基本読書

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蟹工船 一九二八・三・一五/小林多喜二

あらすじ
プロレタリア文学

感想 ネタバレ無

プロレタリア文学とは、社会主義共産主義的な文学。

微妙な時代背景としては、当時集団の中に赤化(共産主義派の事)を扇動する人間がたくさんいて、企業としては扇動する人間を積極的に探して排除していた。

最近漫画版が出ているが、どうもあっちはいかんなぁ。というのもキャラクターがいけめんすぎる。今の派遣ニートみたいな、今どきの若者、という感じ。

蟹工船、党生活者という新しく出た方ではないので、言葉が古い・・・。
なるべき元のまま書いたとあるが、本当にそのまま書いてあるので、状況把握しづらいというか、方言で喋っているのを頑張って聞き取ろうとしないと聞き取れない、というような状況になってしまった。

そのせいか何だかよくわからないうちに終わってしまって、的外れの事を考えたりしていたのだがそれはまあ置いておこう。

蟹工船は、虐げられてきた労働者が、まわりから隔絶されてなお、反逆を企てるその芽が生まれる瞬間を書いていたと思う。どんな人間だって反逆する事が出来る。

一番危険なのは、管理され、指示されるのが当然だと思う事にある。そのせいで人々は自分で考える事をしなくなる。それが上にとっては好都合なのだ。

それでもこれだけ酷い目にあえば、管理され、指示されるのが当然だと思うように「洗脳」されてしまった人間でも、反乱という観念が生まれるという事が面白い。

解説では、プロレタリアの姿を克明に描きだしている、というような一文があったが、プロレタリアだけに限定するのはあまりに狭い。「集団」というものが、どういうものなのかを書いた作品のように思える。

集団となる事の恐ろしさも書かれている、と思う。集団になることによって自分の実力の過多を図り間違えてしまう。

一九二八・三・一五の方は、三・一五事件を書いたもの。

今でこそ社会主義といえば、とんでもない!といった感覚だが、当時の熱狂ぶりは凄かったのだな、という感想。なんて一言でかたずけられるほど軽いものではないのだが、かといってその時代に生きてもいない人間が熱く語ったところで、それはそれでどうなのよ、という感覚を持つ事は間違いないはずで。

こちらでもやはり集団をあつかっている。というより、何かこういう政治的な運動、というものは集団になりやすいのだろうか。社会主義=集団というのは想像しやすい話だが、そこに至るまでの運動の時点ですでに集団としてすでに機能している。

ここでは、この集団化する事が、プロレタリアとして必要なものだ、と書かれているが、そのへんの話がよくわからないのだよなぁ。漫画版魔王でもさんざんいっている事だが、自分で考える事をしなくなる。

「みんな」でやるというのが、基本的な考え方なのだから当然集団化する、個が無くなる、というのは望むべきものなのだろう。だが、当然そこに生まれる危険性はあまり書かれていない。

革命を起こそう、という時には、集団化する事は必要不可欠だろう。集団のパワーというか、社会のうねりというか、どちらにせよとてつもないパワーが必要になるのだから、純粋にパワーを生み出すという意味ならば、集団化ほど必要な事はない。

話が微妙に食い違うような気がするのは、明らかに社会主義じゃやっていけない、ただの理想論だと、考えている今のじぶんがいるからであって、無意味な仮定だけれども、過去この本が発売された当時ならば社会主義はまことに理想的なものにみえるだろう。

疑問なのは、何故今、こうして蟹工船がはやったのか、ということである。現代にリンクしているから?ワーキングプア格差社会?現代のサラリーマンに似通っているからだろうか

ただ派遣労働者には通じるものがあると感じている。不当な搾取。理不尽な労働時間。しかしこのときの話と比べるのはどうなのかな。ひどさでいえば、圧倒的に蟹工船のほうが上であるが、本質的な問題は確かに、同じなのだろうか?資本家に搾取される労働者、という構図は確かに変わっていない。当時は共産主義に逃げればよかったが、今ではそうはいかないだろう。

こういった問題に関して書こうとすると話がでかくなりすぎていかんなぁー。そんなでかい話わかるはずないじゃないか。ただ、今何故蟹工船がうれているのかは一番重要なポイントだろう。反乱をおこしたがっている人間が増えている、というわけはありえないし。


いったい、どこに逃げればいいのか。それとも逃げずに戦う、という選択肢を求めて、蟹工船が売れているわけではあるまい。革命の火種は、こんなところから始まっていました、なんて冗談にもならんわい。

ネタバレ有

蟹工船

「大丈夫だよ。それに不思議に誰だって、ビクビクしていないしな。皆、畜生!って気でいる。」

これが集団でいる事の利点、恐怖がまぎれる、勇気が湧いてくる、という事を書いているのか、それとも死ぬ覚悟を持てばなんだって大丈夫だ、というような事を書いているのかはたまたどっちでもないのか。まぁどっちもだろうな。

恐怖心が無くなる、というのは決していい事じゃない。感覚が鈍くなっているという事だろう。

最終的に、ストライキをやった船が、本書で書かれていた船だけではなかった、とあるがやはり人間限界というものがあって、そこを超えれば必ず、反乱がおきるという証拠だろう。逆にいえばぎりぎりの線を見極めて、家畜のように働かせ続ければストは起きないのじゃないだろうか?というような疑問も・・・。
まるでおとぎ話が世界で同時に発生したように、何かがあるのだろう。絶対防衛ラインのようなものが。

 

絶対防衛ラインといったけれども、この船に関しては、ロシア人との接触というものがあったか。あれによって、赤化の思想が紛れ込んだのだろうか。ということは、やはり種火が何もないところでは、反乱は起こらないのか?とも考えたのだが、この船に限らず、他の船でも反乱があったということは、ロシア人との接触はあまり関係がなかったということか。

また、さんざん威張り散らし、労働者を人間扱いしていなかった監督も、結局上に搾取されるだけの労働者だった、というのも皮肉な話だ。資本主義というのはそういうことなのだろう。本当に全人民の数パーセントだけが搾取し続ける。

そして、ここで組織と闘争を経験した労働者たちは、それぞれその経験をいかして労働の層に入り込んでいったという事。
ストライキをする、反乱をおこす、という事を、人に教えられたのではなく、自分たちで考えだしたというのが、いかに凄い経験だったか、という事だろう。いつだって人に教えられるより、自分で気づくという事が大事なのだ。りんごが地面に落ちる、これは地球に引き寄せる力があるからだという事を人に教えられて気づくのは全く大したことないのだが、自分で気づいたニュートンが天才であったように、耐えきれない状況だったら、反乱を起こせばいいのだ、というこの単純な構図に気づいた労働者達がいかに凄い経験を、発想を持ったか、というのがいいたかったのではないか。

一九二八・三・一五

どうにも、一面的な見方しかしていないというか、完全に虐待されるもの目線でしか書かれていないのかと思ったが、警官の事も少しだけ書かれていた。あくまでも労働者としての警官だが。

 不思議に一つの同じ気持ちが動いていった。インクに浸された紙のように、みるみるそれが皆の気持ちの隅から隅まで浸していくように思われた。一つの集団が、同じ方向へ、同じように動いて行く時、そのあらゆる差別を押しつぶし、押しのけて必ず出てくる、たった一つの気持ちだった。たった一つの集団の意識の中に──同じ方向を持った、同じ色彩の、調子の、強度の意識の中に、グッグッと入り込んでしまっていた。「それ」は何度でも、こういう時に起こる不思議な──だが、しかしそれこそ無くてはかまわない、「それ」があればこそ、プロレタリアの「鉄」の団結が可能である──気持だった。

 今、この九人の組合員は、九人という一つ、一つの数ではなしに、それ自身何かたった一つのタンクに変わっていた。
                         一部略

臆病なものも、恥ずかしがり屋もなしに、全員が同じ「方向」を向いてそこに進むことができるというのが集団の利点だろう。


 単独の価値や感覚は異物として場から排除され、時には丸めこまれ、私であるはずの主語が気付かぬうちに複数となり、個は全体の動きに無自覚なままに同調する。小さな場は川の流れのように幾つも合流しては吸収され、やがて抗えないほどの巨大な流れとなり、人はその奔流にのみ込まれる。いったんどっぷりと浸かってしまったら、この流れはもう自覚できない。なぜなら周囲すべてがその流れの中にいるのだから。
森達也氏の言葉を借りる。これが危険であることは言うまでもない事だが、当時はそれを必要としていたのだし、重要だったのだろう。70~80年もたった今、どうこう言わなくてはいけない理由はない。

全ての議論は結局、その時代の事をよく知りも知らない若造が何を言っているんだ?という事になるのではないか。実際まわりの50代の人たちに読んだ感想を聞いてみても、若いころは理解出来なかったが、今読むと凄く面白い、という感想が多い。