基本読書

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殺人勤務医/大石圭


あらすじ

中絶の専門医の主人公が、異常殺人を繰り返す話。

感想 ネタバレ無

ちょっとアマゾンの感想を見たのだが、正気か・・・?と疑うようなコメントが多い・・。主人公は、たとえば料理を注文してそれを全部食べきらなかった女を、貧困にあえいで居る人間に対して悪いと思わんのか、という理由から監禁して飯を与えずに餓死させて殺す、というような異常性のある、いわゆるハンムラビ法典のような殺し方をする男だ。

しかし根底の問題はデスノートとも関わってくるんだよな、よく考えてみると。

それに対して、格好いいとか共感できるとか、ようするにみんな主人公に同情的だ。殺される方が全面的に悪い?法律で裁けない人間をさばいてくれる正義の使者のように見ているのだろうか。正直いって本編を読んでいるときより、アマゾンの感想を読んだときの方がよっぽど恐ろしかったわ。

なんだか似たような話がマガジンで連載開始してたな、サムライセイバーの人の。

読み終わったときはたとえられない読後感だった。肯定も否定もできない話だった、というのが最初の感想だろうか。そしてこの作品を妻に捧げたいと書いている作者は何を思ってこれを書いたのか謎だ。

異常者の心理描写を楽しんだり、猟奇的な描写に背徳的な喜びを覚えたりするのが正しくとも、それを自分の代わりにやってくれた!ありがとう!というような感情を持つのは、納得できない話だ。

ただ純粋にホラーとしてみれば、面白い話だった。中絶について否定する立場になんて、なれるはずもないが

風景描写から、一つ一つの描写が恐ろしく丁寧である。犠牲者の描写も、克明に描かれている。

中絶は22週間と6日目までなら、可能で23週間目から不可能となり、それ以降は殺人罪に問われる。この境目に一体何があるのか。生命とは何なのか。別に答えがあるわけではない。問いがあるだけで。

ネタバレ有

最後は絶対に逮捕されて、死刑のシーンで終わるのだと思ったのだが、そうならなかったのは何故なのだろうか。この主人公に否定的な感情で持って読んでいた自分には、死刑のシーンで、異常心理者が何を考えて死んでいくのか、というものは非常に興味深いものだったのだが。

単純に死刑に賛成といっているわけではない。念のため。

最後は逮捕されるだろう、と書いているが、実際に逮捕されているわけではない。まぁそんなに犯行を繰り返して、証拠が全く残らないというのは考えずらいから、本当に逮捕はされるだろう。だが、あえてそれを「書かなかった」のはどういうことなのか?読者に結末を任せる、といった単純な話なのだろうか。

主人公に同情的な人間は、というより賛成派は、主人公が逮捕され死刑にされるのをよしとしないだろう。反対に自分のように、それとは逆の事を考える人間もいる、そのどちらにも納得してもらえるような、真中の落とし所という事だろうか?

作中で、何人も人間が殺されている。虐待をしていた人間。犬の世話をろくにしなかった人間、食べ物を粗末にした人間。

ちょっと話はずれるが、バナナの皮はどこへ消えた?といって主人公が慌てるところがあったが、あのバナナは結局どこへいったんだろう?女が食ったのかな?
とそれはおいといて

虐待はもちろん最悪だし、犬の世話はすべきだし、食べ物は粗末にするべきではないが、殺されて、しょうがない事なのか?それともこの疑問は虐待もされたことのない人間の傲慢さ?

いやしかし難しいな。死刑に賛成か反対かみたいなそんなめんどくさい問題にまで発展してしまいそうだし、気軽に書くには重すぎる話ですよ、転調しましょう、転調。POPな感じで。

純粋に、ホラーとして書きましょう。そういった問題は、どこか別のところでいつまでも議論しているでしょう。死刑に賛成か反対かなんて、もう何年話し合ってるんですか、そんな何年も話し合うのは、結論を出すためではなくて、話し合うために話し合ってるんですよ、そういうのにかかわるのは、疲れる。必要な事だとは思うけれど。

疑問だったのは、人間の生き死ににはあまり興味がない、みたいな事を主人公がいっていたのに、親が中絶をやめて、生き残る事に成功した子供に向かってとてつもなく優しい気持ちを抱いているのは、どういうことなのだろう。これから生まれてくる子供に対してのみ、興味があるのか。

 僕は中絶反対論者ではない。基本的には、中絶は女性の権利として確保されるべきだと考えている。ただ──僕には不思議なだけだ。
 祝福されて生まれてくる子がある一方で、拒絶されて消えていく子がある。今後80年以上の年月を生きる対じがいる一方で光を見ることさえ出来ない胎児がいる。そしてこの違いは、親のほんのちょっとした決断によって決定される──その事実が、僕には不思議でならないだけだ。

静かな怒りを感じる。もちろん直観としてだが。ちなみに、自分の直感は物凄い確率で外れる事が多い。おおよそ90%ぐらいか。海をイメージした曲を聞いて、これは山をイメージした曲だね、といい、恵まれない家庭をイメージして書かれたぼんやりとした文章を読み、これは豊かな家庭の文章だね、といいようするに、自分が発言するありとあらゆる推測のような文章は、おおよそほとんどすべて間違っていると考えた方がよい。ここでは実際には怒りなんて感じていないのかもしれない。ただなんとなく頭に浮かんだ文章を書いているだけで、自分でも本当にそうは思っていないかもしれない。ただ、書いているだけだ。

それにしても不思議なのはその通りだ。なぜ、生きていけないのか。なぜ消されなければいけないのか。時には親の判断で、時には医師の判断で、生き残る命が決定される。それはしょうがない事だ。この世に生まれてこれる人間の数は決まっているのだから。産めよ増えよじゃあっというまに地球が人間だらけになってしまうから。養えもしない子どもを産んだところで、結局ご飯にありつけなくて全員死ぬ事になってしまうから。

 「・・・・・・わたしのしたことは・・・殺人・・・・なんですよね?」
僕は黙って女の目を見つめ返す。
「わたしはあかちゃんを殺してしまったんですよね」
彼女は僕に「いいえ」と言ってもらいたいのだ。「そんなふうに考えるべきではありません」と否定してもらいたいのだ。
風の音をききながら、僕はしばらく考えるフリをする。だが、否定するわけにはいかない。それだけは、できない。
「そうだと思います」
僕が言い、乾き始めた女の目からまた涙があふれ始める。
「あなたと僕は、生まれようとしていた命を殺してしまったんですから・・・」

しかしこういう問いというのは、多いよなぁ。否定してもらいたいから、聞く、というような問い。たとえば彼女とうまく行ってないんです、どうすればいいんですか?みたいな問いだって、本当は悩みを聞いてもらいたいのであって、決して、一回話し合ってみれば?みたいな常識的な答えを返してもらいたいのであって、別れれば?とかそういう話は、向こうだって期待していないのだろう。
そして、こと上のような問いには、決してウソをつけない絶対防衛ラインみたいなものがあるのだろう、主人公にとって。

 僕は胎児を殺す事を職業にしている。その事実から目を逸らすべきではない。
だから僕は胎児には謝らない。ステンレス製の医療トレイに乗せられた胎児に、『運が悪かったんだ。諦めろ』と心の中で言いきかせるだけだ。ただ、それだけだ。

胎児に意識はあるのか、という問いはこの場合ナンセンスなのだろう(ナンセンスって言いたかっただけ)腹の中での記憶がある、なんていってる人もいるぐらいだし。ただ、22週ぐらいだとさすがに記憶もないだろうが、運が悪いか良かったか、胎児にわかるはずもなく。運が悪いかいいかってのは、はたして他人が決めていいものかどうか。こんな汚い世の中に生まれてこなくてすんで、よかったね、という人もいるだろうし、こんな楽しい世の中に生まれてこれないなんて、なんてかわいそうな、という人もいるだろう。あ、だめだまとまってねえ・・。
ようするに全ては生きた後の結果論であって、生まれてもいないのに運がよかったもわるかったもないのではないかと、何にもないのではないかと。そういうことがいいたかったようなきがする、いや、作者がじゃなくて、自分がどう思ったか、ってことなのだけど。

ひどい描写
虐待をしていた女を水攻めして殺す時の描写。

 口から大きな泡をボコボコと吹き出しながら、まるで沸騰した鍋に生きたまま入れられたエビのようにメチャクチャに暴れた。

沸騰したなべに生きたままエビを入れた事がないからわからないのだが、そんなに激しく暴れるのだろうか? ていうか、なぜエビ・・?

面白い話もあった。薬で妊娠しやすくすると、まれに5つ子が出来たりするという。当然5人も同時にうめるはずもなく(経済的にではなく、肉体的に)

「やっとのことで授かった赤ちゃんなんです・・・どの子も、どの子も、5人全員がわたしの赤ちゃんなんです」

「それなのに・・・そのうちの3人を殺してしまわなくてはならないなんて・・・3人を殺してふたりを残すなんて・・・先生、わたしたちは生き残った赤ちゃんを、いったいどんな顔をして育てたらいいんです?・・・そんなこと・・・・そんなこと・・・・」

これも聞いてもしょうがない問いだなぁ。そんなこと先生に訊いたってわかるはずがない。ただ、言わずにはいられない思いというやつだろう。そして、その5人のうちどの子どもを殺して、どの子どもを生かすかも、医師のきまぐれだ。掻きだしやすい位置にいたからとかそんな理由で死ぬか生きるかが決まってしまう。

生命なんてもろいものなんだな、というあれ。