翻訳家として第一線で訳し続けている二人の対談集。先日『考える人』の村上春樹インタビューを読んでいたら、本書のことが話題にのぼっていたのでついつい手が伸びてしまう。なにしろ二人とも大好きなもので。当然、大変面白く読んだ。
考えてみれば、翻訳という行為に接することは普段あまり多くない。ある一つの言語を、また別の言語に置き換えること。言葉にしてしまえばそれだけの話だが、しかしこれほど難しいこともあるまい。単語一つとっても、日本語でいかようにも置き換えが可能なのだ。その無数の選択肢の中から、「これだ」というものを選び取っていくこと。それが翻訳なのだろうと読んでいて思った。
僕も昔翻訳の真似ごとのようなことをしたことがある。あれは確かハリーポッターだったか。知り合いがどうしても速く続きが読みたいと言うので、あーでもこーでもないと言って頑張って訳したのだった。途中でやめてしまったが。
もちろんろくなものにはならなかった。出てきた単語を、辞書で調べ、構文の通りに正確に訳す。その一連の作業は非常に楽なのだが、どうしたってそれだけでは物語にならない、当然の話だけれども。全体を通した著者のキャラクターの捉え方が、キャラクターに一貫した調子を与えているだろうし、そして何より文章にはリズムがある。
本書で一番面白かったのは、このリズムについて村上春樹が言及しているところで、いわく「ビートとうねりがないと、文章がうまく呼吸しない」(p.43)という。ビートは今言ったようにリズム、一定の調子だとして、うねりとはビートのもっと大きなものだという。
たぶん物語的なダイナミズムにも関わってくるのだろう。一定の感覚でのパターンがリズムだとしたら、その一定のパターンの組み合わせた大局からみてのパターン、パターンのパターンとでもいうべきものがリズムなのだ、という気がする。起承転結の起をさらに起承転結で割れ、などと物語の創作論では言う事があるけれども、その大元の起承転結のことをここでは「うねり」と言っているのではないか。
ひとつ言えることは、ビートだけでは意味がないこと。うねりがあって初めて、ビートが生きてくる。翻訳において重要なのは「うねり」と「ビート」を自分なりに解釈して、掴みとること、が一つあるのだろうと思った。そこが文章の骨子だから。
あとは言うまでもないことだけれども、二人とも自分なりの「翻訳哲学」を持っているのが良い。「原文に忠実に訳すこと」「著者の言いたい事を掴み、より自然な形で日本語に移し替えること」を至上命題として、「少しでも良い訳文を」と心がけている二人の姿勢は、読んでいて気持ちの良いのだ。
何より二人とも翻訳について語っているのが、文章からでもわかるぐらい楽しそうなんだな。「翻訳の何が二人をこんなに楽しませるのだろう」と、そこんところを解明する為には自分でも何か翻訳してみるしかないんだろう。
- 作者: 村上春樹,柴田元幸
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2000/10
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