- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 海鳥社
- 発売日: 2004/10
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 16回
- この商品を含むブログ (70件) を見る
世の中には数多くの哲学者がいて、その中でもレヴィナスとラカンの二人は特に難しいと言われます。僕も少しレヴィナスの本は読んだことがあるのですが、とてもじゃないけれども何が言いたいのかわからん、と放り投げしまいました。しかしそれは「分からない」ように書いているからなのだと、内田樹は言います。何故「分からない」ように書くのかというと、それは「分からない」と読者に想起させることによって読者に「何かをさせるためである」と言います。レヴィナスとラカンのわかりにくさが狙っているのは「あなたはそのような難解なテクストを書くことによって、何が言いたいのか?」という問いです。その問いを発した瞬間に、読者は「テクスト」の意味ではなく「書き手の欲望」のありかを尋ねる。その時読者はラカンとレヴィナスの弟子となり、二人が見ている知の欲望を覗き込むことになる。メチャクチャはしょってるので全然意味わかんないと思いますが、まあ導入部はこんなところです。
しかしこういう解説本は凄くありがたいですね。もう今更レヴィナスやらラカンとかを、読む努力も根性も沸き起こってきませんし。自分で読むよりもはるかに内田樹の読みの方が信頼感があります。内田樹の師匠がレヴィナスならば、僕の師匠が内田樹ということにしましょう。内田樹はレヴィナスの言うことを、そのまんまコピーして実践します。弟子の僕はレヴィナスを直接コピーするわけではなく、内田樹がコピーした思想をそのまんまコピーします。意味はわかっていなくてもいいのです。「絶対間違っていない完全なる知を備えている師匠」であるレヴィナスを完全にコピーしている内田樹をコピーしているのだから、僕のしていることは「意味はわからないけれどいづれわかるし、絶対に正しいことなのです」そういう在り方が、師匠と弟子の在り方なのですね、レヴィナス師匠に言わせれば。何が言いたいのかわかんなくなっちゃった、まあとにかくもう今更ニーチェとかラカンとかドゥルーズとかレヴィナスとか読み解けないから誰か代わりに読み解いてくれる人を探すよ! ということがいいたかったのです。弟子入りします。