本の頁を通してわたしがファンタジーに求めているのは、奇蹟の力それ自体ではない……ような気がする。派手に空間を彩る魔法の光でも、英雄たちの剣の歌でもない。いや、それも含まれるのかもしれないが、わたしが求めているのは風景だ、という気がする。──幻狼ファンタジアノベルス第8回コラム妹尾ゆふ子「非在の風景」より
そういえば新装版グインサーガの最終巻の一個手前のあとがきで、栗本薫も似たようなことを言っていたなと思いだす。いわく、世界における食べ物の描写だとか、風習の描写だとか、着るものはなんだとか、庶民の生活だとか、そういうのを書くことこそが栗本薫にとってのファンタジーの醍醐味だという内容。ぼくもファンタジーにおいては、まったくその通りだと思う。中にはそんなものを描写していないで物語を進めろ! という方もいるだろうが(実際問題服を細かく描写しなくても、物語は進めることが出来る)、しかしファンタジーの醍醐味とは、存在しないはずの世界をそこに存在させるためのリアリティを積み上げていくことなのだ。しかしそもそも物語が先に進むとはなんだろうかと考える。グイン・サーガで言えば終わりは明確に決められているのだから、基本的にはそこへと向かっていくのならば物語は先に進んでいることになるだろう。うーん、難しい。物語が先に進むってどーいうこと。これはまあ後で考えるとして。たとえばグイン達とはまったく関係がない、そこらへんの市民の生活を延々と描写し続けたとしたらそれは物語を進めているとはいいがたいですよね。服をしつこくしつこく描写しても、それは同じ。
話が書いている自分もよくわからないんですが、「世界を描写するのと物語を進めるのは違う」っていうのは今さら言わなくてもよくわかると思います。で、それがどーしたのよっていう話でして。ぼくがそこから先で言いたいのは結構眉つばなんですが、「男の人ってあんまり世界の描写にこだわらないわよね」っていう話で、「それに対して女性は世界の全体的な描写にこだわることができるよね」っていう話なんですよ。これ、結構実感を持ってくれる人もいるんじゃないかと思うんですけどどうなんでしょうね? この世界の描写にこだわらない、っていうのは具体的な説明ができなそうなんですけど頑張ってみます。たとえば男だって男ですからかわいい女の子をみたら「おーあのこ可愛いなあ。なあ?」「おーすげー可愛いなあうんうん」みたいな話をするわけですけれども、女の子の場合は・・・うーん、なんかうまいたとえが思いつかないんですけれども、もうちょっとディティールの細かい話をするんじゃないかと思うんですよ。男とみている世界は同じなのに、女性の方々はそれをズームで見ていると。それは結構間違いないんじゃないかなーとね、思うんですよ。その代わり大局的に見たときに、それこそ戦略的に物語を推し進めていくというのはどちらかというと不得意なのではないかなーと。根拠が妄想そのものである「女性視点世界ズーム論」しかないからあれなんですけど。
男女論を離れて言えば、「最近は世界の描写をじっくりやってくれる作品が少ないよね」っていう話であって、「それはこの大量生産大量消費の時代じゃしょうがないよね」っていう諦めの話でもあるのですが、「でもたまには「風景」が目の前に浮かんでくるような、描写を重視した重たい作品が読みたいよね」っていう話でもあるのです。そういう作品があればね、溢れかえって過ぎ去っていく物語群の中で安心できる休息地帯になるんじゃないかな。もう「グインサーガ」っていうでっかい休息地帯がありますけれどもね.