その両手が震える。
ドン・ミゲルは気づく。
少女の小さな手が、パンをテーブルに置きながらわなないている。ドン・ミゲルがその目をのぞき込むと、瞳が潤み、今にも涙がこぼれそうだ。自己憐憫か? ドン・ミゲルは自問する。それとも、恐怖心? さらに深くのぞき込むと、少女がパンを一瞥し、それからこちらへ視線を戻したので、ドン・ミゲルは察知する。
「きれいだ」その甘いロールパンを見降ろしながら言う。
「ありがとうござます」
声がうわずっていないか? ただの小さな気後れか?
「坐りなさい」ドン・ミゲルは立ち上がり、少女の為に椅子を引く。腰を下ろす少女の両手が、椅子の縁をしっかり握る。
「先にひと口食べなさい」自分の椅子に戻って、ドン・ミゲルが言う。
「とんでもない。あなたのために作ったんですから」
「言うとおりにしてくれ」
「できません」
「頼むよ」
これは命令なのだ。
背くわけにはいかない。
だから、少女はパンをひとかけちぎって、口もとへ持っていく。いや、持っていこうとする。振えがひどくて、手もとが定まらない。懸命に抑えようとするうちに、目に涙があふれてこぼれ、マスカラが頬に流れて縞模様を創る。
顔を上げて、すすり泣く。「できません」
「なのに、わたしに食べさせようとした」
少女はすすり上げ、鼻からあぶくが垂れる。
ドン・ミゲルはナプキンを手渡す。
「鼻をふきなさい」
少女がうめくように、「許して」
それから、うつむく。
中略
「おまえには妹が何人かいたな? 飲んだくれの父親が妹たちを虐待しているのか? メンデスの金があれば、妹たちを連れだして、家を建ててやれるというわけか?」
「そうです」
「なるほど」
少女が期待を込めて見上げる。
「食べろ。安楽死ができるだろう? わたしをゆっくり苦しませながら、殺すつもりではなかったはずだからな」
少女はパンをうまく口に運べない。手が小刻みに震え、パン屑が真っ赤な口紅につく。大粒の涙がぼたぼたとパンにこぼれ、入念に施した佐藤の衣が台なしになる。
「食べるんだ」
ひと口かじるものの、飲み込むことができないらしく、ドン・ミゲルは赤ワインをグラスに注いで少女に渡す。舐めるように飲むと、それが助けになって、口中のパンが喉に落ち、次のひと口をかじって、またワインをひと口飲む。
ドン・ミゲルはテーブルの上に身を乗り出し、手の甲で少女の髪を撫でる。穏やかな声で、「わかった。わかった」とつぶやいながら、もう一方の手でパンの新たな一片を少女の口もとへ持っていく。少女が口を開き、それを舌に載せて、ワインをひと口飲むと、ストリキニーネが徐々に効きだして、頭部ががくりと後ろに倒れ、両目が見開かれ、唇のあいだから、今際のごぼごぼという湿った音がする。
ドン・ミゲルは少女の体を塀の外に投げ捨て、犬に始末させる。
すいません引用長くて……。
正直言って、これ程細かく、緻密に書くような場面ではないんですよね。ドン・ミゲルを狙う誰かが居る、そいつはミゲルを殺す為に毒殺という手段を使った、気をつけねば。ってそれだけの情報を伝えればいいはずの場面が、なぜかこうも熱く書かれています。短い言葉で要件をすべて伝えるドン・ミゲルの恐ろしさもさることながら、少女の心の動きが、圧巻です。心情描写は最低限に抑えられて、少女が何をしているのか、それだけで、いったいどれだけの恐怖を味わっているのかがこちらにも伝わってきます。
暴力が何かとかいうのは漠然としてつかみどころが無さ過ぎるのですが、この描写はとても暴力的だと感じる。少女には取りうる手段が一切なく、ただただ相手の言う事を黙って受け入れるしかない。断ったら当然死ぬし、受け入れても死ぬという最悪の状況。思えばこの『犬の力』には、こういった「暴力」が満ち溢れている。つまり、「どちらを選んでも死」という状況、あるいは「銀か鉛か」選択肢が一つしか与えられない状況のこと、それをわたしは暴力だと感じている。両者の合意がなされないまま、一つの方向に流されてしまう事が一応わたしがいう暴力だと思ってもらっていい。
もしこれをまた別の暴力の力によって解決しようとすると(たとえば仲間をつのっていざという時に助けにきてくれるようにして、毒入りパンを食わせられそうになってもノーといえるようにする)相手もまた暴力で返してくる。暴力に対抗する力は、また別の暴力でしかない。そこで非暴力に訴えようとすると、自分が殺されたり、あるいは家族が殺されたりする。非暴力を宣言するというのは、自分が死んだり周りの人が殺されてしまったりしても仕方がない、と覚悟をするということだ。そんなこと出来っこない。だからこそ、作中で主人公は暴力でもって敵を制する。暴力は暴力を生む。
本来、それをどこかでストップさせるものは一番凄い暴力が他を圧倒すること(警察とか国家とか)だが、ここに書かれている状況(それは現実と地続きである)では、大統領さえもマフィアによって当選させられているわ、警察はわいろ目当てでなるようなクズばっかりだわで、強大な力が存在しえない。そんな、地獄みたいな状況を書いているのが『犬の力』なのだ。
上記は短くて無駄にみえるけれども実はこの作品の重要な部分を表していると思って引用した。これを読んでもらって興味を持ってもらえたらいいけれども、まあ無理かな!
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