基本読書

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なぜ、アルツハイマー病の研究が遅々として進まなかったのか?──『アルツハイマー病研究、失敗の構造』

認知症の一種であるアルツハイマー病は、誰もが老化と共におちいる可能性のある病気だ。記憶力が衰え、言語・思考などあらゆる知的能力がだんだん衰退し最終的には死に至る。体はそのままで人格が壊れていくことから本人の恐怖はもちろん、日常生活を単独で行うことが難しくなっていくので、介護負担・費用の問題も大きい。

がん治療が進歩し人々が長く生きるようになると、必然的にアルツハイマー病の患者は多くなる。厚生労働省が2022年6月に公表した患者調査(2020)では継続的に治療を受けているアルツハイマー病の患者数は79万人にものぼる。1996年には2万人であったことを考えると、増えているのは間違いない。それなのに、わずかに進行を遅らせる薬こそ存在するものの、症状を劇的に改善させる薬は作られていない。

最近も、米食品医薬品局(FDA)がアルツハイマー病治療薬「アデュカヌマブ」と「レカネマブ」の二種類を承認したが、21年に承認された前者は治験での効果が限定的(認知機能の低下を遅らせる効果はわずかだった)であり、承認されたことに疑問を呈す学者さえいる薬だ。2023年の1月に承認されたレカネマブの方は認知機能の低下を遅らせることが治験で示された薬だが、データは間違ってはないが恣意的で、その効果は統計的には有意でも生物学的にはほとんど無意味であると語る学者もいる(本書の著者や、米バンダービルト大学医療センターの神経科医マシュー・シュラグなど)。

完成が待ち望まれる薬だが、新薬はなかなか承認されず、その効果も目下のところ目覚ましいとはいえない、というのが現状のようだ。では、なぜそんな状況になっているのか。何が研究のネックになっていて、今後の展望は開けているのか。その謎を解き明かしていくのが本書『アルツハイマー病研究、失敗の構造』である。

著者のカール・へラップはアルツハイマー病の基礎研究分野で確かな実績のある研究者で、この病気の病理診断基準を決めるプロセスなど、その中核を知る人物だ。しかし、彼の研究は決して順風満帆ではなかった。それには、この病気が不可解なだけでなく、この研究界隈の妨害や思い込みも関係している。その失敗の歴史と構造は、アルツハイマー病研究にとどまらず広く普遍的に起こり得るものだ。

著者自身がその構造の被害者の一人であり、本書の記述にも熱がこもっている。現代を生きる誰もが無関係ではいられない、非常に重要な一冊なのだ。

アミロイドカスケード仮説

本書ではまずアルツハイマー病の定義が試みられ(そもそも簡単に定義ができないのがアルツハイマー病の研究が失敗する理由のひとつなのだが)、その後アルツハイマー病の歴史が簡単に語られていく。どちらも重要なのは、一体何がアルツハイマー病をもたらすのか? という問いかけだ。特定部位の損傷なのか変異なのか?

数々の仮説が提唱されてきたが、その中で最も支持を得たのが「アミロイドカスケード仮説」だった。これは概略だけなら難しい話ではない。脳内の神経細胞外にゴミ(アミロイドというねばねばした凝集たんぱく質)がたまり、結果その堆積物である「アミロイドプラーク」(いわゆる老人斑)が発生し、それが増え、アルツハイマー病を発症するということである。アミロイドカスケード仮説の代表的な論文では、『アミロイドβタンパク質の蓄積が……アルツハイマー病の病理をもたらす原因であり……』とはっきり書かれている。それならアミロイドを除去すればよさそうだ。

実際この仮説が支持されてきた(そして、今なお支持されている。前述の「アデュカヌマブ」と「レカネマブ」はどちらもアミロイドプラークを除去することに集中している)のには理由がある。遺伝的な側面からの検証が関係を示唆していたこともあるが、中でも注目に値するのが、マウスを対象とした実験で目覚ましい効果があったことだ。なぜか人間以外の動物はアルツハイマー病を発症しないので、この実験では遺伝子操作で多数のプラークが脳に散らばり記憶力に不具合が出たマウスを対象とした。

そしてある時、製薬会社のある研究チームがマウスの脳内のプラークを除去するワクチンを開発し、効果をあげた。それどころか、プラークができはじめてからワクチンを打ってもプラークは減って、それに伴い減じていた記憶力ももとに戻った。それなら、あとはそれを人間に適用して、同じような作用を目指せばいいだけだ!

うまくいかない治験

だが、ことはそう単純な話ではなかった。マウスではうまくいったが、人間ではうまくいかないのだ。治験でプラークはちゃんとヒトの脳からも消えるのだが、それでもアルツハイマー病は治らないのである。それでもアミロイドカスケード仮説はそれまでの発見があまりに劇的で、多くのヒトにとってそれ以外の原因が考えられなかったので、たいした結果が得られなくとも仮説が捨てられることはなかった。

1992年、著者らもアルツハイマー病に関わる研究──ただし、アミロイドとあまり関係のない、ニューロンの死滅についての研究──を行っていたのだが、自身らの仮説を諮問委員会にはかったところ、『「きみね、アミロイドの研究でなければアルツハイマー病の研究じゃないんだよ」』と警告を受けたという。それぐらい当時は、アルツハイマー病=アミロイドが原因であるという考えがまかり通っていて、それ以外の仮説を検証したり提示しようとしてもはねつけられる時代だったのである。

批判をただ却下するのは(アミロイド仮説の擁護派はおうおうにしてそうしようとしていたが)、科学にのっとった議論というよりディベートの戦術である。アミロイドカスケード仮説を信奉するからには、その仮説の生物学的な機序を可能な限り詳しく掘り下げる義務があった。なのにその道を選ばず、いつのまにか仮説を守ること自体が使命となった。それがアルツハイマー病研究の当時の状況である。

注記しておきたいのは、著者は別にアミロイドカスケード仮説が「完全に間違っている」と言っているわけではないのだ。アルツハイマー病は複雑なピースからなる病気であり、その一つとしてアミロイドが存在しているのであって、それ以外も研究しなければ解決できないと言っているのである。

実際、当時アミロイドに関係しないからといって批判された仮説の多くは、アミロイドカスケード仮説と相補的で、否定するものではなかった。『私たちはアミロイドのみのルートを通ってアルツハイマー病の治療薬を追い求めてきたために、多くの時間を失った。たぶん10~15年は無駄にしてきただろう。』と著者は語る。

なぜマウスではうまくいったのにヒトではだめだったのか?

なぜマウスではうまくいったのにヒトではダメだったのかといえば、そもそも当時作製されたマウスはアルツハイマー病とはいえなかった、と本書では述べられている。当時はアミロイドカスケード仮説が今以上に信奉されており、マウスはプラークさえあって記憶に不具合が多少あれば実験対象として問題なしにされた。

しかし実際には当時の遺伝子操作で作製したモデルマウスには実行機能障害や抑うつなどアルツハイマー病の諸要素がなく、それどころか「機能が次第に失われていく」最大の特徴さえなかった。つまり、アルツハイマー病を治したと思いこんでいただけで、そもそもアルツハイマー病とはいえないマウスだったのだ。また、プラークを人間の脳内から除去してもよくならないということは、プラークが人間の脳内にあっても知的能力に問題が現れるとは限らないことも意味している。

おわりに

では、何が原因なのか? その答えは出ていないが、アミロイドの除去だけを探求しても難しそうだ、と本書を読んでいると思わせられる*1。そもそも治したりモデルマウスを作製するにもアルツハイマー病の具体的な定義が必要で──と、本書では200pに至って「アルツハイマー病とは何だろうか?」とあらためて問いかけて見せる。

基礎からしっかりと教えてくれる、じっくり時間をかけて読む価値のある一冊だ。

*1:ただ、もちろん続々とアミロイド除去を目的とした薬が出ているように、こちらの方面もまだまだ探求はされている。たとえば、アミロイド除去薬がたいして認知機能の改善をもたらさないのは、投与するのがアルツハイマー病が判明してからでは遅すぎるので、症状が出るずっと前からの予防的介入が必要なのではないか──など、「アミロイドは原因なのは前提として、アミロイド除去薬が効かない理由がなにかあるのではないか」という模索も続けられている。著者の立場はこれまでのアルツハイマー病研究に対して否定的なので、その点については注意が必要だろう。