- 作者: 福元一義
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2009/04/17
- メディア: 新書
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長々とした前置きを終えて、本書の内容に入っていこう。
著者である福元一義氏は、二十年近くの間手塚治虫のアシスタントとして側に控えていた、いわば側近中の側近である。元は手塚治虫の担当編集者であり、絵が描けるということを見込まれアシスタントに。それ以降自身も漫画家になったりと紆余曲折あったものの結局は手塚治虫の元に戻ってきた。事実のみを記したような、『実体験』の数々は読んでいるこちらの目の前に手塚治虫がいるかのような錯覚に陥らせる。
死の恐怖より、読者から忘れられる恐怖。
手塚治虫の逸話を聞くたびに思うのは、とても同じ人間だとは思えないというところ。もちろん人間だとは思えなくても、実際は人間なのだから死ぬし、寝ないといけないし、食欲も性欲もある。ただそれを踏まえても、どうしてもそういった感想を持たざるを得ない。それは手塚治虫が、そう思われるように振る舞ったからなのだなあと、本書を読んでいて思った。尋常ではないのはまさにその部分だ。手塚治虫がいて、読者がいる。というよりも、読者がいて、読者が望んだ夢の顕現した形が手塚治虫なのではないか。そうとしか思えないように、巧妙に仕組まれている。手塚治虫が読者を大事にしていた…というよりも一種の恐怖症のように読者に忘れられることを恐れていたことがわかるエピソードがある。昭和五十九年。手塚治虫が胆石で倒れた時の話である。無理がたたって倒れたという現場に、一番近くにいた福元氏が一番最初に駆けつけた。そこで入院するかしないか、という話をしたそうなのだが、その時の会話がまた凄い。
「福元氏、入院したら読者から忘れられてしまわないかね」
一瞬なんのことかわからず、怪訝な面持ちで先生を見ると、「作家と読者って作品を介してしかコンタクトはないじゃないか? 入院したら作品は描けなくなってしまうだろう?」
そして有名な、死の淵にあってなお漫画を書こうとしたエピソードも当然描かれている。自分が死にそうな状態で尚何かを描こうという執念は、正直いって自分には理解の範囲外にあってこの話を聞くたびに湧き上がってくるものは、感動…というよりも恐怖の方が強い。人は理解できないものに対して恐怖を抱くというが、まさにその通りである。恐らく永遠に理解できないままなのではないか。恐怖といえば手塚治虫に作品を作らせ続けた原動力とは何か? という時に、真っ先に思い浮かぶものがある。それは読者から忘れられるのではないか? という恐怖である。死の間際まで仕事をさせてくれといっていたのは、それこそ死ぬことよりも漫画を描けなくなって読者に忘れられることが怖かったことの証明に他ならないと思う。人は死の恐怖をそれに勝る他の恐怖で克服できるものなのだろうか。しかしそう考えると手塚治虫は常日頃から、死を上回る恐怖に追い立てられていたわけで、壮絶な人生としか思えないな。そしてやっぱり自分は死ぬのが一番怖いので、理解はできないままだ。
最期のその時まで「頼む、仕事をさせてくれ!」と死の床で起き上がろうとされた……。
その話を知った時、原作『ファウスト』の著者であるゲーテが臨終の床で、「もっと光を!」と言って亡くなった話とオーバーラップして、強烈な感動を受けました。
常に近くで活動し続けた福元氏にしか書けないことも多々あり、手塚治虫ファン必読の書である。ファンに限らず、手塚治虫なんて噂でしか知らないーという人も、読んだら面白いこと請け合い。とにかく今の常識からじゃ図り切れない逸話の連続で、原稿を取りにきた編集者と逃げる手塚治虫の話など笑える話も多い。中でも面白かったのは、逃げだした手塚治虫と編集者がレストランでばったり出くわした時に、手塚治虫が机の下に隠れたなんていう話。全体的に、手塚治虫の活動の記録のようになっていて創作の秘密などにはほとんど触れられていない。しかしまあ、面白い一冊である。