基本読書

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どのようにして世界について考えるべきか──『哲学の技法: 世界の見方を変える思想の歴史』

この『哲学の技法』は英国の哲学者兼哲学系著述家であるジュリアン・バジーニによる、西洋をはじめとして、東洋やインド哲学が世界をどのようにしてみているのか、その違いはどこにあるのかを紹介していく、比較哲学といったおもむきの本である。

西洋哲学の識者が東洋やインド哲学を学んでみました! という本だと、章ごとに日本はこうで、中国はこうで、インドはこうで、と国ごとに分かれている構成が最初に思いつくはずだが、本書の構成は「洞察」、「時間」、「カルマ」、「言葉にできないこと」と哲学でよく問われるテーマごとに、「西洋ではこう、東洋ではこう、インドではこう」とすべての哲学&宗教がごたまぜにして語られているのがおもしろい。

まそうした地域の哲学の違いに注目するだけではなく、固有の哲学が、その地に住まう人々の思想や文化にどのような影響を与えているのか、といった哲学文化論のような視点が各章には挟まれていて、それが本書の中心的なテーマ、問いかけとなってもいる。『それでも自己や、倫理や、知識の源泉や、人生の意味に関する哲学的な仮説は、私たちの文化に深く根を下ろしていて、私たちは知らないうちにそれらの枠の中でものごとを考えている。』各国の宗教・哲学入門としておもしろいだけでなく、「哲学によって世界の捉え方はまったく異なる」ことを知ることができる一冊だ。

ジンバブエ出身の哲学者ジョラム・タルサリラの言葉を借りるなら、ある人々の哲学的な考え方を理解することは、その人々の心にどういうソフトウェアが備わっているかを理解することだといえる。「相手の心のソフトウェアを知らないと、いくら話し合っても、必ず、食い違いが生じしてしまう」とタルサリラは指摘する。

たとえば?

たとえばどのように違いがあるのだろうか? 「洞察」の章では、「哲学を純粋に知的な営み」と考える西洋と、一方で「知識は経験的なものでもあり、理性だけではなく実践によっても獲得され、導かれるもの」と考える日本で対比している。(日本では)武道や華道、茶道の重きがおかれてきたのがその証拠だという。

インドでは哲学を意味する「ダルシャナ」は同時に見るという意味も持っていて、これはインドでは哲学は見ることの一種──、真理に達するには、理性よりも現実をありのままの姿で直接認識する必要があるから──であることからきている。理性よりも直観、洞察を重視するという点でインド哲学と日本の哲学は近いものがある。

もうひとつおもしろいのは、「言葉にできないこと」の章だ。キリスト教文化の中で育った著者にとって、信仰とはまず一連の教義に同意することだが、日本人にとっては決してそうではない。我々は神社にいくが、その時に何らかの教義に同意したり、言葉を発したりはしない。ようするに、信条の表明は重視されない。これには、先程の「知識は経験的なものである」という考え方も関係しているのだろう。

こうした傾向は道教に顕著にみることができる。『莊子』の中では言葉について次のように書かれた一節がある。『筌は魚を捕らえる道具である。魚を捕まえれば、もはや忘れてよい。蹄は兎を捕らえる道具である。兎を捕まえれば、もはや忘れてよい。言葉は意味を捕らえる道具である。意味がわかれば、もはや忘れてよい。』言葉の限界を諭す思想は、インドにも儒教にも禅にも存在し、アジアの哲学の強みになっている。一方西洋では、理性や知識の限界は乗り越えるべきものとみなされやすい。

しかし言語化不可能な真理、世界があるとして、ほんとうの世界をありのままに受け入れることができるのだろうか、我々はどうしたって人間であるわけで、人間としての生化学的な視点でしか世界をみることができないのではないか。東洋の伝統では「そうした限界は乗り越えることができる」と言われているが、それは無理なのではないか──という視点をイヌマエル・カントやバートランド・ラッセルの思想を紐解きながら紹介していくことになるのである。こうした根本的な「世界の見方」に関する差異は、確かに細やかな立ち振舞や行動にまで及んでくるだろう。

本書では他にも、概念や意義のような抽象的な事柄を、人間の行動のような客観的な事象と結びつけて考えるプラグマティズムがなぜ米国で発展したのか。また、このところ米国の政界で相次いでいる暴言の数々が、プラグマティズムに近い発想にもとづいていること(トランプ大統領が事実と明らかに矛盾することを平然とツイートすることで宣伝効果や団結を促そうとすること)。東洋と西洋の「自己」の捉え方の違い(他者との関係の中に自己があるという考え方と、分割できな単一の永遠不変な自己が存在するという考え方)から、どのような文化的差異や問題が起こり得るのかなど、はばひろく哲学と文化の関わりについて論じていく。

 西洋世界で生じている問題の数々は、インティマシーとインテグリティーの適切なバランスが崩れたことに原因があるように私には思える。自律と帰属という観点から考えてみよう。それらは一方が強まれば、一方が弱まる関係にあり、西洋では、自律の文化が帰属の文化を完全に圧倒してしまっている。

おわりに

もちろん、国の文化や思想といったものは昨今どんどん均一化が進んでいるようにもみえ、ここで傾向として分析されたものの中にも「いや、もうそんなことはないんじゃないのかな」とか、「ちょっとざっくりしすぎではないかな」と思うところもあるが、ざっくばらんな世界の見方の見取り図としては悪くない。