基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ゴースト・オブ・ユートピア

凄まじい作品であったという他ないが、別にそこまで面白くは無かった。

ひとつひとつの短編の出来は素晴らしい。幅が広く多様なのにそのどれもが横山三英さんの個性にあふれている。ただ全体として見た時、妙にまとまりがない。まとめられないのだということを書いているのに、まとめろというのもいけない話なのかもしれない。あるいは僕の読み方が足りないのだろうと思うけれど、これがとりあえず現時点での偽らざる心境。

それでもなお凄まじく、圧倒的に輝いていると感じるのは、芯に樺山三英ががっつりといるところだ。あまりにクドイその存在感が憎らしい。グロテスクさとエロとヴァイオレンスが渾然一体となり、なおかつそれらに対して特別な意味づけをしようとしていないように読める。混沌とは公平なのだとダークナイトで誤訳がどうとか話題になっていたが、なるほどこの公平さは混沌のように感じる。

ひとまずあらすじAmazonより

ディストピアSFの古典がいかにして誕生したかを著者オーウェルの生涯を辿ることで探る「一九八四年」、あの奇想天外な風刺小説を異色の会話劇として再構築した「ガリヴァー旅行記」、激動の20世紀陰謀史をQ&A形式で解体する「すばらしい新世界」ほか、古今東西の文学作品10篇をモチーフに、21世紀という時代に本質を追究する試み。

本作は連作短編集で、上記にあるように過去の名作に対して解釈をほどこし、あるいは再構築し、構成されている。軸を通す人物(?)としてきみとぼくと称される人間のようなものがいるが、あまりきにしてもしょうがない。彼らは「どこにもない場所(nowhere)」としてのユートピアを目指して様々な世界をくぐりぬけていく、あるいは分裂して経験していくのかよくわからないが、とにかく多層的に存在していく。

当然「どこにもない場所」にたどり着けるはずなんてないと思うが、結局よくわからない(何度目だ)。物語の前半部を使って「きみ」はいくつもの世界を渡り歩き、後半部からは「ぼく」が「いま・ここ(nowhere)」から自分自身の物語を書き始める。この二人はどこかで出会うのか? あるいはふたりとも「どこにもない場所」にたどり着くことができたのか? それはよくわからないというか、常に両義的な意味に定義されている。

両義的な意味を持つキーワードが本書では表現を変えながら執拗に繰り返される。たとえば最初の短編1984を例に取れば、神はサクラダ・ファミリアについてこういう。大聖堂は完成しない。完結しないことで簡潔している。未完成という完成体。すべてを含む。すべてが可能。あるいは老婆はこう語る。旅人さんよ、近づくほどに遠ざかるものでな。と。

夢と現実、不死鳥が一度灰になって蘇ること、二つにわかれた惑星、とにかくありとあらゆるものが両義性を示すキーワードになってどの短編にも姿をあらわす。その為物語は常に意味を確定させるということがなく、常に近づけば近づくほど遠ざかっていくような空虚さと価値観でもってこちらを揺さぶってくる。

物事の両義性が本書を貫く一本の芯だが、他にも「関係性」というテーマで語れるのではないかと思う。比喩としてエレベーター、惑星、相対性(近さと遠さ、大きなものと小さなもの、すべては遠近法をなくすと区別がなくなる。距離と比較の問題なのだ)とそして何より万有引力こそが本書の核となっているように思える。

宇宙のあらゆる物体が一つの法則に従って作動するという彼の認識は、一般に認知されるよりはるかに壮大なものである。地球を宇宙の中心と見る考えは、ニュートンによって葬り去られた──しばしばそう指摘されるが、はたしてそうか? 万有引力は、あらゆるものがお互いを引き合うことを示している。地球は太陽のまわりを回り、太陽は銀河系の中心を回る。その銀河系自体、無数に存在する銀河の内の一つでしかない。つまり宇宙に中心はなく、逆に言えば、すべての場所が中心でありゆる。どれほど微弱なものであっても、固有の引力を発するいまここ、この場所こそが。

どこにもない場所を目指し、おびただしい情報に巻き込まれ自分自身の価値観や、立ち位置さえもよくわからなくなってしまう僕達の現在をどう生きていくかと考えた時に「常にいま・こここそが中心なのだ、ここから考えていけばいい」というメッセージなのだろうか? でもぶっちゃけそんなことどうだっていい。とにかく本書ではこの「万物の関係性」はもうひとつの軸となっている。

こういう作品に対して「まとまりがない」という僕はとんでもないあほうなのかもしれない。一貫した一貫しなさが本書をつらぬいているのだから。

と散々「まとまりがないまとまりがない」といってきたが、今ちゃんと最後まで読み返してみると意外とまとまっていた(おい)。それどころか、凄くよくまとまっているかもしれない。特に最後の『華氏451』という短編は優れた出来だ。※以下ガッツリとネタバレがあります。

本作は物語の内容を追って楽しむよりも、文章の表現やその価値観の揺さぶりを楽しむタイプ、つまりネタバレがあまり気にならないタイプの作品だと思う。

だから僕はネタバレをしてしまおう。最後の『華氏451』はなんと「序文」という体裁をとっている。最後の短編なのに序文とはこれいかにと思うが、その理由もこれまで述べてきたように両義的な意味を持っているからだ。

序文とは書物の冒頭におかれ、外から意味付け定義するための文章だが、作品の一部でもある。つまり外部でもあり内部でもある二面性を持っている。『矛盾と誤解を恐れずに言えば、序文とは始まりであると同時に終わりなのである。問いかけであると同時に結論なのである』*1

なるほどつまりこの最後の短編は序文であることによって「終わり」ではなく「始まり」として扱って欲しいと言っている。

本短編は当然『華氏451』をタネ本にしているのだから、今後の書物というものの在り方についての話になっていく。一冊の書物は、これが物体であるが故に始まりと終わりを持つものとして認識され、これは読者の認識に多大なる影響を与えてきたと話は続く。

しかし当然現代はデジタルの時代であり、書物としての本は失われつつある。では次の形はどうなるのか。Kindleか? 当然そうだろう。しかしここで今日の情報閲覧システム、ハイパーテキストの話が持ち込まれる。ユーザは任意のワードをたどりつながら、次の情報次の情報へとつながっていきその情報の連鎖には終わりがなくなる。始まりと終わりがあった書物の時代は終わりを告げ、永続的過程の中にとりこまれる。

ハイパー・テキストの概念をもったプロジェクトは「ザナドゥ」と名付けられたが、これは英国の詩人コールリッジの文章から採られた言葉で「どこにもない場所」を意味していたそうだ。本短編の最後で、『華氏451』とタイトルにひいておきながら「万華鏡」というレイ・ブラッドベリの短編をひいてくる。実は僕もこの短編が大好きなのだ。

事故(だったっけ?)で宇宙に放り出された宇宙飛行士たちが、お互いに更新しながらばらばらの方向へ向かっていく話だ。この宇宙に一人っきりという孤独感と、助かりようのない絶望と、それでもなおかすかな電波でつながっている関係性がとても切ない。

「万華鏡」は最終的に一人の男が自分の人生の意味をかえりみ、意味など無いと思うものの、自分の預かり知らぬところで地上の少年が燃え尽きた光をみて願い事をする。ハイパー・テキストの時代であり電子書籍の時代にあえて紙の本を出す意義をこの短編をひくことで見出そうとしているのだ。かっこいい。

とここまで読むと本書にまとまりがないことも仕方がないことだとわかってくる。『ゴースト・オブ・ユートピア』は本にあって本にあらず、始まりがあって終わりが、しかし終わることによってまた始まるのだ。同じ仕組は、過去に何人もやっていると思う。

が、現在をテーマにしここまでのテーマ性と反復性と熱量の多さで書ききった作品を僕は他には知らないユートピア(nowhere)」はどこかにあるものではなかった。常に僕達が読み続けている「いま・ここ(no here)」にこそあったのだ。

最初の一文を書き始めた時はこんな結論になるとはまったく思っていなかったけれど、よくよく考えてみれば本書は傑作だ!!

ゴースト・オブ・ユートピア (Jコレクション)

ゴースト・オブ・ユートピア (Jコレクション)

*1:p305