基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

赤めだか

赤めだか

赤めだか

 落語家、立川談春が、落語界の中でどう生きてきたかのエッセイ。そのほとんどは立川談志がどんな人間で、立川流がいったいどんな場所だったのかという物語として構成されている。ぼかぁ落語なんて一度も聞いたことがなく、それは別に落語という単語を聞いたことがないということを意味しないわけですが。マァ、「どうやら同じような話を何度も話すらしい」とか、「じゅげむじゅげむとかいうやつは落語らしい」とか、そんなごくごく当たり前のことを知っているだけなのですが、そんな知識ゼロの自分が読んでも面白い。そりゃ、彼らは毎日のようにして落語、つまりは物語を話しているのだ、面白いのも当然だろう、と思ってしまう。落語家の本というのは、これが初めてなのだが、ひょっとしたら彼らに物語を書かせたら誰もが一級のものを書いてくるのではないか、そんな予感をひしひしと感じる。落語家というのは同じ話を何度もやる。しかし同じ話を同じようにやっているようじゃプロとはいえないだろう、想像でしかないけれど、そんなことぐらいはわかる。そうやって一つの話を自分の中で徹底的に咀嚼して色々な型破りな方法でころがしていく、そんなことを何年もやっているような方々が、自分自身の物語を面白おかしく物語れないはずがない。型を破るには、型を持っていなければならないという言葉が本書には出てくるけれども、すでにある「物語」が「型」だとしたならば、彼らはすでに一級の型を会得していることになる。それから、エピソード自体の面白さももちろんある。最初から最後まで話の中心にいるのは立川談春ではあるのだけれども、立川談春の視線の先にいるのは常に立川談志なのである。立川談志は変人であって、変人はつまり普通ではないのだから読んでいて面白い。

 師弟関係は恋愛関係のようなものである、とどこかに書いてあった。そうなのだろうなあ、と読んでいて思う。だって、ここで語られている立川談志は、きらきら輝きすぎているもの。ほら、恋愛に熱中している人が恋人のことを話すときのあの温度差、ああいうものを感じてしまうのだけれども、それが全然いやらしくない。恋愛からいやらしさを抜いたのが師弟愛なのかもしれない。

 読んでいて驚いたのは、「何十年も前の話をよくこんなに生き生きと、記憶を確かに持っていられるな」ということだった。たくさんの会話が出てくる。逸話が出てくる。名言が出てくる。当然一言一句同じということはないだろう。いや、ひょっとしたら一言一句同じなのかもしれない。あるいは、一言も喋っていないことだらけなのかもしれない。そっちの方が可能性としてはありそうである。しかし彼らは落語家なわけで、であるならば当然自分の身の回りに起こった出来事は、何度も何度も語るだろう。偏見かもしれないが。どこで読んだか忘れたけれど、何かを物語ると人間はそれについてよく記憶しておけるという。つまりなぜ人間が物語を作るか、物語るかと言えばそれは記憶するためなのだ。ひたすら喋っている、身の回りの出来事を周りの人間に話しまくっている彼らは、必然的にガンガン記憶していくだろう。当然話しまくるということは、途中ではしょったり、足りない部分を付け加えたりしていくことであって、元あったものとはまったくの別物であることを意識しなくてはならない。ただ、過去ってのはそういうものだよね、っていう話でもある。