基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

終わりで始まり──テスタメントシュピーゲル 1

 もう、圧倒的でした。こんなものが生まれ出てくる余地があるとは、ライトノベル業界の底力みたいなものを、感じずにはいられませんよなあ。この作品ね、言葉にするのは非常に難しいんですけれどもなんでかわかるかなあ。っていうかそれは当然色々な要素が複雑に絡まり合っているからなわけだけれども一つ目はやはり、文体。クランチ文体という冲方丁氏考案の特殊な文体により、情報が高密度に圧縮されて、そのせいで読んでいると凄まじい情報量の中にさらされることになる。少し、引用してみましょうか。

 吹雪いわく''数学は双方向的な調和''──デカルトの解析幾何学/ニュートンとライピニッツの微分積分法アイシュタイン方程式──どれも調和が必ずあるという信仰。──P21

 これはほんの一部で、たとえば「涼月=にやり」みたいに、=なども多用されます。で、普通だったら「涼月はにやりと笑った」というように、多少文字数が多くなりますから。で、この文体だと情報量が多いので設定を説明するところなどは読んでいて頭がくらくらするので、非常につらい。しかし、しかしですね。それが緊迫感のあるたとえば戦闘場面、まあ一般的に言えば盛り上がる場面、主人公が覚醒するとか、そういうような、場面が一斉に沸きたつ瞬間。そこでこの文体は、その情報を大量に圧縮できるという利点をいかして、凄まじい興奮を呼ぶんですね。世界が想像できる、といってしまってもいいかもしれない。情報量が多いという事は、より鮮明に浮かび上がるということでもあります。本書で言えばちょうどまん中ぐらいのページ数のところとか、いやー凄かった。

 タイトルに終わりで始まり、と書いていますが、それは別にノリで適当につけたわけでもなく本書のキャッチコピーとも繋がる話です。いわく「冲方丁最後のライトノベル」。常にどこかを爆破しながら進んでいるような冲方丁氏ですが、ついに自分の今まで歩んできた道まで爆破し始めました。「爆弾のような」という形容は冲方丁氏にぴったりであるかのように思えますが、そういえば小説界にはもう一人、爆弾と呼ばれる男がいたのを思い出します、「古川日出男」です。いや、別に今から「古川日出男」と「冲方丁」論を展開しよう、という気はさらさらないので寄り道もいいところなのですが・・・。いやでもやっぱり両者共通点はある。

 本書で主人公の一人が誕生日を迎え、一つ年をとったことが実に象徴的です。登場人物の年齢が変わらないのがライトノベル、などと断言するわけではありませんが、青春の終わりが主題となったときが、一段落かなと感じます。それは終わりであると同時に、豊かさを秘めた「始まり」です。──テスタメントシュピーゲルⅠ あとがきより

 なるほどお、というところです。歳が変わらないのがライトノベルというのは、別に学年が上がらないとか誕生日イベントが起こらないとかいった話ではなく、「歳が上がる事が何か物語上重要なテーマになる」あるいはなった瞬間にライトノベルとしては一応一段落、というのは現状のライトノベルの主人公が基本的に高校生、もしくはそれ以下を据えることが常識になっている以上、当然のような気もしますね。これはアニメにも言えることなのですけれども、主人公を中高生に据えるのが当然という流れは、やっぱりどこかに限界を作ってしまいます。アニメの場合はその限界は破られてしかるべきだと思いますがしかし、ライトノベルにおいてはどうなのか。たとえばドラえもんは藤子両氏の意向により、常に対象年齢を「子ども」に設定していたわけで、ライトノベルライトノベルとして立派にライト層に向けて作品を出し続ける役割がある。だったら、限界なんて突破されなくてもいいかもしれないですよねっていう話で。しかし突破できる、限界を破ることも当然できるわけで、出来る以上それをガンガン突破していく、それこそ爆弾のような男冲方丁の役割でもあるのだろうと。ま、もっとも限界を突破して突き抜けてどっかに行った作家もすでにいますけれどね。

 しかしまあ、終わるっていうことはまた何か新しい始まりでもあるわけです。冲方丁氏もこれでライトノベル最後! なんて爆破しておきながら、しれっとヘビーノベルとかいってまた超分厚いライトノベルでも出してほしいな、と思います。やっぱりまた誰もやらないようなことを引っ提げて、いろんな場所をかきまわしていってくれたら・・・。ファンとしては凄くうれしいですね。スプライトシュピーゲル4巻でのあとがきを、今思い出しています。

「俺はいわば赤信号だ。めちゃくちゃやることで、人々にこれが限度だと警告する」──映画『フィッシャー・キング

 ぼくが好きな冲方丁はいつでもフルスロットル冲方丁です。次巻以降も楽しみに待ちます。