基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

樹上のゆりかご/荻原規子

西の善き魔女などで知られる荻原規子の青春小説である。

あらすじ

青春。名前のない、顔のないもの。目に見えない流れ。

感想 ネタバレ無

スラスラスラーと読めて、読み始めたら読むのをやめられない。そんな小説。

青春小説に限らず青春物の作品を読んだり見たりすると、いつも気恥ずかしくなって目をそらしたくなってしまうのは、何故だろうか。自分には無かったものが眩しすぎて直視できないのだろうか。しかしそもそもこういった青春小説にある、眩しい青春なんて本当は存在しないのである。

もちろんあるのかもしれないが、正直俺、私は絵にかいたような青春を送ってきましたというような人物にはあった事がない。

しかし全部とまではいかなくても、一部分だけ、たとえば文化祭ではっちゃけた、とか一夏の恋とか、いうものを経験した人はたくさん居るだろう。それが全部入っているからこそ、どこかしら共感するものがあって、青春小説というごく限られたせまい範囲の小説がジャンルとして確立されている理由なんだろうか。

この作品で好きなのは、文章全体から受ける印象。 平凡な日常こそが本当に大切な物なのだ。という印象が、好き。もっともどの青春小説でも同じように感じるんだが、特に強かったという事で。比喩表現が豊かなのも、青春小説における雰囲気作りの一端を背負っているな。

内容では、イベントに非常に力を入れる高校の中で、文化祭と合唱祭に打ち込む生徒たちが書かれているが、自分の学校ではどの行事もそれ程力を入れてやったという記憶は無かったので非常に楽しい。もっとも羨ましいとは全く思えないところが、少々ひねくれているか・・・。合唱祭なんて、一部の人間が気合を入れても他の大多数の人間のやる気と釣り合わなくてクラス崩壊にいくのがうちのお決まりのパターンじゃないだろうか。正直、このパターンが一番多くて、二番目にクラス全員やる気がないパターンで、三番目に上にあるような、全員ががんばるというパターンじゃないだろうか。 ちなみにうちは一番であった。

ネタバレ有

あるある、と思ったのが次のセリフ

「一生。情熱をもって取り組んでいられるもの──そういうのが欲しくない?」


一生情熱をもつというと、仕事のほうに向かうのだろうか。小説家も、どんなに小説を書くのが好きで、小説家になっても、途中で必ず十年も続けると、その行為がどれほど重い作業であるか、予想しなかった過去の自分を後悔するという。実際体験してみないとわからない。

それにしても生徒会はあらためて考えてみると共通の性格をもった人間が出やすいな。まず第一に生徒会長は冷静沈着な美男子。それから元気だけが取り柄のようなサルのような男子が一人。次に静かな文学少女のような女子が一人。快活な女子が一人。 これだけはもはや誰のどんな作品でも生徒会が出てくる以上共通している気がする・・・。

でもよく考えてみると、上のが該当する作品が思い浮かばない・・。あやかしびとがまるっきり当てはまるけど、一つしかあげられないのならば、ありがちなように思えるだけで実際には違うのか。

この作品も、どこか一点、もしくはシーンごとにわけてここが良かったあそこが良かったという感じの作品ではないな。全体としてとてもよかったという感じ。これが雰囲気がいいという事か。読んでてお風呂に入っているような心地よさが味わえるんだよね。

比喩が村上春樹ばりに出ていたような気がする。少し書いてみよう。

こうした伝統歌を歌うことは、発酵したパン種のガス抜きに似ていた。膨張して過敏だった神経が、少しずつなだめられていく。


こういうのは、なんとなく理解できるのが楽しい。

SF だとかミステリーだとかだと、そろそろ盛り上がってきて格好いい事いいそうだな、とか、いいシーンきそうだな、というのが予想出来るが、淡々と進むこういう青春小説だと、簡単に読み飛ばしちゃうような場面でも、ハっとするような言葉が混ぜられている事がある。そういうのも好きである。下のセリフとか。 背景説明。合唱祭を終えて、クラスのみんなで多摩川に行った時のシーン。

とりとめのない会話をかわし、ぼんやりと川をながめて、私たちは時を過ごす。(中略)
今どきめったにないことだ、『今ここにいる』と感じることは


多くは語られないけれど、学校の目に見えない伝統のような話も出てくる。伝統について、反感を持つ人間が、反抗する話になると話が少しドロドロとしたものになってくるので、今回のような、中立、第三者視点の主人公は良かった。

とりあえずこれぐらいで。