基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

"現実劇場"──『リトル・ドラマー・ガール(上・下)』

リトル・ドラマー・ガール〔上〕 (ハヤカワ文庫NV)

リトル・ドラマー・ガール〔上〕 (ハヤカワ文庫NV)

リトル・ドラマー・ガール〔下〕 (ハヤカワ文庫NV)

リトル・ドラマー・ガール〔下〕 (ハヤカワ文庫NV)

スパイ小説の巨匠ジョン・ル・カレによる小説である。元々英国情報部の一員であり大使館の書記官でありスパイ小説を書き始めてしまうという時点で凄いが、その上息子はニック・ハーカウェイの名で小説やノンフィクション作品を発表しているのだからてんこ盛りな人間である。ちなみに息子の作品も傑作である。huyukiitoichi.hatenadiary.jp
『リトル・ドラマー・ガール』の紹介に戻るが、本書もまたスパイ小説だ。物語の冒頭に語られるのは、ヨーロッパ各地で起こるユダヤ人を目的としたアラブ系の爆発テロ事件。対抗するのはイスラエルの情報機関で、彼らは自分たちの作戦に一人のイギリス人女優チャーリィを起用することを思いつく。彼女の演技力とその経歴によって、ある人物になりすまし、敵組織への潜入捜査を目的として──。

このようにして書名であるドラマー・ガールの意味は早々に明らかになる。なんでイスラエルの情報機関がスパイでも何でもないただの女優をスパイに仕立てあげなければならないのかなどかなり強引なところはあるのだが、素人をスパイへと仕立てあげるための「演技」を特訓する日々、一度潜入したあと、直接的なバックアップはほぼナシで敵地にて自分を偽り続けなければならないギリギリの緊張感を通して描く「現実と虚構の境目がなくなっていく」ことの恐怖とジレンマは一級品だ。

序文にて大勢のパレスチナ人、イスラエルの現役体液士官多数から助言と協力を受けたことへの感謝が述べられているが、そうした普通の作家ではありえないようなフォローを受けただけあって勢力間の複雑な均衡、パワーバランスの描き方もまた見事である。ジョン・ル・カレの小説は割合ゆったりとしていて回りくどいとする感想が出てくることが多いが、一つには中東あたりの問題が民族・宗教・政治・経済と様々な問題がからみ合っていて、面倒くさいことも関係しているのだろう。それとは無関係に展開はやたらともっさりしていて特に序盤は退屈なのだが。

何しろ上巻はリトル・ドラマー・ガールであるチャーリィを情報機関があくどいやり方でスカウトしてきて、訓練しているだけなのだから。だが、この訓練の過程などに恐らく助力が活かされているのだろう。潜入任務に挑む際の訓練はどのように行われるのか? 全く異なる人間を演じるために、どのような準備が必要なのか? チャーリィと情報機関の面々は様々なパターン、経緯を想定し、一つ一つ「この場合は、こう反応する」とプランを綿密に練り上げていく。架空の経験を持った全く別人となるために、架空の経験を座学で叩き込むのではなく実際に体験し、自分がした反応を覚えこむことによって『先の現実にあたらしいフィクションを重ね』あわせていく。

「わたしをミシェルと覚えてくれ。ミシェルの"M"だ」彼はしゃれた黒革スーツケースをあけて、いそいで自分の衣類を詰めにかかった。「わたしはきみの理想の男だ」彼女のほうを見もしないでいった。「この仕事をするには、それを覚えておくだけではいけない。それを信じ、肌で感じ、夢にまで見なくてはいけない。これからわれわれはあたらしい、いま以上の現実をこしらえるんだ」

とはいえ正直な話、「潜入まだあ?」と思いながら読んでるので上巻はだるい。盛り上がってくるのは後半からだ。チャーリィを情報機関に引き込む大きな要因となったジョゼフとの恋情、それ故に彼女は自発的にこの危険な任務を引き受けるに至るのだが、実際に潜入を開始し一人での活動を続けていくうちに、フィクションは事実に裏打ちされ、フィクションではないジョゼフへの恋情は逆にその現実感を失っていく。

プロとして洗練されていけばいくほど、フィクションは現実を侵食していくのだ。意志の努力だったものが、ついには心身の習慣となり、夜も昼も自分以外のものを演じ続けていく。『自分の狂おしい狂気のために、パレスチナのために、サルマのために、爆撃で追われシドンの刑務所で暮らす子どもたちのために。内なる混乱からのがれるため、外へ外へと自分を押し出した。自分の演じている役柄の要素を、これまでになくあつめて、ただひとつの戦闘的なアイデンティティーにまとめあげた。』

「真の演劇は私的ステートメントではありえない、というのをなにかで読んだ」彼がいった。「詩や小説にそれはあっても、演劇にはない。演劇は現実への紅葉を持たねばならない。演劇は有用であらねばならない。きみはどうだ、そう思うか」

中東のテロ問題とイスラエル情報機関を描くスパイ小説ではあるのだが、物語ならではの「現実と虚構のせめぎあい」の要素がスパイ潜入物として抜群に混ざり合い、お互いの要素を引き立てつつ物語の完成度を高めていく。いくらでも悲劇的にできるような設定ではあるものの、物語は全体的に抑制的でありそれがまた面白い作品である。果たしてチャーリィは、無事に潜入任務から帰還することができるのか。敵陣の中にあって、演技をバレることなく遂行することはできるのか。それはそのまま、虚構と現実、どちらが最後には勝利をおさめるのかという問いかけに繋がっている。

本国で出版されたのは1983年のことだけれども、中東問題が依然ごちゃごちゃと長続きしまくっているからか不思議と古臭さを感じさせない。あとはあれかな。結局、スパイ的な潜入捜査みたいなものはテクノロジーがあったからといって現代でも銃撃戦と比べればアップデートされない部分だからかもしれない。

2022年フランス、イスラーム政権誕生──『服従』 by ミシェル・ウェルベック

服従

服従

2022年フランスにイスラーム政権誕生──なんだそりゃ! 至近未来SFかあ!? と思って読んでいたのだがそんなことはなかった。少なくともサイエンスの要素は一切ない。もちろんジャンルがSFだろうがなんだろうが大半の人にはどうでもいいことではあるのだが、僕には重要なのだ(SFマガジンの海外SFブックガイドを担当しているから海外SFには目を通して置かなければならない)。

それはそうとして本書はずいぶん面白かった。一人の、とっくに頂点を過ぎ去り、無気力で、諦め、状況に流され続けていく男フランソワ・オランドを通して、政治的に大きな激動が起こって世界の景色が一変していく様を説得力を持って描き出している。時代が現代ではなく未来に設定されているのは、ここで描かれていくフランスでイスラム教系の政党が与党となる政治状況がそれぐらい先にならないと成立しえない(逆に、7年後には成立する可能性がある)からだろう。

物語の語り手は、元々優秀な学生であり一握りの「もっとも秀でた学生」しかなることのできない文学研究の教職を得た一人のインテリの男だ。ジョリス=カルル・ユイスマンスの専門家としてかなり出来の良い博士論文を書き、その後も基本的には順風満帆に教員生活を送り、毎年のように女子学生たちと寝て、性生活にも不自由せず教授にまで無事昇進。

特に政治的な主張はなく、ノンポリであるものの「家父長制」について「少なくとも存在するだけの価値はあると思う」など多少の偏りはみられる。知的活動に割く時間は年々減り続けるものの、特段そうした生活に大きな失望を覚えることもなく、逆に自殺したいほどの物足りなさを感じることもなく、ただただ日々を過ごしている。

 ぼくの人生における頂点は博士論文の執筆と本の出版だった。しかしそれはすべて十年以上前のことだ。知性の頂点、というよりは、ぼくの人生そのものの頂点というべきか。

孫子やクラウゼヴィッツなど数々の知識に通じ、それを必要に応じて引き出し、文学論もおてのもの。社会に、政治に、自分の人生に対してのインテリらしい淡々とした語りが続くが、全体を通してみると25%ぐらいが(僕の主観だが)恋人の学生やかつて付き合ってきた女たちやエロ動画や売春婦との性生活の話だ。下世話そのものだが「人生で特に達成する目標もなく枯れていくインテリはそんなもんなのかな」というある種の納得感もそこに感じてしまう。

 反対に、同僚たちの無気力さには驚かされた。彼らにとっては、何も問題はなく、まったく自分には関係がないかのようで、それはぼくがこの何年間か思っていたことを裏付けした。いったん大学教員のステイタスを獲得した者は、政治の変化が自分の職歴に少しでも影響を与えうるとは想像だにしない。彼らは孤高で不可触な存在だと自分たちを見なしているのだ。

まるで自分は違うとでもいうように書いているが、彼自身もまた「諦めきって無関心で無気力な」大学教員の一人なのである。このつまらない男の生活それ自体は単調なものであっても、取り巻く状況が劇的に変化していく。

イスラーム同胞党がフランスで大きな力を持つとき

2022年。大統領選が近づいている。イスラーム系の政党であるイスラーム同胞党がフランスでは着実に大きな力を持つようになっており、近づく大統領選挙において移民排斥を訴える国民戦線(フランスの極右政党)とイスラーム同胞党の代表がそれぞれ二大候補となっている。どちらの政党支持者も緊張が高まっており、都市部で銃撃を伴う抗争が起き、報道規制によって情報はネットにさえ一切上がってこない。

イスラーム同胞党は宗教を基盤とした政党だからその主張には当然ながら宗教的な要請が含まれている。たとえば教育。フランス人の子弟は、初等教育から高等教育に至るまで、イスラーム教の教育を受けられる可能性を持たなければならない。イスラーム教の教育では男女共学はありえないし、ほとんどの女性が初等教育を終えたら家政学校に進み、できるだけ早く結婚することを希望している。

食事制限、毎日5回の礼拝、それから一夫多妻制。もちろん全てのフランス国民がイスラーム文化を受け入れろという話ではない。制度的に二重化になる、というだけの話である。しかし少なくとも宗教上の要請として女性の自由は著しく後退するし、国家における教育や規則といったものを綺麗に二重化できるはずもないことが物語が進むうちに明らかになっていく……。

「そんな状況を国家として、投票の結果として容認されるなどありえない」と思うかもしれない。本書では極右政党である国民戦線を打倒するためには社会党とイスラーム同胞党が合意を結ばなければならず、国民は苦渋の決断の上イスラーム文化を受け入れる選択をすることになる。僕はフランスの政治的なパワーバランスを現時点では把握していないから、ここで描かれている状況に「現実的な説得力があるのか」と言われると「わからん」としか答えられないが、物語としての納得感は存在している。

暴動は過激化し、大学は閉鎖し、フランソワ・オランドはガラガラの高速を走りパリを後にする。道中目にするのは紛れも無い行き過ぎた暴動の跡だ。パーキングエリアで死亡している二つの死体。破壊された街。選挙は過熱していくが、ついにUMPと民主独立連合、社会党が野合しイスラーム同胞党の候補者を支持。フランスは国家としてイスラーム教とそれ以外の二重社会へと突入していくことになる。

一変していく世界

次第に変化していく社会、揺れ動く政治的パワーバランス、無気力なインテリ男の若い女の子たちとのセックスライフとここまででも十分に面白いのではあるが、小説的にはここからもっと面白くなる。フランソワ・オランドはしばらく離れていたパリへと戻っていく時に様々な「イスラーム教が力を持ったフランスで起こっていること」を目の当たりにすることになる。一夫多妻制、服装の変化(『女性の尻を眺めるという、最低限の夢見る癒しもまた不可能になってしまったのだ。』)

変化は確実に進んでいた。客観的な変動が起こり始めていた。TNT(地上波デジタルテレビ放送)の各局を何時間かザッピングしただけでは、補足的な変化に気づくことはできなかったが、どちらにしても、エロティックな番組はずっと前から、テレビの流行ではなくなっていたのだ。

変化はゆっくりと、だが確実に進んでいく。周囲の状況から、そしてついには彼自身にまで大きな選択の時がやってくる。そうした時に人は「服従」してしまうのか。するとして、どのようにそれが起こるのか。あまりにも淡々と、ある意味では簡単にそれは起こる。本書の政治状況に「現実と地続きの納得」を感じるかどうかは、先に書いたように僕はわからない。シリア難民が欧州へ継続的に流入し*1国籍を取得すれば──とも思うが状況は流動的で予測不可能だ。

それでも少なくともいえるのは、フランソワ・オランドの心情の移り変わり、それ自体には切実な説得力がある。インテリの男の国家を取り巻く政治状況への無気力感、そしてなんだかんだいって社会の上流階級であるが故に「流され続けることができてしまう」残念さ。人間というものが、知性の有無というよりかは自身を取り巻く環境そのものによってある意味ではコントロールされてしまう無慈悲さがフランソワ・オランドを覆っている。

この記事の最初に「少なくともサイエンスの要素は一切ない。」と書いた。それでも、この「想像したこともなかったが、ありえるかもしれない未来の景色」を現出させる力技は、自分自身の固定観念を塗り替え、拡張するSF的なセンス・オブ・ワンダーと通じている。儀式が排除されていった先進国において儀式が復活しまったく違った光景が立ち現れる可能性がここにはある。それは、現代の予言の書とかどうとかいうことを抜きにして、物語的な面白さに満ちている。

俺は人生を選ばないことを選ぶ"道の続く限り歩み続けろ"──『トレインスポッティング』

トレインスポッティング〔新版〕 (ハヤカワ文庫NV)

トレインスポッティング〔新版〕 (ハヤカワ文庫NV)

スコットランドのエディンバラを舞台とし、ジャンキーにHIVまみれ、失業保険を5つも6つも受給しながら働くなんてくだらねえぜとうそぶきながらセックスとドラッグと暴力に明け暮れる若者の姿を偶像劇に仕立てあげたのがアーヴィン・ウェルシュによる本書『トレインスポッティング』だ。はじめて本書が発表されたのは1993年だが、舞台の年代自体は1980年代の後半に設定されている。

あまりにとりとめがない物語だ。『俺は人生を選ばないことを選ぶ』とは本書で中心人物として描かれていくマーク・レントンが吐いた心中の台詞ではあるが、まさに彼は複雑怪奇なまやかしの論理をでっち上げる社会に、働かなくとも失業保険を不当に受給するだけで何の問題もなく生きていける社会に、たやすくヘロインが手に入り周囲の人間が次々とジャンキーとHIV感染者に変貌し様々な理由で死んでいく「平和な地獄」の中にあって漂うように流され続けていく。

ジャンキーの日常モノ

そんなマーク・レントンの在り方を反映するかのように、500ページを超える物語の中でそこに一貫した「目的」、たとえば魔王を倒す──みたいなものは、特に存在していない。マーク・レントンは重度のヘロイン中毒で、幾度も禁ヤクをしてヘロインからおさらばしようとするが、何度も失敗してしまう。数ヶ月の期間を開けられたと思っても、上物が入ってきたらつい手を出してしまうのだ。周囲の人間は次々と付き合ったり別れたりを繰り返して狭いコミュニティ内で男女のスワッピングは頻繁に行われドラッグも蔓延していく。

”誰とでも寝る女”、"毎日のように女をあさる男ども"、それ以外にやることなどない。レントンだってそれは例外ではなく、「5つの失業保険を受給する為に面接を受けにいってわざと落ちる」ことぐらいが目下の業務だ。あとは、本屋から日常的に本を万引きし、売り払ってヘロイン代の足しにするぐらい。レントンも、彼の周囲の人間も、時間が経とうが何も変わらない。働き出したりなんかしない。「真っ当な男になる」なんて殊勝なことは口に出されない。唯一変わるのは、どんどん中毒なりHIVなりで若くしてみんな死んでいくぐらいだ。

本書を一言で表現すれば──「1980年代後半当時の、スコットランド人ジャンキーらの日常モノ」ということになるのかもしれない。ある人間はあまりにも身体中の静脈に注射針を打ち込みすぎて、いよいよ狂って自身のチンコに打ち込み始める。静脈が使いものにならないとわかれば動脈へ打って足を失うはめになる。ドラッグなんかやったことがなかった奴も、女と別れた、人生につかれた、いろんな理由をつけて「一度だけ」と手を出してまったくもって逃れられなくなる。

女をナンパしてヤった後に化粧でわからなかったが14歳だったことが判明してしょっぴかれないか戦々恐々としてみたりアナルファックを試してみたり時には禁断症状に苦しんだり幾人もの若くしてなくなったものどもの葬式へと出席したりする、そんな日常を彼らは過ごしている。

スコットランドは正気を守るためにドラッグをやる

そんなものが読んでいて面白いのか? といえば、これが面白い。途方もなくぐでぐでで、終わりのない地獄、ただし生きていくには困らない平和な地獄を生きている。別に肉体的な危険が常に迫っているわけではない。しかしそこには確かに、「苦しさ」がある。どうしようもない生きづらさが。本書は、確かにストーリー的にどこかへ大きく向かっていくわけではないが、変わりなく続く「日常」の苦しさを描き出している。ドラッグの感覚を。クズばかりの仲間に覚える少しの親近感を。壊れた社会の論理を。

「アメリカは正気を守るためにドラッグをやる」って歌詞にさしかかったとき、イギー・ポップは俺をまっすぐ見ていた。ただし、イギーは「アメリカ」を「スコットランド」と歌った。なあ、たった一文で、ここまで俺たちのことを正確に描写した奴が過去にいたか……?

彼らは、生活に困ってはいない。失業保険が出るからだ。万引きをしてものを売るからだ。彼らは、クズなのか? 客観的にみれば法律に違反し、親を泣かせ、自分の身をボロ雑巾にし人に迷惑をかけながら日々を生きている正真正銘のクズだ。だが、彼らだけがクズなのかといえば、そうとも言い切れまい。環境が、クズであることへの道筋をつくっているからだ。もちろんドラッグは取り締まられるが、厳格ではない。大学を卒業しても職につくのは容易ではない。制度はガバガバで、容易に失業保険が支給され働くことがバカらしい状況が設定されている

もちろん、だからといって全ての人間が働かないわけではないし、ドラッグ漬けになるわけではない。彼らがそんな状況に落ち込んでしまったのは故に──個人の資質、環境、運、その他もろもろの相互作用としかいいようがないのだろう。だが残念なことに、一度ヘロイン中毒になってしまえば、復帰は難しい。メインストリームから逸脱して、もはや復帰のロードが描けないはみだしものだ。社会が良いほうに変化することはないし、彼らが社会に適応できるように変わることもない。だからこそ彼らは、正気を守るためにドラッグをやる。

マーク・レントンは何度も禁ヤクしているが、その途中でヘロインをやることの”利点”を次のように饒舌に語ってみせる。もちろんジャンキーが自己を正当化するために理屈をひねくりだしたくだらない戯言に過ぎないのだが、説得力はある。

ヘロインをやってると、ヘロインを手に入れることだけ心配してればいい。ところがヘロインをやめると、山ほど心配事ができる。金がなくちゃ、酒も飲めねえ。かといって金がありゃ、飲みすぎる。女がいなけりゃ、やるチャンスもねえ。(……)どれもこれも、ヘロインをやってるときはどうでもよかったことばっかだぜ。一つのことだけ心配してればいいんだ。人生は単純そのものになる。

本書はベストセラーとなり映画化までされたが、この「どうしようもなさ」みたいなものが受け入れられた結果なのではないか、と思う。社会的な環境のせいもある。個人のせいもある。どちらにせよ、一度道を踏み外してしまったら、もう元には戻れない残酷な現実がある。ジャンキーどもの日常を通して、本書はどこまでもそうした「どうしようもなさ」を追求していくことになる。

俺は人生を選ばないことを選ぶ

そんな「どうしようもない社会」において、マーク・レントンは「住宅ローンを選べ」「洗濯機を選べ」「車を選べ」「人生を選べ」と選択を強要しレールの上を走らせてこようとする社会のメインストリームに向かって『俺は人生を選ばないことを選ぶ。そんなものは認めないと言うんなら、それはそいつらの問題だ。ハリー・ローダーの歌のとおりだ。”道の続くかぎり歩み続けろ”……』と明確に決別してみせる。

彼は決してクールでもなければヒーロー的な人間でもなく、一冊終わった後に大きな成長を遂げているわけではない。あいもかわらずジャンキーで、何か大きな改心を経たわけでもない。それでも彼は当時のクソッタレた社会に明確にNOを突きつけ、選ばないことを選ぶことで、世界に対して実に個人的な反逆を行ったのだ。「そんなものは認めないと言うんなら、それはそいつらの問題だ」というように、彼の個人的な行為を止める権利は誰にもない。

彼らのように生きろというのではない。彼らを反面教師にせよというのもでない。それでも確かにここには、当時の「息苦しさ」みたいなものが切り取られている。たとえ、この日本にあったとしても。日本にはドラッグは蔓延していないがそれでも──置かれている状況そのものとして、本書『トレインスポッティング』に共感する人は多いのではないかと思う。

最後に余談。ドラッグで正気をとばし金は国から全て支給されるがそこには絶望感が漂っているってこれ完全にディストピアSFだよね。最後に余談2。解説でもちょっと触れられていたが、トレインスポッティングの映画続編が動き出しそうとのこと。
映画「トレインスポッティング」続編始動へ 主要キャストも再出演を希望 | Fashionsnap.com

流 by 東山彰良

2000年前の人間も現代の人間もやっていることや快感を得る手段はそう対して変わらない。恋をして家族をつくって子供を産んで時に争って未来に戸惑う。そうはいっても時代も場所も移り変わればそうした一つ一つの出来事はまったく形をかえて個々人に起こりうる。本作は1975年から始まる台湾を舞台にした青春物語と一言でいえばそうなるが、当時の台湾の文化圏とはいったいどのようなものだったのかを「こんなのモデルがいなけりゃ絶対書けないだろう」と思うところまで生き生きと描いている。何しろ著者は台湾生まれの日本育ちで言葉はどちらも堪能らしくこの小説にも著者が見聞きした実体験が多く含まれているようだ。日刊ゲンダイ|台湾が舞台の長編小説「流」を上梓 東山彰良氏に聞く

流

時代も国も違えば、恋の仕方も違うし家族のあり方も違うし、そこに集う人々がたどってきた道のりも全部違う。日本のそうした事細やかな歴史的な経緯はある程度僕も知っているが、台湾や中国側からみた当時のエピソードは殆ど知らないのでひたすら新鮮な驚きが続いていく。まず物語のメインプロットとしては、主人公の17歳で台北の学校に通う男の子が、自身の祖父(かつて無辜の民五十六名を惨殺したとして碑文に名前と罪状が書き連ねてある悪漢)が無残にも溺死させられているのを発見してしまったことから、その犯人を突き止め、復讐を遂げんとする。

ただこれもおおまかな流れの基底として流れているだけで、彼だって多感な17歳だから恋もするし、学校にも行くし、喧嘩もするし、時代もあるから兵役のことも考えなければならない。復讐ばかりしているわけにはいかないので、それらが全て作品内には盛り込まれていく。『流』というタイトルはまるで彼の人生を表しているようでもあるし、彼以上にもっと激しい人生を送った祖父のことを表しているようでもあるし、時代の荒波にもまれ続けて変転を続けた台湾のことを表しているようにも思う。結局、どれか特定のものを表しているわけではないのだろう。時代が大きく変わりつつある時に、国だろうが個人だろうが、その影響を免れえはしない。

エピソードのおもしろさ

とにかく平然と父や母は彼の事を鞭打ちにするし、祖父やらその兄弟分は死線をくぐり抜けて何十人も殺してきているような輩だから今のような常識がまったく通用しない。倫理観やルールの整備もまだまだな時代だ。それは主人公だって同じことで、地元でもなかなかの有名校にいたのに、幼なじみに説得され、他人の為に替え玉受験をしてやることになる。しかし呆気無くバレて、学校は退学になりバカな高校へ編入することに。誘ってきた幼なじみは既にヤクザの盃を受け、偽造の診断書によって徴兵逃れに成功しているような悪党だからバレたところで痛手はない。主人公は別段普通の男だから完全にとばっちりを喰らっている。

バカな高校に編入するだけですむんだったらいいじゃねえかと思うかもしれないが、これが昔の少年マガジンに連載していた喧嘩に明け暮れるヤンキー校みたいなところで、その高校の制服を着ているだけで喧嘩をふっかけられる、適当な難癖で喧嘩をふっかけられだれかがやられたらそいつの背後に控えているありとあらゆる勢力がしゃしゃり出てくる構造など「あーそれヤンキー漫画でみたわー、今日から俺はとかカメレオンで読んだわー」と思うほかない有様。覚悟を示すために自分の足に刀をぶっ刺すなどして男を示すと相手が引くなど、謎の覚悟のキメ合いが満載で、でも実際にそんな状況が(たぶん、きっと)あったんだろうなあと思うと笑えない状況だが笑えてくる。

本書はそうしたおもしろエピソードが満載だ。事故の時に主人公だけが目撃した女幽霊、その後なぜか彼の周囲には助けてというメッセージと同時にゴキブリが家に大発生する(意味がわからない)。すべて掃除するのにちりとりが5回一杯になったというほどに大量発生したゴキブリに「あわあわあわあわ!」と慌てまくる主人公があまりにも哀れで、それを呆気無く片付けていく祖母の強さよ。あまりにも大量発生したゴキブリを日本のゴキブリホイホイで一掃したと思ったがゴキブリが多すぎて──というシーンなど読んでいて背筋がぞっとした。

主人公の母親が、妹を連れて森を歩いていた時に遭遇した虎へ向かって「いまはやめて」と言ったら、虎が引き返していった話など、話の本筋には特に関係のなさそうなエピソードの一つ一つがとても現実にあったこととは思えない幻想的な雰囲気を積み上げていく。もちろん、それがあったかどうかなんて誰にもわからないのである。嘘だったなんてことはないにしても、思い込みだったり夢だったりということはいくらでもありうる。祖父も、何度も死線を狐火によって救われたと証言しているが、そういう体験がもっと身近で、受け入れやすい時代と環境だったのだろう。現実には起こりえないことが日常的な物事と融合して、違和感なく語られていくような作品のことを(たぶん)マジックリアリズムというが、台湾版マジックリアリズム小説とでもいうような不可思議さが日常と同居している。

エピソードはすべてが特異で面白いのだが、一つ一つ取り上げても仕方がないのでここいらでやめておこう。この後主人公は軍学校に所属したり、逃げ出したり、兵役についたり、はじめての彼女ができて夜の植物園でいちゃいちゃするために空きスペースを探して何周もしたりといろんなエピソードが続いていく。一読したところとりとめのなささえも感じるエピソード群だが、不思議と統一感を感じるのは、これらが当時の「時代を取り巻く空気そのもの」を描こうとしているからかもしれない。下記は、主人公が中国に祖父絡みで行った時に、祖父の兄弟分である馬爺爺と交わされた会話だが、当時の時代性を反映させている部分でぐっとくる。

 どうして祖父と兄弟分になったのかと尋ねると、馬爺爺は餃子を口に放りこみながらこう答えた。
 「ガキのころから知っとるし、まあ、おまえのじいさんとおったら食いっぱぐれることはなかったからなあ」
 李爺爺や郭爺爺からさんざん聞かされて知っていたけれど、食うことと命をあずけることはおなじことなのだと、このときあらためて腑に落ちた。祖父たちは、いっしょに食うこと、ちゃんと食うことに大きな意味があった時代に生き、そのために命を張ったのだ。

恨みがあって、それに対する復讐の心があった、大きな悲恋と、そこからの時間をかけた回復があった。戦争があって、台湾は日本の統治から離れつらい時代がはじまった、彼と家族の人生は戦争や当時の環境や文化に大きく左右され、個人のエピソードと、歴史的な出来事が復層的に物語に厚みを加えていく。善悪の判断を超え、単純な歴史への諦観ともまた違った──「ただ、それは起こったことなんだ」という単純な事実が本書に言い知れない凄味を与えているように思う。

台湾の一時代を生きた家族を切り取った作品として、これ以上ない作品。一時間以上考えこんでみたが、僕にはこれ以上この作品を表す言葉が思いつくような気がしない。抜身で、当時の人々の人生がそのまま投入されているかのような圧倒的な生々しさに、読み終えた時に出てきた感想はただ一言、「圧巻」である。

マインド・クァンチャ - The Mind Quencher by 森博嗣

マインド・クァンチャ - The Mind Quencher

マインド・クァンチャ - The Mind Quencher

桜の表紙だ。書影ではいまいちピンとこないかもしれないが本として手にとって見ると驚くほど美しい。季節がめぐって、新しい年の始まりを感じさせる鮮やかな風景。本書『マインド・クァンチャ - The Mind Quencher』は森博嗣さんによるヴォイド・シェイパシリーズの第五巻目の作品である。番号が振ってあるわけではないし話はそれぞれそれなりに一区切りついているから別にどこから読み始めても問題ない。

当初の予定では三作の予定で、結果的に五作になったのは三作分の内容を三作に収めきれなかったということなのだろう。当初予定していた内容は本作で終わり、と書かれている。『シリーズ5作めです。当初予定していたストーリィはここまででしたので、これでシリーズ完結としても良いと思っています。次も書くかどうかは、まだ決めていません。』*1一読しての感想は、「この先があるのなら、観てみたい」、でもここで終わるのは完璧すぎるぐらいに美しい、というもの。

読み終えた時はあまりにものめり込んで、世界に入り込んで読んでいたのでそのまま現実にうまくもどってこれずにふわふわとしていたものだ。それぐらい素晴らしい結末で、読んでいる間現実の自分が消失していた。どこかでシリーズの総評を書こうかとも思うが……ひとまずはこの『マインド・クァンチャ』に的を絞っていったん書いておこう。現時点では前巻について書いたこの記事がシリーズ総評的によくまとまっているんで未読の人は参照されたし。
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一言でいえば考える侍が数々の敵と斬り合いを行いながら強さについて自問し、都を目指す物語である。ゼン(主人公)は、人間関係といえば師匠のじーさんと自分だけの空っぽな存在だった。師匠の死を契機として人里に降りていくことで、そこに人間関係特有のルールがある事を知り、市井の人間と関係を作り上げていく。人里に降りて強敵と斬り合いを経ていくうちに、ゼンは「強いとはなにか」について自分なりの考えを深めていくが、本作『マインド・クァンチャ』で、彼は欠けていたピースをまさに欠けることによって手に入れることになる。

ドラマツルギー的にはひどくわかりやすい物語・シリーズであったといえる。目的地は明確に示されており(都)、その過程でまだ未熟だった侍が様々な困難と出会いを通じて「強いとはなにか」のテーマについて考え、そして技術面でも実際に強くなっていく。この世界における彼の役割もだんだんと明らかにされ、物語はより大きなイベントへとつながっていく──、だからこの最終巻に至っても、ドラマ的な意味での「意外性」みたいなものはあまりなかった。彼が強くなるために「欠けていた」ピース、必要とされる要素自体も、物語の速い段階から明かされていたのだから、(その方法はともあれ)、まあそうなるよな、と思ったものだった。

それでも尋常じゃないほど面白いのは、プロットというよりかは表現の部分に特質性があるからだ。まるで異国の人間が、日本を放浪しているかのような「外部からの視点」を持ったゼンという侍の目線は、時代物を観るときの我々現代人の視点でもある。いつだって人々の間には多くの奇妙な風習と思い込みがある。それを当人らは何も不思議とは思わずに受け入れているが、そうした常識を持たない山から降りてきた人間からはおかしな共同幻想を信じているようにしか見えない。しかしいったん枠から外れてみてみると奇妙な風習を持っている状況こそが人間社会のルール、デフォルトの状態だともいえる。

ゼンは強さとはなにか、どうしたら自分が斬られずに相手を斬ることができるのかについてよく考えるが、その思考の奔流と実際に敵と斬り合っている時の研ぎ澄まされテンポ良く転換していく思考の描写は対照的だ。平時はあーでもないこーでもないと思考を重ねるがいざ戦闘に入れば文章の区切りは早く、刹那的な相手の動きと自分の動きに神経と描写は集中してほかは削ぎ落とされている。こうしたプロットにのっかった表現の部分が我々を惹きつけてやまない。特にこの第五巻巻にあっては──ゼンが「強くなった」、ある種の極みに達したことが明確に文章表現上でわかるようになっているのが凄い。

たとえば、剣の使い手が強くなっていくのをどう表現するのか、というのは表現者としては誰しも悩む部分だろう。わかりやすいのは、昔は勝てなかった相手に勝たせてやることだ。そうすれば読者は「ああ、強くなったんだな」というのはわかる。しかし、描写として強さを表現するにはどうしたらいいのだろうか。漫画やアニメだったら、立ち振舞などの絵でそれを表現できるかもしれない。俳優ならそれはより簡単だろう。より情報量がしぼられる文字では、その難易度もさらに上がる。文章が得意とするのは立ち振舞よりも思考の流れを表現する部分だろう。それは、他の媒体では難しい部分だ。

その特性を、本シリーズでは思考をしきりに描写することで表現し、活かしてきた。ところが戦闘中に考えるのは同時に、ゼンが飛躍的に強くなることの出来ない枷のひとつでもあった。思考しているということは、それだけ時間がかかっていることでもある。思考をすれば、相手にその行動の起こりを読まれることにもつながる。自分があるから、それを守ろうとする意識も生まれてしまう。自分を完全に捨て去ること、忘れ去ること、思考を脳内から排除すること──ついに本作では、この点を表現として見事に昇華させてみせた。ゼンの成長が、「単により強い敵を倒す」だけでなく、文章表現として「ああ、ゼンは本当の意味で強くなったんだ」というのが理解できる形で。

シンプルながらも本作が完全性を備えているように感じられるのは、こうした表現上の極みへの到達と、テーマ的な頂点=強さとはなにかへの答えに辿り着くこと、最強の敵との死合、「旅」としての側面である都の到達というあらゆる要素がここで結実するように仕組まれていることもあるのだろう。神技を見たような思いだ。

ちなみに本書の引用本であるところのドナルド・キーン氏による『能・文楽・歌舞伎』は、外側の視点(ただし日本文化にはどっぷり)から能の紹介を行っている興味深い一冊で、単に色物ではなく能にのめり込み、文章表現上の類まれな才能を持った人間だけが出せるようなウマさのある本だ。本シリーズは一貫して引用文は、英文と日本文の表記を行なうことで外からの視点を意識して取り入れてきているように思うが、ドナルド・キーン氏はまさにその要素の体現者の一人である。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp

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ビッグデータ・コネクト (文春文庫) by 藤井太洋

ビッグデータ・コネクト (文春文庫)

ビッグデータ・コネクト (文春文庫)

「底の深い人」という表現は褒め言葉として捉えられることが多い。底が深ければ深いほどいろいろなものが入っていて、話しても楽しいし臨機応変な対応ができるということだろう。この感覚はそのまま作家商売(というよりかは人気商売か)であればあるほど、重要になってくる。底の深い、底知れない人間であればあるほど「次に何が飛び出すかわからない」と思うものである。「もうこの人からは同じものしか出てこないな」と思ってしまえば、次には繋がらないわけだから。ま、読者は読者で厄介なものでそういう事を思いながらも「過去の○○みたいな作品をまた書いてください!」とついつい言ってしまうものだが。

本書『ビッグデータ・コネクト』の著者であるところの藤井太洋さんは僕にとっては「何が出てくるのかわからない」が、それでいて出てくるどれもが一級品のクォリティであるという点で買いの作家である。デビュー作である(KDPでも、紙の書籍としても)『Gene Mapper 』は近未来の拡張現実が一般化しフルスクラッチで遺伝子設計された作物が一般化した世界での事件を描いたSFサスペンス、スリラー作品。そこから一転次は何を書いてくるのかと思えば『オービタル・クラウド』は不自然な軌道をとるスペース・デブリの発見から始まる「スペース・テロの時代」を描いたハリウッドスケールの宇宙開発SF。舞台を一転宇宙にうつして、多数の国家機関を混線させながらもエンターテイメントとしてスマートな仕上がりで驚いたものだ。

最近出た第三作目の『アンダーグラウンド・マーケット』で、今度は仮想通貨が蔓延している地下経済の存在する近未来日本描いてみせた。一貫して技術や未来の暗黒面だけでなく、技術の導入によって我々の身近な生活がどのように変わって、どんなことが起こりえるのかという「希望」も同時に提示してみせる作品群だ。そして本書『ビッグデータ・コネクト』はといえば……こっちはなんと警察もの! 警察ぅ? 警察はさすがに無理じゃない? かなり男臭い世界で、なんだろうな、貸しとか借りとか、組織のロジックと社会のロジックと現場のロジックが衝突しあう「空気感」みたいなものを重視する世界じゃないですか。これまでの作品群とは若干……いや、けっこう、相容れないような気がする。

とかなんとか思っていたのだが、きっちりとしたあの日本的な、お役所的な組織の掟にがんじがらめになりながらもその組織の中で最善を尽くそうとする男たち──みたいな警察物特有の「空気感」はそのままに、サイバー特別捜査官やITの絡んだ事件を出すことで「IT犯罪事件物」として新しさを確保している。これが抜群に「手触りが良い」作品に仕上がっているのだ。アイディア、世界観で魅せるというよりかは、読んでいて一つ一つの描写とやりとりにじんわりと広がってくるような良さがあり、ついつい読んだあと一週間以上経っているのに記事にできずにぼんやりとこの良さについて考えてしまっていた。それはゴリゴリと物語を世界観の開示とアイディアの開陳と事態の急展開で進めていくやり方とはまた違った物語の「味」である。

本書を読んで藤井太洋さんへの「底が知れない作家だ」という感覚はより深まっていった。新作が出るたびに「そんな引き出しまであるのか」と驚かされる。「この作家からは次に何が出てくるかわからないぞ」と。まるで弾着観測を行なう射手か何かのように、ばらばらと違った方角へ弾を打ちながらその効果を判定し、ユーザを拡大する戦略を行っているようだ。……と、あらすじにまったく触れないままここまできてしまったので一応あらすじを書いておこう。

簡単なあらすじ

時代的には少なくとも2017年以降の日本(記述を読み逃したかそもそも書いてないかで正確な年がわからなかった)で、特徴的なのはマイナンバー制度が既に始動して、それを前提に整備された社会保障システム等も出来上がっていること。そのあたりは実際に『内閣官房で2011年から番号制度推進管理補佐官、2012年から政府CIO補佐官としてマイナンバーを支える情報システムの調達支援に従事。』している楠さんの見事な紹介があるので参照されたし個人情報のディストピア小説を 政府マイナンバー担当者が読んでみた 『ビッグデータ・コネクト』 (藤井太洋 著)|新刊を読む|本の話WEB

社長兼エンジニアで、官民一体の複合施設である「コンポジタ」の利用者管理システム構築に従事していた月岡という男が何者かに誘拐された。それがわかったのは切り落とされた右手親指と同時に、「コンポジタ」システムの計画停止を要求が送られきたからだ。安いシステムではないが、なぜそんな物の停止を要求するのか。誘拐を企図したのは誰なのか。愚直かつ、あくまでも誠実に調査を行うサイバー特別捜査官の万田と、かつてXPウィルス事件で罪に問われていたが不起訴に終わった(ゴリゴリの武闘派の)武岱の二人がバディのようなチームを組んでこの謎を追っていく過程はミステリ(サスペンス)的であるのと同時に、「真実」が明らかになっていく過程でSF的な興奮も伴ったものになっていく。

それなりにしっかりとした橋

SF、一般的にサイエンス・フィクションと呼称されるジャンルの作品を、僕自身は「全人類が読むべきものだ」とはまったく思っていない。何しろそれは、我々の日常から大きな一歩か小さな一歩かは別としても、「想像力の跳躍」を必要とするものだからだ。人間には大雑把にわけてしまえばそうした跳躍に意味を見出す人間と、そもそも見出さない人間がいる(どちらが良い・悪いとかではなく)。ただ藤井さんが展開する近未来小説群は、殆どの場合我々の現実の地続きの技術と、システムの延長戦上にある。先の言葉では「跳躍を必要とする」と書いたが、「それなりにしっかりとした橋」がかかっている作品群とでもいおうか。

たとえば本書で言えばその「橋」にあたるのはマイナンバーという現実に導入が決定されている制度だ。ここにあるのは近未来の「まだ現実ではない世界」だが、「まず間違いなく、すぐに我々が到達する世界」でもある。一歩の跳躍も必要としない、「間違いなくくる未来」。そして「技術的にいくらでも起こりえる」世界だ。現在官邸にドローンが侵入したなどと騒いでいるが、技術的にはもう何年も前からそんなことは可能だった。ただ昨日までは誰もそれをやってこなかった世界で、今日はそれを誰かがやったあとの世界だというだけの話だ。藤井さんの作品群は(Gene Mapperはちょっと特殊だけど)そのレベルで紙一重の世界を描いている。

現実とつながった「橋」というからには、その先には繋がっている場所があることになるが、それは先行作品のいくつものSF作品だ。誰しもがSFを読むべきものだとはまったく思ってないと書いたが、こうした「橋」を経由することで、跳躍にそもそも意味を見出していない多くの人*1が「その先の」未来像に想像力を馳せるようになるのかもしれない。

IT☓警察物

IT☓警察物の側面についてもちろん藤井太洋さんはその道のベテランではあるが、単に経験だけで書いていないのは描写の一つ一つからよくわかる。たとえば物語の冒頭、重要参考人扱いの武岱が警察署内でのやりとりを交わすシーン。警察は武岱の情報を割りたい。武岱はかつて濡れ衣を着せられ、社会復帰できないほどメディアに晒されたのでこの手の物事には異常に過敏になっている。両者の「情報」を入手/防衛する為のを巡る攻防一つとっても、派手さこそないものの独自の面白さを獲得している。

 ”武岱マシン:WiFi、そのほかの無線接続ポートがすべてオフ。無線ポートのMACアドレスを取得するためのSEに乗ってこない。武岱の防壁、かなり堅い”
 メモを見た万田は、ようやく小山の仕掛けを理解した。ゲストのネットワークに繋ぐために武岱がマックブックの無線を恩にすれば、コンピューターの指紋に相当するMACアドレスを知ることができる。もしも武岱が空港や駅、スターバックスなどの無線ホットスポットでこのMacBookを繋いでいれば、記録に残っているはずだった。偽装が可能だとはいえ、行動を知る手がかりにはなる。だが、それは空振りに終わったということだ。

この後もパスワードを肩越しに覗きこんでパスワードを目視するソーシャルエンジニアリングの手法も導入しながら(疑われていること、情報を割る企みを危惧している武岱は当然それに対する対策を打っている)表向き言葉には出てこない水面下での「戦い」がある。これは決して派手なアクションのような攻防ではないけれども、頭脳バトルじみた静かな面白さがある。

個人的な話と社会における階層における論理のズレと葛藤

「コンポジタ」システム停止を要求してくるからには、そのシステムに何かがあるに違いないと調査が始まるが、同時にその悲惨な労働環境が明らかになっていく。上から放り投げられた仕事を何十にも下請けの下請けみたいなところに出して、下っ端の開発はただ使い捨てられるのみ。上の意見はころころ変わり現場の労働システムを考えない無茶な人材の投入、あるいは慢性的なスケジュール及び人間の不在ですべてがもみくちゃになっていく悲惨な状況。個人的な事情を話せば、僕も某Nから始まるアルファベット三文字の会社案件に二年ほど関わった後こりゃいかんと逃げ出していまは単なるWebプログラマとして細々と生計を立てている人間だったりする(暇なニートではない)。だからこそ本書で描かれていくいわゆるエンジニアの地獄的環境には「あるある」というよりかは「あ…あ………」と、共感……ともまた違う、「どうしようもなさ」みたいなものに深く頷いてしまった。

エンジニア地獄と作品を通しての共通項で言えば、「上部階層の論理と下部階層の論理は異なっている、そのズレを描く」というあたりなのではないかと思う。たとえば最初の方で書いたように、もちろん警察(にかぎらず組織には)「組織の論理」がある。もっと大きく拡大すれば、日本には法律があり世界には国際法がある。スケールが大きくなれば捉えきれない部分は出てくるもので、そのズレは葛藤として表出するものだ。上層部の論理に納得できない現場の論理、法律に納得出来ない個人の論理、誰もがそうした階層構造ごとに異なる論理のズレと葛藤の中で日々をやり過ごしている。

本書はそうした個人と組織、組織と法律とそれぞれの階層と個人間に存在する「どうしようもないズレと、その葛藤」を克明に描いていく。そこには「誰が悪かったのか」という特定の悪者は存在しない。なぜこんな現場の実態にそぐわないこんな法律があるのか、なぜ現場の理屈に合わない組織のルールがあるのか…たとえるならば、一人では対抗しえないあまりにも大きなものを相手に、誰もが目をつぶり続けてきた結果──あえていえば、そんな状況がそもそも発生してしまうことからして間違っているのだ。だがそんなことを言っても仕方がない。僕が現場と本書で感じた「どうしようもなさ」というのは、そうした「明確な悪者のいないがんじがらめの世界そのもの」だったのかもしれない。

物語として本書が盛り上がるのは「一人では対抗しえないあまりにも大きなものを相手に、誰もが目をつぶり続けてきた結果」──で終わることを良しとせず、行動を起こした偉大な個人がいるからだ。ただ、彼らの行動と勇気もまた、単純な善と悪で割り切れない複雑さとどうしようもなさを抱えている。ただどうなんだろうな、これはただの妄想だけど、これを読んでいるうちに藤井太洋さんがやっているのも、一人では対抗しえないあまりにも大きなものを相手に物語を使って抵抗しているのかもしれないなとふと思った。深夜で感傷的になりすぎているのかもしれないが。

まとめ

ここまでの情報密度の小説にはなかなかお目にかかれるものではない。SFにミステリにマイナンバ制度に警察物としての側面、そしてエンジニア地獄まで多様に情報を展開しながら、窮屈な印象を与えずに鮮明なエンターテイメントとして成立している見事な小説だ。

*1:これは僕が勝手にいると仮定しているだけだけど。

別荘 (ロス・クラシコス) by ホセ・ドノソ

時間は伸び縮みし、現実の有り様は歪む。秩序が崩壊し、既存の生活様式を破壊し、奔放な想像力を自由にさせるがままに任せたような象徴的な空間とエピソードが連続して物語を紡いでゆくこの本をいったいどのようにして紹介したものなのかさあ書きだそうとして少し戸惑ってしまったが、他にいい書き出しも思い浮かばないのでこの戸惑いをそのまま書いていくことにする。一言で感想を書くなら「イカれてる」だけど、会話にはパワーがあり文体は洗練され、繰り返される象徴はどれも多重的で意味をつないでいき印象深く機能している、総合的に素晴らしい一冊だ。

別荘はホセ・ドノソによって書かれた小説である。これがどのような小説なのかは、どうにも説明しがたいところがあるのだが、まあとりあえずざっくりとした概観から始めると、一年のうち三ヶ月ほどを別荘で暮らす一族の物語だ。この一族は合計すると五十人近く、さらに使用人や執事を山のように連れて行くのでまあとても数が多い。基本はこの別荘の中で一族は働きもせずにだらだらと過ごしているわけだが、ある日親たちはみな揃ってハイキングに出かけるという。当然子どもたちはみな取り残される。しかしそこで子どもたちは日頃の鬱屈、憎しみ、抑圧が反発してはじけたかのように自分たちの抑圧されていた本性を露わにするのである。

それだけ読むとなんだ、普通の小説じゃあないかと思うかもしれない。子供だけを残して、親達だけで一日家をあけるなんて、それこそ物凄く幼い子どもたちだけで残すわけでもない以上普通のことだ。しかも取り残される子どもたちの中には17歳の男の子や15歳を超えている子が何人もいる。それで心配する方がおかしいだろう。なので「何をこいつらはそんな普通のことで大騒ぎしているのだ」と思うのだが、読み進めていくとこれがなんにも普通でないことにすぐに気がつく。だいたい、これが小説なことからして異常だ。話が始まる前に一族の親とその子どもたちの名前がズラっと五十人近く一覧になって載せられているのだから、「え、こんなたくさんの人間、覚えられないんだけど。ていうかこいつらみんな出てくるわけ?」と慌てる。

本書は第一部と第二部で分かれているが、第一部は親たちがいかにして家を空けハイキングに出かけるのか、そして実際に出かけていったあとで子どもたちがどのような混沌を巻き起こすのかの綿密な描写になっている。もちろんいきなり五十人全員を描写して把握できるわけではないから、そこは親切にわかりやすく、少数の子どもたちの関係性を中心に話を展開し把握しやすく進めていってくれる。

子どもというのは、それがどれだけ優れた両親であっても基本的には親に抑圧され、社会に締め付けられているものだ。多くのことが許されておらず、また身体の制約や能力的な制約から行動の幅も狭められている。有形にしろ無形にしろそうした抑圧から開放された時に子どもはいったい何をしでかすのか……と想像するとなかなか恐ろしい物がある。それだけに十五少年漂流記や、蝿の王的な「子どもたちだけで取り残された社会・組織とは」という思考実験的な物語も生まれてくるのだろう。

故に、本作はそうした状況が、親が別荘からいなくなるということによって擬似的に生成された「子どもたちの王国」で何が起こるのかの小説なのだろうと最初は思っていたのだが──何度も書いてきたように、実態はそれとは大きく異る。まずあまりにも人数が多く、親たちはみな狂っており、必然的に子どもたちもみなどこかしら精神的なアンバランスさ、極端な憎しみや恨みを抱えていて、まっとうな話になるはずがない。まず主要人物たる子どものウェンセスラオからして、親から女装を強要され常に女装した状態で日々を過ごしている為に、アイデンティティの混乱に陥っている。

親族間の関係性、また生きているだけでも33人のいとこたちがいる子ども達の関係性を延々と第一部では続けていくわけだが、みなそれぞれ強烈な抑圧的状況と異常性、親への殺意にも至る憎しみを抱えている。何よりベントゥーラ一族の特徴とは、権力をもってして現実に当たっていくことが常態化しているために一人では何もできないところにあるのだ。金があり、使用人がいるのだからそうなるのも必然というべきか。現実に相対しなくていいという意味では彼らはそもそもの最初から現実に生きてなどいない。幻想を抱き、幻想の中で生きていてもそれを破る現実はめったに彼らの前を横切らないからだ。

そしてそんな現実感のあやふやな子どもたちだからこそ、いとこたちの関係性や、起こる事象もまたどんどん現実感を失っていく。強い決意をもって親がいなくなった瞬間に金(かねではなくきん)を持って逃走しようとする娘、別荘の周囲に存在し、かつて人肉を食らっていたという原住民への防壁として張り巡らされている1万本を超える槍を片っ端から抜いて回る子ども達、かつて原住民と接触し突然姉を殺し人肉スープにした妹……。どいつもこいつも狂っていて、こうした従兄弟間の関係性や、両親との確執、憎しみ、計画をさまざまな象徴的なモチーフを連続させながら洗練された文体で語りかけてくる。

なんとも語りづらいと最初に書いたが、それはこの物語が単純な直線としては進んでいってくれないこともあるだろう。親たちと子どもたちの時間は著しく隔たっており、また子どもたちの間でも現実の認識はばらばらだ。しかし、とあえていおう。だからこそ、起こることは現実離れして時に幻想的ですらあり、それらは象徴的な意味合いを帯びてゆき子どもたちの会話、執事と子どもの争い、親と子どもの間にある憎しみ合いとその結果にあるお互いを破滅させあうような行動の数々が総体として印象的に機能していく。

一本のお話が進行していく物語として見ると駄作になってしまうだろうが、これがベントゥーラ一族という一枚の絵なのだと思って読むと個々の場面が印象的に浮かび上がってくる。

象徴について

まあ、だからこそ本作は読んでいるとむちゃくちゃなことが次々と起こるのだが、それはもう字義通りに受け取っていったほうがいいのだろうと思う。たとえば顕著なのは、本作においては時間の流れは伸びたり縮んだりしている。両親がたったの一日のハイキングに出かけている間、子どもたちは一年もの時間を過ごしていると主張する。双方の認識はまったく噛みあわない。別荘があるという環境からしてどこまでが本当で、どこからが嘘なのかさっぱりわからないことだらけだ。人喰いの原住民がいる? 本当に? それが襲いかかってくる? 本当に? その為に家の周りに1万本を超える槍がある? 本当に?

槍を次々と引っこ抜いていく場面も、人肉を食べるか食べないかで葛藤する子どもたちも、どれも印象的だ。それが「実際に起こったのかどうか」というのは、読んでいてもあまり気にはならなかった。というよりこれを読んでいて思い出すのは「自分の子ども時代」なんだよね。本当に幼かった時、親がいない一人だけの時間はいつもの時間より長く感じたものだったし、家の中で椅子を並べてそれが電車だと想像して車掌ごっこをして遊んでいた。家の周りには地雷原が敷き詰められて誰も近寄れないという設定だったし、悪いことをしたらお化けのいる押入れに入れるぞを両親に脅され、真に受けて怖がっていた。

子どもの想像力の前には時間とは簡単に伸び縮みするものであり、現実に起こる事象とは容易く拡張されうる柔らかく広いものだった。この『別荘』という小説においては印象的な場面で人喰いのエピソードが使われ、綿毛と呼ばれる人を窒息させ容易く殺してしまう季節的な事象が発生したりと現実的に考えればありえない話がいくらでも出てくるが、それらは象徴的な意味で我々に左右してもくるし、同時にこれらは全部我々が子どもだった時の世界そのものだとも感じる。

そして本作の特徴として上げないでスルーするわけにはいかないのが、こうした「あやふやな物語」をあくまでも小説として成立させている「語り」の明確な存在感である。

語りについて

本作では何度も何度も書き手が顔を見せる。「この小説が〜」と突然実況解説を始めたかと思えば、なんでこんなふうに語り手が物語に介入してくるのか、それは文学作品として悪趣味なのではないかとお考えの方も多いだろう、釈明させてもらうと〜と弁解を初めたりする。物語は何十人ものキャラクタに、時系列はぐちゃぐちゃで我々の知る現実とは大きくことなる事象が展開していくが、この語り手が時にはこの小説の意図を説明し、時にはこんがらがった状況を整理し、登場人物の思考や歴史をさいど教えてくれるから助かっている面もある。

この本の基調、この物語に独特の動力を与えているのは、内面の心理を備えた登場人物ではなく、私の意図を達成するための道具にしかなりえない登場人物なのだ。私は読者に、登場人物を現実に存在するものとして受け入れてもらおうとは思っていない。それどころか私は、言葉の作り出す世界のみに存在可能な象徴的存在──生身の人間としてではなく、あくまでも登場人物──として受け入れてもらったうえで、その必要最小限だけを提示し、最も濃密な部分は影に隠してしまおうと思っている。

この語り手自身は、こうした語りの目的について『こうして時折私が口を挟むことで、読者とこの小説の間に距離を保ち、そこに開示される内容が単なる作り事にすぎないことを明記しておけば、読者が実体験とこの小説を混同することもなくなるだろう。』などとめちゃくちゃな理屈を並べ立てているが、たしかに、このようにしてセルフツッコミ、セルフ批評、また時には良き案内係となってこの物語を先導してくれるからこそこの複雑怪奇な物語がぎゅっと引き締められて成立しているのだともいえる。

またこれが面白いのは常に「読者に向かって語りかけてきている」ことにあるのだろうと思う。案内係といったのはだからまあ、ぴったりな言葉だろう。別荘という物語を読んでいる我々読者とまるで並走するかのようにして語り手がその姿を見せるわけだから、別荘という物語を読んでいる我々それ自体が、この別荘という物語に取り込まれているともいえる。

本書が書かれたのは1978年だが、この特殊性と象徴を重ね事態を複雑怪奇に展開させながらそれを引き締める自己主張の強い語り手で推進していくというこのスタイルは今でも古びずにその面白さを保っている。

別荘 (ロス・クラシコス)

別荘 (ロス・クラシコス)

フラニーとズーイ (新潮文庫 サ 5-2) by サリンジャー

久しぶりに読み返してみた。僕のような特に専門教育も受けておらず特段の極秘情報を持つわけでもない人間がこうした感想を書くことにドレほどの意味があるのかわからないが、サリンジャーの作品はどれも僕の中で深く根を下ろしていて読むとやはり引き込まれてしまう。サリンジャーの作品についてそのどんな要素が僕にとってそれだけの深い感覚を思いおこさせる原因なのか、これまでもよくわからないままきた。

前回読んだ時の記憶はそれほど定かではないが、こうして読み返してみると実に多くのこと、さまざまな視点から話を考えるようになったものだと思う。たとえば最初に読んだ時は主軸となっているグラス家の子供達は、芸術的に通常の人間たちとは明らかに隔絶しており、その特異的な能力故に周囲の空っぽの人間に我慢できず決定的にズレていってしまうのだ、特別な人達なのだとそちらにのみ焦点を当てながら読んでいたと思う。

ところが今こうして読み返していると、フラニーと付き合っているレーンの方にもずいぶんと視点がいくようになっていた。というか、正直な話レーンに感情移入していた。フラニーがずいぶん乱暴に見えるし、レーンは彼なりにできることをやっているように感じる。凡人なりに。極々平凡な、空っぽとさえ表現されてしまうかわいそうなレーンの方に気持ちがいってしまうあたり、前回読んだ時は自分が「グラス家」側だと考えていたのかもしれない。

エゴだらけの世界に欺瞞を覚え小さな宗教書に魂の救済を求めるフラニーと、それをズーイが才気とユーモアに富む渾身の言葉で自分の殻に閉じこもる妹を救い出すと裏のらすじには書かれている。実際読んでみるとフラニーはずいぶんお安く泣きの入るクソったれな小賢しい小娘に見えてくるし、ズーイにあるのはユーモアというよりかは相手への配慮のなさからくる、相手を傷つけずにはいられない、才気だけだ。

でも相手をふとすれば致命的に傷つけかねないような致命的なやりとりの中に優しさや経験を積んだ物の情愛が込められている、そんな感情の機微についても、前よりよく読み取れるようになったように思う。歪んでいるのは確かだが、その歪みを強制的に直すわけではなく、当てる角度を変えることで正しい方向に導いていくような。ほんのちょっとの、何気ない描写、だれかが何かに気がつく所とか、今まで相手に抱いていた印象が一瞬でがらっと変わるとか、日常を過ごしているとたしかにそういう一瞬がある、と思えるような「切り替わる」瞬間の描写が信じられないぐらいの感動を覚えるのだ。

たとえば母親とズーイがレーンがいかに空っぽかという話をしている場面で、母親がズーイに投げつける「おまえはね、誰かをすっかり気に入るか、あるいはぜんぜん受け付けないのかどちらかだ」から始まる洞察の言葉がズーイに与える衝撃の場面など、読んでいるだけで頭がじんじんとしびれてくらくらしてくるような、小説を読むことでしか刺激されないどこか特殊な場所をゆすられるような、そんな感覚を覚える。

 ズーイは大きく振り返って母親の顔を見た。彼がそのとき大きく振り返って母親の顔をまじまじと見た様子は、長年のあいだ折にふれて、ほかの兄弟や姉妹(とりわけ兄弟たち)が大きく振り返って母親の顔をまじまじと見た様子と、寸分変わりなかった。そこにあるのは、手の施しようがなく見える偏見や常套句や月並みな表現の集積を貫いてときとして立ち上がってくる──それが断片的であるにせよないにせよ──真実に対する客観的な驚嘆だけではなかった。そこには賞賛があり情愛があり、何より感謝の念があった。

この後はまた母親の側の描写にうつりこうした敬意を常に悠然とした態度で受け取ることにしていた、という文章に続いていく。これ、なにがどう素晴らしいのかってうまく言葉にできないものだ。本当に残念ながら。この文章にはたしかにリズムがあるし、そしてそれを活かすだけの物語的な情報が載っている(愚直過ぎる母親が突如として反転し鋭い洞察をみせるところからの、驚きと母親への賞賛)。

僕は一時期あまりにサリンジャーの文体が好きすぎるので、ナイン・ストーリーズの文章を写経するという宗教的な行為にすら及んだが、その一片さえも自分の中に取り込むことはできなかった。とにかく、なにひとつ先を自分で予測できるような規則的な文章ではないのに、いざ文字にされるとそれ以上の物はないといった驚きに満ち溢れた文章だった。机の上にあるものを描写するだけで痺れるのだよな。一体全体机の上にあるものを描写することがどう感動に繋がるのかさっぱりわからない。

でも机の上の物を表現していくだけでそこには何か大いなる意味があるのだと実感させるような、とにかくそれだけの「文章のリズムそれ自体が興味を持続させる」作家だった。ナイン・ストーリーズは好きすぎて原書まで高い金を出して取り寄せてしまったぐらいだ。

村上春樹的にいえば次のような賛嘆の言葉が飛び出してくる。

『フラニーとズーイ』という小説のどこがそんなに面白いのか? 一人の小説家として率直に意見を言わせていただければ、この小説の面白さはなんといってもその魅力的な文体に尽きる。ハイパーでありながら、計算し尽くされた文体だ。内容がどうこうという以前に、文体の凄さにのっけから打たれてしまう。これはもちろん『キャッチャー』についてもそのまま言えることだが、すべては文体から始まっている。サリンジャーはまず文体というヴィークルをしっかりと設定し、そこになにやらかやらを手当たり次第に積み込み、人々を座席に押し込み、素知らぬ顔でひょいとスタートのスイッチを押す。そのようにして驚異のジェット・コースティングが始まる。そのいさぎよさというか、出所のストレートさに、僕らは息を呑み、恐れ入ってしまうことになる。──〈村上春樹 特別エッセイ〉こんなに面白い話だったんだ!(全編)|村上春樹『フラニーとズーイ』|新潮社 より

うーむなるほど。さすがにうまいこというな。冷静に読むと何を言っているのかさっぱりわからないのだがとにかく滑るように一読するととてつもなくうまいことを言っているような気がしてくる。何度も繰り返し読んだが、翻訳すると一定の文体を最初に設定した後修飾やらなんやらの技巧や特殊な単語をどかどかのせたあと文章のドライブ感をガンガンあげていくみたいな感じだろうか。翻訳してどうするんだ。

さて、村上春樹訳だが──元々の訳とはかなり違う。印象的な場面ひとつとっても、まるで意味が違ってきている。村上春樹は翻訳についてそれは作品を解釈するのだという趣向のことをよく言っているが、村上春樹の解釈が、たしかに訳を比較していくだけでよくわかる。たとえば俳優と元の訳が書いているところで、村上春樹訳ではアーティストと、より広い意味での芸術家としての言葉が使われていたりする。

僕は村上春樹訳の補い方、解釈の方が全体的に好きだな。新訳となって、これでまたサリンジャーの作品に触れる人が出て、その人達がまたサリンジャーの魅力にとりつかれるだろう。いつ何時、どんな立場になってから読んでもどこかしらに居場所がある、そんな作品だと思う。

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

無声映画のシーン by フリオ・リャマサーレス

この世にはいろいろな小説がある。どきどきわくわくするような冒険譚があるかとおもえば、未来世界を延々と描写していくものもある。そうかとおもえば使える文字がだんだん減っていく小説があったりする。そしてこの『無声映画のシーン』のように、淡々と町の描写をし、幼かった頃の記憶、体験を写真から引き出していく、ほとんど自身の回想録のような、ドラマとしての高揚感こそないものの、一個の町の形が読み終えた時にすっかり頭のなかに構築されているような、小説ともいえない小説もまた小説の中に含まれる。

著者のフリオ・リャマサーレスはスペイン産まれスペイン育ちで、1957年から1969年にいたるまでの少年時代を鉱山町オリェーロスにて過ごした。本書は鉱山町オリェーロスを舞台に30枚の写真を一枚一枚取り上げ、そこから記憶を引き出していくことによって28の短編としている。だから時代も取り上げられるトピックも人も全部ばらばらで、断片的に街の移り変わりが立ち上がってくる。これが、またなんともいえない感覚を読了後に呼び起こしてくれる。こうして思い返しながら書いていても、随分と不思議な小説だと思う。

テレビがやってきた時に、ひと目でも画面がうつるところをみようと周りに人が集まってくる。月着陸の場面をみようとテレビに人が群がっている。語り手はうっかり寝てしまい、あとには人が去ったテレビ周辺と、ザーザーという無情な音、わずかに残った人たちはまだ月が映っているかのように画面を見つめている。

鉱山では割のいい賃金を得ようと出稼ぎ労働者が集まってきて、その人たちはろくな粉塵対策もしていないばかりに肺をこちこちに硬くさせ、ぼんやりと外を観続けたまま静かに死んでゆく。鉱山で生き埋めになるものが大勢いて、何かあった時にかけつける車は全員に覚えられ不吉の象徴とされる。質の悪いテープでしょっちゅう切れるわ、テープが届かないわ、と虫食い状態の映画をみながら想像力を養っていく少年。

まあとにかくいろいろなことが整備されていない時代だった。多くの変化が一度に押し寄せて、変化に対応し安定を築き上げる前にまた別の変化がやってくるような。それも当然「今から考えれば」ということではあるのだろうけれど。この後きっと鉱山は整備され人は肺をやまない方法を学び、ぼろぼろのテープしか流せない映画館は駆逐されていく。それでもここで描かれている時代は、まだその大きな変化の前がほとんどだ。それらを劇的に書くのではなく、ただ現実にあったことを書いた、しかしただ書くのではなく、より何かが立ち上がってくるように。

なんでもないような描写でさえも染み渡ってくるような文章で、心地よく漂っている気分を味わうことができるだろう。穏やかで、読んでいるだけでほっと安心できるような。この世にはそんな文章もある。こういう文章を読み、それを自分の中に浸透させていくことは、はっきりと何かに役に立つわけでなくても、読み手の人生を豊かにしてくれるものだと思う。逃避手段というわけではなく、この世にはこんな表現もあるのだ、という驚きが、やはり肝だろう。

そしてまさに「町を立ち上げた」とでもいえそうな、町とそこに暮らす人々の描写は回想録であっても小説であっても極上の出来だ。虚構を受け入れる、自分の中に立ち上げるというのは自分の中に別の人生を持つことだからだ。どんなにがんばって自分の中でそれを構築しようとしても、下手くそだとまるで立ち上げることが出来ない。本書は特に鉱山の町に存在している様々な人たちの印象が強く、頭に残ったままなかなか離れてくれない。

たとえばそれは鉱山仕事で肺を患って、家にいてもなんにも感心を示さず、何時間でもぼんやりと外を眺めていた、肺を病んだ友達のお父さん。ほとんど返事もせず、ときどき咳き込んだり横に置いてあるかなだらいにぺっと真っ暗な痰を、肺からというよりかは魂から出てくるような着物悪い色をした痰を出す。当然すぐに死ぬ運命にある。読み終えてしばらく経ってもこの町と、そこで暮らした人々、行われた体験は僕の中でずっと残るだろう。

が、そうしたことはもうすべて語り手の中では過ぎ去ったことであって、そこに特別な思い入れもない。ただ写真にうつっていることから連想されていっただけの、彼の記憶からしてみれば、通り過ぎていって、もう戻ってくることのないものたちだ。村上春樹は『使いみちのない風景』という本の中で『人生においてもっとも素晴らしいのは、過ぎ去ってもう二度と戻ってくることのないものなのだから。』と書いた。

その意味が読んだ時はよくわからなかったが、今こうしてまさにそうした『過ぎ去ってもう二度と戻ってくることのないもの』実感して、もっとも素晴らしいかどうかはおいておけばたしかにこれはなんだかよくわからないが素晴らしいと思うようになった。淡々と、時には印象的な一人を、時には語り手にとって印象的なイベントをあげることで町の細部を書き出していく。その過程で、町が鮮やかに立ち上がってくるのだ(イメージは時代的な背景と、鉱山という場所柄もあって灰色なのだけど)。

無声映画のシーン

無声映画のシーン

とっぴんぱらりの風太郎 by 万城目学

万城目学さんによる時代小説。どうもそういうイメージがなかったのでこれを本屋で見かけた時にはわりと驚いた。きっちりとした時代小説であることもそうだし、その長さにも。Kindle版で読んだのでページ数はわからなかったが、今調べると750ページ近くある。今まであまり長いものを書いてきたことがない作家が、突然出してくる大長編というのは大当たりか大外れかが多いという個人的な印象があるのだが、本作については幸いな事に前者だった。つまりは面白い。

時代は1600年頃、ちょうど江戸幕府がおこったころである。戦がなくなり、さあこれからは徳川の時代で長い長い平和(小競り合いはもちろんあれど)が続くぞといったときに戦乱の遺物である、忍者たちがいかにして生きるのかというのが本書の主軸である。『とっぴんぱらりの風太郎』とはあるものの、実際の読みはぷーたろうである。自身の苛烈な「忍者」という枷を外されて、どうやって生きたらええねんとだらだらぷらぷらしている割合どうしようもない男が主人公だ。*1

そんなふうに自分が何をしたらいいのかわからずにぷー状態の人間など、現代では周りを見回してみれば、いくらでもいる。時代は400年以上前だとしても、問題設定、気分としてはまことに現代的である。さて、そんな現代的な気分の中で繰り広げられる筋としては、おおまかにいって二つ。いかにして御役目から開放されてしまった隙間をうめていくのか、というのがひとつの筋である。そしてもうひとつの筋は「束縛と自由」の問いかけだろう。忍者は最たるものだが、普通御役目から開放されて自由なんてことにはならない。

忍者にかぎらず、立場的に自由な行動をとれない人間が幾人も出てくる。こうした人間たちがいかにして「自由」を獲得し、自分の行動を自分自身で決定していくのか。とはいっても面白いのが、決してかっこいい理由や、崇高な理想が根拠たって胸にわいてくるような話ではないところだ。むしろ幾度もの偶然が積み重なり、事態にどんどん巻き込まれていくうちに、いつのまにかやらざるを得ない状況に追い込まれていたり、やる理由を見つけ出していたりする。

結局人間、何かををやりたいと理念が先行して行動を始めるのではなく、むしろ体験の中に身をおいて、その中からこそ様々な理念や理想、行動の方向性がうまれていくのだろう。そう思わせるようなお話なのだよな。なにしろ物語の始まりからして、ある時点からの回想として始まっている。その始まりは、『そもそもが、こんなはずじゃなかった。』なのだ。なにもかもこんなはずじゃなかった。こうなるなんておもってもみなかった。しかしそうなってしまったし、そうするほかなくなってしまうものなのだ。

主人公のぷーたろうは、ぷーたろうのくせに忍者という御役目から解き放たれて、しばらくは「俺は忍者に戻るんだ」と頑なに自分の元の道へ固執している。意識高い系忍者、あるいはこき使われても戻りたいと思う社畜系忍者なのだ。ところが日々をブラブラと過ごし、かつて相棒であり異国で価値観を身につけてきた忍者とやりとりをかわしていくうちに、忍者というかつての自分の使命だったものへ拘る理由がそれほどあっただろうかと自問するようになっていく。

縛られない状態を体験し、外の世界を知ったことで、当初思っても見なかった「忍者以外として生きていく」というある種の自由を実感していくことになる。それは実際に「放り出された」からこそ産まれてきた感覚だ。その後も彼は自発的な意志ではなく、周囲からの圧力や、生活のための止むに止まれぬ事情から様々な行動を起こし、否が応でも大きな流れの中に取り込まれていく。「そもそもが、こんなはずじゃなかった。」出来事の中で彼は自分の立ち位置を見つけ出していく……いや、見つけ出さざるを得なくなる話なのだといえよう。

忍者小説

冒頭からまるでハリウッド映画のオープニングかなにかのように城へ潜入するところから始まる。橋番にはあらかじめ吹き矢の針を仕込み、意識を朦朧とさせる。橋番の隙をついて、たやすく橋を通り、二の丸に侵入、内堀の手前まで到達する。堀には切っ先の鋭い杭が隙間なく打ち込まれているが、得意の肺活能力をいかして、杭の先端をつかみながら対岸まで辿り着く──。おお、ちゃんと忍者してるじゃん。主人公のぷーたろうの特技は肺活量がすごいという「そんなんでいいんかい」的な能力だが、他の忍者たちにもそれぞれ特技があるので、ゲームユニット的で面白い。

著者がメタルギアソリッド好きなこともあってか、スニーキングミッションを書くぜ! とやたらと細かく描写し城へと潜入していくのでそれがまた愉しいのだ。ユニット能力的な意味でも、任務遂行のやり方についても、忍者小説としての魅力が大きかったように思う。僕はどうも万城目学さんの書くキャラクタというよりかは、こうした細部への目が好きなんだよなあ。といっても、毎度すぐに見つかって忍者の癖に派手な斬り合いをばっちりやってくれるのだが。

殺陣の納得度

しかしその斬り合いも、納得度がちゃんと出ていてよかった。

殺陣の納得度とは何か。たとえばAとBが戦った時に、片方が勝った理由がよくわからないか、なんかよくわからんが強くて勝ったみたいな状態だと「えええ??」と納得がいかない。これは当然ながら納得度が低い状態だ。これは共感してもらえると思う。しかしなぜそんなことが起こるのか。それはたとえば「力関係が明確ではない」といったことがあげられるだろう。こうした明確な力関係の明示がないと、たとえば「主人公は超強いです」とだけいって「一般人との差」「ちょっと強い一般人との差」がわからない。そうするとどんな状況であっても「主人公は勝つ」しかなくなってしまい、闘いの場面にさいして勝つことへの納得でいえば「ただ主人公は強いから勝つ」みたいな残念なことになる。逆に負けたとしても「なんで負けたかよくわからねえ」ということになる。

じゃあどうすれば納得感が出るのかといえば、たとえば本作(とっぴんぱらりの風太郎)では忍者と一般人、一流の忍者と二流の忍者とそれぞれ明確に力関係と力の差が設定されていて、イベントごとに彼我の戦力差で「苦戦」するときの説得力がある。ユニット毎の力関係が明確に定められていると、その時々の状況での「ヤバさ」みたいなのが読んでいる側にもすぐにわかるようになる。たとえば一般の武闘派ぐらいであれば忍者一人で数人倒すのはなんとかなる。忍者vs忍者だと流派にもよるが基本的に互角。つまり忍者10人対こちらが多少腕のいい忍者3人とかだと普通にやりあったら絶対に勝てない、といったそうした「絶望的な状況」が明確にわかるように設定されている。

もちろんそのままだと勝てない。状況のわかりやすい設定が完了したらあとは「いかにして勝敗に納得感を出すか」の細かい話になっていく。忍者10人対忍者3人のような勝負で、「Aは死に物狂いの力を出してBを刺し殺した」といった描写で勝敗が決着してしまうなら、そこには納得感などまるでない。「なんだかわからんが勝っちゃうんだ〜〜」と思うだけだ。他にも突然「最初に設定したはずの力関係が突如変わる」ような現象、勝てるはずのないと一度は設定されたような状況が特に理屈なくくつがえったりすると「殺陣の納得度がない」ということになる。一方で忍者10人対多少腕のいい忍者3人で状況が設定された場合、3人が勝つだけの納得度の高い理由が演出されていると「殺陣の納得度がある」というわけだ。

本作ではその説得力の一つとして、「肺活量がすごい」「火薬を扱うのがうまい」「毒の扱いが得意」といった特殊能力持ちユニットがそれぞれの能力をいかして戦場を撹乱していく。もちろん不意を打つとか、相手の知っていない情報を突然喋って同様を誘うといった作戦の有無でいくらでも状況が変わっていくのだが、それがアクセントと戦力差がある時に逆転する論理になっていて面白い。舞台演出も凝ってるし。ただ多少ケチをつけるのならば敵の魅力が薄いことで、特殊能力持ちのネームドキャラもほぼいないし、作戦的に優れているわけではなく「単純に人数が多い」ぐらいしか絶望感を与える手段がないのは残念だったか。

まとめ

会話は軽妙だがハードな世界観だ。ま、忍者だしね。人は死ぬし、殺すし、身体は斬られる。主の命は絶対だし、それに違反すればまあ、殺されるしかないよね、ということで今までの万城目学作品とはずいぶん趣きが異なっている。が、そうした普通に死ぬ世界でしか、ハードな世界観でしかありえない「忍者の悲哀」もまた描かれているのであって、先に書いたような殺陣の完成度、スニーキングミッションの作り込みもあるし、ずいぶん完成度が高い。時代小説に時間を移した甲斐は充分にある作品だ。

とっぴんぱらりの風太郎

とっぴんぱらりの風太郎

*1:ちなみにとっぴんぱらりの方は、『秋田県地方において、昔話等の物語の最後を締める言葉。結語。』とはでなキーワードにはある。おしまい、おしまいみたいなものだろう。

小説のタクティクス (単行本) by 佐藤亜紀

創作物と受け手がそれを受容した時、その快楽はどこから、いかにして生まれるのかを解説してみせた佐藤亜紀『小説のストラテジー (ちくま文庫)』 - 基本読書の続編が本書『小説のタクティクス』になる。記述の運動によっていかにして読み手の応答を引き出し、どう組織化し形態を与え、より大きな快を与えることが出来るかが「戦略」だとするならば、タクティカル、戦術とはいったいなんなのか。この問いについては、なんらかの反応を引き出すことを小説の目的だとしたときに、状況に応じて入れ替える「中身」「様式」が本書で取り扱う「戦術」にあたる。

本書は小説のタクティクスといいながらもその中で取り上げられているのは多くが絵画や彫刻、あるいは映画といった小説以外の表現物だ。それでも同じように人間が創りあげ、他者にそこから何らかの反応を引き出そうとする目的においてはすべては共通しており(カメラを使うのか文章を使うのか石を使うのかに違いでしかない)、何十年といったあとにたどる末路も同じである。抽象的に表現における現代の様式を切り取ってみせる。

「中身」「様式」といってもさっぱりわからないだろうから、多少解説が必要だろう。

ある作品を何年も何十年も、時には何千年も経てから我々が受容するときに、知ることができるのはその作品の「形式」のみである。本書では彫像で最初にたとえられているが、これは実際に形があるのでわかりやすいので踏襲しよう。古代ローマの皇帝を表した二つの彫像がまずある。身長2メートル程度、非常に美形に造形されたアウグストゥスの彫像がひとつ。もうひとつは目がぎょろりとしお世辞にも美男子とはいえない、何か異様な形相をしている身長12メートルの巨像の頭部、コンスタンティヌス像である。

いってみればこの形の違いこそが「形式」の違いである。我々はこの二つの彫像形式を見た時に「内容」を想像する。たとえばコンスタンティヌス像は顔がブサイクだし目がぎょろりとしすぎているし下手くそだと思う人もいるだろう。一方等身大を遥かにこえる12メートルの巨像として存在し、ぎょろりとした目でこの世を超えた世界に向かって目を見開いている像をつくった理由に思いを馳せるかもしれない。元首とは何かへの認識の創意、神と人間と統治者の関係の認識の相違であろうと読む人もいる。

いろいろ想像は可能だが、我々の目の前にあるのは中身の何も詰まっていない空っぽの形式であって、受け取る側に可能なのはその形式を観察し、特徴を見て、そこからいろいろ推察してみせることができるのみ。中身はすでにないのだから、何かを流し込むしかない。作品とはそういうものだというのがまず本書の前提としてある。空っぽの器、形式によって存在するもの。それが作品であると。創りあげるときには当然そこには何かが入っているのだろうが、見るときにはそれは失われているのである。

解釈は元あったものをいかにして忠実に再現するかという問題ではない。空っぽの器を前にして、自分なりの解釈、内容を収めてやることだ。『これが、何故、形式が戦略に属するのか、の理由です。形式とは、鋳型の中を覗いたら窺えるであろう空洞であり、それを仕上げることが、作品を造る、ということなのです。*1彫像の例をあげたように、作品の表現形式というのは「創作側の世界認識の違い」によって産まれてくる。その差異を本書では「様式の相違」と呼び、芸術における戦術の問題をこの様式の問題と接続してみせる。

故にある意味でこれは、「現代を捉えた表現があるとすれば、それはどんなものか」を佐藤亜紀さんが捉えなおしていくお話だといえよう。現代評論というか、先のことばでいえば「現代作品の形式、空っぽの器の中に解釈を流し込んでいく」過程だ。

それは例えば現代においていえば、人間性の変質と世界の安定性への信頼の崩壊によって表現される。9.11が起こり、次の瞬間に何が起こっているのかわからない不安定な世界が前提になり、人間はかつて思い浮かべられたような「自律的に前進し挑戦し何事かを成し遂げていく人間」ではなくより「顔」の喪失した群衆としての存在として描かれていくようになっている。『宇宙戦争』において数々の主役をはってきたトム・クルーズを市民の中に埋没させてみせる。

『虐殺器官』や『ハーモニー』といった伊藤計劃作品においては、身体どころか意識さえも操作可能な「機械」的な人間像へと変化している。世界が不安定であり個人さえもあやふやになってきたというのならば、自分自身を獲得していくドラマは成立しがたい。これからの「新しい小説の様式」はこれまでの「近代小説」とはちがって、まったく別種のものになるだろうという話が続いてゆく。

上記のような流れで様々な作品があげられていくが、先にあげた作品群に下りの船の佐藤哲也といったSF小説やトゥモロー・ワールドといった映画作品、絵画へと幅広く及んでいて、特に絵画や彫像について、まったく知らないに等しいので解説がおもしろかった。一枚の絵画の、描写から読み取れる情報があまりに多く、現代の様式とはなんぞやといった切り口で絵画や映画、小説をを観測し、確かにそこには一貫したものがみえてくるところが面白いのだよね。

そこについてなるほど、と思う。それが佐藤亜紀さんが流し込んだ現代表現物、というかこれからの表現への解釈なのかと。たしかに『ミノタウロス』でも佐藤さんの表現は宇宙戦争に代表されるような「無根拠に、運不運の差で突発的に現れる暴力」が作品を支配していた。実際に自分でも実戦されていることがここには描かれている。ところが僕は正直「不安定な世界」とか言われてもまるで実感がない上に、万人に約束された固有の顔(キャラクター性というか。)がグロテスクな虚構の上にしか成立しないといわれてもよくわからないのだよなあ。

たとえば新しい小説の様式として考察されている下記のものについてもよくわからない。

5 「顔のドラマトゥルギー」は放棄される。世界がもはや安定した場所ではないことが暴かれた以上、自らの顔を獲得する人間、というドラマは成立しないからだ。「事故」からなり「運が悪かったから」に支配される世界において人間の顔とは、束の間出現し次の瞬間には消え去るものとなる。ただし、その一瞬の「顔」は美しい。

なんというか、現代って不安定な状態で安定しているというか、不安定だけど、だから何なの? と思うわけだよね。突然飛行機が突っ込んでくる世界ですよここは。人間がいて、飛行機があって、人間は飛行機を操縦できるんだからあたりまえじゃないですかという。人間がいて、爆弾があるんだからそりゃ腹にまいて突っ込む人もいるでしょうよ。だがだからといってそれが「自らの顔を獲得する人間、というドラマは成立しない」に僕の中ではまるでつながらない。

生まれ落ちた場所、人種、性別や階級によって「固有の顔」を獲得できる時代ではないことが自明になった世界であることは確かだ。しかし不安定な世界だったら不安定な世界なりに自らの顔を獲得していく人間、というドラマを書くだけなんじゃないかなあ。実際そういうことを書いているのがマルドゥック・スクランブル 完全版 - 基本読書というシリーズだし、いくらでも新しい状況に適応した小説の様式って産まれてきているのではないかと思う。『赤目姫の潮解』だってこうした文脈から捉えられる。

こんなに懇切丁寧に説明していただいて本当に申し訳ないのだが、故にあくまでも「佐藤亜紀解釈」として楽しむことはできてもそれが「現代の様式なのだ」とはどうしても思えないのであった。

小説のタクティクス (単行本)

小説のタクティクス (単行本)

小説のストラテジー (ちくま文庫)

小説のストラテジー (ちくま文庫)

*1:p24

蠅の王 (新潮文庫) by ウィリアム・ゴールディング

有名作だと思うがどんな意味で有名なのかはわからない。ガキンチョ共が果物がいっぱいあって豚がいてとりあえず飢えて死ぬことはない極楽の島に飛行機の墜落の結果辿り着く。時代は近未来で何らかの大戦中の攻撃であった。その島では大人は一人もおらず子供だけの楽園だが次第にぐだぐだした状況に陥っていく……。本書を読んだきっかけは天冥の標シリーズの次回最新刊(天冥の標 7 新世界ハーブC)の最初の構想がこの蝿の王を五万人でやるっていうとんでもな発想だったのをきいたことだ。

もっとも書いてみたら全然違うものになった、っていうお話だったのだけど(ハヤカワSFコンテストでの話)、それはそうと読んでみる。まずは驚くのが、不愉快なやつらばかりがいることだ。みんなそれぞれクソったれ野郎で、天使のような子供なんて出てこないし、聡明なだけのヤツなんかいないし、場をかき乱し自我が制御できない憎たらしい小僧ばかりである。子供なんてみんな憎たらしいから(特に小僧は)リアリティはある。

三人称視点で進んでいくが、一人中心において書かれる主人公はいる(ラーフ君)。かれは漂流した子供たちの間では大きい方なので、最初に子供たち軍団のリーダーとして君臨することになる。ところがこいつ(ラーフ君)がまた無能で、子供たちの軍団をまるでまとめあげることができない。誰もいうことをきかないし、小屋をつくろうと言っても火を燃やして煙を上げ続けようと言っても誰もいうことを聞きはしない。

まあ、しょうがない。相手は子供なんだし、自分だって子供なのだから。うまくいかなくなると小猿みたいに火をつけろ火をつけろとわめき続けるだけの木偶の坊となってしまう。まるでリーダーらしくない。その傍らには理屈ばっかりこね場をかき乱すピギーちゃん(といって馬鹿にされる)ふとっちょがいて、こいつもまたなかなか正しいことを言うのだがその言い方が相手を馬鹿にしきっているように表現されていてまた嫌なやつだ。

いうことを聞かない奴らばかりでラーフがリーダーとして苦悩するのもわかるが、ラーフもその側近も、自分自身の制御ができていないので本来平和なはずの食料豊富な無人島はどんどんギスギスしていく。ギスギスして子供の喧嘩のようになるぐらいだったらかわいいものだが、争いが始まり、最初のチームは分裂し、お互いがお互いに意図したものであったのか、あるいはたがが外れてしまったのか、危うい均衡を崩す一瞬のあと、カタストロフ的事象に島全体が巻き込まれていく。

本書は実際的な意味ではなく、精神的な意味で救いのない話である。善と悪のような対立の話であればどれだけ単純なことか。というのも本書は、なんかもうこうなっちゃったらまじでもうどうしようもないよな、といった感じでグダグダと人間関係がダメになっていくのを書いているからだ。子供たちは勝手に悪魔を想像し、存在してもいない現象を見、いもしない敵を想定し、よく自分の目でみて、ちゃんと考えてさえいれば必要のない悪事に手をかけてしまう。

でもまあ、そんなことっていっぱいありふれている、子供にかぎらず。ネットで呪詛をまき散らす人々などをみているとそう思ってしまう。敵と戦っていると宣言しながら、自分自身の頭のなかに創りあげた敵と戦っているだけのなんと多いことか。結局自分自身と戦っているようなものだ。他人をだますのはなかなか難しいが、自分をだますのはたやすいものだ。だからこそ、自分が幻と戦っていることを知覚するのは、難しい。

本書の中盤あたりで、きっかけが何だったにせよ、一度取り返しの付かない罪をおかしてしまうことで歯止めが効かなくなっていく。そこには群集における心理過程だったり、宗教を産み出す心理だったり、民話が生み出されていく過程だったりが反映されていて非常に面白いシークエンスではあるのだが、人類が原始時代からつちかってきた過ちを再度やり直していくような「運命」として描かれることへの不快感がある。

彼らはどこかで引き返すことは出来なかったのか? どこかで理性的になり、誰かが彼ら彼女らの目を覚ましてやることはできなかったのか? 幸せに、無人島で協力していく未来は? いくら考えても「脱出経路」がみえない状況に叩き落とされていく。読み終えて思うのはまるで子どもがさんざん遊び散らかして寝てしまった後のような「あーあ、もうこんな散らかしちゃって……」という「いかんともしがたさ」。少年少女達が、血反吐をはきながらその環境に身をさらさなければいけない描写を延々と読まされるのだから読後感は最悪に近い。

すべてが台無しになってしまうような最悪の状況、反吐にまみれたような状況を書いてそこから精神の輝きを取り出してみせる作品は多くあるが、本作は反吐を好きなだけ撒き散らしておわったかのような作品だ。しかし一方で、この「どうしようもない」感覚が、強く印象に残ることも確かなのだ。それは僕も「ダメな方、ダメな方へと事態が転がっていってどうにもならない」ことへの共感的な感覚を常に抱えているからなのかもしれない。

蠅の王 (新潮文庫)

蠅の王 (新潮文庫)