基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

真賀田四季の天才性について

最近Kindleストアがオープンしたので、iPhone森博嗣本を手当たり次第に再読しているのだが、改めて読んだ四季がやっぱりすごかった。さまざまな作品に境界を飛び越えて登場する四季と、その支配力からキャラクタとして卓越しているのは既シリーズ読者にはご存知のことかと思われるが、その天才性、その書き方が綺麗で、想像力を拡張するイメージが沸いてくる。

しかし天才とはどういう存在を言うのだろうか。抽象的な天才の定義を考えてみれば、たとえば学校のお勉強がすごくよくできるというのはひとつの天才と呼ばれるかもしれない。もちろん一生学校のお勉強をするわけではないので、これは一時的なものである。たぶん各分野ごとの天才、あるいは複数分野に秀でた人間を天才というのがもっともポピュラーなものだろう。それはようするに「人が普通にやってたらできないことが出来る」ということだ。

それは一言で言ってしまえば行動と、独創性といえるだろう。どれだけその人にしか出来ない価値を発揮できるのかという印に対して人は人を天才と呼ぶ。一方であまりにかけ離れた思想、思考、独創性そのものともいえる行動を観た時に、人はたぶんそれを理解できない。だから本当の天才とは誰にも理解されないものなのかもしれない。本書のいわゆる中心人物、主役である真賀田四季は幼少時から天才と呼ばれ彼女にとりつこうとする人間がまわりにいるけれど、誰も彼女を計りきれない。

ところで、記事タイトルにしておいて申し訳ないが、真賀田四季というキャラクタを天才と表現することには抵抗がある。ある種の型にハマる、類型に落とし込んでしまうとその意義を失うようなキャラクタなのだ。ただ一般的に一言で表現する言葉があるとすれば、天才しかないだろう。具体的に定義すれば超速CPUを積んで、さらに現状どれだけのスパコンでも持ち得ない指向性を持ち合わせた特殊人間。つまり四季の天才性はその思考速度に由来する。

そして何より世界のモラルといった物にまったく囚われる事がない。モラル、社会のルールは基本的に人と人がやり取りをして、共同体を築きあげるために産まれたものだ。地球を大切にしないといけないのはなぜか? 地球がないと人間は生きていけないから。人を殺してはいけないのはなぜか? このルールがなければ社会が保てないから。

もっと小さなこと。仕事で人間が顔をあわせたとき、いつもお世話になっております、○○です、なども情報伝達上無意味なロスだ。でもそうした折衝を繰り返して人間というのは「お互いが同じ文化圏に属する人間ですよ〜」とか「常識があるんですよ〜」とかあるいは型のようなもので、そこを土台にして回りくどい話をしながら本筋に入っていったりする。スーツを着て、満員電車に乗る。ネクタイを締める。学校に毎日同じ時間に行く。束の間の同級生との談笑。世の中意味をつきつめていくとからっぽになってしまうようなルールばかりだ。

それは恐ろしく無駄だが、でもみんな必要だと思ってやっていて、実際多くの人たちと摩擦なくやり取りするためには必要なのだろう。おはよう。おはよう。今日も暑いね。そうだね。というやり取りは一見無駄なようだが、お互いに会話が成立するんですよ、あなたのことをきにかけているんですよ、というメタメッセージになる。しかし真賀田四季はそこを超越している。彼女からすれば人とのやり取りは無駄なのだ。思考は時間にとらわれない。それを人に伝えるとき、形にしようと思ったとき、実行したときにはじめて時間にとらわれ、無駄が発生する。

菅野よう子さんという作曲家のインタビューをネットで読んで、印象的だった箇所がある。5分のような長さの曲でも、頭の中に浮かぶときは5分間かけてふんふんふんと思いついていくのではなく、一瞬で5分の曲が頭に浮かび上がるのだそうだ。思考は時間に左右されず、ロスが少ない。思考は人間行動の中ではもっとも自由なのだといえる。だからこそ四季は文字を書き残さない。その必要がないから。

通常人が文字を書き残すのは一人では抱えきれないからだ。研究成果を跡に残すのは、これをふまえてこの先にいってほしいという意味でもある。だからこそすでに頭の中にある思考、結果をわざわざ時間と無駄な伝達ロスを出しながらも伝えようとする。あとはやはり自分で思考したことを書くことによって振り返り、整理し、この先につなげようというときにも人は書く。

残すことを最初から放棄すれば、ロスは少ない。人とのやり取りは最小限にし、自分の思考がどこまでいけるのかを試す。周りの人間はそこから何かを読み取ろうとする。ブッダもイエス・キリストもモハメットもソクラテスも文章を残さなかった。歴史に名を残すどころか刻みつけたような人間は文章を残さない。みな思考の速さに、書き残すことのロスに気が付いていたからだろうか?

モラルや社会のルールに縛られず、無駄を嫌い人とは最低限のやり取りしかせず、しかも誰も追いつけないほど思考速度が早い彼女の在り方は、読んでいてとても惹かれるものがある。思考速度の天才に、僕らは人間の極点を見るからだろう。常人は誰もその速度に追いつけない。彼女からみればまわりはすべて止まっているようなものだ。あまりにも思考が速く、広いために、現代の人間社会のルールも、それどころか彼女の躰さえも、思考のスケールに合わない。

憧れるのは思考速度というよりかは、モラルもルールもとっぱらって自由に思考し、行動する、そしてそれが出来ると証明してみせる、その態度だろうか。森作品にはその手のキャラクタが多い。喜嶋先生とか、それ以上に森先生自身が自由とは何かのひとつの体現者である。真賀田四季というキャラクタは、自由を極限まで推し進めたさきに起こる人格なのだろう。

その姿、在り方に僕はあこがれた。自由自在。思ったことができること。四季は「私はやろうと思ったことをやらなかったことは一度もないわ」と言った。本当に一度もないかどうかは知らないが、それこそが自由の本質だろう。誰もが諦める、眼をそらそうとする。しかしやってやれないことはない思考の自由を、真賀田四季というキャラクタは体現していた。

時間の流れには逆らえないと諦めている非力。
何もしないことが安全だと信じている軟弱。
時間に逆らえないのは、単に躰だけのこと。
物体でできているゆえに、
質量を有するゆえに、
時空を超えることができない。
けれど、
思考は、もっと自由なのだ。
飛躍できる。(四季 冬)

一方この四季という物語のおもしろいところは、そんな絶対的な思考速度の天才として描かれる四季の幼少時代を書いているところだ。2歳の時点で周りの状況を理解しており、3歳の頃には恐らく大人の思考などとっくに凌駕していたはずだが、人間への執着が捨て切れなかったり、身体が子どもであることから来る社会的、物質的制約に悩まされることになる。

まだ万能ではない。すべてが自由自在ではない。しかしその状況から、自分の思うがままの環境を作り上げていく過程、自分自身を征服していく過程。凡人たる僕からは想像もつかないし、その困難を僕は未だかつて読んだことがなかった。思考速度が速すぎる「人間」がぶち当たる問題、それは四季だけの問題だが、その苦悩は、すごかった。

少し前に僕が書いたこの記事⇒物語を体験して、心が震える瞬間がある。 - 基本読書の感覚を、四季の描写に対して僕は持つ。それは単なる「天才」としての言葉にできる凄さだけではなく、人間としての孤独(それも特殊な)のような言葉にするのは単純でも、実体を表現するのはひどく難しいものを指し示している。

その書かれ方が、とても綺麗だった。最終巻である「冬」で、四季は時間も身体も、自分自身から切り離してみせる。その自由さ、その孤独が、今まで読んできたどんな物語よりも美しい。僕はいままで無駄にたくさん本を読んできたけれど、こうした物語を自分の中に仕舞っておける、というのは僕自身の価値に関わらず生きていく土台になる。僕にとってはすごく好きで、すごく大切なシリーズだ。

四季 春 (講談社文庫)

四季 春 (講談社文庫)

四季 夏 (講談社文庫)

四季 夏 (講談社文庫)

四季 秋 (講談社文庫)

四季 秋 (講談社文庫)

四季 冬 (講談社文庫)

四季 冬 (講談社文庫)