基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

他者と死者―ラカンによるレヴィナス

他者と死者―ラカンによるレヴィナス

他者と死者―ラカンによるレヴィナス

 今のところ内田樹本の中で一番面白いと感じた本であり、これさえ読んでいれば内田樹の他の本は読まなくていいんじゃないかとさえ思う一冊。何故かと言えば、ここで語られているのは、内田樹の思想における「師匠」であるレヴィナスだからです。内田樹が語る思想は基本的にこのレヴィナスという哲学者の言うことであり、だったらレヴィナスを理解してしまった方が早いのは道理ですよな。なお、内田樹によるレヴィナス本はこれで二冊目らしいのですが一冊目は未読。そちらも近いうちに読んでみたい。本書が一冊目と異なるのは「ラカン」の存在。ラカンレヴィナスを同時に語るというよりかは、ラカン精神分析理論を手掛かりにしてレヴィナス哲学を読み解く、といった方が正しい。だからこそ本書はラカンの名前が書名に入っていてもレヴィナス論なのです。

 世の中には数多くの哲学者がいて、その中でもレヴィナスラカンの二人は特に難しいと言われます。僕も少しレヴィナスの本は読んだことがあるのですが、とてもじゃないけれども何が言いたいのかわからん、と放り投げしまいました。しかしそれは「分からない」ように書いているからなのだと、内田樹は言います。何故「分からない」ように書くのかというと、それは「分からない」と読者に想起させることによって読者に「何かをさせるためである」と言います。レヴィナスラカンのわかりにくさが狙っているのは「あなたはそのような難解なテクストを書くことによって、何が言いたいのか?」という問いです。その問いを発した瞬間に、読者は「テクスト」の意味ではなく「書き手の欲望」のありかを尋ねる。その時読者はラカンレヴィナスの弟子となり、二人が見ている知の欲望を覗き込むことになる。メチャクチャはしょってるので全然意味わかんないと思いますが、まあ導入部はこんなところです。

 しかしこういう解説本は凄くありがたいですね。もう今更レヴィナスやらラカンとかを、読む努力も根性も沸き起こってきませんし。自分で読むよりもはるかに内田樹の読みの方が信頼感があります。内田樹の師匠がレヴィナスならば、僕の師匠が内田樹ということにしましょう。内田樹レヴィナスの言うことを、そのまんまコピーして実践します。弟子の僕はレヴィナスを直接コピーするわけではなく、内田樹がコピーした思想をそのまんまコピーします。意味はわかっていなくてもいいのです。「絶対間違っていない完全なる知を備えている師匠」であるレヴィナスを完全にコピーしている内田樹をコピーしているのだから、僕のしていることは「意味はわからないけれどいづれわかるし、絶対に正しいことなのです」そういう在り方が、師匠と弟子の在り方なのですね、レヴィナス師匠に言わせれば。何が言いたいのかわかんなくなっちゃった、まあとにかくもう今更ニーチェとかラカンとかドゥルーズとかレヴィナスとか読み解けないから誰か代わりに読み解いてくれる人を探すよ! ということがいいたかったのです。弟子入りします。