本書の目的は、読者の前に、われわれが話し手または聞き手として言語的コミュニケーションの機構を使い、またはそれに使われている形の幾つかを示そうとしたものである。こうした機構をいかにあつかうことを望むか、それは読者の選択次第である。
僕が今まで何冊の本を読んできたのかはわかりませんが、3000〜4000冊ぐらいかな? こうした冊数に特に意味はありませんが、その上で聞いていただければ、ことノンフィクション、思考を深めてくれる分野において、この『思考と行動における言語』は最もピカーな一冊だと思います。読んでいると非常に役に立つ。それは思考の枠組み、考えるときにつかう言語のルールについて考える本だからだろう。我々はいかにして考えているのかというもっとも根源的なテーマなのです。
文法を学ぶのではなく、伝達文の内容と目的を学ぶのです。なぜ我々は、そのコンテンツを伝達しなければならないのか、またいかにして情報をとりこぼすことなく、最大限目的を達せられるように言葉を扱うのか。思えば、それがわからない状態で言葉を使う事は、斬る対象が何一つ存在しないのに刀を振り回す、買う対象が何一つないのにお金だけを蓄え続ける、そういった無意味な行動に似ています。
本書が教えるのは基本的な言葉の使い方です。また、その言葉に騙されない為の方法です。しばしば私たちは言葉に騙されます。あるいは、言葉を間違えただけではなくその上考え方、行動までズレを生じさせます。たとえば、「地震」という言葉は地震そのものではありません。言葉は物ではありません。同様に、記号も物ではありません。天皇の肖像は天皇そのものではないし、役を演じている役者はその役と同じ人間ではありません(それは想像上の人を記号化したものです)。
何を当たり前のことを言ってやがるこのボケナスがと思うかもしれないけれど、そう、最初の段階ではそう難しいことではない。しかしこうした言葉と記号の関連性は多岐に渡るのでこの時点では「あたりまえじゃないか」と思っていても使いこなすのはなかなか難しいことに気がつく。たとえば、僕たちは二つの世界に住んでいます。ひとつは自分が見て感じることが出来る小さな世界、もうひとつは僕達の感覚の前を通り過ぎていく出来事の流れです。たとえば僕はカナダに行ったことがありませんが、カナダという国のことを知っています。
自分の身の回りで知り得る小さな世界についてを本書では外在的世界と呼び、言葉でしか知らない世界の事を言語世界と呼んでいます。僕達の周りのほとんどの世界は他人の報告の報告の報告を聞いて知っている言語世界で成り立っています。この関係は、地図とそれが代表する現地の関係に似ているといえるでしょう。地図はたしかに存在していて、現実を反映させたものではあるけれども現実そのものではない。
例え直せば、言葉が地図で、実際の外在的世界が現地です。もし現実に即した、正しい地図(言葉)を持っていればその人は予想外の事態にもきっと、正しく行動できるでしょう(後者と比較して)。しかし仮に誤った地図を持っていたとすれば、誤った考えと迷信にこりかたまった道筋を辿り、困難に出会い、努力を消費し、世界に適応できなくなってしまうでしょう。間違った地図をもっていたら間違った方向にしか進めないのだから当然のことです。
正しい地図を作るにはどうすればいいのか。正しい地図を創る為には、正しい報告を見極めることが出来なければなりません。正しい地図とはようするに現実のことですからね。現実をみて間違った報告と正しい報告を見極めなければならない。正しい報告を行う為には基本的に次の規則に従う必要があります。第一にそれが実証可能であること。第二にできるだけ推論と断定を排除しなければならないこと。
実証可能であることは出来ればいいに決まっていますが、必ずしもできるわけではありません。科学的な検証はそれが数値に還元されなければ行うことができませんから。しかし推論と断定はある程度自分でコントロールすることができます。目の前をふらふらと走っている車がいたとして、「酔っ払い運転だ! 死ね!」と怒鳴り散らすことは、間違っているかもしれない推論と間違っているかもしれない断定です。つまり間違っているかもしれない地図で、正確にいえばそれはただ単にふらふらと動いている車です。
断定はまた誰もがやってしまうことで、厄介なことのひとつです。僕も気を抜くとすぐにやってしまいそうになります。たとえば、「この本は凄く面白い本だ!」という断定は「この本をよんだ時に私は読んでいて泣いてしまった」などと、より正確な地図をつくる為には書くべきでしょう。また安易な断定はそこで思考を停止させることに繋がります。「それは素晴らしい本だった。なぜなら素晴らしい本だったからだ。」
また、強い先入観を持った人は良い地図を作ることはできません。なぜなら特定の先入観を持った人にとっては、韓国人はずるがしこくて人の文化をパクリまくるクソ野郎で、友だちは無条件で良い人間で、良い大学を出た人は無条件で素晴らしい人間になってしまうからです。よりすぐれた地図をを書ける人は、物事を多面的に見ることが出来ます。
とても役に立つ方法
もし混同してしまいそうな時の場合に、とても役立つ方法が紹介されています。たとえば、目の前に牛がいます。その横にも牛がいます。それらは二頭とも牛という言葉で表されますが、別の個体です。なので左の牛を牛1、右を牛2とします。これをすべてに当てはめるのです。ずるがしこくて人の文化をパクリまくる韓国人がいたとしましょう。その時想定している一人の韓国人とは韓国人1のことであって韓国人2や韓国人3とは何の関係もありません。友だちも友だち1と友だち2が存在します。それらは別の物だと考えなければなりません(当たり前だ)。しかし多くの場合、ごく自然にこれらを混同してしまう。
韓国人1を韓国人全体と混同するようなことが「間違った地図を頭のなかに持ってしまう」ことに相当することはことさら協調するまでもなくわかることでしょう。同じようなことを人はいつもやっているわけですね。しかしそうはいっても僕たちは完全な地図を作ることはできません。たとえば自分についての地図を作ろうとして見たとします。私は○○な趣味があります。○○な服が好きです。身長は何センチで体重は何キロです……などなど。しかしどんなに突き詰めたところで、それは大なり小なり、正確な地図であっても完全な地図ではないのです。
成熟した精神は、その反対に、コトバは何についてもすべてを言いつくせるものではないことを知っており、そこで不確かさに適応する。たとえば、自動車を運転している時、次に何が起こるかはわからない、いかに何度も同じ道をと売ろうと、決して二度とまったく同じ交通状況には出会わない。しかし熟達した運転者はどんな道でも、しかも高速で、恐怖も神経過敏もなしに走る。運転者として、かれは不確かさに適応している──予期しないパンクや突然の生涯に──しかも心に不安は感じていない。
同様に、知的に成熟した人についても「すべてを知っている」というわけではない。しかも、このことがかれを不安にはしない。それはかれが知っているからだ。人生で唯一の保障とは、内部から来る動的な保証、すなわち、精神の無限の柔軟さから来る保証──無限値の考え方から来る保証である、と。(中略)
外在的考え方を持っておれば、科学と知恵がすべて免れることのできない不確かさに適応できる。そして世の中からほかにどんな問題が出されるとしても、少なくとも自分で作り出して自分で悩む問題だけからは逃れることが出来る。
無限値の考え方こそが、人を偏見から自由にし正確な地図を書く能力を書き手に与える。現実は常に改変されており、これを書いている現在の冬木糸一は一秒後の冬木糸一とは別の存在であるといえる。どんどんと刷新される知識への無限の対応こそが不安を排除する。その人たちにとって、新しい発見は「そこで終わり」とラベルが貼ってあるわけではなく、「まだまだわからないことがいっぱいあるよ」とラベルが貼ってあるのです。
主観と客観を分けること
言葉を使うのはこうして考えてみるとなかなか難しいことですよ。常に相手と同じ意味を使っているとは限らない道具でなんとかして意志を通そうとしているわけで、曖昧極まりない道具です。だからこそその扱いには注意しなければならない。本書はそのための最善の入門書であると思う。まあまずは主観と客観を厳密に分けるところから始めたらいいでしょう。主観とは棒と穴があったときに、「自分はこの棒は穴に入ると思う」ということであり、客観は棒を穴に入れてみることです。
- 作者: S.I.ハヤカワ,大久保忠利
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1985/02/25
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