基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

街場のメディア論/内田樹

内田せんせーの新刊。今回はメディアの衰退を分析します。これがまた非常に面白い。僕たちの身の回りに溢れかえっているメディア、出版、テレビ、新聞、などなどは、溢れかえっているが故に私たちの行動、思考様式と密接に関係しています。メディアの不調はつまり私たちの知性の不調でもあるのです。他人事ではいられますまい。

と、いつもならここからだらだらと続けて行くわけですが(またこのパターンか)ツイッターで読みながらすでに散々だらだら書いたので、それをここに再掲します。順序を入れ替えたり、より書き加えたり削ったりすると思います。

第一講は「キャリアは他人のためのもの」内田樹流の仕事論というか就活否定とでもいうべき内容です。就活を行う際の「自己分析は無意味だ」「適性と天職」は存在しないと言います。その根っこの論理は、「仕事が出来るかどうかは、仕事についてみないとわからない」点にあるからです。

どういうことか。内田せんせーはそれを自分の子育て経験に見立てて説明する。親になる前は「子ども嫌い」だと自分のことを思っていた先生ですが、子供を持った途端に子供が生きがいになり、「子供の為なら死ねる」と躊躇なく言えるようになる。「親になって初めて自分が他者に対してそこまでの愛情を注げる人間だという事に気が付いたわけです。

よく外国語を勉強するには、その国の言葉をしゃべる恋人を持て、と言います。それはなぜか。恋人と愛の語らいをする為には、お互いに意志の疎通をしなければならないからです。そしてその為ならば、人は「試験に合格する為」とか「町中で道を聞かれた時にちゃんと答えられる為」に勉強した時よりも、何倍も効率よく吸収することができる。

私たちの能力が最も効率的に開発されるのは、その能力が必要とされた時です。向いている向いていないは関係ないのです。「やるっきゃない」となった時に、否が応にも人はその仕事が「できるようになる」。「天職」というのは、自分で探すものではなく、他者からの要請によって、なのですね。

第二講は「マスメディアの嘘と演技」。まずはメディアの価値をどう考量するのかについて。基準としてあげられているのは、「よく考えるとどうでもいいこと」「場合によっては人の命や共同体の運命に関わること」。メディアの不調は前者に比重が偏り過ぎたことにある、というのがこれからの分析の支柱となります。

メディアの不調はどうでもいいことしか報道しなくなったからだと先生は言います。なぜそうなったのかといえば、メディアが定型文でしか報道を行わなくなったからです。世論、つまり市民の意見の反映こそがメディアの使命だとして、型どおりのことしか報道しなくなってしまう。そうすると何が起こるのか。型にはめたような文章だけが氾濫し、「これを書いたのは私です」と責任をとるものが居なくなる。

それは2chにおける「名無し」と同じである、といいます。そしてそれは呪いでもある。名無し、つまり「私は個体識別できない人間であり、いくらでも代替者のいる人間である」というのは「だから、私は存在する必要のない人間である」という結論を導いてしまうのです。

世論について例に出されていた村上春樹のお話を要約します。村上春樹がジャズバーをやっていた頃の話です。そのバーにはよく編集や作家が来ていたそうですが、AさんとBさんが会話していたとするとCさんの悪口(あいつはもうだめだな、とか)を言い、Cさんが来ると「キミの最新作は素晴らしいね」と言い、Bさんが帰ると残ったAさんとCさんで「あれは才能ないね」BさんをDisっていたのだとか。

ここから、世論についての定義がぼんやりと浮かび上がります。つまり「誰もが思っている事実(あいつには才能が無い)」だけれども、「自分の身を犠牲にする(キミ才能ないよと言う事で嫌われたりする)ほど切実な真実ではない」もの。これこそが、世論の定義だと言えます。もうちょっとわかりやすく、シンプルに他の言葉で説明するのなら、「自分が黙っていても誰かが言うのだから言っても平気なこと」であり「だまってても誰かが言うのだから黙っていても平気なこと」であると言えるでしょう。

私たちが語るべきものは、「誰が語っても同じ」言質ではなく、「今私が語らなければ、誰も語ってくれないこと」。もしくはこうも言えるでしょう、「誰でもない私を必要としている人の為に語る」のです。その事を怠り続けてきたことこそが、メディアの凋落といえるでしょう。「だから、私は存在する必要のない人間である」という結論が、そのままメディアに当てはまってしまうからです。

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)