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「最初の患者」たちが果たした役割を正当に評価する──『0番目の患者 逆説の医学史』

0番目の患者 逆説の医学史

0番目の患者 逆説の医学史

この『0番目の患者』は、医学においてスポットライトがあたり、病気の名前を冠されることも多い、それを発見したり治した医者の方”ではなく”、その症例をはじめて発症した患者の方に注目した、副題にあるように逆説の医学史である。

最初の患者っていうんだったら0番目じゃなくて1番目の患者なんじゃないの、と思うけれども、感染症学では集団内ではじめて特定の感染症にかかった人のことを「ゼロ号患者(Patients Zero)」と呼ぶ慣習があり、本書はそれに則っている。これは通常感染症患者にたいして用いる言葉だが、本書ではその定義を意図的に拡大解釈し、アルツハイマー病、AIDS、外科医学に精神医学など様々な領域に適用している。

最初の患者たちの役割と成果を正当に評価する

0番目の患者ってだけでそんなに書くことある? と疑問に思いながら読み始めたのだけれども、すぐに患者の側にも様々なドラマが存在していることに気がつく。名前のない病気にかかる時点で十分に悲劇的であり、治療法も確立されていないので、悲惨なケースに発展するケースも多い。さらに最初の患者として長く不快な検査に耐え、死体を提供してきた彼らがいなければ医学の発展など存在しなかったわけだ。

 近代医学の誕生は、医師が患者と向き合い、対話しながら診察するようになってからのことだ。とはいえ、これまでの医学史は患者をないがしろにしたまま、医師の手柄話、治療法や試行錯誤の過程など、もっぱら医師たちに焦点を当てつづけてきた。しかし、野戦病院や臨床の現場、検査室、診察室で自らの身体や傷口を辛抱強くさらしてきた者たちこそが、医学の歴史に大きな貢献をしてきたのだ。

近代医学の祖としてたたえられるアンブロワーズ・バレは、戦場で負傷した兵士たちの手足の傷口を手当するのに、当時一般的だった煮えた油をそそぐ灼熱止血法の代わりに血管を糸で縛って止血したが、これだって新しい治療法を受け入れた兵士たちという0番目の患者あってこそのものだ。本書は、このように医学史の中では忘れられがちな、最初の患者たちの役割と成果を正当に評価しようとしていく。

傷害を負うことで医学に貢献した患者たち

今はMRIなどを使って頭蓋骨や体の中をみられるようになったが、それ以前は、異常があるのだとしたら患者の死を待つ必要があった。死後解剖することで、脳の(その人だけの)特質が明らかとなり、病気と脳の特性が紐付けられるのだ。

たとえば、最初に紹介されるのは脳の言語領域の特定に貢献した男タンタンだ。完全に言語能力を失っていて、何を聞かれてもタンタンとしか答えられなくなったこの男は、壊疽の症状が現れなすすべもなく死んでしまう。病棟のポール・ブローカという高名な教授が死体を解剖したところ、左大脳半球の前頭葉に神経梅毒による損傷を見つけた。ブローカはこの損傷が言語障害に関係しているとし、それが脳の言語中枢の発見につながることに鳴る。1861年のことであった。タンタンの脳に損傷があった箇所は今ではブローカ野と呼ばれて広く知られているが、それは、裏にこうした脳に損傷を負い、言語が使えなくなった(わかりやすい)患者がいたからこそだ。

脳繋がりでもう一例紹介しておくと、脳の可塑性の可能性を示した、「脳のない男」がいる。この男、左脚が脱力するといって病院にきたのだが、CTとMRIをとって脳を確認してみると、そこには脳がなかった。正確には脳が髄液で満たされていて、頭蓋骨内の90%が液体で、サミュエルの脳はヒト以外の霊長類よりも小さかったという。それでも知能指数は75、言語知能指数は85もあり、結婚もして公務員として正常な生活を営んでいた。『サミュエルのCT画像には記憶と身体の協働運動に必要な脳の中枢構造が写っていないのに、当人には対応する傷害が何もないのだ!』

ズラッとみていくと、特に脳の機能は実験としてわざと傷つけてみるわけにもいかないので、意図せずして脳を損傷したりして、人間のどの機能に傷害が起こるのかを検証する形で発展してきた歴史がある(前頭葉を貫通する形で鉄の棒が突き刺さって攻撃的な人間になったフィネアスとか)。特に脳科学については、ゼロ号患者たちによって発展してきたと言ってもいいだろう。

おわりに

1953年、献血にいったマッキー夫人が血液型を調べてもらうと、A型とO型が混在していた──という、「ヒトにおける血液型の混合」のゼロ号患者の話とか、子供に高確率で遺伝する、発達性言語協調傷害を患ったゼロ号患者一族の話とか、性自認と体のズレからくる性別適合手術や精神医療にかかって、体と精神をめちゃくちゃにされた、初期の患者らの話など、多角的に患者たちの姿を描き出していってみせる。

基本的には事例、エピソード集であり、医学史といえるような体系的なものではないのだけれども、これを読んでいると医療における患者の重要性がよくわかる。多くのケースで、医者はちょうどいい患者が自分のもとに転がりこんでこなかったら、その名は今ほどには世の中には残っていないのだ。「最初の患者」はいつも医療を前進させてきた。そのことがよくわかる一冊だ。

地下を通して、数千、数万年後の祖先に我々は何を遺せるのかを考える一冊──『アンダーランド──記憶、隠喩、禁忌の地下空間』

この『アンダーランド』は、大自然を相手にした旅行記に定評のあるロバート・マクファーレンによる、地底をめぐる紀行文学である。マクファーレンは本書の中で、イングランド南西部で青銅器時代の墳墓を探索し、ダークマターの検出など、科学的な実験のために用いられている地下科学施設におもむき、ある時は氷河の中にロープを用いて降りていき、最終的には核廃棄物を収容する地下施設にまでいってみせる。

「地底」と一言でいっても、訪れる場所の種類がやけにバラついていて、話にまとまりがあるのかなと少し心配しながら読み始めたのだけれども、地底の旅に「時間」と「人新世」という二つの中心を付け足すことで一貫性が生み出されている。様々な文学作品や神話からの引用に彩られた文章も素晴らしく、たいへんおもしろかった。

時間と人新世というテーマ

地下には嫌なもの、見たくないもの、隠しておきたいものが送り込まれるものだ。また、意図せずして地下の奥深くに物がしまいこまれ、何万年も経った後に表出してくることもある。そうした、場合によっては何万年も開けられることのない地下空間には、地上とは隔絶した時間が流れている。本書の原題は『Underland: A Deep Time Journey』で、悠久の時間の旅についての話なのだ。

また、我々は地下から目を逸らそうとするが、時には地下から漏れ出てくるものに相対しなければならない。「目を逸らすことができない地下から漏れ出る物」その具体例として本書で取り上げられていくのが、もうひとつのテーマである「人新世(ひとしんせい)」だ。現代においては人類の活動が地球の生態系や土壌、気候に支配的な影響を与えるようになっていて、こうした新しい地質年代を表すものとして、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンが考えだしたのがこの人新世である。

北極圏では、古い時代にたくわえられたメタンガスが、永久凍土の融解にともなって地球地表上に漏れ出ている。著者が一見したところ地下とあまり関係がない北極圏にまでいって氷河の中に入っていくのは、こうした地球環境の変化をとらえ、長大な時間の視点から地球の過去と未来を考えるというテーマに沿ったものだからだ。ダークマターについて語った章だけ浮いているが、これも宇宙創成にふれることで、有給の時間に触れるという観点から。読んでいてかなり強引に感じはしたけれども。

悠久の時間を意識することによって、人は過去から未来へつながる数百万年もの時間のなかで贈られ、引き継がれ、遺されてきたものの網目のなかにいると感じ、自分たちのあとに来る時代や存在に何を遺せばよいかを考えることもできる。

氷河

個人的におもしろかったのは、氷河の中に入っていく章と、核廃棄物の処理場についての話だ。そもそも、グリーンランドの章が始まった時は氷河って入るような地底なくないか?? と思いながら読んでいたが、氷河にはムーランと呼ばれる穴が空いていて、著者はそこに入っていく。ムーランとは、氷の溶けた水が溜まって、それが氷点をわずかに上回っているため、溜まった場所が次第に窪んでいき、最終的に窪みが大きくなっていって、巨大な穴になった場所のことをいう。

ムーランは、数センチ程度のものから、100メートル以上の物もある。氷河の融解が進むにつれムーランの数も増えていき、ムーランが増加することによって、氷河の中に水が流れ込むことでさらに氷が溶けてしまう。著者は体にロープを結びつけ、ムーランの一つに降りていく。結局、氷河に穴が空いた部分でしかないので、降りていった先に特別な景色があるわけではないのだが、降りるまでの過程が旅行記として実に楽しい。ムーランの奥深くで流れる、水によって空気が動いて鳴る特殊な音。三頭の雄大なクジラとの遭遇、巨大な氷塊が海に落ちていき浮き上がっていく瞬間、燃えるようなオーロラ。ほぼ文章だけだが、非常に美しく、雄大な景色の描写が続く。

核廃棄物

ラストは核廃棄物補完所。これも、行くのはフィンランドのオルキルオト島にある核廃棄施設で、その施設自体は順当に案内係の人間に案内されるだけでたいしておもしろくはないのだけど、核廃棄所にまつわる話がおもしろい。たとえば、核廃棄物について考えるためには、通常の時間尺度から離れる必要がある。ウラン235の半減期は約7億万年だ。そのようなものを保存し、しまっておくためには、新しい記号論が必要とされる。たとえば、時代を超えて文明が移り変わったり崩壊しても、それが危険なものだと後世の人間に示すためにはどのような記号を用いるのが良いのか。

人間が人間である限り「危険だ」と認識できる記号など、存在するのだろうか。まさにそうした疑問を検討するために、1990年頃には、原子力記号論という研究分野が生まれた。そして、アメリカでは、ユッカマウンテンやニューメキシコ州で建設中だった核処理廃棄物施設で、今後一万もの間、埋蔵場所への侵入を防ぐための標識システム構築のために、ふたつの独立した委員会が設立され、人類学者、建築家、歴史家、グラフィック・アーティストらが意見を述べた。

そこで出てきた意見に、棘の景観やブラックホールの絵、威嚇するブロックを設置してはどうかというものがあったが、そうした攻撃的な構造は「ここには竜がいる」という警告ではなく「ここにはお宝がある」という誘因として働いてしまう危険性もある。ムンクの叫びのような恐怖を感じるイメージを残すという案も出されたが、記号学者にして言語学者であるトーマス・シーべオクは変化しても働きを失わない超越的なシニフィエを見つけることはできないとして、別の案を提案している。

長期的で能動的なコミュニケーション・システムを作って、その場所の性質を物語や民話、神話などを使って伝達していくことだという。ようは原子力教団みたいなのを作って、そこに改作や修正を許容した柔軟さを持つ、神話を作り出すのだ。SFではよく使われている手段ではある(何千年も経って、意味は殆ど失われていても近寄ってはいけない、触れてはいけないなどの単純な感情だけは伝わっている)。うまくいくかどうかはともかくとして、なかなかに物語的な興味を惹句する案である。

しかし、数千、数万年残る伝達手段を、と考えた場合は、こうした発想の飛躍が必要になってくるのだろう。ニューメキシコ州にある廃棄物隔離パイロットプラント(WIPP)は現在のところ2038年に封鎖されることになっているが、その場所につける標識はまだ検討中で、その計画には社会学者やSF作家が加わっているという。

おわりに

我々は数千、数万年後の人々にとってよい祖先になるために何ができるだろうか。地の底に行くことで悠久の時間にふれ、ダークマターにふれることで宇宙の始まりに、核廃棄物にふれることで何十世代もあとの人類の行末に思いを馳せさせてくれる、優れた紀行文学だ。

第一次世界大戦において魔術やオカルトはどんな働きをしたのか──『スーパーナチュラル・ウォー』

現代は魔術や予言には厳しい時代であるといえる。21世紀の今ノストラダムスの大予言のようなものを多くの人が信じ込む状況は想像しがたい。だが、20世紀には多くの人が大真面目に信じていたわけだし、それは時を遡るほど顕著になる。

本書『スーパーナチュラル・ウォー』は、第一次世界大戦に的を絞って、そこでオカルト、魔術、民間信仰がどのような働きをしたのかについて書かれた一冊である。兵士は様々なお守りや像を持って戦場や塹壕に飛び込んだが、どのようなお守りが人気だったのか。また、特定のものが人気である場合、なぜそれが人気だったのか。占い師や占星術師は大戦時にどのような役割を果たしていたのか、人気だったのか。

人の心のより深いところにある謎やさらに別の領域に関する歴史もまた歴史である。本書をお読みいただければ、超自然が戦争体験に関して多くを教えてくれること、また戦争が超自然体験に関して多くを教えてくれることをご理解いただけるだろう。

今もオカルト・民間信仰というのは消えてなくなったわけではない。ただ、それは第一次世界大戦時とまったく同じものが流行っているわけではなく、時代ごと、文化ごとに信仰にも細かな差異と歴史があり、本書はそれを丁寧にたどり直していくことで第一次世界大戦に別側面からの光を当て直している。端的に、非常に面白かった。

構成とか

構成としては、予言、霊・霊能者たち。占い、護身のお守りなどジャンルにわかれてそれぞれが戦時下においてどのように運用されていたのかを見ていくことになる。たとえば、大戦前後には膨大な数の予言が生まれていた。ノストラダムスや、7世紀頃に活躍した予言者など、歴史上の人物の予言が引きずり出されたほか、適当なことをいって現代の予言者として名をあげようとする人物も大勢いたようである。

有名な一人に儀式魔術師のアレイスター・クロウリーがいる。彼は別名義で1910年、バルツァベルという火星の霊を呼び出したと主張し、ヨーロッパで戦争が起こるのかという質問にイェスと答えている。他にも、ユリウス・カエサルと霊的インタビューを行うという企画があり、1909年の最初の接触時にカエサルが「何が起きようとしていますか?」の問いに「戦争、恐ろしい戦争。」と答えていた記録も出版されて残されている。カエサルにインタビューしてどうすんねんと思うが(現代にもやってる人がいるけど……)このような例は枚挙に暇がなく、そういう時代だったのだ。

この時代の予言は絶大な力を持っていて、戦争が始まってからも「(占星術師である)ムーアのアルマナックに1918年には戦争が終わると書いてあったから」といった占い経由で安心した人が大勢いたようである。

そして、戦争の開始や集結だけでなく、戦争がより大きな世界的変化の兆しであると解釈し大衆を扇動する勢力も現れる。エレナ・ブラヴァツキーによって創立された神智学運動がそれで、この勢力は千年王国待望論を推し、『大戦は大いなる宇宙的運動、善のちからと悪の力の必然の戦いと解釈』した。大戦の宇宙的意義を理解するには、有史以前の何百万年も前にはじまったアトランティス時代を理解する必要がある──と、壮大な思想・特殊な世界観が大真面目に語られているのでおもしろい。

霊、ヴィジョンの出現

霊、ヴィジョンの存在も多数報告されている。たとえば、『デイリー・ニュース』その他では、1917年にテムズ川上空に天使が出現したと報道されている。ホントに天使なんか信じていたの?? というと、実際当時ですらすでに懐疑的な扱いを請けていたようだ。1915、18年には聖母マリアの目撃証言もとられている。

戦闘区域では、戦死した人の幽霊を見るのは日常茶飯事だったという。第一次世界大戦時には莫大な数の死者が出たから、実際に幽霊がいるかいないかはともかくとして、いなくなってしまった人のことを考えすぎたり、自分が死んだ後のことを恐怖するあまりにその姿を見たり死後にも生があると錯覚することに不思議はないだろう。

幽霊を信じている人が多いということは心霊術師たちの出番ということでもある。心霊術は当時すでに非難されていたが、同時に交霊会が宗教礼拝とセラピーの混合物としての機能を果たしていて、遺族を慰めるにあたって一定の役割を果たしていたようだ。『アーサー・コナン・ドイルや著名物理学者サー・オリヴァー・ロッジ(1851〜1940)といった有名人が発表する霊媒の話は、死など存在しないという確信がもたらす強力な、そして吸引力のある慰めの表現となった。』
同様の機能をはたしていたと見られるものの一つに、民間の占い師がある。これは、自信満々でそれっぽいことを言えば女性が独りで金を稼げる当時珍しい職業であった。この占い師もまた、戦時下における民間セラピストとみなすことができる。『戦時中の占い師たちの意義は、かれらの予想がいんちきとか当たる外れるといった問題ではなく、交戦各国の集合的精神状態への影響という面で考察すべきだろう。』

おわりに

家族を失い強烈に精神が揺さぶられている状態の人間が幽霊を見たり奇怪な体験をすることは非常に理解しやすいが、それがどのような種類と形をとるのかを追求していくことで、当時の社会・文化の側面が浮かび上がってくる。

たとえば、「死人の靴や衣服を身につけるのはよくない」や「1本のマッチで3本の煙草に火を付けると3人の喫煙者のうち1人が死ぬ」といった幸運や不運に関する発想があったが、なぜそうした伝承が生まれたのかというのも、社会に根づいた長い歴史があるのである。

人類にとって壁とはなんなのか──『壁の世界史-万里の長城からトランプの壁まで』

「壁」は物語的にはそそる物体である。敵と味方をわける物であり、内部のものを閉じ込めるためのものであり、守るべきものであり、破壊されるべきものであり、人類に訴えかける「象徴」としての力はずば抜けている。トランプが繰り返すメキシコとアメリカの国境に壁を作る、great wallを作ると宣言しているのも、それが(実際の意味があるのかはともかく)人の気分を高揚させる力を持っているからだ。

本書は、広く壁一般についての本である。とはいえ、人類の歴史上あらゆる場所に壁は存在していたわけで、それらを網羅的に語ろうという本ではない。取り上げられていくのは万里の長城、ベルリンの壁、ハドリアヌスの長城、それにトランプの壁など有名なものばかりである、その政治的、軍事的、歴史的意味、さらにはもっと抽象的な「壁の意味」についてと横軸は豊かに語っていく。語り口に詩情が溢れていることもあって(「壁」を語る上では必要なものだっただろう)、非常におもしろかった。

ルポタージュと神話、現在と過去を組み合わせて示し、心と身体で壁の感覚をより身近に感じてもらえるようにしたいのだ。本書全体の目的は、こうした建造物とそれを取り巻く物語の感情面の意味を、単なるメタファーとしてではなくありのままに伝えることにある。

最古の城壁

最初に取り上げられるのは紀元前8000年頃、既知の中では最古の城壁があるイェリコだ。最古の城壁はどのような目的で作られたのか? 普通に考えたらその第一の機能である防衛のためだろう、となりそうなところだが、実はイェリコの壁は戦争とは無関係だったとみられている。紀元前8000年代に激しい戦争があった形跡はない。

最初の壁が作られた時代の埋葬地を発掘しても、男性の寿命は当時としては長かった。では、なぜ城壁はつくられなければいけなかったのか。一つ仮説としてとなえられているのは、「イデオロギー的な理由」だったのではないか、というものである。壁の内側には高さ8.5メートルの巨大なタワーがあり、太陽が沈んだ時背後の丘陵のおかげでタワーがちょうど集落に重なるように影を落とす。周囲の壁は近隣の山を象徴したもののようにも見え、『壁とタワーがつくられたのは、だれかを締め出すためではなかった。人を感動させて招き寄せるたためだったのだ。』という。

 この考えを聞いたら、啓蒙時代の思想家たちは驚いただろう。世界で最初のこの壁は、おそらく特定の目的のためにつくられたわけではなかった。壁の存在理由そのもの──差異の概念それ自体──をつくりだしたのである。「われわれ」だけでなく「彼ら」もいるという考えがここに産まれたのだ。考古学によってわれわれはイデオロギーと神話の世界にあと戻りし、へーレム、ヨシュア、ゴグとマゴグの時代にさかのぼることになった。

トランプの壁

一方で現在進行系で作り上げられようとしているのがメキシコとアメリカの国境のトランプの壁だ。本書は原題が「The Great Great Wall」であるだけあって、主題のひとつに「なぜ、トランプの壁はつくられてしまったのか?」という問いかけが含まれている。そもそも、メキシコと国境の間に壁を作ろうとしたのはトランプがはじめではなく、フェンスや監視システムはその何年も前から建設されていた。

国境にそって1000km以上のフェンスを建設する「2006年安全フェンス法」が上院を圧倒的多数で通過するなど、麻薬や不法の移民に対する強い排斥感情はアメリカの中に根強く残っているのである。だから、トランプが「壁を作る」と言い出したのは、歴史的な敬意からみると突飛な発言というわけではない。ただ、トランプ自身は大統領候補になってそうした発言を始めた時はそうした歴史的経緯について、すでに1000kmものフェンスが設置済みであったことは一切知らなかったとみられている。

『「わたしは大きな壁(a great wall)をつくる」。この新顔の大統領候補はそう宣言した。「わたしよりうまく壁をつくる者はほかにいない。信じてほしい。それにわたしは、とても安くそれをつくるつもりだ。大きな大きな壁(a great,great wall)を南の国境につくるのだ」。』とトランプは語るが、重要なのは偉大さ(great)の強調、アメリカが偉大な国家へと返り咲くことへの強調とイメージを呼び覚ますことなのであって、実際的で機能的な「壁」に対する興味は彼の中には存在しないようだ。

というのも、アメリカの全体では62%が壁に反対していて、支持は34%に過ぎなかった。だから、単純に選挙のことだけを考えれば壁の話は出さないのが懸命といえる。そのことについて問われたトランプの答えがおもしろい。『「ちょっと退屈になってきたな、客がひょっとしたら帰ろうとしているのかも、と感じたらこう言うんだ。”われわれは壁をつくる!”そうしたら一気に盛り上がる」。』

壁には様々な役割があるが、トランプの壁は、国境の壁が実際に移民の制御に意味があるかなど関係なく単純に政治のための手段だった。

おわりに

「象徴」としてのイェリコの壁。「分断」「隔離」のためのベルリンの壁。政治の手段としてのトランプの壁。最初は防衛のために、以降時代ごとに異なる役割を与えられてきた(あるいは与えられてこなかった)、万里の長城。防衛拠点としてだけではなく、諸民族を束ねる場として機能としたハドリアヌスの長城など、壁と一言でいってもそれが果たす・求められる機能はどれ一つとして同じではないのがおもしろい。

現代では軍事的にはほぼ無意味になったとはいえ、市民の移動を妨げたり区切ったり、何より象徴としての壁の機能は依然として有効である。2016年、フランスはカレーの街に壁をつくり、チェニジアは隣国リビアからの暴力の飛び火を防ぐために数百万ドルの壁の建設に着手。エクアドルはペルーとの国境の間に壁をつくろうとしていて──と、壁をつくることで「われわれ」と「彼ら」を区別しようというのは、人間の感情や本能に根ざしたものなのかもしれない。そうした、人間心理に潜む「壁」にまで射程がおよぶ本なので、興味のある人はぜひ手にとってもらいたい。

生活にどれだけ深く砂が関わっているのかという視点から世界を捉え直すきっかけとなる一冊──『砂と人類: いかにして砂が文明を変容させたか』

砂なんてどこにでも溢れていて(都心に住んでいると砂と触れ合う機会はないが)いかにして砂が文明を変容させたか、と言われてもピンと来ないかもしれない。砂は砂だろうと。だが、実際には砂は現代文明を存続させるために必要不可欠な天然資源であり、大規模な砂の採取によって地球環境や地政学、国家のパワーバランスも大きく変わりつつあるのである──という話が展開していくのがこの『砂と人類』である。

実は、砂は、現代の都市を形づくる主原料なのだ。都市にとっての砂とは、パンにとっての小麦粉、人体にとっての細胞にあたる。この、目には見えないけれども基本となる材料によって、私たちの多くが暮らす建築環境の大部分がつくられている。砂は私たちの日々の暮らしの中心にある。今いる場所で、あたりを見回してほしい。足下には床があり、周囲を壁で囲まれ、頭上には屋根があるのではないだろうか。それらの少なくとも一部にコンクリートが使われている可能性はかなり高い。では、このコンクリートとは何だろうか?要は、砂と砂利をセメントで固めたものである

上記引用部を読めばわかるかと思うが「砂」といっても砂がそのまま文明を変容させたわけではない。砂はコンクリートやガラス、シリコンチップに用いられ、縁の下の力持ち的に現在の産業、建造物の多くを支えているのである。「たしかにコンクリートやガラスやシリコンチップは世界の文明を大きく変容させているけど、それって「コンクリートと人類」なんじゃねえの?」という気がしないでもないが。

砂を人類が大量に欲しているのには違いがなく、読み進めるうちに、取るに足らない存在だと思っていた砂が思いのほか重要な存在であることが理解されてくる。

砂がどれほど文明に食い込んでいるのか

人間が消費する砂と砂利の量は推定で毎年500億トンにものぼり、我々は地球の砂を使い果たしはじめている。急激な砂の移動は(主に川底や海岸、海底から)環境を激変させるから、環境悪化の側面からもこれは見過ごせない事態だ。その原因はいうまでもなく、年々上がり続ける地球の人口と、都市化・文明化が進んでこれまでより多くの国、人が塗装された道路や建造物を必要としていることからきている。

砂は重要な天然資源とはいえ、どこにでもあるのは確かだから、原油にとってのサウジアラビアのような代表的な産地は存在しない。アメリカでは採取場所は6300箇所にも及ぶ。でも、だからこそ「どこからでも環境に変化を与えられる」ともいえ、砂を大量に必要とする国家の近隣国家は苦難の状況をしいられている。たとえばシンガポールは海を埋め立てて領土を拡大するために、インドネシアから大量の砂を輸入しているが、インドネシアでは砂の採取によって24の島が完全に消滅したという。

シンガポールは過去50年間で国土を140平方キロメートルも増加させ、この需要によって周辺国──インドネシアとマレーシア、ベトナム、カンボジアの砂が削り取られている。今ではシンガポールへの砂の輸出は制限、もしくは完全に禁止されているようだが、そうなるとまた別の場所から砂を持ってくることになるし、盗もうとしてくるやからも出てくる。マレーシア、インドネシア、カンボジアの密輸業者は夜中に砂浜の砂を小さな船へと積み込んで、シンガポールへと売っている。

凄い事件になると、2008年にジャマイカの美しい白砂のビーチから、砂を400メートルにわたって数週間がかりで剥ぎ取られたこともある。トラック500台相当の砂が開発業者に転売され、この浜辺で予定されていたリゾート計画が中止に追い込まれるまでになった。この手の窃盗砂事件をあげはじめたらキリがないぐらいに起こっていて、「砂がいかに重要な資源なのか」ということを実感させられる。

中国

砂にまつわる衝撃的な数字がいくつも出てくる本書なのだけれども、とりわけ印象的だったのは中国の事例だ。中国の海岸から約800キロの南シナ海は漁獲量で世界の1割を占め、海底に10億バレルを超える石油と数兆立方メートルの天然ガスが眠っている超重要エリアだ。で、当然だけど近辺のすべての国はそこがほしい。

みなそこが自分の領土であると主張するわけだけど、周辺の国の多くは自国の主張を強調するために海底から集めてきた砂を使って島礁を少しずつ拡張してきた。ここに参戦しているのが中国で、自走式カッター吸引浚渫という先端技術を使った艦隊を作り上げた(海底にまで達する巨大な鉄球のついたアームが搭載されていて、その鉄球が転がりまわって海底にあるものをすべて打ち砕いてすべてを砂にして巻き上げる)。

海底から巻き上げた土砂は拝送管によって何キロも先へ砂を輸送することが可能で、これを使って中国は今、南シナ海南部に位置するスプラトリー諸島を拡張しているのである。18ヶ月のうちに1200ヘクタール(東京ドーム約256個分)も土地を増大させ、領土を拡大している。当然こうした行動は海中の環境を著しく汚染しているし、中国はそうして拡張させた領土の上に軍事基地を建設しはじめているので(原子力潜水艦が寄港できるほどのものを)、地政学にも影響を与えているのである。

おわりに

石油であれば太陽光発電に移行しよう、と移行先が明確で話はわかりやすいが、砂の使用を減らし、砂の代替素材などあるのだろうか? 部分的にはそれが可能(ある種のコンクリートでは、フライアッシュ、銅スラグ、採石場の粉塵などを砂の代わりとしている)だが、砂の絶対性──「広範囲にわたって大量に存在する」を代替するのは事実上不可能であるといえる。となれば、純粋に使用を減らすしかない。

こういったさまざまな取り組みが助けとなる可能性はあるし、そうなってほしいものだ。しかし、私たちが都市を建設するためには莫大な量の骨材が必要であり、これを何かで置き換えるのは事実上不可能なのだ。毎年500億トンも確保できる物質など、他に何があるだろうか。

本書ではそのための提言はほぼないが(差し迫ってすぐにすべての砂がなくなるわけでもないしね)、実際には世界人口は2050年を境ににして減っていくと予想されているので、あんまり対策しなくても意外と収束していくのかもしれない。とはいえ、「生活にどれだけ砂が関わっているのか」という視点から世界を捉え直すきっかけとなってくれる一冊である。本記事では触れていないが、コンクリートやガラスにいかに砂が関わっているのかという話も緻密になされているので。

どのようにして世界について考えるべきか──『哲学の技法: 世界の見方を変える思想の歴史』

この『哲学の技法』は英国の哲学者兼哲学系著述家であるジュリアン・バジーニによる、西洋をはじめとして、東洋やインド哲学が世界をどのようにしてみているのか、その違いはどこにあるのかを紹介していく、比較哲学といったおもむきの本である。

西洋哲学の識者が東洋やインド哲学を学んでみました! という本だと、章ごとに日本はこうで、中国はこうで、インドはこうで、と国ごとに分かれている構成が最初に思いつくはずだが、本書の構成は「洞察」、「時間」、「カルマ」、「言葉にできないこと」と哲学でよく問われるテーマごとに、「西洋ではこう、東洋ではこう、インドではこう」とすべての哲学&宗教がごたまぜにして語られているのがおもしろい。

まそうした地域の哲学の違いに注目するだけではなく、固有の哲学が、その地に住まう人々の思想や文化にどのような影響を与えているのか、といった哲学文化論のような視点が各章には挟まれていて、それが本書の中心的なテーマ、問いかけとなってもいる。『それでも自己や、倫理や、知識の源泉や、人生の意味に関する哲学的な仮説は、私たちの文化に深く根を下ろしていて、私たちは知らないうちにそれらの枠の中でものごとを考えている。』各国の宗教・哲学入門としておもしろいだけでなく、「哲学によって世界の捉え方はまったく異なる」ことを知ることができる一冊だ。

ジンバブエ出身の哲学者ジョラム・タルサリラの言葉を借りるなら、ある人々の哲学的な考え方を理解することは、その人々の心にどういうソフトウェアが備わっているかを理解することだといえる。「相手の心のソフトウェアを知らないと、いくら話し合っても、必ず、食い違いが生じしてしまう」とタルサリラは指摘する。

たとえば?

たとえばどのように違いがあるのだろうか? 「洞察」の章では、「哲学を純粋に知的な営み」と考える西洋と、一方で「知識は経験的なものでもあり、理性だけではなく実践によっても獲得され、導かれるもの」と考える日本で対比している。(日本では)武道や華道、茶道の重きがおかれてきたのがその証拠だという。

インドでは哲学を意味する「ダルシャナ」は同時に見るという意味も持っていて、これはインドでは哲学は見ることの一種──、真理に達するには、理性よりも現実をありのままの姿で直接認識する必要があるから──であることからきている。理性よりも直観、洞察を重視するという点でインド哲学と日本の哲学は近いものがある。

もうひとつおもしろいのは、「言葉にできないこと」の章だ。キリスト教文化の中で育った著者にとって、信仰とはまず一連の教義に同意することだが、日本人にとっては決してそうではない。我々は神社にいくが、その時に何らかの教義に同意したり、言葉を発したりはしない。ようするに、信条の表明は重視されない。これには、先程の「知識は経験的なものである」という考え方も関係しているのだろう。

こうした傾向は道教に顕著にみることができる。『莊子』の中では言葉について次のように書かれた一節がある。『筌は魚を捕らえる道具である。魚を捕まえれば、もはや忘れてよい。蹄は兎を捕らえる道具である。兎を捕まえれば、もはや忘れてよい。言葉は意味を捕らえる道具である。意味がわかれば、もはや忘れてよい。』言葉の限界を諭す思想は、インドにも儒教にも禅にも存在し、アジアの哲学の強みになっている。一方西洋では、理性や知識の限界は乗り越えるべきものとみなされやすい。

しかし言語化不可能な真理、世界があるとして、ほんとうの世界をありのままに受け入れることができるのだろうか、我々はどうしたって人間であるわけで、人間としての生化学的な視点でしか世界をみることができないのではないか。東洋の伝統では「そうした限界は乗り越えることができる」と言われているが、それは無理なのではないか──という視点をイヌマエル・カントやバートランド・ラッセルの思想を紐解きながら紹介していくことになるのである。こうした根本的な「世界の見方」に関する差異は、確かに細やかな立ち振舞や行動にまで及んでくるだろう。

本書では他にも、概念や意義のような抽象的な事柄を、人間の行動のような客観的な事象と結びつけて考えるプラグマティズムがなぜ米国で発展したのか。また、このところ米国の政界で相次いでいる暴言の数々が、プラグマティズムに近い発想にもとづいていること(トランプ大統領が事実と明らかに矛盾することを平然とツイートすることで宣伝効果や団結を促そうとすること)。東洋と西洋の「自己」の捉え方の違い(他者との関係の中に自己があるという考え方と、分割できな単一の永遠不変な自己が存在するという考え方)から、どのような文化的差異や問題が起こり得るのかなど、はばひろく哲学と文化の関わりについて論じていく。

 西洋世界で生じている問題の数々は、インティマシーとインテグリティーの適切なバランスが崩れたことに原因があるように私には思える。自律と帰属という観点から考えてみよう。それらは一方が強まれば、一方が弱まる関係にあり、西洋では、自律の文化が帰属の文化を完全に圧倒してしまっている。

おわりに

もちろん、国の文化や思想といったものは昨今どんどん均一化が進んでいるようにもみえ、ここで傾向として分析されたものの中にも「いや、もうそんなことはないんじゃないのかな」とか、「ちょっとざっくりしすぎではないかな」と思うところもあるが、ざっくばらんな世界の見方の見取り図としては悪くない。

神的存在を人格化せずにはいられないのはなぜなのか──『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』

人類はなぜ〈神〉を生み出したのか? (文春e-book)

人類はなぜ〈神〉を生み出したのか? (文春e-book)

人類はなぜ神を生み出したのか。神話の中にいる神はたいていの場合人間形態で、超越的な力を持っていながらも同時に歪みもあれば洗練されてもいない実に人間的な存在として描かれていることが多い。とはいえ、神を人間を遥かに超える能力を持って場合によってはこの世界を創造したりしなかったりした超常的な存在だと考えれば、もっと抽象的でもやもやとしている存在であってもおかしくなさそうである。

なぜ、神は今のような形で我々によって作り出されたのだろう? 我々は神をどのような理由で作り出したのだろう? 人類の生存上理にかなっていたからなのか? それとも、偶然に生まれえたのか? たとえば、ドイツの哲学者ルートヴィヒ・フォイエルバッハは、〈神〉概念が成功した理由は、『「ただ全人を自己のなかにになっている存在者だけがまた全人を満足させることができるのである」』と語った。

難しい言い回しで意図がとりづらいかもしれないが、「神なのに自分っぽいだめな要素があるからこそ魅力を感じる」的なことである。イスラームのような宗教では人間のイメージに限定されない〈神〉を信仰し、偶像崇拝の禁止が徹底されている。が、イスラームで禁止されているのは人間の姿をした神を描くことで、人間にたとえて考えることは禁止されておらず、人間の美徳や悪徳、感情や欠点の原因が〈神〉に起因していると思いたがる傾向が(他の宗教の信者と同じく)ある。つまるところ、人間が生み出した〈神〉概念には、宗教によらず普遍的な潮流があるようなのだ。

 世界で知られているほとんどの宗教的伝承にもこうした特徴が中核にあるのは、神的存在を人格化せずにはいられない衝動が、人間の脳の働きにしっかり組み込まれているためであることがわかる。人間の進化の過程で生まれたこのような〈神〉の概念が、意識するかしないかにかかわらず、人間に似た〈神〉を必然的に形作って来たのである。

いつから神は生まれたのか?

さあ、しかしそうなってくると気になるのは「神が生まれたのはいつ頃なのだろう」という疑問である。生物・無機物を問わずすべてのものの中に魂が宿っているとするアミニズム的な信仰であれば早い時期からあったと思われているが、宗教がらみの人工的な遺物が見つかり始めるのは1万8千年前から1万6千年前の後期旧石器時代だ。

神は、脳がつくった 200万年の人類史と脳科学で解読する神と宗教の起源

神は、脳がつくった 200万年の人類史と脳科学で解読する神と宗教の起源

  • 作者:E.フラー・トリー
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2018/09/27
  • メディア: 単行本
この「神はいつ生まれたのか」問題に脳科学的観点から迫ったのが、E・フラー・トリー『神は、脳がつくった:200万年の人類史と脳科学で解読する神と宗教の起源』だ。この本の中で著者は、神が脳内で生み出されるためには、他者の心を推測できる「心の理論」を持っていること、過去や、自分が死んだ後どうなるのかと未来のことを関連付けて考える、「時間を意識する能力」のふたつが必要だとしている。

化石として残っている装飾品から推測すると、ホモ・サピエンスにその認識の変化が起こったのは4万年前のホモ・サピエンスで、「自分が死ぬ」事実に直面し、恐怖から逃れるために「自分が死んだ後にも魂は生き続ける」という観念を生み出した。1万2千年前から7千年前にかけて、狩猟生活から農耕生活への移行が発生し、定住が始まることで死者を身近に埋葬し、祖先のことが意識にのぼることで、「祖先崇拝」がはじまった。そこから段階的に神々が出現したのではないかと語っている。

宗教活動が農耕を促したのか?

1万2000年ぐらい前から神概念が生まれはじめたんじゃね? という根拠になっている理由のひとつが、1万4000年前頃に建造されたギョべクリ・テペと呼ばれる最古の宗教神殿の存在である。このギョべクリ・テペではすでに人間を模した神のようなものを設置していて、その観点からも興味深いのだが、凄いのはこれを建造した時人類はまだ狩猟採集生活から農耕生活に移行していなかった時期だということだ。

ずっと人類社会は①農耕を発明し、②定住生活に移行したと考えていたが、実際には初期の農耕生活は脆弱で、家畜化や農耕的技術を覚えた後も人類は狩猟採集生活を続けていたことがわかってきた。一箇所に集まると伝染病が蔓延し、一度居を構えると悪天候などで作物が全滅するリスクもあり、周辺の狩猟採集民と比べて農耕民は身長が5センチも低かったぐらいなので、農耕生活なんか選ばなかったのである。その辺の話はジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』に詳しいが、なぜ人間は狩猟から農耕への移行を起こしたのだろうか?

反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー

反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー

『反穀物の人類史』では、そこについては、結局どれだけ大量に死のうがそれ以上に農耕生活民の方が繁殖力が高く、結果的に残ったのが農耕民だったのではないか、といっている。一方で、本書(『人類は〜』)はそこにまた別の説明を加えてみせる。たとえば、ギョベクリ・テペのような大規模な建造物を作るためには、相当な年数と穴掘りや素材を運ぶ人員が必要となる。こうした労働者には当然ながらずっと安定した食料の供給が必要だったはずで、周辺地域に自生する食用になりそうなものを植え、家畜化をはじめていたのではないか、というのである。

宗教の存在が農耕ー定住への移行を促し、恐らくはそれがまたきっかけとなって強固な宗教的基盤が生まれていった説はありそうである──が、『酔っぱらいの歴史』では同じくギョベクリ・テペで大量のアルコール飲料が作られていたことに注目して、「アルコールを飲みたかったことが農耕生活への移行を促したのでは?」ともいっていて、まあ、そうした複合的な要因が集まった結果なのかもしれない。

酔っぱらいの歴史

酔っぱらいの歴史

信仰に進化的必然性はあったのか?

もう一つ気になるのが、信仰を持つことは人間の生存において有利に働いたのか否かである。無論宗教は我々が考えてもわからないことについての答えを与えてくれる。ただ、その安心は結果として種の存続の支えになるのだろうか。これについて、広く支持されてきた説明に、宗教は社会的な接着剤として機能してきたのだとする説がある。狩人は徒党を組むが、その延長線上で儀式や祝祭が行われるのだと。

だが、著者はこれについていくつかの点で反論してみせる。たとえば、宗教には本質的には結合力がなく、むしろ争いを生む力もあるということ。また、宗教は先史時代の共同社会の中ではそこまで強い力を持っていなかったということ。先史時代の人々は神やシンボルによって結びついていたのではなく、血縁によって結びついていたからだ。他にも、道徳観や利他的な精神を養うためだったのではないかなど様々な仮説があげられていくが、次々否定されていく(宗教は人類を平和にしたわけではない)。

結論として出てくるのは──『その答えは、宗教は人間の進化とは無関係である、となるとしか思えない。』『つまり、宗教は進化の過程でそれが有利に働くためのものではなく、何か他の既存の進化的適応のために偶然に生じた副産物であると。』というもので、これほど人類に広く流行っているものが、個々人生存を有利にするわけではないとする結論は個人的にはなかなか衝撃的なものがあった。

おわりに

と、ざっくりとではあるが紹介してみたがどうでしょうか。太古の昔からどのように人間の宗教的観点が変化していったのか。いつ頃に神が生まれ、人型を崇拝するようになり、それが現代のキリスト教やイスラームのような形になっていったのはなぜなのかが、脳科学、人類史、宗教史など様々な観点から問われていく、非常に読み応えのある本なので気になる人は手にとって見てね。

自由は国家の成立過程の中で、どのように獲得されるのか──『自由の命運:国家、社会、そして狭い回廊』

この『自由の命運 : 国家、社会、そして狭い回廊』は、『国家はなぜ衰退するのか』で、豊かな国と貧しい国の分かれ目となるのは、国の中にある政治・経済上の「制度」なのだ、と膨大な国の歴史・発展過程を計量的な実証研究を通して導き出していったダロン・アセモグルアンドジェイムズ・A・ロビンソンによる最新作である。

本作においてテーマになっているのは、書名にも入っているように「自由」だ。自由の定義にはイギリスの哲学者ジョン・ロックによるものが用いられ、それは端的に示せば「他人に許可を求めたり他人の意志に頼ったりすること無しに行動することができる」ことであるが──今の世界を見渡してみればわかるように、自由が保たれている状態は稀である。自由以前の問題に中東やアフリカのように暴力と恐怖から逃れるために土地を追われるものたちもいる。先進国であっても人種、性に対する差別ははびこっている。だが、確かに世界は自由に向かって歩んでいるようにみえる。

であれば、その理由は何なのか。国家の、社会の、どのような要素が自由を獲得するために必要なのか。『本書は自由について、また人間社会がどのようにして、なぜ自由を獲得できたか、できなかったのかについての本である』というように、前作の論を引き継ぎ、さらに発展させながら、人間社会がどのようにして今のような「自由」を獲得するに至ったのか。また、その自由を獲得するために必要な社会の、国家の行動は何なのか、その条件は──をババーンと提示してみせる、前作以上に壮大で緻密なノンフィクションである。上下巻あわせて800ページの大著なのだけれども、ワクワクがとまらずに飽きずに読み切らせてもらった(さすがに読むのに3日かかった)。

国家と社会のせめぎあいが自由の回廊を作り出す。

主張は『国家はなぜ衰退するのか』から引き続き明快である。まず、ひとつには自由には国家と法律が必要である。だが、国家と法律があればそれで十分ということではない。自由は一般の人々の活動、つまりは社会によって与えられるのである。だから、必要なのは国家、そしてそれを監視する社会の力の均衡なのだ。

 本書の主張は、自由が生まれ栄えるためには、国家と社会がともに強くなければならない、というものだ。暴力を抑制し、法を執行し、また人々が自由に選んだ道を追求できるような生活に不可欠な公共サービスを提供するには、強い国家が必要だ。強い国家を制御し、それに足枷をはめるには、結集した強い社会が必要だ。ドッペルゲンガー的解決策や抑制と均衡では、ギルガメシュ問題を解決することはできない。社会のたえざる警戒がなければ、どんな憲法も保証も、それが書かれた羊皮紙ほどの価値しかもたなくなるからだ。

本書では、そうした前提・主張を置いて、国家の力を縦軸。社会の力を横軸において、その両者の力の釣り合いがとれる中央のゾーン「自由への狭い回廊」にとどまらなければ自由を得られないとのべていく。ここで重要なのは、「共に発展」するだけではなく「均衡」が保たれることだ。国家の力が強くなりすぎれば専横国家の道を進み、国家の力が弱い、あるいは不在になれば社会は暴力や無秩序に晒される。

そこからどのように脱出し、真ん中の回廊にたどり着けば良いのだろうか? 専横国家状態であったって、革命をして政権をぶっ倒せば良いんでしょ? という簡単な話ではない。『これが扉ではなく回廊である理由は、自由の実現が点ではなくプロセスだからだ』というように、『この回廊が狭い理由は、こうしたことが容易ではないからだ。巨大な官僚機構と強力な群体、法律を自由に家挺する権限をもつ国家を、どうやって抑え込めるだろう? 複雑化するこの世界でますます大きな責任を担うことが求められる国家を、どうやって手なずけ、制御し続けることができるだろう?』

「回廊」の大きさもまた変わり得る。たとえば、「国家」というシステムへの市民の信頼感がなければ、そもそも国家が成立しえない。長らく不安定な状態に置かれた国では国家への信頼が地に伏しており、ただでさえ小さい回廊はさらに狭まっている。

『リヴァイアサン』の先へ

ホッブズによる『リヴァイアサン』では、人間が自然権を行使しあうむき出しの状態では紛争が避けられず、「万人の万人に対する闘争」の状態に陥ると言い表し、そこから抜け出るために国家でありリヴァイアサンと呼ばれる「共通の権力」をかつがねばならぬとした。本書では、このホッブズの考えに大きく二つの補足を行っていく。

一つは、実は国家なき社会にあっても部族的規範や宗教的規範が紛争を食い止める(こともある)ことがわかっていること。だが、それは規範という超越的なルールを押し付けることで不平等な社会的関係が蔓延し(インドのカースト制度や、サウジアラビアにおける専横的な権力と宗教的な規範のあわせ技など)、別の支配になっているだけだ。もう一つは、国家は無条件でいいものではなく、紛争や災害をもたらすこともあること。中国では1950年代末から60年代前半にかけて、4500万人が餓死した大飢饉に襲われた。これは国家の不在ではなく、むしろ計画によってもたされた。

ホッブズはすべての人を畏怖状態に留めるような共通の権力がないとき、人生が孤独で貧困で過酷で野蛮なものになるといったが、暴走した「共通の権力」はより悪化した状態を人々にもたらすのである。

おわりに

国家不在の規範が支配する社会を「不在のリヴァイアサン」。社会の警戒が機能せず国家の暴走が起きる独裁国家のことを「専横のリヴァイアサン」。中央の回廊にいる国家のことを「足枷のリヴァイアサン」とそれぞれ本書では名付けているが、ここから本書では、国家と社会のせめぎあいでどのようにしてその3つの間を行き来していくのか、国家に対して社会の側が行使する・すべき力とは何なのだろうか? などのより具体的な国家の自由の獲得、または喪失過程の記述が続くことになる。

繰り返し「狭い」回廊と表現されるように、自由の状態は不安定で、たやすく転がり落ちてしまうものだ。「社会の力」とは一つには政治への参画度合いであり、投票率が下落傾向にある日本も国家の力が増し専横のリヴァイアサン状態へと近づきつつあるといえるのかもしれない。少なくとも、歴史的には安定的に見えた国家が突然独裁へと向かう、または突然国家として機能しなくなるケースは幾度も起こっている。

ペルーでは1992年、民主的抑制を緩めるために憲法停止と議会解散に踏みきって新選挙を実施した。民衆はなぜそれを受け入れたのか? これは左派の伝統的エリートに対抗するためだと主張したのだ。それはウソではないが実際には権力の掌握が目的だった。同様の事象はベネズエラ(1998年、ウゴ・チャベスの権力掌握)、エクアドル(2007年、ラファエル・コレアの権力掌握)、もちろんナチ党など……。日本に限らず、アメリカだろうがイギリスだろうが、とても「自由」とはこの先も保証されたものではないと、「自由」の難しさを知ることで強い危機感を覚えるだろう。

膨大な歴史記述を通して「国家がどのようにして自由を獲得、もしくは失ったのか」がくっきりと見えてくる。様々な国家の形が描き出されていくのに対して「社会」の持つ力とは何なのか、といった部分が断片的になってしまっている印象はあるが、それは本書が『国家はなぜ〜』の発展であるように、また別の著作で語ってくれるのではないかと思う。

『サピエンス全史』のハラリがはじめて現代の諸問題を真正面から取り扱った最新刊──『21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考』

21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考

21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考

『サピエンス全史──文明の構造と人類の幸福』で、「虚構を操る力こそが人類を生き残らせた」という観点から過去を。続く『ホモ・デウス──テクノロジーとサピエンスの未来』では、生命の遠い将来を研究し、「これから先、人類は何に取り組むのか」と問いかけたユヴァル・ノア・ハラリの新作『21 Lessons』は、ハラリがはじめて現代の諸問題を真正面から取り扱った一冊だ。

これまでハラリが何千年に渡る過去、そして未来をその射程に入れてきたが、本書ではこの数十年、場合によっては数百年までの社会的、経済的、政治的危機を中心に取り扱っている。たとえば、雇用の減少、年々難しくなる教育、世界的な気候変動などなどである。ハラリはあいもかわらず明確な語り口で、複雑化する一方の現代の様相をわかりやすく描き出し、物事をじっくり考えるだけの糸口を与えてくれている。

いつか起こり得るであろう非有機的生命体が社会をどれほど変えてしまうか、といったかなり空想の領域に入り込んでいる論調は(そっちはそっちで、もちろん魅力だったのだけれども)ナリをひそめ、地に足のついた問題を扱っている分、これまで敬遠していたり、ちょっと合わんなあと思った人でも楽しめる一冊であると思う。

取り扱われているテーマについて

取り扱われているテーマは雇用や移民といったシンプルなものから、SFや瞑想のような意外なものまで、21個用意されている。本書の読みどころは、そうした諸問題に対して、大上段から答えを提示してあげよう、というのではなく、我々はこれから先そうした問題についてどう考えていけばいいのだろう? 考え始める前にどのような情報をふまえるべきなのだろう? と、そもそもの考え方の土台や、思考の余地を提供し、もっと立ち止まって困惑せよ、と提示してくれているところにある。

たとえば、最初の「幻滅」の章では、いかにこの現代が自由主義に対する幻滅に満ちた世界であるかをまずは丹念に解説していく。2008年の金融危機以来、世界中の人々は自由主義の物語に次第に幻滅するようになった。イギリスでEU離脱が是認され、トランプが当選し、壁やファイヤウォール、移民や貿易への抵抗は増すばかり。

とはいえ、自由主義が崩壊の危機に至ったのはこれがはじめてではない。第一次世界大戦の中、帝国による権力政治がグローバルな進歩の流れを中断した時も、ヒトラーが現れた時も、1930年代から40年代にかけてはファシストの嵐が吹き荒れ自由主義の流れは勢いを削がれた。続く50年代から70年代にかけては、世界は共産主義の方へと傾いていた。そうした過去の事例と比較して、今の状況はどうなのだろう。

そもそも「自由主義」と一言であらわしたとき、それは具体的にどのようなものを指しているのか──と様々な歴史的経緯を踏まえ土台を固めながら「幻滅」というキーワードを広げ・深堀りしていき、次第に「仮に自由主義体制が完全に崩壊するとしたら、他のどんなビジョンが自由主義の物語にとってかわるだろうか?」や、「(自由主義に)代替される物語がないとしたら、単一のグローバルな物語という発想自体を捨てるべきなのか?」といったさらにその先の問いかけにたどり着くのである。

そうした問いかけに対して、わかりやすい明快な結論は存在しない。

現時点では、人類はこうした疑問に関して合意に達するには程遠い。人々が古い物語への信頼を失ったものの、新しい物語はまだ採用していない。幻滅と怒りに満ちた虚無的な時期に、私たちは依然としてある。では、次にどうすればいいのか? 最初のステップは、破滅の予言を抑え込み、パニックモードから当惑へと切り替えることだろう。パニックは傲慢の一形態だ。それは、私はいったい世界がどこへ向かっているか承知している(下へと向かっているのだ)という、うぬぼれた感覚に由来する。当惑はもっと謙虚で、したがって、もっと先見の明がある。「この世の終わりがやって来る!」と叫びながら通りを駆けていきたくなったら、こう自分に言い聞かせてみてほしい。「いや、そうではない。本当は、この世の中で何が起こっているのか、どうしても理解できないのだ」と。

我々は難しい現代の諸問題について、わかったつもりをするのではなく、しっかりと座り込んで当惑すべきなのだろう。理解できないことをしっかりと「なぜ、まだ理解できないのか」と理解すべきなのだろう。こうやってハラリが描き出していく明快な歴史認識や論理、現状認識については賛同できない側面もあるが、明確であるがゆえに反論もしやすく、それ自体が(考えるきっかけになるので)また価値でもある。

SFについて

SFファン的に興味深いのはSFについての章があることである。実はハラリはけっこうSFについて言及していて、『21世紀初頭における最も重要な芸術のジャンルは、SFかもしれない。』と言及していたりもする。フィクションに言及するのはハラリの「虚構の操作能力が人間を今の地位に押し上げた」とする主張からすれば必然的に感じられるが、ではなぜ中でも特別にSFが重要なのだろうか。

それは我々人間は未来の出来事を知ったり予測しようとする時にフィクションを通すことが多いからというシンプルな理由だ。ただ、ハラリは本書のSFについての章の中で無条件にSFを賛美しているわけではない。重要であればこそ間違ったメッセージを発す作品については否定的な見解を持っている。たとえば「エクス・マキナ」という女性型のロボットと恋に落ちる研究者についてのSF映画については、生物的な特徴である性をAIに実装する必要なんかどこにもないしAIの描き方が明らかに間違っているし、知能と意識を混同している映画ってたくさんあるよなと否定的だ。

実は批判されているのはSF映画としては超大人気作の「マトリックス」もだ。何が批判されているのかというと、あの映画の「幸福な夢をみせる偽りの世界とは別に、辿り着くべき真実の世界があるのだ」という構造そのものである(なので、「トゥルーマン・ショー」も攻撃されている)。というのも、実際には、テクノロジーの支配から逃れて真の自分を取り戻せる「ここではないどこか」など存在しないからだ。

現実には「真実の世界」などどこにもない。我々はすでに現実をフィクションとして解釈する脳の中に閉じ込められているのであって、虚構の中から逃れることはできない。『あなたがマトリックスを脱出したときに発見するのは、さらに大きなマトリックスだけだ。』。実はそういう今我々が直面している現実をすでに描いているSFがあるんだよなーといってオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』の解説をして本章は幕を閉じる。ハクスリーが描き出したのはマトリックス的な世界への脱出ではなく、そこに脱出することはできないのだという諦念だから、それはそうだろう。

すばらしい新世界〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

すばらしい新世界〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

おわりに

本書ではこのあと、第一部でテクノロジーに関連した社会の難題(労働や自由)を取り扱った後、第二部では考えうる多様な対応を考察していく(AIを用いて人間の自由と平等を保護するグローバルなコミュニティを創り出せるか、など)。

第三部ではテロの脅威やグローバルな戦争の危険に対して何ができるか、第四部は抽象度を増し、悪行と正義をどこまで区別できるかなど相互に関連し合った多様なテーマを追求していくことになる。21という数字にほぼ意味はあないので数合わせの章があるだろうなと思っていたが、たとえば労働の章では今後アルゴリズムに権限を移行する流れは避けられないとして、その時に問題になるのは「自由」である──と自由の章につながっていくので、(意外と)きっちり相互に関係しているのも好印象。

ネットワークという観点から近年の歴史を語り直す──『スクエア・アンド・タワー:ネットワークが創り変えた世界』

スクエア・アンド・タワー(上): ネットワークが創り変えた世界

スクエア・アンド・タワー(上): ネットワークが創り変えた世界

スクエア・アンド・タワー(下): 権力と革命 500年の興亡史

スクエア・アンド・タワー(下): 権力と革命 500年の興亡史

「スクエア・アンド・タワー」、直訳すると「広場と塔」というのは不思議な書名だが、これはそれぞれネットワーク型と階層型の社会や人間関係全般をさしている。

たとえば、人間の暮らしはこれまで多くの場面において階層型の構造が支配的であった。上に立つ人間が下の人間に情報や命令を伝え、それが下の人間へと広がっていく「塔」の構造。一方近年はネットワーク優位な時代といわれる。単純に階級に応じて力の強さが決まる階層型に対して、水平に広がった集団の中での力関係は、複数の社会集団の中で占める位置に応じて力の強さが決まる。これが本書の言う「広場」だ。

とはいえ、その二つは明確に分かれているものではない。階層型の集団の中にも無論ネットワークはあるし、ネットワーク型の集団の中にも階層構造は存在している。たとえば、ほとんど誰もが一つの国の国民であるし、多くの場合は一つの企業に雇われている(階層構造の中に組み込まれている)。同時に我々はみな何らかの水平なネットワークの中にいる。友人たち、親戚ら、何らかのファンコミュニティなど。

本書は、そのあたりを注意深くおさえながら、階層制とネットワーク制が歴史の中でどう機能してきたのか、どのような力を持ってきたのかを丹念に解き明かしていく。『すでに述べたとおり、従来、歴史家は過去のネットワークを復元するのがあまり得意ではなかった。ネットワークが顧みられなかったのは、1つには伝統的な歴史研究が、原資料として、国家のような階層制の組織が生み出した文書に大きく依存していたからだ。ネットワークも記録を残すが、その記録を見つけるのは容易ではない。』

本書は、そのような手落ちの罪を贖う試みだ。これから、古代以来ごく近年に至る、ネットワークと階層制との相互作用の物語を語る。そして、経済学から社会学まで、神経科学から組織行動学まで、という具合に、じつに多様な分野の理論的見識を1つにまとめ上げる。中心テーマは社会的ネットワークであり、社会的ネットワークはこれまでの歴史でずっと、国家のような階層制の組織に執着してきた大方の歴史家が認めているよりもはるかに重要だったというのが私の見方だ。

著者によれば最初のネットワーク化時代は15世紀の後期、ヨーロッパで印刷機が使われ始めてからのことである。それ以後ずっとネットワーク化の時代だったわけではなく、18世紀の後期から20世紀の半ばまでは全体主義体制と総力戦の時代──階層構造の制度や組織が再び主導権をとり、その後は、著者がいうところでは、”階層構造の制度や組織の危機の原因というよりもむしろ結果として”、ネットワーク化時代がやってきたとする。もちろん、そこにはインターネットが関わってくる。

本書は階層構造が弱く、ネットワークが強い、素晴らしいと単純な主張をする本ではない。いうまでもなく現代はネットワーク社会ではある。通貨が国家の階層的な支配から逃れつつあり(仮想通貨)、グーグルやフェイスブック、ツイッターなどのグローバル企業はネットワークを駆使することで国家を揺るがしつつある。本書は、はたしてそれは世界を良い方向へ向かわせるのか? それとも悪い方向へ? これから先、階層構造の制度や組織が猛威をふるうことはあるのか? と問いながら、広場と塔、それぞれの利益と不利益を挙げながら近年の歴史を語り直す本である。

正直ネットワークと階層は先にも書いたように明確に分かれているものでもないし、良い面も悪い面もあるよね、という話にならざるをえないので、いまいち歯切れが悪いといえば悪い本だ。とはいえ、それは誠実な研究と、歴史の描き方をしている証であるともいえる。たとえば、歴史の主要なポイントをネットワーク分析──雑な印象論ではまったくなく、書簡や情報の交流を地道にあぶりだし、定量化できる形で関係性を描き出している──で捉え直してくれるので、大変に読み応えがある。

アメリカのキッシンジャーがその(最高位というわけではない)地位に対して、なぜあれだけの力を持っていたのか、というのもこのネットワーク分析からある程度客観的に理解できるようになるのもおもしろかった。他にも、病気の感染からイギリスの東インド会社の交易ネットワーク、宗教布教のネットワークがどのように広がっていくのか。ボストンの革命における人間関係のネットワーク、科学の実践が「どこで」行われていたのかという場所のネットワーク、スターリンやヒトラーがどのような人的ネットワークを築いていたのか──と大小様々な分析がなされている。

おわりに

これ一冊でとてもネットワークの観点から歴史を捉え直した決定版といえるほどの密度ではないけれども、示唆にとむ本である。奇しくもというか順当というか同じ訳者によるハラリの『サピエンス全史』以後、新しい観点から人類史を捉え直す! 的な本が増えたような気がする。そして、申し訳ないけど何の面白みもなくただ情報密度の低い人類史になっている本が多いなか、(本書がハラリ以後のラインナップに連なるかどうかはともかくとして)きちんと独自性が出ていて、ちゃんとおもしろい。

ジャレド・ダイアモンドが導き出す、国家はどのように危機を乗り越え、今どのような危機の中にいるのか?──『危機と人類』

危機と人類(上)

危機と人類(上)

  • 作者: ジャレド・ダイアモンド,小川敏子,川上純子
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
  • 発売日: 2019/10/26
  • メディア: 単行本
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危機と人類(下)

危機と人類(下)

  • 作者: ジャレド・ダイアモンド,小川敏子,川上純子
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
  • 発売日: 2019/10/26
  • メディア: 単行本
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『銃・病原菌・鉄』で一世を風靡したジャレド・ダイアモンドの最新刊がこの『危機と人類』である。七カ国を対象として、それぞれの国が陥ってきた危機と、それをどのようにして乗り越えてきたのか。また、今現在まさに危機にある国を取り上げ、比較しながら「国家的危機」についての枠組みについて考察しよう、という一冊だ。

「危機」にもいくつもの種類があるが、本書で取り上げられるのは、国家を揺るがすほど大きな危機、また現代の国家で起こったことについて限定されている。対象とされる七カ国は次のとおり。フィンランド、日本、チリ、インドネシア、ドイツ、オーストラリア、アメリカ。日本だったら、たとえば明治維新の頃何が起こったのか、どのように日本人は適応してきたのか──が危機の枠組みを通して語られるわけだ。

これらの国は(日本を除いて)著者が長年滞在、あるいは居住していた国である。ようは比較的身近で「よく知っていて、自分の体験、主観的視点」を持ち出せる国を意識的に選んでいて、自身が言うようにわりと個人的で叙述的な研究であるといえる。『本書は、七つの近代国家において数十年間に生じた危機と実行された選択的変化についての、比較論的で叙述的で探索的な研究である。』

全体の構成とか

本書ではまず、国家的危機に先駆け「個人的危機」とは何なのか、また個人的危機に関わる12の要因があげられた後、同様に(多くが重なる)国家的危機にかかわる12の要因をあげ、その枠組みを用いながら各国の危機を概観していくことになる。

12の要因とは、たとえば次のようなものだ。①自国が危機にあるという世論の合意、②行動を起こすことへの国家としての責任の受容、③囲いをつくり、解決が必要な国家的問題を明確にすること、④他の国々からの物質的支援と経済的支援、⑤他の国々を問題解決の手本にすること、⑥ナショナルアイデンティティ、⑦公正な自国評価、⑧国家的危機を経験した歴史、⑨国家的失敗への対処、⑩状況に応じた国としての柔軟性、⑪国家の基本的価値観、⑫地政学的制約がないこと──である。

たとえば明治維新の頃の日本でいうと、明治日本は西洋が中国に戦争をしかけ、日本に対する西洋の脅威が高まっていることを知っていたが、それを明確な行動を起こすほどの危機とは認識していなかった。それが変わったのは、1853年のペリー来航である(要因①)。その後の、明治期の激動の時代に日本は外国を手本として借用し(要因⑤)、現実的かつ公正な自国評価がなされていて(要因⑦)──と、要因が国家的危機のどのタイミングで現れたのか、または要因がなかったことで危機の解決を妨げたかを各国の危機を通して確認していくのである。まずこれがたいへんにおもしろい。

日本はさすがに知っているが、チリやフィンランド、インドネシア、オーストラリアといった国で起こった国家的危機については(僕は)よく知らないから、国の成り立ち、その危機がどのように起こるに至ったのかのざっくりとした歴史も含めて紹介してくれるのが大変にありがたい。危機自体も、「我々は何者か」というオーストラリアのナショナル・アイデンティティを扱ったものから、隣国がソ連という強大な国で、自国はとても戦争になったら勝てぬほどに小国で、西側諸国とソ連との綱渡り外交を強いられるフィンランド、チリのように内部の自壊で起こった危機など、国によって様相は異なっていて、12この要因が複雑に絡み合った様を描き出していく。

たとえばチリは、1973年に軍事政権によって支配され、そのまま市民への悲惨な拷問などが繰り返され、17年も支配を継続された「危機」があった。しかも、チリはそれまで長い間民主制度を保持した国だったのだ。なぜ突然方向転換し 17年もの軍事政権支配を許してしまったのか? チリが突然そうなったなら、アメリカなどの他国もそうなる危険性はあるのか? と問いかけながらチリ史を追いかけていく。

いま、まさに危機が進行している国

そうやって国家の危機を概観していったあとは、「いま、まさに危機が進行している国」が取り上げられていく。最初に取り上げられるのは再度日本だ。日本は多くの人口を抱え、識字率も高く知的能力に優れた国民が大勢いる。平均寿命は高く、ナショナル・アイデンティティも強く、災害は多いが環境は比較的温暖といくつかの点は明確に強みである。とはいえ、当たり前だが危機がないわけではない。

著者が挙げる日本の危機としては、たとえば女性の役割、少子化、人口減少、高齢化という相関する4つの問題がある。女性の役割については、表向きは男女平等だが、いまだに女は家で家事をしていろ、というような(賃金も低く、役職があがらない)男女の不平等が残っている。その大きな要因として著者があげているのは子育てで、アメリカと違って個人で保育を請け負う移民女性が存在しないこと(だから、もっと移民を受け入れるべきだと論が継続していく。)、北欧諸国と異なって保育所が少ないため、保育サービスがまったく足りていないことなどをあげている。

人口減少、高齢化は皆さんご存知の通り。とはいえ、人口減少自体は、必要とされる国内外の資源が減り、最終的には非常に裕福になるだろう、と語っている。急激な減少は年金問題などと絡み合って現役世代に相当な痛みをもたらすはずだが、それを数十年のことだととらえればそれはそうだろう。こうした日本人も広く認識している問題に加え、日本人が認識していないさらに三つの問題があると続ける。

それは「移民」、「中国と韓国(への真摯な謝罪が足りないこと)」、「自然資源管理」である。この3つについては詳しくは説明しないが、うーんと思う部分もある。たとえば、中国と韓国への真摯な謝罪として、ドイツの例をあげて日本の首相が南京を訪れ、中国人が見守るなかでひざまずき、虐殺行為の許しを請うてはどうだろうか、こうした活動が実行されるまで中国人や韓国人は日本流の謝罪を信じることはなく、日本を憎み続けるだろう、という。そこまでやることでしこりはなくなるのかもしれないが、「そうなったら本当にいいですね」以外の感想はない。

いくらなんでも単なる主観すぎる。ただ、このへんの「謝罪」をめぐる問題はただスルーしていいものでもなくて、「日本は真摯な謝罪が足りていない」と考え、発言している人はジャレド・ダイアモンドのみではない。要は「(日本人がどう思っているかとは関係なく)国際的に認められるにはどうしたらいいのか?」という問題が存在しており、それ自体は個別に検討しなければならないテーマでもあるのだろう。

おわりに

ラストはアメリカに訪れている危機、また世界で起こっている危機について(たとえば、政治の二極化とか)。危機と人類は大きなテーマゆえ(経済、資源、民主主義、政治、エネルギー、地政学などなど)、なんか提言してるけどさすがにリサーチ足りてないんじゃない? ちと扱いきれてないな、と思う面もあるのだが、危機と指導者の役割、危機と民主制度の関わり、危機は必要か? という観点であったり様々なテーマが浮かび上がってくる本で、総合的には大変楽しませていただきました。

エネルギーという唯一無二の普遍通貨から見た人類史──『エネルギーの人類史』

エネルギーの人類史 上

エネルギーの人類史 上

人間の営みはいかにして多くのエネルギーを得るか、また存在しているエネルギーをいかに効率よく変換するか、といったエネルギー収支に支配されてきた。そもそも文明だなんだと偉そうな事を言うまえに人間が生きることには絶対的にエネルギーが必要で、そのためには食糧を体内に取り込まなければいけず、その食糧は遥か遠くに存在する太陽からもたらされるエネルギーによって存在しているわけで、この宇宙全体を巻き込んだ巨大な流れのド真ん中に「エネルギー」が存在しているのである。

 社会が進化するにしたがって、人間の数は増え、社会の仕組みや生産の仕組みはより複雑になり、より多くの人がより質の高い暮らしを送れるようになっていった。基本的な生物物理学の観点からすれば、有史以前の人類の進化と歴史の流れは、ともに、エネルギーをできるだけ集約的で汎用的な携帯で、いかにたくさん貯蓄し、循環させられるか、そしてそのエネルギーをできるだけ無理のない、低コストで効率のよい方法で、いかに熱や光や運動に変換させられるかを希求するものだったと見なすことができる。

そして生存に必要なエネルギー採取が効率的に行えるようになって以後も、人類は自身らの娯楽、さらなる発展を目指してエネルギー収支の改善に邁進してきた。だから、最初『エネルギーの人類史』という書名を見たときは「凄く読みたい!」と胸が高まるのと同時に「でも、それってちゃんとまとめられるんだろうか??」という疑問も同時に湧いてきたものだ。『エネルギーは、唯一無二の普遍通貨』であり、実質的に人類のすべての営みをエネルギーの観点から語り直すことができるからである。

だが本書は、風力や水力、人間の労働力から道具や輓獣の使用をジュール換算で数字にすることで描写し、それが人類史の中でいかに効率化されたかを描きつつ、エネルギー収支のみでは決定されない人間の動機や選り好みにも適宜触れながら、最後までスマートにまとめきってくれた。また、上下巻とけっこう長い本だが、随所随所にコラムが差し挟まれまったく飽きずに読み切らせてくれる極上の一冊でもある。

具体的な内容について

では具体的な内容についていくらか紹介していこう。基本的には「エネルギーと社会」と題された第一章の後は、先史時代のエネルギー、そこから伝統的な、人間と家畜が労働をする農耕についての話、産業化以前に使われていた燃料、道具について、次に化石燃料と一次電気……とだんだん近代に近づいていく構成になっている。

たとえば、先史時代の農耕を行わない狩猟採集民はどのようなエネルギー収支のもと生きていたのか? 農耕を行わない彼らは一日数時間だけ働いてそのへんに生えている野生植物とたまの狩りで健康で活発で満ち足りた生活をおくっていたという人もまれにいるが、二〇世紀に存在した狩猟採集民の栄養状態と健康状態はよくて不安定で、壊滅的な飢餓に陥ることも少なくない、とても満足した状態ではないという。

想定されるエネルギー収支的にはどうだろうか? 基礎代謝に必要とされるエネルギーは(当時の狩猟採集民の身長を低く見積もって)1日あたり6メガジュール(250キロジュール/1時間)、成人の生存に必要な最小限の食物エネルギーが8メガジュール(330キロジュール/1時間)になる。典型的な狩猟採集活動には男性で基礎代謝率の4倍、女性で5倍、900キロジュール/1時間が必要になり、ここから生存に最低限必要な部分を差し引くとおおむね狩猟採集における正味のエネルギー入力は、およそ1時間あたり600キロジュールだったという。この収支だとけっこう働かんとだめやね。

ギザの大ピラミッドを造るのにどれだけのエネルギーが必要か?

個人的に読んでいて楽しかったのは建造物について語られた章で、ジュール換算することでその規模が実感として把握しやすくなる。たとえばギザの大ピラミッドの建造に必要なエネルギーはいくらか? 大ピラミッドの位置エネルギー(2.5平方メートルの石の質量を持ち上げるのに要するエネルギー)は、2.5テラジュールで、これをクフ王の統治期間である20年間で調達するには1500人の採石工が年間300日働いて一人あたり0.25立方メートルの石を切り出す必要がある。それを建設現場に運ぶのに3倍の人数が必要だったとしたら、建設資材を供給する労働力は合計およそ5000人。

1日に投入される総有効エネルギーを一人あたり400キロジュールとすると、石を持ち上げるのに必要なのは625万日の就業、20年間でこれを比例配分すると約1000人の労働者で達成できるから6000人。さらに積み上げ中のピラミッドの所定の位置に石を納めるのに1000人、管理者や監督、食糧配達などの要因としてさらに1000人足して8000人。なんとなく全体の総エネルギー量から必要な人員がみえてくる。

さらには、労働者が共同で毎時4ギガジュールの有効力学的エネルギーを投資していたとしたら、全体の仕事率*1は1.1メガワットになり、これを維持するためには毎日20ギガジュール余分に食物エネルギーを摂取しなければならず、これには小麦1500トン近くが必要で……と石の重量から必要な食物量までなんとなく推測できるし、ヘロドトスが聞いたという話ではこの建設には10万人が年間3ヶ月の労働で20年間働いたというが、誇張されているだろうとあたりがつけられる。

エネルギー消費の増大は幸福度に結びつくか?

ここまでは上巻の内容(のほんの一部)で、下巻からはいよいよ化石燃料や電気が現れ、我々のエネルギー使用量が爆発的に跳ね上がっていくことになる。下巻では歴史をエネルギーを通してみることでわかること(たとえば、新しいエネルギー源と新しい原動力の採用と拡散が、経済的社会的環境的変化の根本にある)、またエネルギーを通しても見えないもの(たとえば、複雑な社会の崩壊)は何なのかについて語っており、非常におもしろい。

たとえば、人類の営みはそのままエネルギー交換であるとたとえられるのであるから、使えるエネルギーが増えれば増えるほどより様々なことができるようになって教育なや医療環境が整い、平均寿命がのび、幸福度も上がり、諸要素が改善されていくように思えるが、実態は異なっている。正確にいえば、ある一定のところまで一人あたりエネルギー消費量が増えると、それ以降、少なくとも人間開発指数は(出生時平均余命と成人式自指数、一人あたりGDPの統合した数)、どの国においても目に見える改善の結果を起こさないのである。『グラフでは、回帰直線が一人当たり五〇から七〇ギガジュールのあいだではっきりとカーブし、そのあとは収穫逓減となり、一人あたり一〇〇から一二〇ギガジュールを超えたところで、その線は平坦となる。』

最もエネルギーを大量に消費する国アメリカでは新生児1000人あたり6.6人が生後1年以内に死亡していて、この死亡率は世界31位。平均余命も世界で36位である。無論それは消費されたエネルギーがそれ以外のところ(たとえば娯楽)に向かっているからだが、著者はこの点に関しては『こっけいなレベルにまで達している。』とけっこうな語調で批判しており、エネルギー消費の多寡よりも、エネルギーをどう格差を縮め、世界における生活の質に変換するために使うかを考えねばならんととく。*2

加えて、今の高エネルギー文明は、そもそも過去の太陽エネルギーによって蓄積された化石燃料資源によって支えられた、『いわば芝居の幕間』にすぎない。再生エネルギーの活用は有望だが、肥大しきったエネルギー消費量を支えるためにはあと数世代はかかるであろうし、前例のない追求であり成功する見込みは不確かである。だが、仮に厳しかったとしても、再生エネルギーへの転換は、やらねばならんのだ──と、最終章はとことん熱のこもったアジテートで、納得するかはともかく(僕は再生エネルギー周りの技術革新が多数起こりつつあるのと、世界的な人口減傾向のおかげでわりとなんとかなるんじゃねと楽観的である)たいへん素晴らしい出来の一冊だ。

エネルギーの人類史 下

エネルギーの人類史 下

*1:単位時間内にどれだけのエネルギーが使われているかの量

*2:ちなみに、一人当たりのエネルギー使用と生活や個人的幸福に対する主観的な満足感との間にも明白な関連はみられない。