しかしまあ受ける側として、授業を面白くする為の一番簡単な方法は、「受講者が先生の言っていることにすべて意味を見出す」ことなのですけど、それがまたうまくいかない。意識的に馬鹿になることが必要なんじゃないかな、と思います。だって授業受けていると「こいつは台本を読むしか能がねーのか」「同じことを壊れたテープレコーダーみたいに繰り返してやがる」「もう教科書を延々と読み上げるのは飽きたお…」みたいな悲鳴が誰でも胸の中でうずまいてくるはずですから。
上のような感想を抱いてしまう授業はまあ大抵つまらないですけど、何処がつまらないのかといったらやっぱり「自明なことを延々と聞かされること」です。自明なことというのは、すでに知っていることを教えられることともちょっと違って、たとえば高校なんかで授業をやると、まあ99%教科書に載っていることしかやりませんよね。受ける側も当然教科書に書いてある内容なんか一度も聞いたことも見たこともないからそれでいいといえるのかもしれませんが、しかし「教科書を延々とやり続ける」という絶望にも似た未来は入学した当初からわかりきってしまうのです。そこにはレールだけがあって、驚きがない。
ここでようやくこの本のタイトルに繋がってくるわけですが、まさに「学問は驚き」なんですよ。驚くために必要なのは、これを読めばこれだけの知識がつけられるということがわかりきっている教科書ではなく、無軌道な「思いつき」の話なのではないかと思います。授業を聞いているときに、「あっこんな話を聞くことが出来るのは、もしや世界に自分だけではないか!」という感覚が、驚きと面白さを生みます。毎日毎日教師たちが繰り返す話には、この「ライブ感」が致命的に足りない。おんなじ授業を繰り返してきたんでしょう。最適化されてしまって、前の生徒にも今の生徒にも未来の生徒にも同じ話しかできないし、やらない。それは多分、伝わります。こんな授業つまんねーや、ってなります。自分たちだけの絶対性やら特別感がないからです。
面白い授業とつまらない授業の違いは、「知識」を教えているか「智慧」を教えているかの違いではないでしょうか。「知識」とは「情報」です。「情報」とは、変化しないものです。変化するとしたら、自然の摂理に従って摩耗していくだけです。ただすべての情報は変化しないが故に「死んでいる」んですよね。過去の哲学者の言葉や、過去にあった出来事を勉強することもいいですけど、でもそれはあくまでも過去の話であって、死んでいるんだということを意識しなきゃいけません。人間は変化するわけですから。で、「智慧」とは何かと言えば、それは「ひらめき力」じゃないでしょうか。知識と知識を組み合わせて、まったく別の答えにジャンプする力。「知識」を持っているだけでは、世界のすべては知っていることと、知らないことの二つだけです。「智慧」があって初めて、あ、それはひょっとしてあれのことでは? とジャンプすることができる。そういう事が起こった時に驚きが生まれて、より面白い授業になるんじゃないかなと思います。