カナタで日本語教師を20年勤めている金谷武洋氏による、日本語論。おもに水村美苗氏による『日本語が亡びるとき』への反論として書かれている。僕は『日本語が亡びるとき』を読んでいないのであまり大きなことは言えないのですが、本書を読んでいると「日本語が亡びる」ってのはトンデモな話しだよなぁと思わざるを得ません。
『日本語が亡びるとき』への一番クリティカルな反論は、カナダで日本語教師を勤めているという著者の経歴からの「外国から見た日本語」という、外からの視点であると思います。水村氏は現代日本文学の現状を「ひたすら幼稚な光景」などといって悲観したそうですが、現在多くの日本文学が、フランス語から英語と非常に多岐にわたって翻訳されているんですよね。
また驚くことに日本国外における日本語学習者は二九七万人におよび、1979年から2006年の間に機関数は11.9倍、今日指数は10.8倍、学習者数は23.4倍と驚くべき増加傾向にある。このような日本語学習者の拡大ぶりをを前にして、「日本語が亡びつつある」と主張することは難しいように思う。日本語で書いても、ある程度外国語へと翻訳してもらえる態勢は整っており、さらには日本語自身も外へと広がりを見せているのです。
そして、ある意味こちらが本題なのですが、日本語には「主語がない」んですよね。それがどういうことかというと、たとえば川原でカップルが隣同士になっているときに男のほうが「好きだよ」といったとしたら、それはもう「何が?」と聞き返すまでもなく、「I love you」になります。しかし英語だと、「I」と「You」が出てこない限り、意図を相手に伝えることは不可能なんです。
伊藤計劃氏のSF小説『虐殺器官』には、言語が人間の行動を誘導するような描写がみられますけれども、これにはなかなか信憑性がありそうです。日本語には「わたし」が必要ないんです。だからこそ日本人には、ひたすら「みんな一緒」で「横並び」の文化が栄えてきて、必ず「SVO」構文、「わたし」と「あなた」が完全に区別された言語類型を持っているアメリカ人には、我を押し通す文化が育ってきたのではないでしょうか。
著者は最後に、過剰な主語と目的語に依存する英語における「SVO脳」が、911に対する過剰なしかも見当違いな報復に繋がったのであって、「共存共生」を主とする日本語脳こそが地球を救うのだという壮大な結論に達しますが、読んでいての実感としてはありえない話ではないと思いました。ある意味ここまで日本語を称揚できるのも、もう長らく日本に住んでない著者ならではのことかもしれませんが。
- 作者: 金谷武洋
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2010/03/10
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