基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

気違い部落周游紀行

いやはやタイトルでひいてしまうかもしれないが、これがめっぽう面白い。少しでも興味が持てるのであれば読んで損はないでしょう。

タイトルから想像する限りでは、アフリカとかの奥地にある原始人みたいな特殊な習慣を持った部落をまわって面白おかしく紹介してくれる本なのかなと思うだろう。

しかし実際には気違い部落とは一つの部落であり場所は日本であり時代は1950年頃である。場所は東京から一時間半、徒歩十五分の場所にある、時代さえ気にしなければとても身近なところにある。

著者が疎開兼フィールドワークの為に住まうのは人口約5100人程からなる部落の一番小さな集団である。わずか十四軒からなる気違いたちを著者は男子を英雄女子をヒロインと呼び観察をする。彼ら彼女らは一読してすぐに気違い、あるいは現代の眼から見るととても頭が悪いことがわかる。

石灰を含んだ水を綺麗な水と思い込んでうまいうまいと飲み、
討論会があると聞けばみな負けると悔しいのであらかじめ棍棒を持っていき、(負けそうになると相手を叩きのめす)
さつまいもの頭と尻尾ではどちらがうまいのかと延々議論を続ける(そんな箇所に味の変化があるはずがない)。

気違い部落と呼びそこに住まう人々を英雄と呼ぶその態度からは「著者は上から目線で馬鹿にしているのだろう」と思うところだが実際はそうではない。いや、全てがそうでないというわけではない。知性とは物事を多面的に見ることであり傾向として知性があるとされる人程その内に人格をいくつも持っているように見える。

つまり著者の中には彼らを馬鹿にする気持ちとまた同時に彼らに同化し強く尊敬する気持ちと、実験動物を見るかのように感情を廃して現象だけを観察する学者の視点が入り交じっている。わずか十四軒で出来上がっている小さな社会。そこで起きた出来事から人間の本質へと洞察を普遍化していく視点は鋭い。

そうかと思えば、一人で寝起きしている著者の元へ饅頭を持ってきてくれたりすると著者は「これは正しくフランス人がフィネス(繊細な心づかい)と呼ぶところのものである(中略)私は感動した。」とたやすく感動してみせる。そして当然前述のように滑稽な部分もかなりある。

しかしこの作品の本質はといえば、それらをまとめあげたところにあるのだと思う。一人一人の人間を深く掘り下げること、それによって個人個人の内面に深く根ざした本質を取り出すこと。そこには醜い物もあれば美しいものもある。わずか十四軒しかない最小の社会にわざわざ著者が訪れたのも、一人の人間を深く観察することを志したからだろう。

十四軒しかないということは、そこに住む住人は大半の場所に住む人々よりも濃密な人間関係を結んでいるということである。年に何回か物売りが来るがそれ以外ほとんど人の往来はない。宇宙は十四英雄とその家族、そして山や動物に限られている。その結果、

で山野とその動植物及び各自の周囲に蠢動する他の十三英雄、これが各英雄の持って生まれた能力の全部を傾倒して十三頁の本を読み吟味し熟読し反芻し、それに圏点をつけ注解を施しストーリーを作り索引を製作しているようなものである。一冊の本しか読まない人間は恐るべき学者であると云われている。しかし多読の学者の持たない鋭さと整然さとを持っている英雄たちは部落人に関する知識の周到緻密さに於てはこの一冊本の学者に擬してよい。

このように誰よりもお互いのことに詳しくなったある種異様な社会が現れる。都会で人生のほとんどを過ごしてきた僕からすればほとんど異世界の話で面白い。おっと、少しそれたが話のオチはここではない。

ギリシャの寓話作家は、人間を二つの振り分け荷を背負って人生の路を歩くものとして表象している。前の荷には他人の欠点を、背後の荷には自己の欠点が詰まっている。従って自分の欠点は本人には見えないが、他人のものは眼の前にぶら下がっているというのである。
このことは率直に云って、既に慧眼な読者はこのことを察知されたであろうが、部落の勇士たちの愛読書にも適用されるのである。私は彼等が十三頁の本をひもとくと云った。というのは各々が自己のことを記載すべき十四頁目は誰の本でもブランクになっているからである。

ここでひとしきり笑うのであるが少し考えてみると何を隠そうこの「笑っている自分」もまさに十五頁目のブランクになっていることに気がつくのである。英雄たちを笑っている自分もまた、他人からみれば笑われている英雄に過ぎないのだ。

気違い部落周游紀行 (冨山房百科文庫 31)

気違い部落周游紀行 (冨山房百科文庫 31)