基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

さよなら、愛しい人

新しく出た村上春樹訳の『さよなら、愛しい人』を読んだ。

むかし名作と名高い『長いお別れ』を読んで、まったくピンとこなかったのだけど、今回村上春樹訳でこの作品を読んで、かなりの衝撃を受けた。既存の訳で読んだ時の印象と、ぜんっぜん違うんですよね。

読み手であるこちらが変化したのか、あるいは訳者が変わるということがそれだけ作品に大きな影響を及ぼすのか、恐らくその両方ですが、今回読んだこの『さよなら、愛しい人』は本当に面白かった。

まず文章がとても素晴らしい。読んでいて何度も村上春樹の存在を意識させられましたが、これは村上春樹が書いている文章が元々チャンドラーの影響を強く受けていることと、またこの作品を村上春樹が訳していることの両方からきているんでしょう。読んでいるだけで気分がウキウキして作品に入りこんでしまう文章です。

少しだけ本屋で、この新訳と過去の訳を見比べてみたのですが、これがもうほとんど別ものといっていいと思う。一人称なんかはほとんど一緒なのだけど、文から受ける印象がまったく違う。単語さえも違っている事が合って、原文を読んでいないのでどちらが正確な訳なのかわかりませんが、とにかく個人的な好みから言えば圧倒的にこの村上春樹訳版がよかった。

訳でひとつの作品はこんなにも変わってしまうのか? という驚きの一例に個人的にはなりました。これが例えばライ麦とかだと、僕は村上春樹訳っていうのは読めないんです。なんかとてつもない違和感が残ってしまう。それ以来村上春樹訳っていうのは積極的に敬遠してきたのですが、レイモンドチャンドラーに限ってはむしろ受け容れていきたい。

主人公のフィリップ・マーロウのキャラクターというのは、むかし長いお別れを読んだ時と比べて、なんというか、凄くよく馴染んだ。端的に言うと「愛すべきキャラクター」というか「非常に記憶に残る」というか「友だちになりたい」とかそういう親密さを感じさせながらも「ヒーロー」というか「憧れの対象」としても存在し……要するにパーフェクトなのだ。

フィリップ・マーロウは読んでいる限りではとても頭が良くタフネスな男だった。女には優しいし自分の状況を客観的に見ることが出来る。危機を見極める能力はかなりのものだし、危機的な状況に陥っても少なくとも表向きは平静を装って冷静に活路を見いだそうと思考することが出来る。

しかも驚くほど度胸があるし何度ブラックジャックで頭を殴られてもへこたれずに相手に向かって行くことが出来る。そのくせ相手の弱点、指摘されていない点を常にジョークで指摘したがるクセがあるし、ユーモアを必要としていない場面でも積極的にユーモアで返したがる。

さらにはクライシスジャンキーだ。病的なまでに危険な場所に飛び込もうとする。そして何よりタフネスだ。

「それでいい、マーロウ」と私は歯の間から声を絞り出した。「お前はタフガイだ。身長百八十センチの鋼鉄の男だ。服を脱いで顔もきれいに洗って、体重が八十五キロある。筋肉は硬く、顎もかなりしぶとくできている。これぐらいではまいらない。頭の後ろを二度どやされた。喉を絞められ、半ば失神するくらい銃身で顎を殴られた。薬物漬けになり、頭はたがが外れて、ワルツを踊っている二匹のネズミみたいな有様だ。さて、私にとってそれは何を意味するのだろう? 日常業務だ。よろしい、そろそろ掛け値なしにタフな作業に取り組もうじゃないか。たとえばズボンを履くとか」

ご覧のようにマーロウは殴られても殴られても脚は前に進んでしまうタイプのタフネスで読んでいるだけで爽快なものがある。僕だって叩きのめされながらまえに進めるならば進みたいものだが叩かれるとやっぱり委縮してしまう。ありとあらゆる責め苦をおいながら危機に向かって行くマーロウはよくみるとただのクライシスジャンキーでイッちゃってる危ない奴だがしかし僕に勇気を与えてくれる。

村上春樹の解説には最後に『チャンドラーの小説のある人生と、チャンドラーの小説の無い人生とでは、確実にいろんなものごとが変わってくるはずだ。そう思いませんか?』とあり、僕は読む前はそんなことはないだろうと思っていた。読み終えた後もそう思っていたがこれを書いていたらそんなこともないんじゃないかと思うようになった。

マーロウは尊敬できる男だし、まったく飽きさせない風景描写とセリフのかっこよさは、僕の中に特別な場所を創る。そういうことができる小説というのは限られている。だいたいはそこらへんの風景と同じでただ過ぎ去っていく。

この作品に関して言えば何が変わるのかはわからないがたしかに何かは残った感覚がある。そういったものは短期的に目覚ましい変化を上げるものではなく、長期的にじっくりとした変化を生み出していくようなものなのだろう。たとえばちょっとした勇気を必要とする場面なんかで。

さよなら、愛しい人 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

さよなら、愛しい人 (ハヤカワ・ミステリ文庫)