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美しいと感じることに理由はいらない──人はなぜ「美しい」がわかるのか

人はなぜ「美しい」がわかるのか (ちくま新書)

人はなぜ「美しい」がわかるのか (ちくま新書)

 一度読んだだけだとよくわからなくて、二回続けて読んだ。今のところ何冊か読んだ中では、もっとも橋本治の色が濃いと感じる。というのも、人はなぜ「美しい」がわかるのか。この問いを解決したとしても、特に何がどうなるわけでもない。そういう無意味なところが橋本治の本質っぽい。「美しい」と感じる行為は基本的に「だからどーした」の世界である。たとえばある人がゴキブリに美を見出したとしよう。その人はゴキブリをウットリとして眺めているわけであるが、それはその人の感覚であって余人には理解が及ばない。その人が「ゴキブリが美しいからお前も見てみろって!」と言ったとしても誰も同意しないだろう。

 僕はゴキブリが凄く苦手で、見ただけで卒倒しそうになるぐらいなのですが、「ゴキブリとは嫌われているものである」という先入観があることは否定できません。僕にとってゴキブリ=メチャクチャ嫌な物 であり、その結果への過程にじっくり観察したけど気持ち悪かったとか、触ったら気持ち悪かったとかいう実体験は伴われていません。条件反射的にゴキブリを嫌っているだけで、僕はゴキブリへの理解を拒んでいるといえる。このゴキブリは嫌なものだという先入観こそが「美しい」と感じる美的感受性を育てることを邪魔している。

 同じように毎日見ている風景が「美しい」と人はあまり感じないものです。毎日同じ風景をみて「美しい」といって感動していたらどこにもいけません。だから人は意図的に「美しい」と感じる心を封印させてしまいます。その状態はゴキブリに対して特に理由もなく嫌な物と決めつけてしまうことと一緒です。ゴキブリは先入観なしに見ればそんなに嫌われる生き物でもないはずなんですよ。現にほんの少し前までは(100年も前じゃなかったような、多分)ゴキブリは食糧のある家にしか現れなかったので害虫というよりかはむしろ良い虫とされていたそうです。美しい、とまで言われていたかはわかりませんが。

 いったいどういう人間が「美しい」が分かり、どういう人間が分からないのでしょうか。橋本治は「美しい」は「人間関係に由来する感情」であると言っています。「人間関係」にはわずらわしいと感じさせる面やイライラさせる面もあって、そのせいで「一人になるとほっとする」状況も生まれます。しかしその場合、「いやだと思う人間関係」から離れて「いやではない人間関係」を思い出すことができるからほっとするのです。ですので、「いやではない人間関係」を想起出来ない人はイライラしっぱなしということになります。「いやな人間関係」を落ち着かせてくれるのは「良い人間関係」なのです。

 「人間関係」とは何も人間と人間の関係性だけを指しているわけではありません。ペットでもいいですし、物でもいいです。犬を触ったり、好きなものに囲まれていれば落ち着きますよね?それを可能にしているのが「擬人法」です。ペットや物を人間に仕立て上げることによって人間関係の維持が可能になります。ここでようやく「美しい」に話が繋がるのですが、「美しい」と思うことは擬人法に他ならないというのです。「美しい」ものに対して人は擬人法によって人間関係を結びそうです。正直このあたりはそーなのかなー? というぐらいで納得がうまくいっていないのですが、そういうものらしいです。まとめると「美しい」は「人間関係に由来する感情」で、「人間関係の必要」を感じない人にとっては、「美しい」もまた不要になる。こんな感じです。

 家庭が一番、会社が一番の人達はそれぞれ自分にとっての一番大事なものしか眼に入ってこないので、他の「美しい」ものは排除されてしまいます。会社や家の外にあるものは、会社や家をさらによりよいものにするためのものになってしまい、そうなってしまったらもう外は「ものの仕入れ先」でしかありません。「豊かな人間関係」がある人すべてが「美しい」が分からないわけでは全然ありません。「豊かな人間関係」があって、「ここが一番いい場所だから外なんか見るのはやめよう」としたときに「美しい」と感じる能力は失われます。
「自分には何かが欠けていて、それを埋めるために外へ目を向けよう」そう思う心こそが、「美しい」が分かる心です。