々な側面から解明していこうとする一冊である。著者はノーベル経済学賞をとった、『大脱出』などの著作のあるアンガス・ディートン。アメリカが苦境の中にいるのは様々なノンフィクションや統計データからも見えてくるが、本書は「死亡率」という明確なデータでもって、アメリカ国内に存在する、学士号を持つ者と持たない者の間の断絶が明らかになっていく。

薬物の過剰摂取

絶望死の総数は、17年の時点で約16万人にものぼる。絶望死を構成するのは、アルコール、薬物過剰摂取、自殺の3つだと述べたが、最も多く人を殺し、現在も増えているのが薬物の過剰摂取だ。中でも多くの人を殺しているのはオピオイドで、これはアヘンやモルヒネといった天然の誘導体と同じ特性を持つ合成物であり、アメリカでは90年代後半から、疼痛の管理のために処方箋として莫大な数放出されていた。

17年には1万7029人が処方箋のオピオイドによって亡くなっていて、被害の3分の2は、学士号を持たないアメリカ人の間で起こっている。他の国でもオピオイドは用いられているが、通常は病院でがんや術後の痛みを和らげるために使われるのみで、開業医や歯科医による処方は少なく、慢性的な痛みの長期治療に使われることも多くない。なぜそれがアメリカだけで起こってしまったのかについてもいろいろな理由があるが、軽率に処方し続けた医師の存在、FDAによる穴だらけの承認プロセス、リスクを認識してなお儲けを追求した製薬会社の存在が関係しているとみられている。

医療制度

オピオイドの過剰摂取と関連して語るべきはアメリカの医療制度だ。アメリカはほかのどの国よりも医療に金をかけていて、世界最高クラスの病院や医師が存在するといわれているが、うまく運営されているとは言い難い。たとえば、他の国よりも平均余命が短いのに、医療に対する国民1人あたりの支出は圧倒的に高い。医療費支出が他国と比べて高いスイスと比べてもそれは顕著で、スイス人はアメリカ人よりも5.1年長く生きているが、医療費支出は一人当たり30%低い。アメリカ人は払った金額に相当する医療を受けていないといえるが、それははたしてどこからきているのか。

まず、アメリカで医療費が高くなる要因の一つは医師の給料だ。アメリカにおける医師の数は少なく、医療コスト全体の中で医師が占める割合はそう多くはないとはいえ、アメリカの医師はOECD加盟国の平均的な医師の給料の倍を稼いでいる。薬剤はアメリカでは先進諸国と比べて約3倍高額で、抗コレステロール薬クレストールはアメリカでは毎月86$かかるが、ドイツでは41$、オーストラリアでは9$。リウマチ性関節炎薬のヒュミラはアメリカでは月2505$、ドイツでは1749$、オーストラリアでは1243$。

インスリンも高騰していて、患者によっては月に1000$も払わなければならず(日本では1万円程度)、投薬治療を諦めるものもいるという。なぜこんなに高いのかといえば、インスリン分子の特許そのものはすでに失効しているが、製薬会社は薬剤に改善を加えることで特許期間が20年延長されることを利用して、少しずついじることで特許を維持しつづけている。それだけではなく、患者負担金1$につき製薬会社は2$の税控除が受けられるので、製薬会社は大規模な慈善組織を立ち上げ、患者の負担金を補助することで、薬の値段を釣り上げたままにしているのだ。

他にも、費用のかかる新しい手法や検査が登場するわりに、有効性に怪しいものが多い。イギリスでは規制機関があって、新薬や新手法を評価し、1ポンド費やすごとにどれくらい健康が増進されるのかを推定し、最低水準を満たしているかどうかをチェックするが、アメリカには存在しない。そんなものが存在したら、アメリカでは利益を直接おびやかされるため医療産業がその機関が死ぬまで反対するだろう、という。

コロナ禍におけるアメリカの医療システムの脆弱性と欠陥について書かれたティモシー・スナイダー『アメリカの病:パンデミックが暴く自由と連帯の危機』をはじめとして、医療制度のおかしさを指摘する本は数多く出ている。こうした要素は絶望死の直接的な引き金になっているわけではないものの、高額な医療費による生活の負担増は間接的に人々を死に追いやっているといえるだろう。

おわりに──希望か、絶望か

中毒者を増やすことで利益を増やす製薬会社、ロビー活動に莫大な金をかけることでより金持ちが優遇されていくシステムなど、本書の議論はみな資本主義の失敗について語っている。だが、本書の原題は『絶望の死と資本主義の未来』で、結論でも資本主義は改善していけるし、善をもたらすことができると楽観的に締めている。

未来に期待を持つのはいいんだけど、僕はまったくその論調には乗れなかった。解決策が見えていることと、それを実行に移すことができるかどうかは別問題だ。たとえば著者自身が「イギリスのような医療における薬や手法のチェック機関を作ろうとしても医療産業に潰されるだろう」と書いているように、本書の最後に書かれているような希望(提言として、格差を縮小させるための教育機会の拡大、最低賃金の穏やかな上昇、医療システムの改善、オピオイドの処方をより減らしていくことなどをあげている)を誰も実現できないことが絶望を深くしているのではないのか。

未来に希望が持てるかどうかはともかくとして(僕はただ絶望が深まっただけだ)、アメリカにおける分断が死亡率という明確なデータによって明らかにされていく過程はエキサイティングであった。近刊では、『アメリカの病:パンデミックが暴く自由と連帯の危機』と『ヒトはなぜ自殺するのか』と合わせておすすめしたい。

ヒトはなぜ自殺するのか:死に向かう心の科学

ヒトはなぜ自殺するのか:死に向かう心の科学

東浩紀による自伝的経営奮闘記──『ゲンロン戦記-「知の観客」をつくる』

この『ゲンロン戦記』は、ゲンロンという、SF作家養成や批評家養成スクールを開いたり、批評家や作家や哲学者らの対談イベントを自前のカフェで開いたり配信したりして利益を出している小さな会社を経営していた東浩紀氏の自伝的奮闘記である。経営本であるというと基本的には大成功を収めた人がその華々しい経歴やその経営哲学を語るものだが、本作で描かれていくのは無残な失敗の連続だ。

それも、「それならしょうがねえよな」と同情してしまう失敗、というより理念や理想が先行してそのうえ行動力も伴っているがゆえに実態がまるで追いつかず、「そんなことやっているんですか……」と絶句してしまうような失敗が多。それを真摯に反省し、なんとかしようと奮闘し、また同じような失敗をして落ち込む……という繰り返しが発生している。それでも、少しずつ前に進み『会社の本体は事務にあります』と悟り、最終的にはゲンロンの代表をひき、適度な距離感のもとゲンロンとの新しい向き合い方に至るという、凡庸な敗退、しかし実態としては大きな達成についての話に繋がっていて、これが非常にエモいのだ。

人間は権力や立場を得ると、ミスや間違いを認めなくなる傾向がある。それは損失をより強く恐れるという人間の認知的にもそうだし、一度立場を築いてしまったらミスを認めないダメージも大きくはないのだろう。そういう点でいうと東氏を見ていておもしろいのが、この人はキャリアの初期から明らかに良い立場を築き上げている一方で、ゲンロンに限らずに、比較的に自分の間違いをよく認めているところである。

それも、ただ言葉で認めているだけではなくて、その後の行動が大きく変わるのが見えることから、ああ、その反省は行動にまで影響が及ぼしているのだな、とわかるのだ。完全に他人事で申し訳ないが、はたからみているとそういう人間としてのあり様がとてもおもしろい人、というイメージだったが、本書はその人間としておもしろい部分が凝縮されている。何しろ、本書のまえがきは次のような文章で始まるのだ。

 ゲンロンの10年は、ぼくにとって40代の10年だった。そしてその10年はまちがいの連続だった。ゲンロンがいま存在するのはほんとうは奇跡である。本書にはそのまちがいがたくさん記されている。まがりなりにも会社を10年続け、成長させたのは立派なことだとぼくを評価してくれていたひとは、本書を読み失望するかもしれない。本書に登場するぼくは、おそろしく愚かである。
 ひとは40歳を過ぎても、なおかくも愚かで、まちがい続ける。その事実が、もしかりに少なからぬひとに希望を与えるのだとすれば、ぼくが恥を晒したことにも多少の意味があるだろう。

おそろしく愚か

おそろしく愚かとはどういうことか。たとえば、ゲンロンを創業した2010年、宇野氏、濱野氏、浅子氏、X氏と東氏の5人で新しい時代をつくるために会社をつくろうといっていたのだが、方針で決裂し宇野氏が抜け、創業後には濱野氏が抜けてしまう。あっというまに3人の会社になるも『思想地図β』を刊行しこれが売れた。

ゲンロンは当時取次と契約しておらず、想定を超えて3万部も売れたので多くの資金がこの時点でどっと入ってきた。しかし、これが次の問題に繋がっていく。原稿料も新しい流れを、ということで印税方式を導入していて(破格の15%)、さらに100万だか200万だかをかけて無意味で派手なパーティムービーまで作った。すべては資金ありきだ。ところが、問題の人物X氏はゲンロンの金を勝手に引き出して個人事業所の運転資金に流用しており、いきなり金銭面で大きなもめ事に陥ってしまうのだ。

「いきなりそんな人と出会っちゃってかわいそう」同情したくなるものだが、実態としてはこの使い込みに本人が自白するまで半年以上も気づかなかったわけで、そうした「お金の管理とか、事務とか、面倒くさいことは見たくもない」という態度が大きな問題に繋がっているのである。実際、こうしたお金の勝手な使い込みはこの後も続くのだ。『ところがじっさいには使い込みに半年以上も気づかなかった。こんな鈍感で間抜けな人間が、言論人なんて名乗れるわけがない。新しい出版社をつくると息巻いても、じっさいは面倒なことを大学の事務員や出版社の編集者に押しつけ、見ないふりをしているいままでの知識人たちとたいして変わらなかったわけです。』

地道に生きねばならん。

その後も、売れた思想地図の続編で売上の3分の1を被災地に寄付すると決めたら、純利益じゃなくて売上にしたせいで利益がまったく残らずに会社が傾いたり、社員の頑張りで乗り切ったら疲弊して大量にやめるなど、経営的にはめちゃくちゃである。

本書がおもしろいのは、批評や脚本、小説執筆といった言葉、理屈の世界で生きてきた東氏が、そんなめちゃくちゃな状況から、事務作業やら対面の対話やら、書類の整理といった細々とした面倒なことを「ちゃんとやることが大事なんだ」と自覚していく過程にある。ゲンロン立ち上げ当初はすべてはリモートで完結可能であると思っていたが、それも間違いだった。ファイルはクラウドにおいてもいいが、それだけだと社員は仕事を忘れてしまう。誰かが紙でファイルに入れなければならないのだと。

 そういう作業をするなかで、ついに意識改革が訪れました。「人間はやはり地道に生きねばならん」と。いやいや、笑わないでください。冗談ではなく、本気でそう思ったのです。会社経営とはなにかと。最後の最後にやらなければいけないのは、領収書の打ち込みではないかと。ぼくはようやく心を入れ替えました。そして、ゲンロンを続けるとはそういう覚悟をもつことなのだと悟ったのですね。

そうやって七転八倒しながら経営していく中で、ゲンロンカフェでイベント事業を立ち上げ、3時間でも4時間でも時間を決めずに会話をする中で、コミュニケーションでは思いも寄らない事故が起こる、その「誤配」こそが重要なのだと言って誤配の哲学に繋がったり。我々は誰もが作家やクリエイターといったスター選手になれるわけではない、しかし、作品を楽しく鑑賞して制作者を応援する「観客」になるのもいいのではないか、というコミュニティ作りの哲学に発展していったりといった、大きな流れ、思想も生まれていくことになる。

おわりに

メインストリームにとってかわる価値観、「オルタナティブ」を指向し続けてきた東氏が、ゲンロンというオルタナティブな場を10年なんとか成立させようとしてきた話でもあり、単純な経営奮闘記というよりは、その思想・人生を総括するような一冊になっていて、語り下ろしの軽い新書ながらも抜群におもしろかった。

データからみたジェンダー・ギャップ、無償労働に医療に軍隊にトイレまで──『存在しない女たち:男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く』

この『存在しない女たち』は、英国のジャーナリストでフェミニスト活動家として知られるキャロライン・クリアド=ペレスによる、ジェンダー・ギャップを徹底的にデータでみて、あらゆる領域で解き明かしていこう、という一冊である。ようはフェミニズム本なのだけれども、これが大変におもしろいし、重要な視点を提供してくれる本だ。男女平等と一言でいっても、男女は身体的にも環境的にも異なる存在であり、同じように割り当てればそれで済む話ではない。たとえばトイレの広さとか。

であれば、何をどうすればより公正になるのか。というより、お互いの負担を減らすことができるのか。それを知るためには、まずデータを見て判断し、データが足りないのであれば、そのデータを集めるように働きかけねばならない。本書はデータを中心にして話が進んでいくが、同時に明らかになるのは女性がデータや研究の対象から意図的にしろ意図せずにしろ、除外されている事実である。そうした、データと女性をめぐる状況も含めて、本書は「存在しない女たち」に焦点をあて拾い上げていく。

 データにおけるジェンダー・ギャップは、無視だけの問題ではすまない。こうした無視や格差は、影響をもたらすからだ。その影響は、女性たちの日常に表れる。なかにはささいな問題もあるだろう──たとえば、男性にとっての適温に設定されたオフィスの冷房で震えあがったり、男性の身長を基準につくられた棚の上に手が届かなかったり。そういうのはムカつくし、明らかに不公平だ。だが、命に関わる問題ではない。
 しかし、自動車事故に遭った際、安全装置が女性の体格を考慮していなかったとか、心臓発作の兆候があるにもかかわらず、「非定型的」な症例とみなされて診断が下されないとか、そうなると話は別だ。男性のデータを中心に構築された世界で生きていくのは、女性たちにとって命取りになりかねない。

女性による無償のケア労働

本書で扱われていくテーマは多岐に渡る。たとえば、医療でどれだけ女性の身体のことが無視されているのか。軍隊や工事現場や農場ではなから女性を排除するような器具や装備の設計が行われていることについて。政治、無償労働、ホームレス、トイレな、VR機器など。ただ、そのほとんどに関連している中心的なテーマが3つある。

女性による無償のケア労働、女性の体の問題、男性による女性への暴力がその3つだ。たとえば、女性による無償のケア労働の多さについてはみな認識したことがあるだろう。女性は、老人の介護や子育てなど、直接的に金銭が発生しない無償労働について世界で75%を担っている。無償のケア労働は、高収入国ではGDPの最大50%をしめ、低収入国では80%をしめるとする推計もある。*1推計といっているように、計上されないこれらの労働がどれほど存在しているのか不鮮明なところもある。

こうした無償のケア労働自体が問題ではあるのだが、こうした「見えない労働」を背負わされているがゆえに、女性にはデータにあらわれる世界でのパフォーマンスが発揮しづらく、さらにリスクにさらされている、という連鎖的な問題が発生している。長時間労働やそれに伴う結果が評価される会社で、無償労働を負わされている女性が男性と同様に評価されるのは難しい。出産によるキャリアの一時離脱もある。

意外な関連でいえば、徒歩や公共交通機関で移動するのは、男性よりも女性のほうが多い。フランスでは公共交通機関の3分の2が女性で、アメリカのフィラデルフィアでは64%、シカゴでは62%が女性となっている。これも、女性が無償のケア労働の大半を担っているからだ。高齢の親族を病院へ連れて行く、帰宅途中にスーパーで買い物をする。子供を学校に連れていき、塾や部活があれば送り迎えをしてやる。

ロンドンでは子供を学校まで送るのは女性のほうが男性の3倍多く、移動が多いと当然事故も増える。路面凍結などによる事故は明確に女性が多く、スウェーデン北部最大の都市ウメオにおける歩行者障害の研究では、傷害の79%は冬の数ヶ月に起こり、その中の単独事故の69%は女性がしめていることがわかっている。

小さなデータだが、重要な事実だ。たとえば、スウェーデンのカールスクーガ市では除雪作業はおもな幹線道路から着手し、歩道や自転車レーンは後回しになっていた。スウェーデンの雪は厳しく、先にあげたように歩行事故が多く起こる。それまでのスケジュールを策定した男性たちは、男性の移動パターンを熟知していて、自分たちのニーズに応じて計画を練ったが、実際にはその裏で、意図的にそうしたわけではないにしても女性たちが犠牲になっているのだ。「存在しない女たち」の厄介なところは、意図的に見ないのではなく、意図せず視界に入っていないことがあるのだ。

女性の体

ふたつめのテーマは女性の体だ。たとえばトイレ。女性のほうが男性よりもトイレに2,3倍の時間がかかる。トイレの床面積を男女で同じにすることは、ぱっと見平等にみえる。しかし、女性は無償のケア労働が多いから、子連れや高齢者や障害者を連れていることも多い。さらに生理も考慮に入れると、時間は余計にかかる。状況を考えると、男女に同じ床面積を割り当てるのは平等とはいえないだろう。

男性の体が標準とされ女性の体が考慮されないのは、男性が多い職場ではより顕著になる。イギリス陸軍では、女性は男性よりも筋骨格損傷が7倍多く、股関節および骨盤の疲労骨折は10倍も多い。イギリス空軍の女性兵士が軍の慣行に異議を唱えて法廷で争うまで、イギリス軍の女性兵士たちは男性兵士の歩幅に合わせることを強要されていた。オーストラリア軍では、女性兵士の歩幅を5センチ減らしたところ、骨盤疲労骨折の件数が減少したという結果もある。こうした男女の体を無視したギャップは至るところにある。軍隊でいえば、装備の規格も、そうした事例のひとつだ。

より重要性が高いのは安全性検査や治験などに女性が用いられることが少ないせいで、女性が実際に薬や自動車を使った時に想定どおりのリスク低減にならないことがあることへの調査なのだが、このあたりは要約よりも実際に読んで欲しいところ。

暴力

男性による女性への暴力も大きなテーマだ。女性は立体駐車場、駅のホーム、バス停、駅から家までの徒歩など、男性があまり恐怖を感じない場所で恐怖を感じている(立体駐車場を歩くのが怖いと感じる女性は60%。イギリス運輸省の研究)。それは当然女性の移動の自由の足かせになっている。また、女性に対する性暴力は、報告が少ないこともあってデータが不鮮明な領域だ。それをどう都市設計や、データの収集方法によって解決していくのかがいま、問われている。

おわりに

データとして男女のギャップが見えてくれば、ギャップを解消するために動くこともできるだろう。たとえば、明らかに女性の無償ケア労働は女性の身体的にもキャリア的にもリスクを高めている。無償のケア労働に男性ももっと参画すべきということもあるが、道路、鉄道、水道管、電力供給といったインフラへの投資と同じように、保育や高齢者介護といった社会インフラへの投資も高めるべきだろう。それは子供たちの認知機能向上にも繋がるし、女性の健康と労働環境にもプラスの影響を与える。

1990年代のウィーンの地方自治体による調査によると、女子は10歳以上になると公園や公共の遊び場で遊ぶ人数が有意に減少することがわかった。しかし、公園の設計を見直すと状況は改善された。だだっぴろいオープンスペース一個だった公園を、いくつかの小さなエリアに区分けしたところ、女子の利用率が回復したのだ。ようは、場所争いで女子が男子に勝てず、はなから諦めていたか、追い出されていただけだった。暴力の問題やケア労働も、こうした設計で解決できる領域は広いはず。

目に見えづらいものをしっかりと表に出してくれた、非常に重要な一冊である。

金融から感染症、格差まで、すべては人の繋がり・ネットワークが関係している──『ヒューマン・ネットワーク 人づきあいの経済学』

2020年はひときわネットワークが意識される年だった。インターネットのことではなくて、人と人とのネットワークの話だ。人付き合いが多く、より多く食事に出かける人ほど新型コロナウィルスに感染する可能性が高くなる。この言葉にしてみるとあたりまえすぎる事実が、まざまざと証明され続ける一年だったといえるだろう。

というわけでこの『ヒューマン・ネットワーク』はそうした一見当たり前にみえる人と人との繋がり、ネットワークを科学していこう、という一冊である。たとえば、より多くの人と飲みに行けば感染症にかかりやすいのは当然だが、そのリスクは人付き合いの数にたいして、どのように増えていくのか。我々は文化的、教育的、職業的に似たもの同士で集まりやすい傾向を持っているが、これが社会にどのような効果をもたらしているのか、といったことをネットワークの研究者が解き明かしていく。

影響力について

最初に取り上げられるのは、影響力についての話だ。Twitterで100人のフォロワーよりも1000人フォロワーがいる人の方が拡散しやすいのは誰にでもわかるだろう。だが、実際には情報の伝搬で重要なのは、「たくさん友達がいる人気者」の存在よりも、そのコミュニティに所属する人たちの平均的な友達の数なのだ。

人気者にいくら友達がいてもその先に繋がっていかなかったら意味がない。だから、情報のハブとして重要なのは、当人に何人の友人がいるかではなく、その友人に何人の友人がいるのか、そうした関係性の総数なのである。著者はこうした結論を、村の人たちで連帯債務制をとる小口投資のマイクロファイナンス・システムが小さな村で広がるかどうかの検証を通して導き出している。「友達の友達」がどこまで繋がっているかが重要なのは感染症にも適用できる話なので、これがおもしろいのだ。

「間接的な友だちによるパワー」がいちばん大きい村といちばん小さい村を比べると、マイクロファイナンスへの参加率は前者がおよそ三倍高かった。情報を村内に広めるには、「始まりの種」の友だちにとどまらず、その友だちからその友だち、さらにその友だちへと情報が流れる必要があった。*1

恋愛のネットワークから少数の大量接続ノード(モテモテの人、あるいは奔放な人)を省いたら、巨大コンポーネントから離れるノードが少しは出るだろうが、それでも大きな違いはない。巨大コンポーネントが感染を広める力を持つのは、少数の突出したノードではなく全体的な平均次数なのである。*2

同類性と非移動性

続いておもしろかったのが、同類性と非移動性、それがもたらす格差について。

同類性とは、同じ傾向を持つ人々は集まり、ネットワークを形成しやすいことだ。たとえば、アメリカでは人口の10%以上がアフリカ系なのに、アフリカ系の人と結婚するホワイトは1%以下である。また、60%がホワイトなのに、ホワイトと結婚するアフリカ系の人は5%以下だ。マッチングサイトでの検証では、女性からの初回のコンタクトメッセージは、学歴の似た男性に送る可能性が平均より35%高い。

これはほんの一部で、人種、学歴、職業、文化、同類性が高い人を好む傾向は広くみられる。これは、不思議なことではないだろう。近い文化で育ってきた人の方が話が伝わりやすい。共通の過去や話題があったほうが、話が弾む。だが、こうした同類同士が集まりやすい傾向が続くと、分断されたコミュニティ同士の対立に繋がってくる。ネットワークにはこのような分断を生み出す性質が元々存在する。

この傾向を後押しするのが、非移動性だ。アメリカンドリームが受け入れられていた時代とは違い、今のアメリカは、逆転が起きにくく、自分の将来は親の社会的地位に左右されている。1940年代にアメリカで生まれた子供は、90%以上が親よりも高い所得を得ていたが、これが1980年代になると50%にすぎない。アメリカでは、裕福な親を持つ子供が大学を卒業する割合は、貧しい家庭の子供の2倍半になる。

資本は資本を生み出し、循環している。高い金融資本があれば高い教育を買え、それが人的資本になる。社会関係資本があれば知識と機会に繋がり、さらにそれが人的資本と金融資本につながる。さらに同類性によって、教育や文化が同じ人間同士でつるむようになるので、それがまた分断を生み出す。金融資本も人的資本も社会関係資本も、親から子へと受け渡せるものなので、移動性は減少していく。

じゃあ、強制的に移動させ、付き合うコミュニティを変えてみたら何が起こるのだろう? を試してみた実験がある。この実験は1994年から1998年にかけて、3種類の計4600家族を対象に実施された。3種類の内訳は、1.家賃補助券をもらったが、富裕な地域に移らなければならない、移動する家庭。2.どこでも好きなところで使える補助券をもらった家庭。3.補助券がもらえない対象群の家庭の3種類である。

その結果は、引っ越した家庭が最も大きな効果をあげた。1の家庭で、引っ越した時に3歳以下だった子供は、20代半ばに達した時の収入が、補助券をもらえなかった対象群の子供より3分の1以上高くなっていた。引っ越した子供が大学に進む確率は6分の1高く、子供の誕生時にひとり親になる確率も小さかった。8歳の子供が引っ越したことによる最終的な利益は、生涯収入で30万ドルとみられている。ただ家賃補助を受けた2の家庭は、その多くが補助券を使って家賃を節約するだけで引っ越さなかった。結果として、子供の人生には、引っ越し群ほど大きな効果は及ぼしていない。

はてなの匿名ブログでも、地方で暮らしそこで教育や大学に行くことの価値をまったく知らずに育ったことへの恐怖が語られることがあるが、人は住んでいる地域やコミュニティから大きな影響を受けることが、この結果からはよくわかる。もし子育てをするのであれば、住む地域、属するコミュニティについてはよくよく検討しなければならんと思わせられる事例だ。これは同時に、どのようにして貧困に陥った人々を支援していけばいいのか、という観点からも有益な情報になる。

おわりに

2019年に刊行された本なので、新型コロナに関する言及はないが、どのように感染が広がっていくのか、基本再生産数についてなど、感染症についてならすべてに通用する基本的な考え方が述べられているので、役に立つだろう。他にも、リーマンの倒産を例にあげながら金融独特のネットワークを解説したりと、政治、金融、感染症、と幅広い分野をネットワークの観点から結びつけていく。刺激的な一冊だ。

*1:p50

*2:p91

日々イノベーションが起こっているのに、多くの人が将来に悲観的なのはなぜなのか──『テクノロジーの世界経済史 ビル・ゲイツのパラドックス』

昨今世を賑わしているのは、AIが人間の労働を代替してしまうがゆえに、どんどん人は解雇され仕事につけなくなってしまう、という不安や恐怖である。映画館のチケット発券が今ではほぼ無人化され、スーパーの品物の発注も人間からシステムに切り替わっている状況だから、AIによって(中にはAIじゃなくてただの自動化も多いが)人間の労働が削減されていくのは、実感のレベルでみなわかっていることだろう。

だが、これと同じことは産業革命の時代にも起こっている。機械化された工場が家庭内手工業に取って代わり、中程度の賃金の仕事はどんどんなくなった。工場経営者の資産は増え、逆にそれまで工場で働くためにスキルを最適化させてきたものはそれまでより賃金の劣る仕事につかざるを得なくなったせいで、格差は拡大した。当時の労働者は悪名高いラッダイト運動と呼ばれる機械撲滅運動をはじめ、暴れまわった。

今でこそ我々は産業革命がもたらす利益の大きさを知っているから、ラッダイト運動はそうした流れに反するものであって、間違いだったと捉えそうになる。だが、本当にそうだろうか。本書『テクノロジーの世界経済史』は、そのようにテクノロジーが我々の賃金や国家の経済状態をどのように変化させてきたのか、人々がどのような時に抵抗し、どのような時には受け入れたのかをたどる一冊である。

産業革命後を見れば、我々の生活・労働環境は随分と向上し、消えた仕事は新しくまた別のスキルを必要とする仕事として生まれ変わっただけだった。つまり、すばらしいことしかなかったように思える。だが──そうした転換は2、3年といった月日で成し遂げられたことではない。新しい職業、スキルの誕生には数十年の移行期間が必要で、産業革命が始まった頃に失業した人はただ賃金が下がり格差が広がっただけだった。つまり、その時生きていた人たちの多くは本当に苦しんでいたのだ。

ビル・ゲイツのパラドックス

ビル・ゲイツは、2012年に、イノベーションがこれまでにないペースで次々に出現しているのに、アメリカ人は将来についてますます悲観的になっている、これは現代のパラドックスだと語った。ビュー・リサーチ・センターの調査によると、子供時代の方が自分たちより裕福になると信じているアメリカ人は、全体の3分の1を少し上回る程度だそうで、その発言を裏付けている。だが、今起こっているのは産業革命と同じことであり、ゲイツのパラドックスはパラドックスでもなんでもない。

産業革命初期に、イギリス市民の生活水準はいっこうに向上しないどころか押し下げられた。確かに生産性は上がったが、ふつうの人々に進歩の利益が入ってくるまでに70年の月日がかかったのである。今、同じことが起こっている。労働は効率化され、人間がシステムに置き換えられ、転職しようにも元の職よりも賃金の劣る職にしかつくことができず、格差は増大している。『新しい発明によって新しい仕事が生まれるのはけっこうなことだが、それは「別の誰か」の仕事だ。』

自動化やグローバル化の影響で製造業の仕事のなくなった地域では、失業率が上昇する。税収が乏しくなれば公的サービスが縮小されるため、犯罪が増え、健康状態は悪化する。飲酒に起因する肝臓系の疾患や自殺などで死亡率が上昇する。婚姻率は低下し、片親家庭で育つ子供が増える。こうした子供の将来の見通しは暗い。中所得の仕事がなくなってしまった地域では社会的移動性が大幅に低下し、上の階層へ上がる見込みはまずない。そうなると、人々はポピュリスト政治家に投票するようになる。アメリカでもヨーロッパでも、自動化が進む地域ほどポピュリズムへの傾倒が強まっていることを多くの調査が示している。産業革命のときと同じで、テクノロジー敗者は変化を要求するのである。

将来的──60年、70年経った時に、また新しい職業とスキルが生まれて移行していくのかもしれないし、今回に関しては、それがない可能性もある。だが、長期的にはどうあれ、短期的に現代の労働者が苦しい状況におかれているのは事実なのだ。そんな状況では、将来について楽観的でいることは難しい。

技術への反抗と産業革命

本書では、技術を労働補完型と労働置換型に分けて説明している。労働補完型はその名の通りで、労働を補助し、楽にしてくれたり新しいことを可能にしてくれる技術のことだ。たとえば望遠鏡ができたことで我々はより遠くが見れるようになったが、それは誰の労働も置換していない。一方で、自動織機はそれを今まで手でやっていた労働者から仕事を奪い去る。あるいは、よりスキルの低い労働者でも可能にする。

読んでいておもしろかったのが、ラッダイト以前にも労働者は労働置換型の技術にキレて暴動を起こしまくっていて、政府はそれを受け入れて禁止せざるを得なかった時代が長く続いていたところにある。では、なぜ産業革命はイギリスで達成できたのか、と気になるところだが、その仮説の一つに「ようやくその時代のイギリスでは、産業革命による利益がコストを上回るようになったから」というのがある。

ようは、労働置換型技術は人間の労働を置換するわけなので、労働に比べて資本が相対的に安くないと経済的に意味をなさない。当時、イギリスではペストが蔓延していて、長期にわたる人口減、労働力不足を引き起こし、労働者が交渉力を持つようになっていた。賃金交渉をしだすと当然労働者のコストは高くなり、それが結果的に産業革命への舵をきらせたというのである。今では当時のイギリス人の給料はそこまで高くなかったのではないかというデータもあるが、なかなか魅力的な説だ。

中間層が減少し、格差が増大し分断された現代

産業革命、第二次産業革命を経て19〜20世紀に急速に普及したテクノロジーは、その多くが労働補完型で、新しい仕事を生み出し、大きな抵抗にはあわなかった。たとえば、自動車、トラック、トラクターは馬の仕事を奪ったが、自動車の運転や修理・保守といった仕事が増え、さらに産業革命を経てしばらく経ち、工場の規模が広がると、管理職や事務職が必要になって、中所得のホワイトカラーの仕事は増え続けた。

今は、その時生まれた中間層が、減少に転じている。アメリカでは1979年以降、労働生産性は時給の8倍のペースで上昇しているが、実質賃金は停滞し、失業者は増え、企業の生産した価値のうちどれだけが労働者に還元されているかを示す労働分配率も減っている。2017年に国際通貨基金は、先進国で業務の定型化の第一波が労働分配率低下の最大の原因となったと指摘しているが、この流れは止まらないだろう。それはポピュリズムの台頭に繋がり(自動化が進む地域ほどポピュリズムへの傾倒が強まっていることを多くの調査が示している)、政治の分断にも繋がっている。

今後、自動化されるリスクが高く働いている人も多い職種には、事務サポート、輸送、物流、調理、小売が挙げられる。これらの仕事に従事しているアメリカ人は多く、47%にも及ぶ。その仕事を追われたとして、すぐにエンジニアに転職できるわけでもなし。残された他の仕事も、代替されにくいのは清掃員や介護福祉士など、賃金が高いとはいえない仕事で、それ以外も代替されないために複雑な認知スキルを必要とするものになってきていて、しんどそうだなあという感想だけが残る。

おわりに

本書は別に未来を予測したり解決策(こっちは最後に少し述べられているけど)を提示する本ではないので、ほぼ現在の状況把握で終わるが、いま、どういう状況で過去の類似したケースから学べることは一通り網羅されているので、興味のある人は手にとってもらいたい。少なくとも、中間層の苦境は続くのは間違いがない。

財政赤字は、新型コロナ危機を脱する唯一の道という現代貨幣理論の理屈──『財政赤字の神話 MMTと国民のための経済の誕生』

この『財政赤字の神話』は、アメリカの経済学者でMMT(現代貨幣理論)の第一人者、民主党のチーフエコノミストやバーニー・サンダース上院議員の政策顧問を務めるステファニー・ケルトンによるMMTの理屈について書かれた一冊である。

MMTは近年、世界を騒がしているが、その第一人者の本ということでたいへん楽しみに読んだ。MMTの提唱・仮説はかなり大規模なものが含まれていて、正しさが経済の門外漢の僕にはよくわからない部分が多い(大規模な形で実践されていないのだから、経済学者にだってわからんだろうし、意見も割れまくっているが)。が、本書にはどのような考えでMMTが成り立っているのかが網羅的に書かれていて、少なくともその理屈に関しては、非常にわかりやすく、かつシンプルなものだ。

本書には日本向けの序文として「「財政赤字」こそ、コロナショックを脱する唯一の道である」と題された7ページほどの提言も含まれている他、日本の国債発行残高が非常に大きいこと、また高いレベルの「通貨主権」を持つ国家の一つであることから、本文中にも日本および日本銀行への言及は多い。

財政赤字でどうやってコロナショックを??

MMTを知らないと「財政赤字」でコロナショックを脱するってどういうこと?? と疑問に思うだろうけれど、MMTが示しているのは「通貨主権を持つ国はいくらでも貨幣を自国で刷れるのだから、借金の問題はない」ということだ。家計なら借金を抱えているならどこか別のところから借りてくるか、働いて得たお金で返さねばならない。だが、国は足りない分をいくらでも充填できるのだから、家計とは違う。

実際、日本は課税によって吸い上げる金額よりも支出する金額が多く、こうした状況にたいして「財政赤字」を出した、と言われる。それは将来の借金であって、その数が100、200兆円、と増えていったら最後、未来の世代が返済しないといけないのだと。だが、MMTによれば、日本は通貨を発行できるのだから問題ない。本書で触れられている経済学者のエリック・ロナガンは、思考実験として、2012年に日本国債の残高700兆円を即時にマネタイズ、償還したらどうなるのかと問いかけている。

何をするのかというと、日銀が貨幣を創造して、日本国債の残高をすべて買い入れるのだ。その時何が起こるのか、インフレか、経済破綻か。だが、『ロナガンの見立てでは「日本国債の残高を100%マネタイズしたところで何も変わらない」』。日本国債と現金を交換しても、民間の純資産には何も変化がない。国債で持っていたものが現金になるだけ。逆に国債分の利子がつかずに金利収入を失うので、総資産は変わらず、金利収入は減少するので、物価は上がるどころか下がるだろう、としている。つまり、日銀がちょっとパソコンをいじるだけで、一夜にして日本の債務は消える。

こうしたMMT的観点からみると、国債発行による借金、財政赤字は問題ないどころか、むしろ今求められているのは積極的な財政赤字による財政刺激なのだ、となる。

 政府の対策はすでにやりすぎだ、という声も出てくるだろう。政府は何十年も巨額の赤字を出し続け、債務を膨らませてきた。そのうえさらに支出を増やせば、危険な状態が一段と悪化する、と。そうした主張は誤っている。
 財政赤字は、危機を脱する唯一の道だ。

これは、現状ほとんどの経済運営で言われている、国の借金は持続不可能な増え方をしていて、社会保障費も増大する一方の現状、国の財政状態に対する市場の信頼が失われれば金利の急騰や場合によっては政府のデフォルトもありえる、だからこそ増税が必要なのだという理屈に真っ向から反対するものだ。

逆に、このような時期に財政赤字を抑えようと増税を重ねると、貯蓄傾向になり、消費は冷え込み、売上は急減し、経済はマイナス成長に陥ってデフレはひどくなる。莫大な量の貨幣を流通させ続ければいずれインフレになるわけだが、MMTではそこについては注意が必要だ、といって、そのコントロール方法についても触れている。

財政赤字に関する6つの神話

本書では、財政赤字にまつわる6つの神話を紹介しながら、それがいかに間違っているのかと問いかけていく。たとえば、第一章では、政府の収支は家計と同じように考えるべきで、借りたものは返さなくてはいけないという神話について。これは、すでに何度も書いたが、アメリカや日本のような国はドルや円を生み出せるのだから、同じではない。金が足りなければ刷ればいいだけの話で、破産することは絶対にない。

いくらでも金を刷れるなら税金など必要ないのではないか、という疑問が当然湧いてくる。一円も徴収せず、必要な分は刷ってくれよ、という話だ。これについては、MMTはいくつかの税金が必要な理由を説明してみせる。たとえば、税金があってそれを払わないと罰せられるので、働くし生産する。もちろん、金が供給され続ければインフレになるから、税金を上げたり下げたりすることはインフレの調整になる。また、税金は格差を是正する協力な手段であり、税金を徴収することで国民の行動をある程度コントロールできる(タバコ税を引き上げてタバコから離れさせたり)。

第二章では、財政赤字は過剰な支出の証拠であるという神話にたいして、過剰な支出の証拠はインフレであって財政赤字ではないという現実を。第三章では、国民はみな何らかのかたちで国家の債務を負担しなければならない、という神話にたいして、国家の債務は国民に負担を課すものではないという現実を──と、神話の解体が続いていく。重要なのは、財政赤字や財政の均衡ではなく、その金で世の中がよくなること、モノやサービスが円滑に提供され続けることだ、というが、それはそうだろう。

おわりに

MMTに関連して本書で提言されている政策の一つに政府による「就業保証プログラム(JGP)」があり、数百万、場合によっては1000万超えの非自発的失業者を公共サービスの仕事で雇え、といっていてそれはブルシット・ジョブまっしぐらじゃねえのかなとか思うところはあるが、参考文献などは読んでないので何とも言い難い。*1
www.bloomberg.co.jp
日本がMMTを実践するかどうかだが、黒田日銀総裁はMMTにたいしてかなり批判的な立場であることがたびたび表明されているし、そうした見解は麻生大臣も同様のようだ。『アメリカで、一部の国会議員が強硬に主張されている。政府債務残高はどれだけあっても問題ないんだという話ですが、これを実行した国は一つもありませんので、その意味では、私どもとして、この実験を日本でやって、日本の金融マーケットを修羅場にするつもりは全くありません。』(下記リンクより引用)
aoyama-masayuki.com
どちらにせよMMTが絡む議論は大きく、仮説も含んでいるので、これをそっくりそのまま一から十まで信用して実行するというのはありえないだろう。昨年MMTについての本も刊行された、経済学者の井上智洋氏が本書の解説を書いているが、MMT全肯定というわけではなく、その事実部と仮説部を切り離して捉えてくれている。

政府の借金が1000兆円を超える日本ではまだまだこの議論は盛り上がっていくだろう。一冊読んでおくと見通しがよくなるはずだ

なぜ、無意味な仕事ばかり増えているのか?──『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』

この『ブルシット・ジョブ』は、文化人類学者であるデヴィッド・グレーバーによる「クソどうでもいい仕事」についての理論である。「クソどうでもいい仕事」とはなにかといえば、文字通りとしかいいようがないのだけれども、「その仕事に従事している人がいなくなっても誰も何も困らないような無意味な仕事」のことである。

原書で刊行された時から日本でも大変に話題になっていた一冊で、楽しみに読み始めたのだけど、これがとにかくおもしろい! 確かに世の中にはブルシット・ジョブとしか言いようがないくだらない仕事が溢れているように見える。それがどれほどありふれているのか、またどのようなタイプのブルシット・ジョブが存在するのか。また、仮にこれが近年さらに増大を続けているとしたら、それはなぜなのか。それはひょっとしたら必要なものなのか。はたまた不必要で、今後なくすべきものなのか。

無意味だと感じている人が多い業界の賃金が高く、実質的な価値をもたらす教員や介護や掃除人のような職種の人々の給料が低いのはなぜなのか。ブルシット・ジョブは、社会にどのような影響を与えるのか。人間の時間の売却が可能であるという考えが生まれたのかなど、仕事観の変遷を含めて丹念にたどり直していて、(たとえ自分はそうした仕事についていないと思ったとしても)読むと得るものがあるはずだ。

この「実は大多数の人が自分の仕事を無意味だと感じているのではないか?」というブルシット・ジョブ理論については、著者自身により2013年web雑誌に小論として発表され、大きな反響を巻き起こし、その後、いくつかの追加調査が起こった。そのうちのひとつ、イギリスでの世論調査によれば、「あなたの仕事は世の中に意味のある貢献をしていると思いますか?」という質問に対して、3分の1以上、37%もの人が「していない」と回答した。していると回答したのは50%だった。

ブルシット・ジョブとは?

具体的にブルシット・ジョブについて触れてみよう。たとえば一度スペインの公務員が勤務先のカディス水道局から罰金3万ドルが科された事件が起こった。彼は永年勤続表彰を受賞したのだが、その際に6年に渡って職場に不在だったことが判明したのである。ニュースによるとその公務員は途中からスピノザの著作の研究に没頭するようになり、専門家になっていた。無論サボってたので罪は罪だが、そもそもそれだけの期間に渡って仕事してないのがばれない仕事ってなんなのよという話である。

似たような例は世に溢れている。仕事をしているフリだけの仕事であったり、完全に無意味な物を動かす仕事など。たとえば、ドイツ軍で兵士Aが二つ離れた隣の部屋に移るとする。その時、自分のパソコンを普通に運ぶことはできず、書類を記入する必要がある。書類をIT企業が受け取ったら社員が書類をチェック、承認されたら書類が物流会社に転送。そうしたら物流会社が部屋の移転を承認し、人材管理会社に業務を要請。そこの会社の人間がえっちらおっちらやってきて、パソコンを取り外し、二つ離れた隣の部屋に移動させる。『こんな感じで、その兵士が自分でパソコンを五メートル運ぶかわりに、二人の人間が合わせて六時間から一〇時間も運転して、書類を十五枚も埋めて、四〇〇ユーロという額の血税が浪費されているわけです。』

最終的な実用的定義=ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人はそうではないと取り繕わなければならないように感じている。

こうした定義が、本書ではブルシット・ジョブとして用いられている。

僕が従事したブルシット・ジョブ

本書を読んでいて、僕自身も新卒の頃ブルシット・ジョブに従事していた記憶が蘇ってきた。プログラマとして大企業の社員の仕事の総合管理システム(わざとぼやかしてます)の保守運用として一次請けで働いていたのだけれども、とにかく仕事がない。もう10年近く運用されているシステムで改修などないし、たまに画面からとれないデータを裏でSQLで取ってCSVで提供するぐらいで、一週間のうちの労働時間は1時間だか2時間だか。そんな仕事を、1人ならまだしも4人がかりでやっていたのだ。

楽でいいじゃんと思うかもしれないが、意味なく8時間椅子に座っていなければいけないのは凄まじいストレスだ。こちらは下請けとして「仕事を振ってもらっている」立場であり、かつ客先常駐の仕事なので、暇だわ〜〜という態度をとることもできない。仕事はないのに、忙しくしている必要がある。娯楽系のサイトはたいていブロックされている。僕が編み出したのは、小説家になろうのサイトを開いて、ただしその画面をずっと見ているとサボっているのがバレるので、テキストをコピーしてエクセルの1マスに貼り付けて、画面をスクロールして意味のある部分を見ているように見せかけながら、エクセル上部に出てくるテキストを読むという技だった。

これは、8時間「演技」を強いられいるわけで、ストレスが半端ない。結局、その会社のエレベータに乗った時、頭上の監視カメラ映像で自分が頭頂部から禿げ始めていることに気づいて、やめることになった(その後ハゲはなおった)。本書では、働いているフリをすることがストレスフルなのは、自分がまるごと他者の権力下にあることを嫌でも意識させられるからであるといっているが、確かにそうだ。とにかく、きつい。もちろん、こうした仕事につくことが必ずしも悪いものとは限らないが。

なぜそんなに無意味な仕事が増えているのか?

しかしなぜブルシット・ジョブが増えてきているのだろう? これには、いくつかの理由が述べられている。たとえば、オバマ前大統領は選挙の民意に抗って利潤追求型の健康保険制度の維持を選んだが、理由を問われたインタビューで、「「単一支払者制度による医療制度に移行すると、保険やペーパーワークの非効率が改善されるのだ」というけれど、そんなことをしたら保険会社で職に就いている100万、200万、300万人の仕事がなくなってしまう。この人達はどこで働けばいいのか?」(意訳)

と答えている。ようは、ブルシット・ジョブが存在するのは「雇用のための雇用」を権力が求めているから、ということになる。「雇用が存在すること」が正義であり、効率などどうでもよいのだ。『というわけで、当時、世界で最も力を持っていた人間が、おのれの目玉となる政策をふり返りながら、その政策の形成にあたって重要となった要因は、ブルシット・ジョブの維持であると公然と語っているのである。』

また、金融産業の需要の高まり(金融産業がブルシット・ジョブの典型例であること)がブルシット・ジョブの増大につながっていること。自動化は実際には大量の失業を生み出していて、我々はそれに対して効果的な仕事もどきを作り出すことでそうした亀裂を埋めてきたこと。また、自動化は特定の作業をより効率的にするが、同時に別の作業の効率を下げ、コンピュータが認識できるような形式へ転換するために必要な膨大な人間労働がブルシット・ジョブに繋がりやすいことなど、様々な仮説が述べられていく(データが伴うものもあれば、単なる推測もある)。

おわりに

もし40%近くが無意味な仕事だとしたら、そうした仕事を消し去ったら、我々は余暇に溢れた社会、週20時間労働の社会に移行することもできるかもしれない。

ざっと紹介してみたが、これでも本書の一部である。他にも、「そもそもブルシット・ジョブってめちゃくちゃ主観的な定義じゃん」というツッコミに対する防御や、仕事によって受け取る社会的便益の大きい、教員や保育士などといった職種の得られる賃金が異常に低くて金融コンサルタントなどの賃金が高い理由について*1など、おもしろい論点が多数含まれているので、気になる人は是非手にとってもらいたい。

*1:「教員や保育士の給料低い問題」について少しだけ触れておくと、一つに、社会的に尊厳の得られるような仕事をする職種の人間が金目当てであってはならないという道徳観があるからだ(金目当ての教師に子供を預けられるか、という話である)。