基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ヴォイド・シェイパ

森博嗣先生の最新シリーズ。個人的には、最高傑作。一人の侍が、剣の強さとは何か、生きるとは何か、といったことをつらつらと考えながらあてどなく旅を続けていく。いつもはミステリィや飛行機といった、自身の経験上で書けるような作品が多かっただけに、いきなりここで侍の話を書くことには、少し驚いたりしました。

しかし、氏は少し前に出した新書『自由をつくる 自在に生きる』の中で、自由について『僕は、「自由とは何ですか?」と問われたとき、剣豪の刀の例で挙げた意味を応えている。あっさりと簡潔にいうと、「自在」あるいは「思うがまま」であり、ようするに「自分の思いどおりになること」である』と応えているように、その時より以前から剣豪を書くという発想は、すでにあったのだろうとは思う。

どこで読んだのかすでに忘れてしまったけど(ヴォイド・シェイパでも引用されている新渡戸稲造の武士道だったかしらん? 違ったような気がするけど)、むかしの凄い剣豪の人の逸話で、自分の死期を完全に悟っていたなんていうものがある。周囲の人に「今から私は死にますので部屋から出ていてください」と言い、しばらく間をおいてから、周りの人がその部屋をのぞいたら、そのままの姿勢で(だったかどうかは覚えてないけど)死んでいたのだという。

それぐらい、自分の身体といったものをコントロールできているということ。あるいは死んでしまうのだからコントロールできていないのかもしれないが、しかし「自分の寿命がいつ来るかを完全に把握できていること」というのは、完全に掌握していることと同義でしょう。そして、それこそは森先生のいう「自由」なのです。

話がそれたようなそれていないような。とにかく剣豪は凄いのです(さっきの逸話を読んだ時は僕はもう剣豪スゲーーー!! って感動しましたからね(ほんとかどうかは知らないけどね))

本書では、個人名が全てカタカナで表記されています。例えば主人公はゼンとだけ名乗ります。これは、漢字にするとかなり多様な文字です。全であり善であり禅であり前であり然であり膳であり。それだけ多くの意味をあらわすことが出来る、抽象的な文字だと言えるでしょう。他のものもすべてカタカナで、実際にはちゃんと漢字名は設定されているようですが、ほとんどの人物に関しては明かされません。

また時代も、明かされません。日本史にあまり詳しくないのですが、江戸時代のどこかだろうというのは思いますが、これも名前同様、意図的なものでしょう。つまり、出来るだけ抽象的にあろうとしている。具体的であることを避けようとしている、まあどっちでも同じことですが。そのことの意味は、物事は大抵、抽象化されて初めて、広く価値のあるものになるからです。

いやしかし、よくここまで書けるものだと驚きました。武道をやっていないのに、それをただ考えただけでここまで書けるのでしょうか? 剣の強さとは何か、天下無敵とは何か、という考えが進んでいく過程が、とても面白かったです。それはつまり、ネタバレになってしまいますが、「無に辿り着くこと」なのです。

敵を定義するのは非常に困難です。世界一の剣豪は、次の日崖から落ちて死ぬかもしれない。風邪をこじらせて死ぬかもしれない。世界一剣が強いって、それってどれだけの意味があるでしょう? 風邪は敵でしょうか? 崖から落ちて死んでしまった場合は、いったいなにが敵でしょう? 敵をどう定義するかにもよりますが、命を脅かすものと定義するとそれは際限なく増えていきます。

で、あれば「天下無敵の意味」とは、そもそもどうやって敵を作らないのか、といったことにあります。病も、傷も、予測不能な出来事も、すべては標準的な理の一つであるという全てを受け入れる思想が、大雑把にまとめてしまえば天下無敵と言えるでしょう。(詳しい話は内田樹先生の『日本辺境論』をお読みください)

ゼンも、達人であるお師匠様からそのことを学び、しかしその意味がはかりかねながら前へ進み、少しずつ気が付いて行きます。それは剣の道という現代にはまったく必要のない道ですが、剣の道とは考え方を学ぶことでもあります。どのように強くなるのか、どのように受け入れるのか、といった考え方は、それが抽象的であればあるほど、他の物に置きかえることが出来る。

空、無を表す「void」に、形を現す「shape」。からっぽの入れ物に何の値を代入するのかは、読んでいる僕たちの役目でしょう。

ヴォイド・シェイパ

ヴォイド・シェイパ