基本読書

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翻訳夜話2 サリンジャー戦記

村上春樹と、柴田元幸が翻訳について語り倒す翻訳夜話2、今回は一冊丸々J.D.サリンジャーについて。これがやっぱり面白い。これはもう面白いですよ。「翻訳」をテーマに語っているわけですけれども、翻訳について語れば語るほど、問題は大きく広がりを見せていきます。

たとえば「英語と日本語」という二つのまったくことなる言語を深く捉えなおすことにもつながってきますし、また「作品の解釈」にまで、話は広がっていく。そしてやっぱり、どこまで深く作品を理解していて、翻訳のスキルを習得しているように見えても、「翻訳に完璧はありえない」んですよね。なぜなら、言語も違えば、著者も違うからです。単純ですな。

その「絶対に交わらない線」を、いかにして「それでもいかに近づけるか」というところに、翻訳の妙? 楽しさ? の根源があるような気がします。『99.9%は仮説』には、「科学と真理は近づくことはできてもけっして重なることはできない、ある意味とても切ない関係なんです。」(p.153)という記述が出てきますが、これに近い感覚。

凄く面白いな、と思ったのが、村上春樹キャッチャー・イン・ザ・ライの、主人公であるホールデン君の妹、フィービーについて語ったところでした。野崎孝さんの訳だと、フィービーというのはとてもかわいくて、主人公のことを「お兄ちゃん」と呼んでいるんですよね。もちろん原文ではyouなんですけど、訳では「お兄ちゃん」になっている。

これが村上春樹訳では、「あなた」なんですよね。以下ちょっとだけ引用してみます。

村上 僕は、フィービーがホールデンに向かって発するyouは、どう考えても「あなた」としか訳せないし、あれを「あなた」と訳しちゃいけないと、もし言われたとしたら、僕としてはこの本は翻訳したくないですね。断固拒否しちゃいますね。(p.48)

なんで村上春樹がここまで「あなた」という訳にこだわるかというと、そこに作品の解釈が、作品の根っこのところが含まれているからなんですよね。村上春樹の解釈によれば、キャッチャー・イン・ザ・ライにおける、ホールデン少年の家族であるフィービーやDBは、「正確な意味での肉親」ではない

じゃあ何なのだといえば、それは自己の一部なんだと。このキャッチャー・イン・ザ・ライという小説は、ホールデン少年という神経症的な社会とは馴染めない男の子が、社会への皮肉をもらしながら都会で生活するというそれだけの小説なんではないんだという解釈、宣言です。村上春樹に言わせればこれはサリンジャー自身を投影し、それと闘っていく」物語なんです。

で、あればこそフィービーもまた、サリンジャーの一部であり、だからこそyouを「お兄ちゃん」と訳して、肉をありありと、きょうだいの情とか、そういう関係性の枠に閉じ込めてはいけないんだと、そういう解釈がつみあがっていった結果の「あなた」なんです。

面白いなと思ったのはこれが正しいか間違っているとかではなくて、翻訳家とはそういうレベルで戦っているのか、ということがありありと実感できるところですよ。もちろんこれは村上春樹だけの、しかも「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という特別な作品に限っての話かもしれないですけど、でも、そう遠く離れてはいない。

ただあるものを、あるがままに訳せばいいというものでもない、著者の意図を汲み取って、本来あるべき方向へと日本語へと移し変えていく。翻訳って凄いなぁ、面白いなぁと自然に思えます。本書はあと、サリンジャー解釈的にも凄く面白いので、翻訳に興味がなくても、サリンジャーについて知りたかったらぜひ。久しぶりに、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読みたくなってしまいました。

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

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