マルドゥック・スクランブル―The Second Combustion 燃焼 (ハヤカワ文庫JA)
- 作者: 冲方丁
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2003/06
- メディア: 文庫
- 購入: 8人 クリック: 58回
- この商品を含むブログ (281件) を見る
何しろこんなに退廃的な世界観。残虐な場面もある。主人公は娼婦やらレイプやら。世界はまったくもって悲惨なあり様で、明日をも知れない世界を生きる。可愛らしい少女と、マスコットのような可愛らしいネズミを主役に抜擢したならば、もう少し何かあったんじゃあないかと思う。不思議の国のアリス的な。ぼくの勝手な想像なのだが、多くの読者はこんな複雑怪奇などこへ行くともしれない、ハッピーエンドが読者に想定されない小説はきっと求めていないのであろうと思う。男と女がくっついてハッピーエンドだとか、世界が平和になってハッピーエンドだとか、多くの人々はそういった「わかりやすい」物語を求めているはずだ。それはベストセラー小説だとかを少しでも眺めていればよくわかる。
で、あるならば。冲方 丁が書くものが何なのかと言えば、それはたった一つのハッピーエンドなどでは決してなく。少女がいて、敵がいて、少女が敵を倒せば終わる。社会悪を倒せばそれで世界に通常の状態が帰ってくるなんていうそんなシンプルなものではなく。世界はとてつもなくグチャグチャしていて、とても一言では要約できない物語。そういうものを冲方 丁は書いている。どこで誰かが言っていたことで、「一言で要約できるのならば小説にする意味がない」というものがあるけれど(神林長平だったかな?)しかしまったくその通りであろうと思う。色々な小説があってよくて中には一言で要約できてしまう小説も必要だとは思うが、小説はそこまで行けるのだという指標として、複雑怪奇な話を書くのも必要なのだ、とぼくは思う。
そうはいってもいわく「複雑な、一言では要約できない物語」を書く作家も神林長平を始めとして日本にだって何人もいるわけであって。であるならばその中からこの「マルドゥック・スクランブル」という作品を特別なものにしているアイディア、とっかかり、物語の核、が何かと言えばそれは二巻から後半の大部分を使って語られる「ギャンブル」の場面じゃあないかな? と思う。それぐらいこの作品全体を通して、ギャンブルが持っている意味合いは大きい。ぼくはこの作品を発売された当初に読んで、六年後の現在、物語の筋をほとんど覚えていなかったが、それでもこの作品のギャンブル描写だけは鮮明に記憶に残っている。少女バロットが老婦人のかっこよさに惹かれ、ルーレットの台に座る。そして二人が繰り広げる緊張感のあるバトル。細部は忘れてしまっても、凄く興奮したことは覚えている。そういう何か一つでもいい、心の中に時間の経過を経ても残り続ける「何か」が残せる作品が、きっと後々語られていくのだろう。だからこそ一度アニメ化がとん挫して、でもまた映画として復活するという奇蹟のような流れもまったく当然のことであったように感じる。「マルドゥック・スクランブル」には「何か」があった。つまりはそういうことで。 あと、その「何か」はさっきも書いたように個人的にはギャンブルにあるのだと思うのだけれども、そのあたりは最終巻を読んでから書く。
と思ったが、きっと最終巻を読み終わったらまた別の事を考え付くのでとりあえず書いておく。この作品においてギャンブルがとても重要な意味を持っているのは、それが話のギミックの一つとして有効に使われているだけではなくて、話の必然性、テーマとのつながりの中で自然に出てきた、というところだろう。もちろんそれだけではない。それだけではないのだが、そのあたりを考えてみたい。動物と人間の違いは何か? という今まで何度も問われてきた問いに、この作品では「価値の創造だ」と答える場面がある。価値という観念を人間は作り出して、より良いものと悪いものとを判別し、より良いものを作り出そうと努力していく。その結果が、現在の人間の状況だと。著者はあとがきで、「価値観とは、偶然の出来事から必然へと赴く、人類独自の生存様式を言う」と書いている。
世の中で起こっていることは基本的には偶然の積み重ねであって、偶然起きたことが自分にとって都合がいいからといってそこに必然性を見いだすのは人間の意識、というよりかはこの文脈で言うならば動物と人間を区別する、価値観である。それを、物語で書こうとした時に冲方丁が選択したのが「ギャンブル」であった、というのが非常に興味深いじゃあないかと思うのですよ。ギャンブルという本来あまり好まれたものじゃあないギミックを使って、ちゃんとテーマ性を伝えてきているというねじれ? なんというか、一言で言うならば「なんでギャンブルがこんなに小説で面白く書けるの?」というところがめちゃくちゃ興味深くて面白いですね。何がこんなに面白いんだろう?
テーマとの自然なつながりで出てきた、というのがまずびっくりさせられる。今までガンアクションを戦ってきたダークヒーローの少女は、舞台をきらびやかなカジノに移してさらにそれはアニメにおける水着回みたいな、わかりやすい休憩地点ではなく少女の成長が書かれていて(ベル・ウィングとの戦いで初めてバロットは自分の能力を使って誰かに勝ちたい、と能動的に願う。)、そしてギャンブル自体「偶然と必然」というギャンブルではありふれたなテーマに特殊能力を使って乗り込むというスクリプトを挿入してしっちゃかめっちゃかにしていてとてつもなく面白い。本来イカサマをしなければ絶対に勝てると言う勝負はないはずなのに、能力を使う事によってそれが簡単になるのだ。しかしそのうえでもギャンブルの緊張感は保たれている。
考えてみれば今までの超能力とギャンブルの関係性といえば、透視能力でがっはっはぼろ勝ちだぜ、とかそんなのばっかりだった気がする。ただこの小説が少し違うのは、主人公側の狙いが単にギャンブルで大儲けがっはっはにはなくて、金以外の別の目的のために、カジノで勝たなければならない特殊な状況設定のおかげもあるだろう。最終目的が単なる金もうけよりも遠いところにあるので、難易度が跳ねあがっているのだ。そこが素晴らしい。あとこんがらがってきたのでそろそろ終わりにすると、ベル・ウィングが素晴らしいと思う。六年前に読んだ記憶で、何よりも覚えているのはこのベル・ウィングだった。とてつもない美女、と記憶していたが実際はおばあちゃんではあったが、だからといって魅力が減るわけではない。なんでだろうなー。三巻も読まないとわからない。じゃまた。