基本読書

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歴史家は過去を想像し、未来を想起する『歴史とは何か (岩波新書)』E.H. カー

歴史と言われて思い浮かべるのは人様々だろうが僕の場合は学校の歴史の時間が最初に思い浮かぶ。年表が線上にあって、その時時でなにがあって、どんなことになったのかだけが整然と羅列していくさまをみて、覚えていくのが歴史なのだと思っていた。当然苦痛であったが、僕は歴史小説が好きだったので世界史のみは何も勉強しなくてもかなりいい成績がとれていたのが思い出深い。

それにしても今思い返しても「なぜ歴史を学ぶのか」「歴史とはそもそも何なのか」といったことを聞かされた記憶がない。もちろん言われた可能性もあるけれど、当然ながら言われなかった可能性もある。そして何を学ぶにしろ、僕はそういった「動機」とか「そもそもそれはなんやねん」っていう根本的なところであるべきだといいと思う。

さもなければ、これは僕が馬鹿学生だったこともあるけれど、自分が何を学んでいるのかさっぱり理解できないまま年表を暗記すること、過去に起こったことを確認していくことが歴史なのだと勘違いしたままになってしまう(学校の教科書、テストにおける歴史はそういうもんだが)。

前置き終わり。E.H. カーによる本書『歴史とは何か』は、そうした歴史ってなんやねんという根本的な疑問に答えてくれる一冊だ。1961年にケンブリッジ大学で行われた講義を元にした本で、全六回次のようなテーマで話している。1 歴史家と事実。2 社会と個人。3 歴史と科学と道徳。4 歴史における因果関係。5 進歩としての歴史。6 広がる地平線

何十年も残り、読み継がれている『◯◯とは何か』というのはたいていその分野における基礎的な考えを教えてくれる名著であり読むと当たり率が高いのだけど、これもまた当たりだった。カーの歴史についての見方はわりとシンプルに説明することが出来る。本人の言葉を引用してみよう。

歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります

という部分が本書の核心部にあたる。簡単に解説すると、我々はどうしようもなく今生活している社会とか、文化といったものに影響を受ける。たとえば進歩的な、科学が生活をどんどん変えてより環境を良くしているような時代に生きていれば未来は明るいと考えるだろう。ヴィクトリア朝時代の歴史家と、現代の歴史家はそもそも「歴史とは何か、何のために存在しているのか」という答えさえも違う。

イギリスの歴史家であるアクトンは1896年の報告書の中で私たちは完全な歴史を持っていないけれど、現代ではどんな知識も、どんな問題でも可能になっているので自分たちが現在到達している地点を申し上げることが出来ると書いた。そしてその60年後また別の人間が歴史家は今で歴史は何人かの精神を通じて伝えられ、「加工された」ものであり、いかなる客観的な歴史的真理は存在しないという学説に、歴史家は逃げ込んでいるといった。

懐疑主義的な時代には懐疑主義的な、楽観的な時代には楽観的な、それぞれの歴史観がある。そしてそうした歴史観の元組み立てられた歴史はどうしても恣意的な選択になり、そしてそれだけが歴史家のできることなのだといえる。この世に起こったことをすべて記述するわけにはいかず、選択を行い=歴史を書いた瞬間に物事は取捨選択され人間的な主観が入り込む。

紀元前ギリシャのことさえ歴史資料によって僕らは知ることができるけれどそれだって所詮は全体として極少数の、アテナイ市民にとっての歴史でしかない。スパルタ人、コリント人の歴史が書かれれば自分に都合がよく編集されたまたまったく別のものになるだろう。歴史というのは基本的に、勝者によってつくられるというのはそういうことなのである。

歴史は常に記録者の精神を通してつくられる。そして記録者の精神は少なからずその時点での社会状況に影響を受ける。その時時で歴史に何を求めるのか、都度視点はかわってきて、だからこそ「歴史とは現在と過去との尽きることを知らぬ対話」なのであり、歴史家が歴史を編集せずには扱えないとするならば、歴史とは「歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程」になるのである。

歴史の本質とは教科書に載っているような淡白な事実の連続ではない。歴史の本質とはその時時で変わる視点から、過去を理解し、現代に新たな価値を提供させようとする試みである。歴史家は自分の解釈に従って事実を取捨選択し、その事実にしたがって自分の解釈を作り上げる。その過程は過去に一定の理解を与えて、現在との認識の違いを明らかにしていく。

歴史ってのはそう考えると奥が深いものよ、そして面白いものよ。認識の齟齬が明らかになり、因果関係を解釈していくことで全く違った世界を見せたりする。自分たちを長い線上の一箇所にいる存在と位置づけてより客観的に考えることが出来るようになる(もちろん主観からも逃れられない)。

否が応にも我々は歴史に取り込まれており、歴史を編纂することはないにせよその中に身を置いているのだから、線上における自分の位置について考えておいて悪いことはない。

歴史とは何か (岩波新書)

歴史とは何か (岩波新書)