基本読書

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自由をつくる自在に生きる

自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C)

自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C)

 なんとも不思議なことに読んでいて涙が止まらなくなった。元々泣きやすい性質ではあるものの、それでもまさか新書で泣くとは思わないでしょう、普通は。なぜ泣いてしまったのかと言えば、これは当然推測になってしまうわけだけれども「自分の好きなようにすればいいのか」と目からうろこが落ちたというかなんというか。もちろんそんな単純に一言で言い表せるものではないのだが、「ああ、そうだったのか」という感覚だったり、わざわざそれを言ってくれる森博嗣に対しての感動かもしれない。よくあるビジネス書では、上から目線で教育をおこなうように「これこれこうするのがいいですよ」と言ってくるのが常だけれども、「あなたが出来る範囲であなたの好きなようにやりなさい」と懇切丁寧にといてくれる人というのは考えてみればぼくの身の回りには誰一人としていなかったのではないかという気がする。

 つまり本書は自由論である。自由とはどんな状態なのか、どうやって自由と言われる状態に持っていくのか、それをといている。自由とは何だろうか、と考えてみたときに、シンプルに義務がない状態というわけではない。何でもしていいよと放り出された状況のことでもない。森博嗣は「自由とは何ですか?」と問われた時に、剣豪の刀の例で答えているという。それをあっさり簡潔にいうと、「自在」もしくは「思うがまま」であり、ようするに「自分の思いどおりになること」である。それが自由だ。自分の思いどおりになることが自由だということはつまりぼくらの身の回りのことは自分の思い通りにならないことだらけだということだ。何を当たり前のことを言っているのだ、という気もする。しかし不思議なことに、ぼくはその当たり前のことを他の誰からも教わったことがないことに気が付いた。自由とは自分の思いどおりになることで、周囲は自分の思い通りにならないことで溢れていて、そこから自由を手に入れるということは、自分と周囲をだんだんとカスタマイズしていくことでしか手に入らないという当たり前の事実を、ちゃんと順序立てて説明してくれることがどれだけ有りがたいことなのか、それを読んでみないとわからないのである。なぜなら自分が「支配されている」と感じなければ「自由を得るためにカスタマイズ」していくことも出来ないからだ。

 自由を知るということはつまり不自由を知るということでもある。いったいどんな不自由が自分たちの身の回りにはあるのか。もちろん不自由は悪いことばかりではない。学校へ通わなければいけない不自由などは、それ相応の対価を得ることによって相殺されている。そして学校や会社に行くというルールに従うのは、集団生活を行う上で仕方がないことだ。集団生活を行わざるを得ないのはその方が効率がいいからである。そこからも自由になりたかったらまた別の手段を自分で探すしかない。ぼくらは他にも数多くの「支配」を知らず知らずのうちに受けていて、まず一番重要なのは、何に「支配」を受けているのかを考えることだ。「支配」されている状況はある意味では楽でもあるし、楽しい状況にもなりうる。現に多くの人はわざわざ自分から支配をもらいに行っているように見える。ただ「支配」されている状況というのはつまり「与えられた」ものをただ享受しているということだ。頑張ればその状態を楽しむことだって出来るだろうけれど、より簡単に楽しむことができるのは自分で「目的を設定」して、自分でその目的を達成する計画を立ててちょっとずつ進んでいく時だ。よくあるビジネス書なんかも、あれはある種の「支配」といえるかもしれない。勝間和代の言うとおりにしなきゃ、もしくは香山リカのいうとおりにしがみつかないで生きないと、と思う事自体がすでに「支配」ではないのか。とかそういう話である。まとめると、大事なのは支配されていることを自覚すること。次に、どうしたいかを考えること。何かしたいことがあって動き出してから初めて自由を意識することになるからだ。あと大切なのは諦めないことである。本書で言われるのはこの「諦めずに続けること」の繰り返しが8割を占める(と思う)。自由というのは自由を求め続けることでしか手に入らないからである。

 自由でいるためには、油断をしていてはいけない。いつも、何が自由なのか、と意識していることが大切だ。それはまるで、海に潜って綺麗な光景を眺めるときに似ている。「ああ、綺麗だな」と思い、上下左右どこへでも行ける、どちらへも向ける自由を感じるけれど、手足を止めてしまうと、あっという間に浮かんでしまい、海上へ引き戻される。あの、踠いているときこそが、つまり自由と言う瞬間なのだ。──P188-199