基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

現在に至る種を広範囲にわたってまきつづけてきた悪魔的な天才──『未来から来た男 ジョン・フォン・ノイマン』

この『未来から来た男 ジョン・フォン・ノイマン』はその名の通りフォン・ノイマンの伝記である。1903年生まれの1957年没。数学からはじまって、物理学、計算機科学、ゲーム理論など幅広い分野で革新的な成果をあげ、史上最高の天才など、彼を称える言葉に際限はない。彼と同時代を生きた人物に、クルト・ゲーデルやアルベルト・アインシュタインなどそうそうたる人物が揃っているが、三人すべてを知る人物も、フォン・ノイマンが飛び抜けて鋭い知性の持ち主だと思っていたと語る。

実際、それが誇張表現ではないぐらい彼が一人で成し遂げたことは凄まじかった。その天才性は幼少期から発揮されていて、古代ギリシャ語やラテン語をマスターし、母語のハンガリー語だけでなくフランス語、ドイツ語、英語も話した。45巻の世界史全集を読んで、それから何十年も経った後でも第一章の内容をそらんじることができたという。晩年に至ってもその能力は衰えない。『フォーチュン』誌の1955年6月号に掲載された「我々はテクノロジーを生き延びられるか?」と題されたエッセイでは、遠隔通信の発展による紛争のエスカレートと共に、石炭や石油を燃やすことによる二酸化炭素の排出がこの惑星を温暖化させることへの危惧も語られている。

彼は気候変動への危惧をのべるにとどまらず、表面の塗装によって太陽光の反射量をおさえ、地球を意図的に暖めたり冷やしたりする発想──今で言うところのジオエンジニアリング──を語っている。しかも、そうした高度な気候制御は、想像だにされたことのない気候戦争の各種形態に適しているとまで指摘しているのだ。

コンピュータへの貢献、ゲーム理論やセル・オートマトン理論の想像など、何が必要なのかを把握し、未来からやってきとしかいいようがないぐらい、現代に必要な技術や概念をもたらした男なのである。それはもちろん原子爆弾のような破滅的な産物ももたらしたわけだが、それも含めてわれわれの生活の至るところに彼の痕跡が残されているからこそ、死後70年近くが経つ今でも彼のことを知る意義は大きい。

今や科学者、発明家、知識人、政治家に取り入れられてきた彼の見方や発想の影響は、人類という種は何者なのかについての私たちの考え方に、私たちの社会的および経済的な相互交流に、さらには、私たちを想像を超えた高みへと引き上げる可能性もすっかり破滅へと導く可能性もある機械にまで及んでいる。身の回りに目を向ければ、ジョニーの指紋が至るところに付いていることがわかるはずだ。

フォン・ノイマンが成し遂げてきたこと。

彼の成し遂げてきたことの要約をすると、最初の業績は量子力学の数学的な土台の構築に貢献したことだ。それが22歳の時。その後、1930年にアメリカに移住し、いずれ戦争が起こると予測していた彼はその時に備えて弾道や爆発の数学を研究。その功績もあって後に原子爆弾開発・製造のためのマンハッタン計画にもオッペンハイマーからじきじきに請われて参加し、ここでも当然目覚ましい成果をあげている。

たとえば、ロスアラモスで原子爆弾の開発に携わった科学者が大勢いるなか、「リトルボーイ」を上回る威力の「ファットマン」がプルトニウムコアの圧縮によって起爆するよう爆薬の配置を定めたのはフォン・ノイマンだった。

計画に加わったのと同年に、経済学者のモルゲンシュテルンとともにゲーム理論に関する研究も行っている。ゲーム理論は囚人のジレンマやナッシュ均衡とともに今では経済学の分野で名前をきくことが多いが、応用範囲は政治学、心理学、進化生物学(まだまだあるが)と広い。たとえば動物の利他的な行動が起こり得る理由についての研究もゲーム理論を軸に発展してきた面があるなど、今もなお「対立と協調」を数学的に考えるにあたって重要な概念である。これでも彼の業績は終わらない。

設計に携わった原爆が広島と長崎に投下された後、フォン・ノイマンは電子計算機の開発に向かうことになる。爆弾から計算機への転身は領域としてかけ離れているようにも見えるが、無関係ではない。フォン・ノイマンは30年代から計算処理に関する関心を抱いていたが、それは弾道計算や爆発のモデル化に必要となる計算量が膨らんでおり、当時の卓上計算機の力が及ばなくなるとすでに見込んでいたからだ。

フォン・ノイマンはプログラム内蔵型コンピューターの構成をはじめて記述するが、その構成には5つの「器官」が存在する。加算や乗算などの演算を行う「中央演算」装置、命令が適切な順序で実行されるように制御する「中央制御」装置、コンピューターのコードと数値を格納する「記憶」装置。残りの二つは「入力」と「出力」装置だ。彼が作ったフォン・ノイマン型アーキテクチャは今なおコンピュータ(スマホもノート/デスクトップPCも)の基本的な構成法の一つであり続けている。

また、単にコンピュータを作るにとどまらず、情報処理機械が特定の条件下で増殖、進化できることも1948年の講演で示し、こちらはオートマトン理論として結実していく。これも実はコンピュータと関連している。優れた性能を発揮する人間の脳は自分を勝手に作り上げる。だから、自己増殖する機械の仕組み、アルゴリズムを考えることは、彼にとっては脳のようなコンピュータを作ることに繋がっていた。

その後、脳とコンピューターとのあいだに見られる仕組みの類似点に関する彼の思索が、人工知能の誕生に一役買って、神経科学の発展に影響を及ぼした。

フォン・ノイマンの実績の多くはすぐに実用化や役に立てられてきたが、この分野で彼が成し遂げたことの真価が発揮されるのは、さらに未来になるだろう。たとえば、自己複製を繰り返し指数関数的にその数を増しながら宇宙を探索する探査機を考案したのも、この男なのだ。

フォン・ノイマンの最後

どんな天才であっても病には勝てない。彼は1955年に骨肉腫を発症し、そのままあれよあれよというまに転移は進む。娘のマリーナが死に向かう父にたいして、「何百万人という人を死に追いやることについては平然とじっくり考えていられる」のに、「自分が死ぬことになるとだめなのね」と問いかけたが、これにたいしてフォン・ノイマンは、「それとこれとは全然違う」とシンプルに答えている。

ノイマンは日本人の戦争意欲を完全に喪失させるためには、歴史的文化的価値が高い京都に原子爆弾を投下すべきだと主張するなど、目的を達成するための合理的思考がいきすぎた人物でもあった。本書には彼の善性についても触れられているが、悪魔か天使かといった、どちらか一側面だけの人間でないのは間違いない。

このふたつは水面下で戦っていた。フォン・ノイマンは性善説の勝利を望み、できるだけ寛大かつ高潔であろうとした。だが、経験と理性は人間の善意を信じすぎるなと彼に教えていた。

そうした、天才の複雑性が、本書にはしっかりと描き出されている。

最後にがんは脳に転移し、知力は徐々に落ち、7+4のような単純な計算問題も解くのが難しい状態だったという。誰よりも頭の回転が早かった男は、その頭が働かなくなっていった時に何を考えたのだろう。

がん治療を一変させる可能性を持った、新たな治療法の誕生と発展──『がんの消滅―天才医師が挑む光免疫療法―』

この『がんの消滅』は、新たながんの治療法として注目を集める「光免疫療法」について書かれた一冊である。光免疫療法はすでに米国や日本で一部の症例に対して承認され、標準治療となった新しい”がん療法”で、その仕組がこれまでの抗がん剤や放射線治療とは異なることから、その初期の段階から大きな注目を集めてきた。

僕自身光免疫療法の名をはじめて知ったのはいつだったか思い出せないが、その時から「僕ががんで死ぬ可能性が下がったかもしれない」と期待に胸を踊らせたものだ。何しろ、光免疫療法は既存の治療法と比べて「圧倒的に副作用が少なく、すべてのがんが治るわけではないが効果も高い」と目されていたからだ。本書は、その発明者である小林医師がアメリカの研究所で研究を始めるに至った経緯と、光免疫療法の発見・承認に至るエピソードやその仕組みを解説した一冊になる。

著者はライターの芹澤健介で小林医師ではないが、監修に(小林医師が)入っていて、中身は一般読者にもわかりやすく仕上がっている。そもそも光免疫療法はそのシステム自体はシンプル極まりなく、誰にでも理解できるものというのもある。先日はてなでは本書の抜粋がバズっていたのでそこで一度知った方も多いだろう。
shueisha.online
僕もこの記事で知ってすぐに本書を読んだのだけど、光免疫療法の治験への資金提供者が見つかるまでのドラマチックな展開、そのシンプルで美しくしかも効果の高い治療法に至る過程など、読み始めたらとまらずにあっという間に読み切ってしまった。

この治療法はまだ一部の症例でしか承認されていないし、すべてのがんが治せるわけではない。それでもこの治療法が今後より多くの症例に対して承認されれば、がんとの戦いは違った景色をみせてくれるだろう──と、新しい時代の到来を期待させてくれる治療法なのだ。というわけで以下、もう少し詳しく紹介していこう。

光免疫療法とはどのような治療法なのか?

最初に、そもそも「光免疫療法」とは何なのかについて紹介しておこう。光免疫療法は簡単にいえば「がん細胞だけを精確に狙い撃って殺す」治療法だ。現在メジャーな「がん治療」は、たとえば外科手術なら患部(腫瘍など)を切り取ったり、抗がん剤を使ってがん細胞の増殖を抑えて破壊したり、患部に放射線をあてて治そうとする。

それで治ることも多いが、がんだけを狙い撃って殺しているわけではないし、すべてを取り切れるわけでもない。外科手術では取りこぼしはどうしても発生するし、抗がん剤はいわずもがな。放射線治療も、がんだけに当てるわけにはいかない。一方、光免疫療法では、光に反応する薬(IR700)を投与し、薬ががん細胞に十分集まったところで、がんに対してレーザー光を当てることで治療する。

レーザー光は近赤外線で、それがどれだけ当たっても人体に大きな影響はない。しかし、IR700は近赤外線のエネルギーで化学変化を起こして、結合していたがん細胞に無数の傷をつけることでがん細胞が破壊される。それで終わらず、がん細胞が破壊されると周辺の免疫細胞が活性化して、がんに対してさらなる攻撃を行う。このあたりふわっと説明しているが、本書にはもっと詳しい説明もある。一部引用しよう。

体内に投与されたIR700と抗体の複合体ナノ・ダイナマイトはがん細胞の表面に数千個から数万個結合する。そこに近赤外線を当てられると、フタロシアニンを水溶性にするために結合されていた側鎖がスパッと切れ落ちる。スルホ基を失ったフタロシアニンの骨格は水に溶けない元の性質に逆戻りし、瞬間的に分子形状を変化させる。

「光療法」ではなく「光免疫療法」なのは、近赤外線を投射しがん細胞が壊れた後、免疫の追撃が発生するからだ。光免疫療法の仕組みは実にこれだけのことである。

光免疫療法の何がスゴいのか

この治療法の何がスゴいのかといえば、まず副作用が少ない点にある。放射線や抗がん剤と違って近赤外線は当て続けても問題はない。だから、一回で効かなくとも何度だって試すことができるし、副作用も(あまり)ない。体を切開する必要もない。

ただ、近赤外線は人体の場合透過できるのは数センチ程度なので、がんが体の奥にある場合は光ファイバーを挿す(3センチくらいのがんであれば直径1ミリの光ファイバーを1本、5〜6センチなら3本も挿せば十分らしい)ことで対応するらしい。どちらにせよ、切り開いて縫って、と比べれば圧倒的に負担が少ないのは間違いない。しかも、目視で確認するわけではなくて、ターゲットに対して「勝手にIR700が結合してくれる」ので、人間がやったら絶対に発生する取りこぼしや見逃しが少ないのだ。

この治療法は狙って結合させられるならバクテリアや細菌であっても破壊可能なので、それらに対する研究も進められている。その応用範囲は、がん治療を超えて幅広い。

弱点はあるのか

スゴいスゴいといってもがん治療は挫折の歴史でもある。画期的な治療法だ! と持ち上げられて、確かに効果はあったけど、ほんの一部のがんにしか効果がない。そんな治療法がたくさんある(一部に効果があるだけでスゴいことなんだけど)。

というわけで光免疫療法にも弱点がないわけでもない──はずだ。まず弱点といえるのはその仕組み上、がん細胞だけにIR700を結合させる手段がなくてはならない。光免疫療法で最初に認められた治療薬(「セツキシマブ サロタロカンナトリウム」)も、「EGFR(上皮成長因子受容体)」という抗原を標的にしている。EGFRはすべてのがんの2割強に発現し、がん細胞の増殖に関わるタンパク分子だ。こうしたがんにしか現れない「標的」があれば、IR700を結合させるのは比較的かんたんな仕事になる。

でもそんな都合よく「標的」はないんじゃない? だから、弱点になるんじゃない? と思うのだが、意外とがんの特徴分子は知られており、分子標的薬としてFDA(米食品医薬品局)に認可されているものだけで35種類以上存在する。現時点ですでに相当数のがんをカバーできる可能性があるわけだ。下記は小林医師の見解である。

僕が光免疫療法が8割、9割の大部分のがん種に対応できるはずだと考えている論拠はここにあります。ほとんどのがん細胞には目印となる特異ながん抗原があって、対応する抗体もすでに見つかっています。

治験段階で判明した副作用としては他にも、壊れたがん細胞が炎症を引き起こし痛みを生じさせることもあるというが、他の治療法と比べると軽微とはいえるだろう。

おわりに

僕は将来的にがんで死ぬのだろうと半ばあきらめているが、できればその治療過程で苦しい思いをすることや、その時間はできるだけ短くあってほしいと願っている。光免疫療法がその時に広い症例に対して行き渡っていたら、たとえ最終的にがんで死ぬとしても、苦痛が少ない治療で最後の時を過ごせるかもしれない。

ただ単に「新しくよく効く治療法」なのではなく、「苦痛が少ない」治療法であること。僕はその点に大きな希望を覚えるのだ。本書では他にも、治験に進むために営業をかけていた時にさっそうと現れた楽天・三木谷さんとのエピソードなど、ドラマチックなエピソードも連続する。新書で読みやすいので、ぜひ手に取ってもらいたい。

毒はどのように人間を死に至らしめるのか?──『毒殺の化学:世界を震撼させた11の毒』

この『毒殺の化学:世界を震撼させた11の毒』は、その書名の通りに人間を毒殺するために用いられた11の毒について書かれた一冊になる。毒殺では常套手段といえる青酸カリやトリカブトはもちろん、一般的には糖尿病治療で用いられるインスリンなど、それらがどのように人体を死に至らしめるのかという科学。そして、歴史を振り返ったときにその毒がどう殺人に用いられてきたのかが合わせて語られていく。

取り上げられているエピソードは単なる毒殺ではなく暗殺であったり、不特定多数に向けた無差別毒殺テロにみせかけて実は特定の狙いがいたというはた迷惑なケースであったりと、犯罪・事件的に話題性にとんだものばかりで、科学と犯罪捜査で一度で二度おいしい構成になっている。おもしろいのが、発覚したケースでないと誰にも知られぬまま忘れられていくだけだからというのもあるだろうが、本書で取り上げられている毒殺犯の多くが「毒殺がバレない」と信じて犯行に及んでいることだ。

検出されなかったり自然死にみせかけられるとふんでみな実行しているわけだが(中には毒についての専門的知識がある犯人もいる)意外と人間というのは違和感を見逃さなかったり、なんとかして毒を検出して犯人にたどり着いてしまうんだな、ということも各エピソードを読んでいくと実感する。なので、本書を読むと毒殺の手段が合計で11個手に入るわけではあるが、自分で実行しようとはとても思えないだろう。

アトロピン

今回最初に紹介したいのは、毒の性質というよりもそれが使われた犯罪事件が本書収録の中でもっとも奇妙な毒である「アトロピン」。これはベラドンナの実と葉から精製された毒で、純粋なアトロピンは白い無臭の結晶粉末になる。

アトロピンを大量に飲むと人間がどうなるのかといえば、本来であれば人体では副交感神経が活動し、アセチルコリンという神経伝達物質が流れて体内で様々な仕事をこなすのだが(心臓の鼓動を適切なペースに保ったり、食事時に唾液の分泌を促したり)それがどれも機能しなくなってしまう。結果として、心臓の鼓動は「遅くなれ」というアセチルコリンの指令を受け取れなくなって加速を続け毎分120〜160へ。鼓動は不規則にもなり、場合によっては腎臓や脳に問題を起こす。

瞳孔の収縮をもたらすアセチルコリンの仕事も消えて瞳孔は拡大し(1500年頃、ヴェネツィアの女優や娼婦は瞳孔を拡大させるためにベラドンナの実の汁を目に一滴たらしたという)、体の体温調節もできなくなって被害者は「ウサギのように熱く」なるという。アトロピンが血流にじかに注射された場合は数分で上記の効果が出始めるが、食べ物や飲み物に混入した場合は効果が出て気付くのに15分〜1時間かかる。

アトロピンを使った一大事件

で、本書ではこのアトロピンを使った毒殺事件も同時に取り上げられていくことになる。事件の舞台は1994年エディンバラ。その郊外にあるスーパーで売られていたトニックウォーターにはなぜか毒が混入しており、飲んでしまった被害者が病院に運ばれ、最終的に合計8人もの人間が(死んではいないものの)犠牲者となった。

大規模な毒混入事件であり、すぐに捜査本部が立ち上がって調査がはじまった。一見スーパーのトニックウォーターを誰が買うのかなんてわからないため無差別テロにしかみえないのだが、実際にはこれは妻を亡きものにして愛人と一緒になろうという、一人の男の「個人を標的にした」毒殺(未遂)事件だったことが明らかになる。

ことのあらましはこうだ。男は妻を殺したい(愛人と一緒になりたいから)。しかし普通に殺したのではバレてしまう。そのため、スーパーに売っているトニックウォーターにアトロピンを混入させ、自分でそれを買い、家でボトルに致死量のアトロピンを再度投入し、妻に飲ませることで、被害者をの一人を装って妻を殺害しようとしたのだ。なるほど完璧な作戦に思えるが、警察に家のボトルのアトロピンの量を調べられた際に、他の毒入りボトルと比べて多かったため、最終的には逮捕されてしまった。

おそらく家のボトルを処分していれば彼が逮捕されることはなかっただろう。そう考えると、恐ろしいような馬鹿げているような。どっちにしろアトロピンは苦味があるので飲み物に混ぜても致死量飲ませるのは困難らしい(妻も結局助かったのだが、それは苦味を感じてトニックウォーターを全部は飲めなかったことも関係している)。

暗殺に使われた毒

毒殺といえばやはり「暗殺」だろう。ある意味ではタイムリーといえるのが、旧ソ連国家保安委員会(KGB)が暗殺に使った「リシン」である。KGBは保安上の脅威とみなされる人物は誰でも消し去るというはた迷惑なポリシーを掲げていて、当然毒殺はこの手の手段では筆頭にあがる。中でも「第一研究所」では、検出、特定、追跡が極めて難しい特殊な毒物の開発と製造が行われていた。

KGBによる毒殺はたくさんの事例があるわけだが、本書で紹介されているのはブルガリア出身で反体制的な言動を繰り返した人物ゲオルギー・マルコフの暗殺である。彼は国(ブルガリア)を出てロンドンでラジオなどを通して反体制活動を続けていたのだが、それがブルガリアの逆鱗に触れ、兄貴分(ソ連の第一研究所)の暗殺者が派遣されてしまった(1978年)。その手管はシンプルで、マルコフがオフィスに向かうためにバスを待っている最中に、暗殺者は傘型の圧縮空気銃で「リシン」を太ももに打ち込み、マルコフは自分が死に向かっているとも知らずに出社し、数日後に死に至った。

マルコフは自分が狙われている自覚があったことから暗殺者に狙われたと死ぬ前に語っていたのだが、撃ち込まれた傷跡はごく小さく、その上精製した濃縮リシンが意図的に注入されたケースははじめてだったことから、科学者らも医者も対処は不可能であった。そのため、死後の調査も少量の純粋なリシンを動物に投与しその作用を調べるところからはじまっている。結局、動物がマルコフと同じように死に至ったこと、また珍しい猛毒が珍しい装置で撃ち込まれたことから、第一研究所に疑惑の目が向けられるわけだが──、「誰も知らない、珍しい殺し方だからこりゃ第一研究所だろう」となってしまうのはすごいんだかすごくないんだか……という感じではある。

ちなみにリシンとはヒマ、あるいはトウゴマの種子から精製される毒で、青酸カリと比べても500〜1000倍も毒性が強い。粉末なら食塩数粒ほどで人を殺せる最強の毒である。現在、解毒剤や治療法は存在しないので、これを食らったら終わりだ。

おわりに

本書を貫いているテーマの一つに「毒と薬は表裏一体」というのもある。たとえば猛毒のリシンすら治療薬として使えないかとの模索が続いている(リシンをがん細胞などターゲットとなる細胞のみに届け、結合させるのだ)。最初に紹介したアトロピンも、心拍数の低い患者や心停止した患者に対して用いられたり、手術中に唾液や気道の分泌物が肺に入って肺炎を引き起こすのを防ぐように用いられることもある。

結局、「人体の状態を異常値にする」のが毒の機能なのだけれども、それは逆にいえば「異常値になってしまった人体」を正常値に戻す役割も担えるというわけだ。本書を読んでも毒殺しようとは思えないし、身を守る役にも立たないだろうが、薬と毒を見る目はかわるかもしれない。

地球温暖化が進んだ時、我々はどこに逃げるべきなのか?──『気候崩壊後の人類大移動』

暑い日が続く今日この頃。日本国内は避暑で逃げようにも北海道ですら歴史を更新する猛暑が続き、どこに行けばいいのかと途方にくれてしまいそうになる。しかも、地球温暖化は続くのだ。このままだと、国外に居住地を移す人も増えてくるだろう。

本書『気候崩壊後の人類大移動』は、そうした「人類大移動」の未来について書かれた一冊だ。我々はいつ、どこで、誰が移住を強いられるのか。我々はどこに行くべきなのか。また、そんなにたくさんの人類が移動することに現行のシステムはとても耐えられそうにないが、では今後世界はシステム・運用方法をどうかえていけばいいのだろうか。本書は国境問題や移民政策、食糧問題にジオエンジニアリングに都市計画まで、気候変動をとっかかりに無数のジャンルを網羅し検証していく科学ノンフィクションで、暑さに参ってしまっている人にオススメしたい。

そもそも今後どれほど暑くなるのか?

現在の気候モデルの予測によれば、2100年には産業革命前よりも地球の平均気温は3℃から4℃高くなるという。仮に平均気温が4℃上昇したら、地球上の多くの地域が居住に適さなくなる。アフリカのほとんどは砂漠になり、中国東部の川や帯水層は干上がり、アメリカ南西部は砂漠化と火事と猛暑の影響で人は住めなくなるだろう。

氷河や氷床はほとんど溶け、海面は2メートルほど上昇するので、ポリネシアは海中に水没する。『今日、海抜が低い島や沿岸地域の多くには地球の全人口の半分ちかくが集中しているが、海面が上昇すれば居住不可能になってしまう。その結果、二一〇〇年前までにはおよそ二〇億の難民が発生するという予測もある。』

 インドだけでも、一〇億ちかくの国民が危険にさらされる。ほかにも中国では五億人が国内での移住を迫られ、ラテンアメリカやアフリカでは何百万人もが大陸を縦断して移動しなければならない。そして、南ヨーロッパの特徴である地中海性気候の勢力圏はすでに北に広がり、スペインからトルコに至る地域で砂漠のような気候が常態化している。一方、中東の一部はすでに、熱波と水不足と土壌の劣化による被害が深刻だ。
 人々は住み慣れた場所からの脱出を始めるだろう。いや、すでに移動は始まっている。

「すでに移動は始まっている」のだ。たとえば、海抜が低い場所に位置する、環状サンゴ礁から成る国「キリバス」は、水位が危険なレベルに達したため、国民全体を他国に移住させる準備が進められているという。国は国民のためフィジーに土地を購入し、新天地で生計の手段をみつけられるよう、国ぐるみで支援している。

キリバスではすでに就労目的で国民を海外に送り出してきたが、将来的に国民が大量の難民となって人道支援に頼ることも見据えて、ニュージーランドには看護師を派遣しているという。国内人口が10万人程度の国家だからこそともいえるが、キリバスで行われている決死の対策の数々が、世界各地で行われるかもしれない。

どこへ行けばいいのか

さて、では大移動する必要があるとして、どこへ行けばいいのだろうか。ひとつ確定でいえるのは、高緯度地域は安牌だということだ。グリーンランドやシベリアのような人の居住や農業に適していなかった場所が一転、希望の地になる。アメリカの国家情報会議によれば、農業可能地域が増え、その支配的地位が盤石になるため、ロシアは温暖化の進行から最大の利益を得る可能性を秘めているとされている。

 北緯四五度の地域は、二一世紀には安息の地として栄えるだろう。地球の面積全体の一五パーセントを占めるほどだが、氷に閉ざされない土地の二九パーセントが集まり、現在は世界のごく一部の人たち(主に高齢者)が暮らしている。将来は平均気温がおよそ一三℃に上昇し、人間の生産性には最適な気候条件が整うと予想される。

アラスカやカナダやスウェーデンのような国(と地域)も、今後繁栄を迎えるのは間違いない。北半球では温暖化の影響でこれまで育てられなかった作物も育てられるようになり、林業だけでも30%の成長が見込める。スタンフォード大学の研究によれば、地球温暖化はすでにスウェーデンの一人あたりGDPを25%増加させているという。

もっとも、そうした恩恵を受ける地域も、今後マイナスがないわけではない。自然災害は他の地域と同様に発生するし、永久凍土が消滅すると、その固く凍りついた土をあてにして作られていたインフラ設備が軒並み使えなくなってしまう。

対抗策として、何ができるのか?

本書ではただただ危険を煽るのではなく、人類大移動の時代に備えて、何をすべきなのか? 何が行えたら対応できるのか? についても存分に語られている。一つ必要なのは、人々が「移動」しやすいシステム作りだ。複雑な手続きをできるだけ廃して移住元・移住先両国家にとって利益のある移民システムの構築も必要になるだろう。

たとえば、ある国家から別の国家への移住ビザが市民に発行され、市民はその国を受け入れた場合は指定の部門で指定期間働き、研修への参加が義務づけられる──などである。移民にとって大変なのは環境の変化だけでなく、それによって社会的つながりがゼロになってしまうこともあるが、それに対してもケアが必要で──と、「移住が前提の社会、国家」を世界的に推し進めていくために、考えるべきことは多い。

他にできることも数多くあって(炭素排出量を減らしたり)、本書で検討されているものの一つに地球の気候システムへの意図的かな介入である「ジオエンジニアリング」もある。成層圏に意図的に粒子をばらまいて太陽光を反射させることで地球の気温を操作したりすることを指しているが、すでに現時点で試されているものも多い。

たとえば光を反射する人工雪(ガラスで作られている)を氷河にふきつけることで、氷の反射率は15〜20%増加するという。本格的に導入すると費用は50億ドルと推定されるが、実現すれば気温は1.5℃減少、氷の厚さは最大で50センチメートル増え、温暖化に関して、15年の時間稼ぎができるという。

おわりに

明らかに年々暑くなっていて限界を感じるのだが、本書を読めば未来に少しの希望もみることができるだろう。できれば、移住せずにすませたいものだが、いつかくるその時のために、本書を読んで準備をしておくのも良いかもしれない。

なぜ、アルツハイマー病の研究が遅々として進まなかったのか?──『アルツハイマー病研究、失敗の構造』

認知症の一種であるアルツハイマー病は、誰もが老化と共におちいる可能性のある病気だ。記憶力が衰え、言語・思考などあらゆる知的能力がだんだん衰退し最終的には死に至る。体はそのままで人格が壊れていくことから本人の恐怖はもちろん、日常生活を単独で行うことが難しくなっていくので、介護負担・費用の問題も大きい。

がん治療が進歩し人々が長く生きるようになると、必然的にアルツハイマー病の患者は多くなる。厚生労働省が2022年6月に公表した患者調査(2020)では継続的に治療を受けているアルツハイマー病の患者数は79万人にものぼる。1996年には2万人であったことを考えると、増えているのは間違いない。それなのに、わずかに進行を遅らせる薬こそ存在するものの、症状を劇的に改善させる薬は作られていない。

最近も、米食品医薬品局(FDA)がアルツハイマー病治療薬「アデュカヌマブ」と「レカネマブ」の二種類を承認したが、21年に承認された前者は治験での効果が限定的(認知機能の低下を遅らせる効果はわずかだった)であり、承認されたことに疑問を呈す学者さえいる薬だ。2023年の1月に承認されたレカネマブの方は認知機能の低下を遅らせることが治験で示された薬だが、データは間違ってはないが恣意的で、その効果は統計的には有意でも生物学的にはほとんど無意味であると語る学者もいる(本書の著者や、米バンダービルト大学医療センターの神経科医マシュー・シュラグなど)。

完成が待ち望まれる薬だが、新薬はなかなか承認されず、その効果も目下のところ目覚ましいとはいえない、というのが現状のようだ。では、なぜそんな状況になっているのか。何が研究のネックになっていて、今後の展望は開けているのか。その謎を解き明かしていくのが本書『アルツハイマー病研究、失敗の構造』である。

著者のカール・へラップはアルツハイマー病の基礎研究分野で確かな実績のある研究者で、この病気の病理診断基準を決めるプロセスなど、その中核を知る人物だ。しかし、彼の研究は決して順風満帆ではなかった。それには、この病気が不可解なだけでなく、この研究界隈の妨害や思い込みも関係している。その失敗の歴史と構造は、アルツハイマー病研究にとどまらず広く普遍的に起こり得るものだ。

著者自身がその構造の被害者の一人であり、本書の記述にも熱がこもっている。現代を生きる誰もが無関係ではいられない、非常に重要な一冊なのだ。

アミロイドカスケード仮説

本書ではまずアルツハイマー病の定義が試みられ(そもそも簡単に定義ができないのがアルツハイマー病の研究が失敗する理由のひとつなのだが)、その後アルツハイマー病の歴史が簡単に語られていく。どちらも重要なのは、一体何がアルツハイマー病をもたらすのか? という問いかけだ。特定部位の損傷なのか変異なのか?

数々の仮説が提唱されてきたが、その中で最も支持を得たのが「アミロイドカスケード仮説」だった。これは概略だけなら難しい話ではない。脳内の神経細胞外にゴミ(アミロイドというねばねばした凝集たんぱく質)がたまり、結果その堆積物である「アミロイドプラーク」(いわゆる老人斑)が発生し、それが増え、アルツハイマー病を発症するということである。アミロイドカスケード仮説の代表的な論文では、『アミロイドβタンパク質の蓄積が……アルツハイマー病の病理をもたらす原因であり……』とはっきり書かれている。それならアミロイドを除去すればよさそうだ。

実際この仮説が支持されてきた(そして、今なお支持されている。前述の「アデュカヌマブ」と「レカネマブ」はどちらもアミロイドプラークを除去することに集中している)のには理由がある。遺伝的な側面からの検証が関係を示唆していたこともあるが、中でも注目に値するのが、マウスを対象とした実験で目覚ましい効果があったことだ。なぜか人間以外の動物はアルツハイマー病を発症しないので、この実験では遺伝子操作で多数のプラークが脳に散らばり記憶力に不具合が出たマウスを対象とした。

そしてある時、製薬会社のある研究チームがマウスの脳内のプラークを除去するワクチンを開発し、効果をあげた。それどころか、プラークができはじめてからワクチンを打ってもプラークは減って、それに伴い減じていた記憶力ももとに戻った。それなら、あとはそれを人間に適用して、同じような作用を目指せばいいだけだ!

うまくいかない治験

だが、ことはそう単純な話ではなかった。マウスではうまくいったが、人間ではうまくいかないのだ。治験でプラークはちゃんとヒトの脳からも消えるのだが、それでもアルツハイマー病は治らないのである。それでもアミロイドカスケード仮説はそれまでの発見があまりに劇的で、多くのヒトにとってそれ以外の原因が考えられなかったので、たいした結果が得られなくとも仮説が捨てられることはなかった。

1992年、著者らもアルツハイマー病に関わる研究──ただし、アミロイドとあまり関係のない、ニューロンの死滅についての研究──を行っていたのだが、自身らの仮説を諮問委員会にはかったところ、『「きみね、アミロイドの研究でなければアルツハイマー病の研究じゃないんだよ」』と警告を受けたという。それぐらい当時は、アルツハイマー病=アミロイドが原因であるという考えがまかり通っていて、それ以外の仮説を検証したり提示しようとしてもはねつけられる時代だったのである。

批判をただ却下するのは(アミロイド仮説の擁護派はおうおうにしてそうしようとしていたが)、科学にのっとった議論というよりディベートの戦術である。アミロイドカスケード仮説を信奉するからには、その仮説の生物学的な機序を可能な限り詳しく掘り下げる義務があった。なのにその道を選ばず、いつのまにか仮説を守ること自体が使命となった。それがアルツハイマー病研究の当時の状況である。

注記しておきたいのは、著者は別にアミロイドカスケード仮説が「完全に間違っている」と言っているわけではないのだ。アルツハイマー病は複雑なピースからなる病気であり、その一つとしてアミロイドが存在しているのであって、それ以外も研究しなければ解決できないと言っているのである。

実際、当時アミロイドに関係しないからといって批判された仮説の多くは、アミロイドカスケード仮説と相補的で、否定するものではなかった。『私たちはアミロイドのみのルートを通ってアルツハイマー病の治療薬を追い求めてきたために、多くの時間を失った。たぶん10~15年は無駄にしてきただろう。』と著者は語る。

なぜマウスではうまくいったのにヒトではだめだったのか?

なぜマウスではうまくいったのにヒトではダメだったのかといえば、そもそも当時作製されたマウスはアルツハイマー病とはいえなかった、と本書では述べられている。当時はアミロイドカスケード仮説が今以上に信奉されており、マウスはプラークさえあって記憶に不具合が多少あれば実験対象として問題なしにされた。

しかし実際には当時の遺伝子操作で作製したモデルマウスには実行機能障害や抑うつなどアルツハイマー病の諸要素がなく、それどころか「機能が次第に失われていく」最大の特徴さえなかった。つまり、アルツハイマー病を治したと思いこんでいただけで、そもそもアルツハイマー病とはいえないマウスだったのだ。また、プラークを人間の脳内から除去してもよくならないということは、プラークが人間の脳内にあっても知的能力に問題が現れるとは限らないことも意味している。

おわりに

では、何が原因なのか? その答えは出ていないが、アミロイドの除去だけを探求しても難しそうだ、と本書を読んでいると思わせられる*1。そもそも治したりモデルマウスを作製するにもアルツハイマー病の具体的な定義が必要で──と、本書では200pに至って「アルツハイマー病とは何だろうか?」とあらためて問いかけて見せる。

基礎からしっかりと教えてくれる、じっくり時間をかけて読む価値のある一冊だ。

*1:ただ、もちろん続々とアミロイド除去を目的とした薬が出ているように、こちらの方面もまだまだ探求はされている。たとえば、アミロイド除去薬がたいして認知機能の改善をもたらさないのは、投与するのがアルツハイマー病が判明してからでは遅すぎるので、症状が出るずっと前からの予防的介入が必要なのではないか──など、「アミロイドは原因なのは前提として、アミロイド除去薬が効かない理由がなにかあるのではないか」という模索も続けられている。著者の立場はこれまでのアルツハイマー病研究に対して否定的なので、その点については注意が必要だろう。

マーベルコミックの原作者でもある著者が、本気で考える世界征服計画──『科学でかなえる世界征服』

この『科学でかなえる世界征服』は、『ゼロからつくる科学文明 タイムトラベラーのためのサバイバルガイド』などで知られるライアン・ノースの最新作だ。

前作(『ゼロからつくる科学文明』)は、もし自分がタイムトラベラーで現代から過去の世界に飛んでしまい、(もといた時代に)戻ることができなくなってしまったとしたら、どうやって文明を再興するのが一番早いのか? を食やエネルギー、医療など様々な観点から考察していく一冊だった。それに続く今作は、マーベルやDCのようなヒーローコミックの世界における「ヴィラン」になって、世界征服を試みたら、何をすればいいのか? 何が必要なのか? を考察していく一冊だ。

秘密基地はどこに作ればいい? どういった素材で作ればいい? からはじまって、恐竜のクローン作成、気候のコントロール、タイムトラベルにインターネットの破壊まで、数々の悪事を現実的に行うために何をしたらいいのかを取り上げている。

なんで突然ヴィランが世界征服するなんて本を書いたんだ? と思うかもしれないが、著者のライアン・ノースはコミック・ライターであり、マーベルの漫画作品の原作者でもあるのだ。彼がマーベルで原作を手掛けた漫画のひとつにリスト同様の身体能力、リスと意思疎通できる能力を持つ女性が主人公の『The Unbeatable Squirrel Girl』(邦題『絶対無敵スクイレルガール:けものがフレンド』)がある。

で、そうした経歴を持つ著者なので、スーパーヴィランはアメコミの世界では必然的に負ける必要があるが、そうした物語的な都合を排して、”スーパーヴィランが負けなくていいならどうなるだろう?”を考えたのが本作の種となっている。

 本書はみなさんにスーパーヴィラン教育を受けてもらうためのテキストだ。それは今まさに始まる。あなたは今日、ポピュラーサイエンス本の読者としてスタートするが、すぐに物理学、生物学、歴史、テクノロジー、コンピュータ、宇宙──宇宙における人間の状況、宇宙のなかの森羅万象、そして私たちが宇宙で占めている地位──について、これまでよりもさらに多くのことを学ぶ。あなたがいつもなりたいと思っていた自分になれるよう、私は全力を尽くそう。大胆な者、いまだかつてなかったような者に、あなたがなれるように。スーパーヴィランと呼ぶにふさわしい者に。

世界征服とあんまり関係ない強引なトピックもあって(たとえば恐竜のクローンを作るとか地球の中心まで穴を掘るとか、世界征服とあんまり関係ない)、その点は「世界征服本」として読むと残念だが、世界征服という発想を軸に科学のおもしろトピックを語る、ポピュラーサイエンス本としてのおもしろさに溢れた本である。

スーパーヴィランには秘密基地が必要だ

最初に考察されていくテーマは「秘密基地」だ。実際問題世界征服をしようと思ったら一人ではなかなか難しいしある程度の人が入れてしかも権力に邪魔されない秘密の基地が必要になる。本書の構成はどの章も同じで、まず最初になぜそれについて考えるのが必要か、どんな可能性が考えられるのかなどの「背景」が語られる。

基地の例でいえば、最初に「人間が完全な自給自足で生きていくために必要な面積はいくつなのか?」という考察から始まる。たとえば1991年には男性4人、女性4人の合計8名が2年間、”バイオスフィア2”と呼ばれる完全に独立した複合施設で暮らす実験が行われている。その内部では食物の生産から鶏や山羊の飼育も行われていて、完全な循環を目指していたがこの実験では数々の問題が起こった(食料の不足、酸素濃度の危険なレベルまでの低下、人間関係の決裂など)ことでほぼ失敗に終わったことなど。そうした歴史に学びながら「最低限必要な面積」についての考察が行われ、一歩一歩「ヴィランの秘密基地に必要なもの」の要件定義が行われていく。

「背景」の説明が終わったら次は「小悪党の間抜けなプラン」として、実際の歴史においてどのような試みが失敗に終わってきたのかを紹介していく。たとえば海の基地の失敗例としては、超富裕層向けに地球で最大の住居型客船として分譲マンションのように販売されたクルーズ客船ザ・ワールドが紹介されている。ザ・ワールドは所有者には1000万ドル以上の資産が求められる高くて素敵な船だが、当然無補給とはいかない。COVID-19が世界を襲った2020年3月には、ザ・ワールドも運行中止となってしまった。こうした事態は、ヴィランの秘密基地としては避けたほうがよいだろう。

「背景」と「小悪党の間抜けなプラン」として失敗例がいくつも語られた後、ようやく「あなたの計画」として使えそうな案が出現する。秘密基地でいうと、どの国家の法律も及ばない「国際空域」に注目し、そこに拠点を構えようとしていく。

一例としてアメリカの場合、海抜5.5から18.3キロメートルの範囲──大半の航空機が飛ぶ範囲──を飛ぶ際、飛行機は常に航空管制の指示に従い、しかも、その空域に入っていいという明確な許可を取っていなければならない。ところが、18.3キロメートルより上まで逃げおおせたなら、あなたは違った扱いを受ける。その空域では、無線通信はまったく使えず、航空管制の許可もまったく必要ない。そこは歴史的に、恒常的には大して何にも使われてこなかった空域なのだ。つまり、私たちが好き勝手に使い放題ということだ。

空域が空いてるっていってもそこに基地なんか建設できないだろ、と思うかもしれない。だが、「ある物体が形を保ったままで拡大されるとき、その表面積は、拡大率の2乗で大きくなるのに対し、体積は3乗で大きくなる」法則を活用し、人間が何人も暮らせるだけの超巨大な気球基地を浮かべよう──と壮大な着想に至って見せる。

気球でもエネルギー補給は必要でしょ? と思うかもしれないが、一定以上に大きくなれば内部に含まれる空気の量が大きくて気球の重量が逆に軽くなって、日光によるわずかな内部の空気の上昇だけで浮かんで飛べるようになる可能性があるという。ただ、もちろんそう簡単にできるものでもなくて(そんなに巨大な構造物を作ることができる軽くて頑丈な材料が現時点では存在しない)──と、計画の「マイナス面」、そしてこの計画を実施した時にどのような罪に問われるのかについても言及される。

それ以外の章

流れを含めて一章紹介していたらけっこうな分量になってしまったのでこれ以上の詳細な紹介は控えるが、他の章もおもしろいものが多い。二章「自分自身の国を始めるには」ではこの地球上であらたな土地を支配するには何が必要でどこがいいのかを考察していくし(「あなたの計画」では南極が候補にあがる)、五章「地球の中心まで穴を掘って、地球のコアを人質にする方法」は世界征服との関連度でいうと微妙だが、どれぐらい掘り進むと熱くなるのかなど、考察の内容自体はおもしろい。

章の全体像は下記のとおりだ。

おことわり/はじめに
第1部:スーパーヴィランの超基本〈スーパーベーシック〉
 第1章:スーパーヴィランには秘密基地が必要だ
 第2章:自分自身の国を始めるには
第2部:世界征服について語るときに我々の語ること
 第3章:恐竜のクローン作成と、それに反対するすべての人への恐ろしいニュース
 第4章:完全犯罪のために気候をコントロールする
 第5章:地球の中心まで穴を掘って、地球のコアを人質にする方法
 第6章:タイムトラベル
 第7章: 私たち全員を救うためにインターネットを破壊する
第3部: 犯罪が罰せられなければ、犯人はそれを犯したことを決して悔いない
 第8章:不死身となり、文字通り永遠に生きるには
 第9章:あなたが決して忘れられないようにするために
結び/謝辞/参考文献/訳者あとがき

おわりに

世界征服してえ〜〜!! という人はそんなに多くないんじゃないかと思うが、大きな夢、発想を擬似的にもたせ、勇気を与えてくれるような一冊だ。類書としては岡田斗司夫の『「世界征服」は可能か?』なんかもあって、これは昔読んで記憶が曖昧だがそもそも「悪」や「世界征服」の定義を試みていておもしろかった記憶がある。

生命の定義について、宇宙生物学からヒト脳オルガノイドまで幅広く扱われた一冊──『「生きている」とはどういうことか:生命の境界領域に挑む科学者たち』

「生きているものといないもの」を見分けるのは、直感的には簡単に思える。たとえば、人間や犬が生きていること、石のような無機物が生きていないことにそう異論は出ないだろう。しかし厳密に境界線を引こうとすると、ことは途端に難しくなる。

たとえば「自己複製するか」「自分で代謝活動を行うか否か」あたりの細胞性生物の特徴を「生命の定義」にしようとしても自己複製しかできないウイルスは生物とはいえないのかという話に繋がってしまう。しかも、ウイルスは近年の研究ではタンパク質の合成に関わる酵素を持つものもいることも判明している。

というわけで本書『「生きている」とはどういうことか』は、生命の定義を様々な分野、ジャンルを通してみていこう、という一冊である。最初に例にあげたウイルスは生物なのか問題も取り上げられるし、多能性幹細胞から分化誘導して作られたヒト脳オルガノイドはどこまで成長したら「生きている」といえるのか? から宇宙生物学まで、本当に幅広い分野を網羅している。対象は生物学にすら限定されず、たとえば生命の定義をめぐる歴史も随所に挟まれるし、脳死は死なのか、心臓が動いていたら生きているのか? という医療分野の議論までもが取り上げられていく。

著者のカール・ジンマーは長年生物学関連のポピュラー・サイエンス本を書いてきたライターで、本書も専門的な内容に終始せず、広範な取材と情熱的な筆致でぐいぐいと読者をひっぱってくれる。「生命とは何か」は生物学における明確な答えの出ない王道のテーマであり、その分書き手の力量がもろにでるが、本書は真正面からそのテーマを描ききってみせたといえるだろう。

ヒト脳オルガノイドは「生きて」いるか?

本書の第一部で取り上げられているエピソードは、ヒト脳オルガノイドについての研究だ。オルガノイドは「臓器(organ)のようなもの」を意味し、人間から皮膚のサンプルを採取して、細胞を一度幹細胞に変化させてから誘導することで脳の組織のごく一部をほぼ神経細胞だけで再現したのが脳オルガノイである。その大きさはだいたい数ミリのものがほとんどのようで、その言葉からシンプルにイメージされるような、「人間の脳をまるっと再現」したようなものではない。ほんの一部なのだ。

著者がこの件について取材に行ったのはサンディエゴの研究所であるサンフォード再生医学コンソーシアムだ。そこで研究者たちは数千にも及ぶ脳オルガノイドを所持し、宇宙ステーションに脳オルガノイドを送り込んでその影響を調べたりと、数多くの実験・研究を行っている。脳オルガノイドはニューロンが成熟するのに伴ってでたらめな電圧のスパイクを発するようになるのだが、時折ニューロンの全体がリズミカルに発火するなど、研究者をして「なんらかの秩序が現れてくるように思えた」と語らせるほどの秩序らしき行動がみえてくることもあるという。

電極に載せた脳オルガノイドに何らかのパターンを持つ電気ショックを与えると、それが活性化しはじめる(『入力されたシグナルに応えて、オルガノイドがみずからのニューロンを使って一致するシグナルを生み出すのだ。』)など、何かを学習する機能さえもある。それだけ聞くとそれもう何かが芽生えようとしてるやん! と言いたくなるが、まださすがに意識やそれに類するものは生まれていないと思われる。

しかし、研究を進めれば脳オルガノイドはもっと脳に近くなるのかもしれない。大脳皮質のオルガノイドができるのなら、網膜のオルガノイドを作って両者をつなぐことだってできる。それを続けていった先、脳の反応がより人間に近くなっていったとしたら、どこからが生きていて、どこからが生きていないといえるのか? 当然そう簡単に答えが出る問題ではないが、手がかりは本書でいくつか紹介されていく。

そのひとつは、シアトルのアレン脳科学研究所で所長を務めるクリストフ・コッホが語る、脳内の意識の状態を単一の数値で測るという発想だ。被験者の頭に磁石を付けて(一時的に脳波を妨げる)無害なパルスを送り込み、その反応で意識の程度を計測できるというのだ。覚醒したり夢をみている人の場合、パルスは複雑な経路で脳全体に広がるが、麻酔をかけられた人はもっと単純な反応を返す。同じことを脳オルガノイドでもできるかもしれない。その場合、脳オルガノイドを作る際はその計測の数値が、一定の値を超えないようにしよう──などの取り決めが求められるだろう。

おわりに

1900年代初頭に活躍した物理学者バークはラジウムを肉汁のスープに入れたら増え、変化する原初的な生命が生まれたと言って生命の起源をラジウムに求めたが(当然何の根拠もない思い込みだったが社会は騒ぎ立てバークは一躍時の人になった)生命の起源と定義をめぐる歴史はトンデモ話の連続でもある。本書にも単純な化学物質の組み合わせで生命を作ることができると主張する化学者クローニンのエピソードが(懐疑的なトーンで)紹介されているが、今後もバークのような例は絶えないだろう。

脳死は死だという医師もいれば、心臓が鼓動を続けていれば死ではないと語る医師も、視床下部が働いていれば脳死ではないという医師もいて、脳死の定義も揺れている。エンケラドゥスに地球外生命を探索する研究者は、生命の定義はあえてもたないようにし、『私は、系から生命を取り去っても有機化学でできることに本当に驚き、感銘を受けています。』と語る。医者、法学者、脳科学研究者、宇宙生物学者など、みなそれぞれの領域で「生命の定義」と格闘しているのが、本書を読むとよくわかる。

生命の定義そのたった一つの明確な答えを教えてくれるわけではないが、本書を読めば生命と非生命の境界線について、より明確にイメージができるようになるはずだ。

最悪のことが起こった土地でも、自然は再生する──『人間がいなくなった後の自然』

この『人間がいなくなった後の自然』は、作家・ジャーナリストのカル・フリンが、原子炉事故や薬物汚染、地雷原に紛争に──と、数々の理由によって人間に打ち捨てられた地を訪れ、そこでどのように自然と動物が再生、あるいは変化してきたのかをとらえた一冊である。なぜそこが放棄されたのか、という歴史・科学的なエピソードが語られた後、著者がその地に足を踏み入れ、その風景が描写されていく。

旅の本であるともいえるし、放棄された土地で、どのような生物が再度根付き、どうやって自然と動物が再生・変化していったのかの科学的な描写は正確かつ適切な分量で、多数の文学作品やSF小説からイメージを引用しながら自然を描写する筆致はとにかく美しい──と、一冊で二度も三度もおいしい名著である。カラーの写真も多数掲載されていて、それ自体が廃墟写真集のような素晴らしさがあるのだが、文章による情景描写にはやはりそこからしか得られない栄養があるものだ。

たとえば下記は、トルコとキプロスの間で戦争が長年続き、緩衝地帯となって放棄されたキプロスの村を回っている最中の描写だが、その目線は素晴らしいものだ。

 この静かな谷間では、黄金の花粉が肌に薄く振りかかり、鳥たちのさえずりが響き渡り、戦争ははるか彼方のものであるように感じられる。太陽が薄い雲の間から暖かい光を放っている。海風が木々をなびかせる。セミは高く低く音階を奏でる。スズメや、背中と首は黒い色で腹部は灰みがかったピンク色をしたサバクヒタキなどの鳴き鳥たちは空を飛び回り、私の存在など気にも留めない。ツバメは道路を低空飛行し、こちらへまたあちらへと飛び去る。

この村では、20世紀には数十頭まで減少してしまったと見られていたムフロンという野生の羊が住み着き、誰も耕していない農地で草を食んでいた。その数は、緩衝地帯の広大な土地が新たな生息地となって、3000頭にまで回復したと考えられている。そして、こうした再生が起こっているのは、キプロスだけではないのだ。

キプロスの廃墟となった家屋。Amazon(https://www.amazon.co.jp/dp/4794226470)より写真引用

荒地

最初に紹介されていくのは、スコットランドの荒地である。1860年代から60年間にわたって、スコットランドは世界有数の石油産出国になった。その結果100を超える工場が稼働したのだが、石油を取り出すためにシェールを砕いて加熱する必要があったので、大量の廃棄物(石油10バレルにたいしてシェール6トン)が出た。

その廃棄物を捨てた場所は、積み重なって山になるのでボタ山などと呼ばれる。投棄される前に摂氏500度に加熱されていたものが集まっているので、最初は種子も胞子も何もない砂漠を形成する。しかし、そこからも自然は復活するのだ。風に運ばれたり、鳥によってまかれて、緑色のコケ(キゴケ)がはえ、キドニーベッチ、ホソバウンラン、ブルーベル、イエローラトル、ツメクサ、クワガタソウなどが出現する。

生き残りの数が多ければ多いほど、他のものたちが生きやすくなる。有機物が、腐葉土や枯れ木、藻類として蓄積され、次の世代のための堆肥として機能するからだ。そもそもボタ山の種は乏しかった。その後、さまざまな種が混じり合い入れ替わりながら、ボタ山の表面のあちこちで一進一退を繰り返したことだろう。(……)しかし時が経つにつれ、種は増加し、定着し始める。そして今、ボタ山はこの地域の生物多様性の記録保管所としての役割を果たすようになっている。

スコットランド、ウエスト・ロージアンにある廃棄物の山。Amazon(https://www.amazon.co.jp/dp/4794226470)から写真引用。

放射能汚染

放棄された土地ときいてまず思い浮かぶものの一つは核実験などによる放射能汚染だろう。その代表的な例のひとつがビキニ環礁での核実験だ。1954年のブラボー実験では広島原爆の7000倍以上の威力を持つ熱核爆弾が爆発した。

当然被害は絶大で、放射性降下物が降り注ぎ海底は汚染されどんな生物も存在しない荒地になった。しかし2008年、国際的な研究チームが調査した所、爆発で生じたクレーターの中には活発な水中生態系が形成されていたのだ。依然環境は汚染され、この島の地下水とココナッツは人間が飲んだり食べたりするのには適していない。しかし、(以前よりも種は少ないものの)生物は戻ってきているのだ。そのうえ、人為的干渉が長らくなかったので、『魚の個体数は増え、サメはより豊富になり、サンゴはさらに美しく成長した』『残り火の中から豊かな生命がよみがえった』

著者は原子力発電所事故が起こったチェルノブイリにも向かっていて、そこも豊かな生態系が復活している。ソ連全土で減少していたビーバー、ワシミミズクなどの種が数を増やし、オオカミは7倍に増え、2014年にはヒグマが100年ぶりに目撃された。現地の動物たちは放射能汚染は大丈夫なの? と疑問に思うかもしれないが、どちらともいえない。セシウム137とストロンチウム90という放射性核種はどちらも半減期が30年で、植物に取り込まれやすいので、食物連鎖を経て体内に取り込まれる。

そのため、この地域の動植物は放射性物質に汚染されているのだが、放射線の被ばくの半分以上は内部被ばくで、ある程度は排泄物などと一緒に体外に排泄されるので、そこで暮らす動植物たちは致命的なダメージは受けていないという。この地域の産物の多くを人間が食べるのは当然ながら推奨されないけれども。

他、魅力的なエピソードたち

他にも魅力的なエピソードは多い。個人的におもしろかったのが、ウィスコンシン州のチペワ族とスー族の戦争についてのエピソード。1750年から100年の間、この二つの部族は常に戦争状態で、10万平方キロメートルに及ぶ緩衝地帯が形成されていた。

その緩衝地帯で狩猟するものがいなくなると、野生動物の数は回復する。そうすると今度は部族の食事が安定するので、寛大な心でほか部族と接することができるようになる。すると何が起こるのか? 部族間で休戦の条約が結ばれ、緩衝地帯で狩猟が再開される。そうすると獲物の数が減少し、飢餓が発生して、資源をめぐる争いが再開する。それがこの地で100年にも及ぶ戦争を継続させた原動力であったのだ。

おわりに

日本は少子化が進む一方で今後地方から人は消え、放棄される村も増えていくだろう。そして、それは日本に限った話ではない。世界的に人口は減少へ向かいつつあり、一度増えた人口を賄うためにあつらえられた家々や農地、コミュニティは、空き家、廃墟となっていく。それは寂しい光景ではあるのだが、同時にそこは本書で語られてきたような、生命の再生と誕生の場になってくれるのかもしれない。

実際、世界的に森林伐採は深刻な問題ではあるが、35年間におよぶ衛星画像に基づく大規模な調査(18年『ネイチャー』誌に掲載)によると、世界の森林被覆は1982年以来、約7%増加しているという。『全体として、世界の森林の三分の二以上が今、「自然再生」されていると考えられている。これは、死んだものとして見捨てた土地に、キリストのような復活、ラザロのような蘇生が起こったということである。』

だからといって森を丸裸にしていいんだー! というわけではないのだが、人が減っていく世界には、生態学的な希望があるという話である。人間にとっては荒地や廃墟にしか見えない場所でも、そこは、そうであるからこそ生態学的には重要な場所になるのだから。今年詠んだ中でもベスト級におもしろい本であった。

科学者の悪事を概観し、科学的探求と倫理のせめぎあいを描いた一冊──『アイスピックを握る外科医 背徳、殺人、詐欺を行う卑劣な科学者』

この『アイスピックを握る外科医』は、墓泥棒から動物の虐待まで、主に科学的探求や功名心から悪徳に手を染めてきた科学者たちのエピソードをまとめた一冊である。

著者は『スプーンと元素周期表』、『空気と人類』など様々な科学分野を一般向けに書いてきた凄腕サイエンスライターのサム・キーン。彼の本は訳されたらまず読むというぐらいには信頼しているのだけど、本書も例に漏れずおもしろかった。ひとつひとつのエピソードが魅力的なのはもちろんだが、それに加えてなぜ科学者は時にいかさまや犯罪行為を行ってしまうのか、科学の悪用を防いで減らすためには何をしたらいいのかといった縦軸のテーマもしっかりしており、一冊通して楽しませてくれる。

全12章で「海賊行為」から「いかさま」まで様々な悪徳行為をおかした科学者たちが紹介されていくので、そのうちおもしろかったものを中心に紹介していこう。

墓泥棒

最初に紹介したいのは「墓泥棒」を犯した医者たちの話だ。18世紀頃、大英帝国では解剖が禁じられていた。人々は死後解剖されることで、死者を蘇らせる最後の審判の日に自分の体がバラバラの状態であることを恐れていたのだ。英国政府はそのかわりに、犯罪者など一部の死体を解剖学者に提供していたが、十分な数ではない。

解剖に使う死体が足りなければ、墓を掘り起こすしかないか、と考えるものもでてくる。みずから行為に及ぶ科学者もいれば、学生に協力を頼んで墓泥棒をさせる科学者もいた。中でも飛び抜けていたのがジョン・ハンターという外科医・解剖学者だ。彼は人間以外の動物も含めて解剖が大好きでおびただしい数の動物を切開し、数多くの発見も残している。が、その代償として、数多くの死体を盗んでいたのだ。

彼の大邸宅には、不健全な第二の裏口があった。それは死体盗掘人専用のもので、裏通りに面し、午前二時に彼らがこそこそと入り、その晩の獲物を下ろしていくのだ。

墓泥棒って要は夜中に墓を掘り返すだけでしょ? 簡単じゃん、と本書を読む前は思っていたのだけど、墓泥棒はソロでやるもんじゃなく、チームを組んで行う本格的なものだったのだという。女性のスパイが貧民の収容施設をうろつき人が死ぬのを待ち、誰かが死ぬとスパイは葬式に参列し、棺にいじると爆発するような罠が仕掛けられていることもあるので、それも気をつけて──とかなり手間がかかるのである。

また、チームで動くのが普通ということはそれだけ儲かることを意味している。ハンターの時代、大人の死体は2ポンド(農場労働者が1シーズンで稼いでいた額)で、臨月の妊婦など珍しい死体の場合20ポンド(現在の2500ドル)にもなった。1810年代頃になると死体一つが16ポンド、平均的な労働者が5年で稼ぐ額にもなり、そうすると今度はこそこそと死体を盗むのではなく、積極的に”死体を製造しよう”というものさえ出てくる。事実上の殺し屋のバークとヘアの二人がそれで、二人は次々と人間を殺し、死体を欲する科学者に売り払っていた。なかなか凄まじい時代である。

動物虐待

読むのが一番つらかったのが「動物虐待」についての章。主人公は名高いエジソンだ。エジソンは当時ニコラ・テスラとの間で「電流戦争」と呼ばれる争いを続けていた。交流送電を中心としたシステムを提案したテスラにたいして、エジソンは自分が特許を持っている直流送電を中心としたシステムを進めたく、争っていたのだ。

これは醜い争いで、エジソンは相手をけなして自分の優位を築こうとしていたが、途中からそれだけでは足りない。交流の危険性を積極的にわからせる必要があると考えるようになった。その手段の一つが、本物の犬や動物を殺すことだったのだ。エジソンは野良犬一頭ずつに金を払って、記者たちに犬を「交流」電流で殺す様を幾度もみせた。「即死する」が触れ込みだったが、犬は飛び上がって泣きわめくケースも多く、とにかくむごい。最終的には子牛、馬など次々と殺していたのだが、エジソンらは依然として「動物たちは瞬時に痛みもなく死んでいった」と言い張っていた。

そうした過程を経て、エジソンはついに交流の危険性をより知らしめるためには、人間を殺すしかないと決意する。そのへんの人を殺すのではなく、死刑の手段として電気椅子を推進したのだが──その結果は無論、安らかなものではない。

動物に痛みを与える実験が許されていた、倫理観の異なる時代の話だろうと切り捨てるのは簡単だが、当時の人々もこれは残酷だといって批判していた。現代でもイーロン・マスクの脳デバイス企業に動物虐待疑惑が出て米当局が調査に入っている。「昔の話」ではないのだ。いったいどこまでの動物実験なら許されて、どこからは虐待にあたるのか? そのラインも、時代によって揺れ動き続けている。

いかさま

個人的に驚きだったのは「いかさま──スーパーウーマン」で取り上げられているアニー・ドゥーカンという女性。彼女の仕事は警察が捜査で押収した薬物の鑑定なのだが、通常ではありえない作業量をこなしていた。その数はほかの9人の分析官の平均の3倍で、研究所の処理料全体の4分の1を超えていた。職場の人は彼女をスーパーウーマンと呼んで自身もそれを誇っていたが──彼女がそれだけの鑑定を行えたのは、検査結果を全部改ざん・捏造をしてなんにも正しく分析していなかったからだった。

しかし次第に、常識的に考えて早すぎること。また、検査で絶対に必要な道具が使われていないことなど細かな違和感が積み重なり彼女は追い詰められていくのだが、最終的には6年以上にわたって捏造(3万6000点の検査を行っていた)を繰り返していたことになる。彼女の検査、そのすべてに疑問符がつき、最終的に裁判所は2万1587件の有罪判決を覆したという。歴史に残る犯罪者ではないが(結局3年から5年の実刑にすぎず、しかも3年未満で出所している)印象に残る人物だ。

彼女の事例は数ある研究不正(彼女の場合研究ではないけど)のうちの一例にすぎない。『毎年何百もの科学論文が撤回されており、確かな数はわからないが、その半分ぐらいは捏造などの不正行為のためだ。』『多くの人は、賢い人間ほど見識が豊かで倫理に従うものだとのんきに思っている。だが、むしろ証拠は逆のことを示している。賢い人間は、自分が賢いから捕まらないと思っているためである。』

おわりに

なぜ科学者は不正に手を出してしまうのか。また、それを食い止めるために何ができるのか。本稿では取り上げきれなかったが、そうした論点も本書ではたくさん語られているので、よかったら手にとって見てね。

”違法と合法”の境目が揺れ動く薬物たちの体験談──『意識をゆさぶる植物──アヘン・カフェイン・メスカリンの可能性』

この『意識をゆさぶる植物』は『幻覚剤は役に立つのか』などで知られる作家マイケル・ポーランの最新作で、副題に入っているようにアヘン、カフェイン、メスカリンといった植物由来の薬物の可能性を実体験も合わせて追求していく一冊だ。

前著『幻覚剤は役に立つのか』はLSDやサイロシビンなど、一般的に幻覚剤と呼ばれるものが人間に害だけではなく利益をもたらす側面もあるのではないかと主張し、実際に自分でもその効果を体験していく一冊だった。次々と幻覚剤を試してラリっていく体験談とその筆致は愉快で、同時にそれがどのような作用を脳に、人体にもたらすのかという化学的な説明も明快でわかりやすく、傑作といえる内容であった。

本作(『意識をゆさぶる植物』)もその路線を踏襲しつつ、鎮静剤系のアヘン、興奮剤系のカフェイン、幻覚剤系のメスカリンと精神変容をもたらす薬物の代表をあげ、それぞれに「(栽培なども含めた)自分の体験」と「科学・歴史的な経緯の描写」を混ぜて紹介していく。このスタイルは日本で言えば高野秀行路線といえるだろう(高野さんの代表作のひとつ、『アヘン王国潜入記』も本作は思い起こさせる)。

規制されることが多いアヘンやメスカリンと並んで、世界中で日常的に飲まれているカフェインが語られているのは、何が”違法”になるのかはその時の政府による定義の影響が大きいという主張からきているのだろう。たとえばコーヒーだって、アラブ世界とヨーロッパの療法で何度も違法化されてきた過去がある。

幻覚剤は今は規制されている国が多いが、シロシビンが精神医療の治療に有効だという研究が出てきてFDAが治験を承認したりと、植物由来の成分は、違法と合法の境目が常に揺れ動く状態にある。本書でも、アメリカ先住民が幻覚物質を含むサボテン(ペヨーテ)を儀式で使って、植民地主義の略奪行為などによるトラウマを集団で癒やし、社会規範を強化してきた、宗教的・精神的な活用方法の歴史が語られていく。

もちろん規制される/されないの区分は、政府の定義だけで決まるわけではなく、社会のルールを支えるような薬物なら許される傾向にあって──と、そのへんの話が各薬物の実体験とともに語られていくのである。以後、詳細に紹介しよう。

アヘン

アヘンの章でメインになっているのは、著者が1990年代後半に書いた文章だ。もともと著者は庭づくりのエッセーなどを書いていたライターなのだが、園芸家として次第に植物と人間が築き上げる共生関係に興味を持つようになり、ケシを栽培して、芥子茶(ポピーティー)を体験するに至った経験がここでは語られていく。

そもそも当時のアメリカでケシを栽培するのって違法じゃないの? と思うかもしれないが、これは判断の難しいところだ。たとえば、違法なのはアヘンの「製造」であるといわれる。それならつまりケシを栽培するだけなら問題なさそうだし、園芸用の種子カタログに、ケシも何種も載っていて、園芸でケシを育てている人も多くいる。しかし、「栽培」もまた「製造」の一過程ともいえるので、その境界は曖昧だ。

特に、ケシを茶にして飲み体験談や製法を本にしたホグシャーという人物が罪に問われたことを端緒に、状況は一段とグレーになっていく。ホグシャーによれば、市販されているケシを栽培してできた果実の部分(芥子坊主)を、手のひら一杯分のコーヒーグラインダーで粉末状にすりつぶし、熱湯で煎じるだけでアヘン的な効果が得られるのだという。それが本当なら、アメリカでは誰の目にもよく見えるところにアヘンが隠れていて、誰でも手軽にアヘンの効果を体験できるといえるだろう。そして、政府機関はなんとかして一般市民にそれがバレるまえに、ケシの規制を進めたい。

著者はケシを栽培し、それを茶にして飲む体験記を雑誌に発表しようかどうか悩むのだが、もちろんこれはホグシャーのように罪に問われる可能性がある。実際、著者がその体験談のすべてを雑誌に発表できたのかは読んで確かめてもらいたい。

カフェイン

続いて取り上げられるのは、コーヒーや茶に含まれるカフェインだ。僕も平日も休日も必ずコーヒーを飲むところから一日が始まるし、集中したい作業をする時はコーヒーを飲みたくなる。実際、それは正しい行動だ。長年の研究で記憶力や集中力と言った認知力の様々な尺度でカフェインが数値を上昇させることがわかっている。

誰もがカフェイン中毒の現代は、カフェインのドーピング効果が存在することが前提の社会といえるのかもしれない。ミツバチはカフェインを含む花をよく記憶し、カフェインを含まない花と比べて4倍も訪れるようになるというが、これは実は人間も同じだ。アメリカの売上上位6ブランドのソーダ飲料にはどれもカフェインが加えられているが、カフェインを一緒に摂取すれば、人はそのフレーバーが好きになる。たとえカフェインの味が判別できずとも、人はカフェイン入りの飲料を好むのだ。

カフェインに関しては誰もが体験しているので、あえて著者の「体験」ではその逆のこと──「カフェイン断ち」を数ヶ月に渡って実施してみせる。快眠が続くようになるなど良い効果もあるが、集中力などは基本的には落ちてしまっているようだ。この章のクライマックスは数カ月ぶりにカフェインをとった時の描写で、僕のようにカフェインに浸かってしまった人間が失った、新鮮な驚きに満ちている。

いや、明らかにベースラインを超え、カップの中にもっと強力なもの、たとえばコカインかスピードでも入っていたかのような印象さえあった。うわあ、これ本当に合法なのか?(……)視界に入ってくるものすべてがまるで映画のように心地よく鮮明に見え、ボール紙のスリープを巻かれたカップを持つそこにいる人々はみな、自分が飲んでいるものがどんなに強烈なドラッグかわかっているのだろうか、と思う。だが、わかるわけがないのだ。

おわりに

最後の章は「メスカリン」と呼ばれる幻覚剤の一種で、これは一部のサボテンに含まれる成分である。著者はアメリカの先住民がこれをどう儀式で扱ってきたのか、その宗教と文化との繋がりを描きながら、自分が体験したメスカリン体験(友人がどこかから硫酸メスカリンのカプセルを二つ調達してくれたのだという)を詳述していく。幻覚剤の王と言われることもあるメスカリンだが、サイケデリックな薬物のようだ。

メモには「俳句意識!」という謎めいた言葉があったが、今思い返すと、そのときの感覚をとらえようとしたなかなかの名言だと思う。その日は世界のすべてがそうした禅的なあからさまな存在感、ある種の内在性をあらわにしていたからだ。

アヘンの章が実質的に再録で、メスカリンの章がコロナで大々的な取材(儀式の体験など)ができなくなってしまったのも関係して、前著『幻覚剤は役に立つのか』と比較すると少しパワーダウンした感は否めないが、依然としてマイケル・ポーランは新刊が出たら何をおいてもまず読みたいと思わせてくれる作家のひとりだ。前著が楽しかった人も、本書が気になった人も(高野秀行ファンも)きっと楽しめるだろう。

病の原因を個人の身体と心理だけではなく、文化や社会にも求め、統合する試み─『眠りつづける少女たち――脳神経科医は〈謎の病〉を調査する旅に出た』

スウェーデンには「あきらめ症候群」などと称される、特殊な病が存在する。この症状があらわれると、歩いたり話したりをやめ、場合によっては目をあけるのもやめ昏睡状態になってしまう。特徴的なのは、これが主にスウェーデンにおいては難民の家族の「子ども」、特に少女たちを中心に発生することだ。

昏睡状態に陥った子どもたちに、CATスキャン、血液検査、脳波検査など無数の検査が行われたが、その結果はつねに正常。運がよければ数ヶ月で回復できたが、場合によっては何年も目覚めない子もいた。昏睡状態に陥る原因は純粋に心理的なメカニズムで説明できるのか。それとも、重度の生理的なストレス反応にすぎないのか。

祖国で苦しい思いをしてスウェーデンへと流れきた人々、中でも子どもが強いストレス環境下にいるのは容易に想像できるが、はたしてそれだけが原因なのか。スウェーデンであきらめ症候群を発症した人は、2015年から16年にかけて169人いたが、スウェーデンでしか起きない理由は何がありえるのか。脳の生理的なプロセスが生み出すのであれば、世界中で同様の事例が起こっていなければおかしいのではないか。

欧米の医師は症状を聞いたらまずはそれを個人的なものとして治療する。たとえば胸が痛いときいたら心臓や肺を検査して、そこに原因がなければそのあとに別の可能性を探る。それが心理的なものと判断されれば、その原因を本人の個人的な精神面、生活に求める。しかし──と、そうした現在の欧米の医療システムに部分的に異を唱えていくのが本書の構成だ。スウェーデンでみられたようなあきらめ病は、スウェーデンという国、土地の文化、社会的要因、難民たちの環境と密接に絡んでいる。だからこそ、それを考慮に入れずして、理解も治療も困難なのではないかと。

 現代の医療システムは、病を生物・心理・社会的にとらえる見かたを臨床の現場に統合する余地をつねに与えてくれるわけではない。現在、病院所属の医師は自分の専門分野をあまりに特化しているため、たったひとつの身体器官しか扱えない者が多く、自分の専門領域からわざわざ外に出ていこうとは決してしない。

本書はこの「あきらめ症候群」を端緒として、世界中で〈謎の病〉とされる心身症の類を調査し、その病と土地の文化・社会との関連性をみつけていく。ひとつの専門に特化するのではなく、旅をし、広い視野でとらえようというのである。

グリシシクニス

続いて著者が調査に赴くのは、「グリシシクニス」と呼ばれる疾患だ。震え、呼吸困難、トランス状態、けいれんなどの症状に襲われる病で、ニカラグアの先住民ミスキートのコミュニティで起こる民族病である。他にも発病者は興奮し、攻撃的になったり、たとえば学校の一クラスの生徒全員など、何十人も同時に発症することがある。

著者が実地に赴いて話をきくと、誰もがこの病の人を間近でみたことがあり、その存在を知っている。たとえばガラスをたべる少女をみたことがあるとか、小さな妖精がうつすと噂されているとか。この地域では、グリシシクニスは黒魔術が原因の病であり、治療にはヒーラーやシャーマン、牧師が必要だとされている。実際、一クラスで集団発生した時なども医者ではなく、シャーマンが呼ばれるのだ。

西洋医療的な感覚からすればヒーラーなど呼んでも意味がない。まず病気を既存の枠の中に分類して、それに必要な薬やら検査やらが必要だろうと。おそらくグリシシクニスの患者が病院にいけば鎮静剤か抗てんかん薬が処方されるし、実際ミスキートの人の中にも西洋医学を信頼して医者にかかる人もいる。しかし、それらの薬は効かない。一方、シャーマンの治療は成功し、大半の患者はよくなるのだという。

村人はシャーマンを信頼し、実際にシャーマンの介入には効果がある。マッダが指摘するように、「シャーマンの治療は象徴的なものです。じつのところそれは心理的な介入であり、ベンゾジアゼピンより効くのです」

グリシシクニスは精霊によって引き起こされるとミスキートの人々の間では信じられているが、精霊はどんな姿でも現れる。たとえば、邪悪な精霊は臨床心理士だったといいはる人もいる。てんでおかしい、と思うかもしれないが、しかしこうやって象徴を駆使することで、宗教や道徳に反するがゆえに、そのままでは語りづらい自分の欲望や恐怖を、象徴に乗せて語ることもできるようになる。悪いのは悪魔であって、個人ではないという外部要因も提供してくれる。これはこれで有効なシステムなのだ。

マッダが強調するように、グリシシクニスは、葛藤に対処するための高度に洗練された効果的なシステムであり、コミュニティの反応を呼び集め、発病者をコミュニティの内部に留めておく。それとはまったく対照的に、英米では、心身症や機能障害のある人は、「見捨てられた」「孤立している」「コミュニティから追放された」と感じやすい。

著者は何も西洋は心身症的な症状の原因を宗教や悪魔とか精霊に求めるようにせよと言っているわけではない。西洋医療であまり顧みられることのないこうした文化的方法にも有効なケースが存在し、それを理解・活用することで得られる利益もあるはずだ、と主張している──という点は、注記しておきたい。

物語と病の関係

その後も著者はいくつもの〈謎の病〉の調査に赴くが、その原因と発露の仕方は社会によって様々だ。あきらめ症候群に似た症状が出た人々がいるカザフスタンの町のケースも紹介されるが、このケースでは治療にあたった医師も含め、病の原因を鉱山から漏れたガス、あるいは政府が撒いた毒だと信じていた(それを示す調査はない)。それは結局、町の人々が信じやすい「物語」であり、それが伝播したようにみえる。

病が発症し進行するプロセスを理解する最善の方法は、それをめぐって気づかれている物語をまず調査することだ。

グリシシクニスの場合は民族の伝統の物語と病が結び付けられたが、上記のカザフスタンのケースでは原因のよくわからない病のための物語が新たに作り出された。同様の事例は本書でも他にいくつも紹介されていく(ハバナ症候群の音響兵器説など)。

おわりに

ざっと見てきてわかるように、心身症のような病と社会・文化的な要因は密接に関わり合っている。そうした病を診察し、治そうという時に、胃が痛いと言っているから腸を調べる、といった西洋医学的な手法だけでは通用しないことがありえる。場合によっては、相手の文化的・社会的背景を知って、そこから病に対してどのような認識を抱いているのかを探っていく必要だってあるだろう。*1

本書は最終的に、分類が難しい病を強制的に分類・診断する西洋医学の功罪(たとえば絶対的な診断検査が存在しない注意欠如・多動症(ADHD)は、アメリカで年々診断数が増えていて、それがもたらす功もあれば罪もある)にまで議論を進め、西洋医学からこぼれ落ちていく患者を、どうケアしていくのかというテーマも浮かび上がらせてみせる。いま、非常に重要な一冊だ。

*1:韓国では、鬱火病と呼ばれる、身体全体が熱く燃えるような感覚に襲われる病が存在する。これは文化依存症候群、国民病の一つとして分類されていて、西洋医学にかかったら心配する必要なしといわれるか、血液検査などが行われるだろう。しかし韓国人にとってはこれは文化的な意味がある病で、とりわけ夫婦間の葛藤や不貞によって引き起こされることから、この病にかかることは心理的苦痛を周囲に表すメタファーとなりえる。文字通りとらえるべきではなく、別の支援を必要としているのだ

会話にはルールがある──『会話の科学 あなたはなぜ「え?」と言ってしまうのか』

本書『会話の科学』は、会話全般に光をあて、そこにどのようなルールや傾向があるかを分析していく一冊だ。我々は会話をしている時、無意識的にそうしたルールを遵守していて、(ルールを)守らないと……とがんばっていることはそうそうないが、本書を読めば確かに自分がルールを無意識的に遵守していることに気がつくだろう。

あるいは、会話がうまくいかないと感じている人は、自分が認識していない会話のルールが存在することに気がついて衝撃を受けるかもしれない。ルールや会話の傾向自体は記載されてみれば、「相手が「肯定」を返しやすい質問をする」など「いわれてみればそうだな」と思うものばかりで意外なものはないのだけど、あらためて意識すると、自分がいかに複雑なことを簡単そうにやっているのかがよくわかる。

たとえば、我々が何か質問されてから答えるまでにかかる時間は、平均すると200ミリ秒しかない。応答が遅れれば人は違和感を覚え、それ自体がひとつのメッセージ(あなたは私に対して答えにくい質問をしました。だから返答を遅らせました)になる。会話中は84秒に一度「え、何?」など、相手のいったことを確認する、「会話の修復」が入り、60語に1語は「えーと」「あー」とかいった言葉が挟まれる。

「えーと」や「あー」といった言葉は無意味で必要のない言葉だと思われがちだが、これがないと実はリアルタイムの対話はうまくいかない。つまり、「えーと」とか「あー」にも重要な意味があるのだ。しかも、こうした傾向(えーとかあーの使用頻度やそもそものその存在について)は、ヨーロッパ言語だけでなくあらゆる言語に普遍的に存在するのだ──ということも、本書を読むとわかってくる。

話者交代の科学

会話のルールのうち、重要なのが「話者交代」に関するものだ。たとえば、「会話で話をするのは一人。話者は次々と切り替わり、その切替にはおおむね0.1秒から0.2秒がかけてよい時間である」という基本ルールがある。たとえば、30時間以上の会話を複数言語で分析しても、話者の重複が起きた時間は全体の3.8%にすぎなかった。

しかし話者交代がそれほど重要で精度も高く成し遂げられているのだとしたら、話者はそれをどのように可能にしているのか? が気になってくる。会話は何かの発表のように「これで私の発言は終わります」と宣言があるわけではないから、話者交代を的確に行うためには、「話が終わりそうだぞ」と事前に察知する必要がある。

「話の終わりを告げる合図」については仮説がいくつもあるが、有望なものの一つは「声の高さ」、もう一つは終わり間際の単語を読む時間の長さだ。So you're student? のような短い質問とSo you're student at Radboard University? のような長い質問文の比較研究では、前者の末尾にある「student」の発音の声の高さは高く(360ヘルツを上回る)、さらにstudentを発音する音節もより長かった。そうした、微妙な声の高さや言い回しの長さで発話の終わりを察知しているらしい。

実際、こうしたルールに反する発声をする人は、他者から自分の発言を妨げられることが多いという(有名人でいうとマーガレット・サッチャーなど)。「会話を妨げられることが多いなあ」と思う人は、自分が嫌われていると思ってしまいそうだが、実際には他者が「話の終わり」を見極められていない可能性がある。

日本語の応答は速い

話者交代と関連した話題でおもしろかったのが、「応答にかかる時間の言語ごとの比較」。言語の質問に対する応答時間にはばらつきがあるのだが、数ある言語の中で一番平均の応答が速いのが日本語なのだ。英語の場合、応答時間の平均値は236ミリ秒で、ちょうど中間に位置する。一番遅いのはデンマーク語で、平均468ミリ秒だ。

で、我らが日本語はというと7.29ミリ秒なのである。どの言語でも1秒の半分を切っているわけだからどれも速いのだが、その中でも群をぬいて日本語が速いのだ。日本語だけ速い理由について本書では特に触れていないが、興味深い事例である。

応答の遅延にも意味が生まれる

応答時間の話をしたが、もし言語ごとの応答時間より返答が遅れた場合何が起こるのか? といえば、遅れたことそれ自体が無言のメッセージになってしまう。

たとえば、ある料理屋の話をしていて、「そこの料理はおいしいの?」ときいて1.7秒間返答がなかったとする。その後質問をした側は、「あんまり美味しくない?」と質問をかえ、答える側は「まあね。──そうか──そうだね。私が答えないとね。」と返答してみせる。この会話のケースで示されているのは、応答の遅れが「あなたの質問はYesの答えを誘導するものだ」という意思表示になっているのだ。相手が肯定の答えを期待しているが、それに反する感想を持っているので、答えづらい。なので通常の応答を無視した。それがわかったから、質問者も質問の仕方をかえたのだ。

会話者は通常沈黙が1秒を超えて続くことをよしとせず、それを超えた場合に先の例のように質問や話題をかえる。会話においては、1秒が沈黙の最大持続時間だ。また、返答が「はい」で答えられる場合と「いいや」とか「知らない」といった否定的なものになる場合では、後者の方が返答にかかる時間は長くなる。たとえ肯定的な返答(車で乗せてってくれない? に対する返答が「いいよ」であるとか)であっても、通常よりも応答に時間(0.5秒以上)がかかるなら、感じ方がかわって、いいといっているけど本心は違うのかな? と推測がはじまることもわかっている。

あーとかえーにも意味がある。

もう一つ遅延と関連しておもしろかったのが、あーとかえーといった何の意味もなさそうな言葉にも意味がある、という話だ。たとえば、英語でUm(うーん、えーと)とUh(あのー、あー)を使用した会話を比較した分析では、前者を使った時の方が、後者を使った場合に比べて発話が再開されるまでの時間が長くなった。前者では平均670ミリ秒発話の再開までにかかったのが、後者では250ミリ秒で済むのだ。

つまり、英語においてUm(うーん、えーと)は「私は発話を遅延させる。この遅延は長くなる」を意味し、Uh(あのー、あー)は「私は発話を遅延させる。この遅延は短くて済む」というメッセージを伝える機能があるというのだ。先に書いたように発話が遅延するのは相手にいくつもの推測を呼び起こし、「負荷をかける」。そこで、UmとかUhを入れることで、沈黙を使うことなく発話の遅延を相手に伝えているのだ。

おわりに

「うーん」とか「えーと」といった発言はとるに足らないもののように思えるが、実はあらゆる言語に類する言葉が存在するので、会話においては欠かせないパーツである。本書を読んだからといって会話の能力が劇的に向上したりすることはないと思うが、しかし自信をもって「あー」とか「うーん」とかいえるようになるだろう。

日常の会話の捉え方を一変させてくれる一冊だ。この本を読んでから、なんてことのない会話の意味をじっくりと考えるようになってしまった。