基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

私の恋人 by 上田岳弘

『太陽・惑星』に次ぐ上田岳弘の二作目にあたる。そこに説明を付け加えるなら、第28回三島由紀夫賞をピース又吉の『火花』と接戦で制した受賞作である、というあたりだろうか。本書はなんと全部で126Pしかなく、本来なら中編程度の作品だ。せっかく受賞したんだから出せ出せと単行本にされた作品になる。

私の恋人

私の恋人

さて──衝撃的なデビュー作であった『太陽・惑星』だが(どのように衝撃的であったのかはひとまず僕が書いた記事を読んで欲しい)、同時に危惧もあった。二作とも視点は「わたし」でも「かみさまー」でもなく、常に人類全体から距離をとった、超越的な個人の視点におかれ、その眼は個々の一生へフォーカスするよりも人類の変化、文明の変化、宇宙の変化それ自体を捉えようとする広い視野で構築されている。いったいどのような過去を経て人間は変化し、そしてこの後何千何万年も後の人類はどうなっているんだろう? とシュミレーションを覗きこんでいるように。huyukiitoichi.hatenadiary.jp
どちらも中編、もしくはちょっと長い短編でありながらもそうした長い時間軸の中でのダイナミズムを切り取ったような作品だ。しかし、それ以外は書けるのか? というのが当然疑問に思うところでもある。遥かな過去から未来までをいちどきに捉えてみせる広い視点。結構な話である。その発想には度肝を抜かされた。だが二度も三度も同じ世界を見せられても、「またか」と思ってしまうし、逆に説得力あるまったく違う形でこの世界そのものを描けるものだろうか? といえば、さすがにそれもないだろう。

つまるところ「個人の物語」を上田岳弘さんは書くことができるのか? というのが、『太陽・惑星』を読んだ上での僕の疑惑だった。それは勝手な期待であり疑惑だったわけども、『私の恋人』という書名を読んだ時はにやりとしたものだ。「私」そして「恋人」。随分ストレートに「個人の物語」の領域に踏み込んでいたものではないかと。

そうではなかった

実際出てきたものを読んでみれば、「個人の物語」なんてものでは全然なく、相変わらずだなあと笑うほかない。語り手の「私」は『太陽・惑星』と同じように、人間の時間軸を超越した何者かだ。「私」はその人生において記憶を保ち続けたまま転生を繰り返し、その大元になっているのは10万年前のクロマニヨン人である「私」である。あまりにも天才だった為に10万年前から原子力のことやコンピュータを発想し、文字すらない時代故に独自言語で書き残していた。

 三人目の私である井上由佑が生きるこの時代、世界は概ね一人目の私が想像した通りになっていた。あなた方人類が直径の祖先とみるクロマニョン人であった私が、未来を想像したのは約10万年前のことだから、我ながらなかなかの精度だったと思う。細かな差異はたくさんあれど、暇を持て余していた私の想像と、根本的に非常に近いものができあがっている。例えば今、井上由佑が日がな一日キーボードを叩いているパソコンのことすらも、私は予見していた。

さらにはその類まれなる妄想力と天才性によっていつか出会うべき「私の恋人」の詳細なプロフィールを脳内で綿密につくりあげていたおかしなクロマニョン人だ。「え、じゃあ私の恋人って、妄想の恋人なの? 妄想小説なの?」と思われるかもしれないが、三人目の私である「井上由佑」が、一人目と二人目(ドイツでホロコーストに遭遇するユダヤ人男性)が妄想し続けてきた「私の恋人」とそっくりのプロフィールを持った女性と出会ってしまうことが話の主軸となって展開していく。いってみれば、依然として「世界、それ自体の物語」を超越的な存在を通して描きながら「個人の物語」に接続してみせたような作品と捉えることもできるだろう。

恋を描けばまあたいていは主観的なものでふわふわと熱っぽいものになるところが、何しろこの語り手は10万年前から原子力のことを知っておりホロコーストに巻き込まれ見せしめに餓死させられた経験を持ち、ほぼ三人分の人生を「私の恋人」への妄想に費やしてきたキチガイだ。その視点は真っ当なものではなく恋を扱っていながらも距離が遠い。だが、何世代分にも渡る愛だから、距離が遠い割に重い。

 だが私は、手の届かない先のことを想像した。そしていつからか、未来の世界に息づく一人の女声を精緻に思い描くようになったのだ。膨大な時を経て複雑化する人間社会、その未来像に住む麗しい女。数々の試練をその身で健気に乗り越えてみせる、たまらなく可愛い、私の恋人のことを。

サイコーの恋人だからこそ、「いま」は会えないかもしれない。自分の人生では無理かもしれない、でも、次の人生なら会えるかもしれない。次の人生が無理でも、そのさらに次なら。彼らにとって「恋人」は目の前にいなくても、自分の人生で会うことができなかったとしてもあまり関係のないことであった。「サイコーの恋人」は、時間からも空間からも切り離され、概念として存在し、いつか彼らの生を肯定するものとして独立している。『餓死する寸前に全ての気力と正気を失うまで、ハインリヒ・ケプラーは独房の暗闇に私の恋人の幻影を見ていた。「今」でも「ここ」でもない場所、そこから私の身を案じている、優しい私の恋人。』

一人目の私はその驚異的な知性によって人類の行き着く先まで知ってしまっている。一人目の私が「私の恋人」を練り上げたのはそんな状況を打破しえる、彼自身にさえ想定がつかない何かとてつもないイレギュラーだったのだろうと思う。時間にも実体にもとらわれない特異な恋愛小説としても読めるし、同時に「予想もつかないとてつもない何か」をこの世界に現出せしめんとする意味での世界と個人の物語であったように思う。