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過去の科学者に現代の基準でマジレスする──『科学の発見』

科学の発見

科学の発見

  • 作者: スティーヴンワインバーグ,大栗博司,Steven Weinberg,赤根洋子
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2016/05/14
  • メディア: 単行本
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これはまたけっこうヘンテコな──というか、あまりないタイプの科学史ノンフィクションである。たとえば──紀元前、デモクリトスやらタレスやらゼノンやらの時代の人々がいっていた「世界を説明する記述」にたいして「もちろんゼノンの論法は間違っている。」とマジレスしながら科学史を辿り直していく一冊なのだ。

間違っていることなんか現代では誰もが知っているのだから(そしてその一部に真実をかすめている部分があればすげーともなるわけだが)それをわざわざ指摘してどうするんだとこっちがマジレスしたくなるが、これが読んでみるとたしかになんでわざわざそんな野暮なことをやらなければならないのかの意味はよくわかる。

どういうことかといえば、本書でワインバーグが取り上げていくのは、いわゆる「科学的方法」が生まれてゆく過程である。たとえば『特筆すべきは、パルメニデスやゼノンの論法が誤っている点ではなくむしろ、「運動が不可能であるなら、なぜ物体は動いているように見えるのか」を彼らが説明しようとしていない点である。』と批判しているが、「間違っているから問題だ」と言っているわけではなく、「自分の理論を確かめ検証していく実証的な観点を持っているか否か」を問うているのである。

現代科学のある重要な特徴が、これまで言及してきたタレスからプラトンに至る思想家にはほぼ完璧に欠けている。彼らのうちの誰も、自分の理論を確かめようとしていないのである。

特に紀元前について手厳しい言葉が並ぶが、単純にそれを知的怠慢だと片付けるわけでもない。当時の文化は見かけ上の世界理解を重視してはいなかったわけだから、ギリシャ時代の科学者はいわばただの詩人であってそこを攻めてもしょうがないと譲歩の姿勢もみせる。紀元前から遡って「なぜ彼らは現代に通じる科学的手法をつかえなかったんだろう」と文化的な背景まで含め問いかけ、「現代的な科学の方法はいつどのようにして生まれてきたのか」と仔細検討していくのが本書の価値なのだ。

もともと本書は著者がテキサス大学で行った科学史広義のノートを元にしており、それゆえ紀元前からおおよそニュートンまでの理論が、ややこしい数式などは抜きに的確に説明されているのでその部分のみに注目しみても有益な一冊である。ただ、やはりこのような「現代の基準で過去を裁く」史観は歴史学の研究では禁じ手とされているもので相当な批判と論争を巻き起こしたようだ。

たしかに歴史を振り返ってただ「アリストテレスバーカwwww」と言うだけなら何の価値も生まないだろう。そこで本書が行っているのは、なぜ当時の彼らは天動説を支持してしまったのか、それは科学的な方法が欠けていたからなのか当時の観測データでは支持するのも仕方がなかったのかどうかと問いかけたり、いったい歴史上どの時点で実証的な実験や観測の手段が生まれ、受け継がれていったのかを検証することである。それにはこのやり方が最適かどうかまではしらないが、とにかく妥当性は大いにあると読み終えた今では(あと大栗博司さんの解説を読んで)思う。

本書では宗教や哲学と密接に結びついていた科学から、実証的な手法を用いた科学へと展開していったのは17世紀あたりの科学革命期以後だとしている。古代ギリシャ時代にもプトレマイオスなどは現代科学的な手法を使っていたが、そこから考えても「定着」するために2000年以上の時間がかかっており、「今では当たり前のように使っている実証的な手法は最初からあったものではなく、長年の時間をかけて構築してきたものなんだなあ」という成立していく過程が一冊で見渡せるのがおもしろい。

とはいえ時間をかければ生まれるってものでもなさそうではある。宇宙に行けるほど科学技術が発展し、実際に行くとなると新たな、より正確なモデルが必要とされるように(事故っちゃうしね)必要は成功の母というか、「科学革命が起こるためにも、状況が整う必要があったのではないか」などいろいろ想像も広がっていく。

おわりに

解説の手法としてはユニークでありながら内容としては真っ当な科学史解説でもありとスタンダードさもかね合わせた一冊だ。読み終えることで、「現代の科学的手法の価値」を再確認し、いったいなにがその進歩を妨げてきたのかを反省し再度の悲劇を起こさないように思考できるようになるだろう。ちっとマジレスがすぎる部分が冗長に感じられるが、全体的にはなかなかの良書だ。