基本読書

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ザ・ロード (ハヤカワepi文庫) by コーマック・マッカーシー

うげ、これはとんでもなく凄いぞ。ここまで徹底的に根こそぎ奪われた終末世界を書いた世界があっただろうか(いや、あるかもしれない!)。本作『ザ・ロードは』コーマック・マッカーシーの終末小説で、『悪の法則』という題名で先日映画が公開された。ただ読んだ理由は映画を見たから、でも映画化を知ったから、のどちらでもなく、時代小説やSF小説で知られる冲方丁氏がブックファースト新宿店回転五周年記念の、『私が今年、出会った一冊』で本書をあげていたからだ。冲方氏はコメントの中で『個人的オールタイムベストの一冊です。』とまで語っていて、それならば読まないわけにはいくまいと読み始めたのだった。

それにブラッド・メリディアン/コーマック・マッカーシー - 基本読書 は傑作だしね。終末世界を書いた作品も世界にはたくさんあるが(生き残りがギャング化してウェスタン的な世界になったり、飢えた人間同士で殺しあったり、ほそぼそと暮らしていくところが描かれたり、突然ゾンビ物になったり)、本作はその中でも異色だ(これは言い切っても大丈夫だと思う)。なぜなら登場人物はほぼ父親とその息子だけ。その二人が淡々と会話をしながら徒歩で旅を続けていくといっただけで本書のあらすじのほとんどは説明できてしまうのだから。

世界はもう尽くす言葉もないほどに荒廃しきっている。太陽なんかでないし、そのためすごい寒い。生物、人間以外ほぼゼロ、食べられる植物ほぼゼロ、というおよそ人間が生きていくには相応しくない環境だ。当然食べ物なんてあるわけがないから、親子は常に移動しながら極稀に手に入れることのできる保存用の缶詰などでなんとか生き延びている。しかしほとんどの場合は空腹が旅のお供であり、自分たち以外の人間は常に食料を狙っているわで、読んでいるこちらまで胃がキリキリと傷んでくる。

このままじゃ(親子が飢えてしにそうな状況のままでは)どきどきして寝られない………せめてこいつらがご飯を食べられる場面までは読もう(きっとあるだろう)……と寝る直前に思いながら読んでいて、全然寝られなく鳴るぐらい飢えている(嫌なたとえだな)。そんな崩壊しきって飯もなけりゃあ明日おもしれぬ世界を、コーマック・マッカーシーは見事に描写してみせるのだ。親子間のやりとりだけではない、崩壊しきった世界の描写、何もかもが壊れてしまったからこそ、今までそれがどう成り立ってきていたのかが見えるのだ。

 道を横切っていく水のない沼地では氷の管が凍ったドロから鍾乳洞の石筍のように突き出ていた。道路脇の古い火炎の跡。その向こうには長いコンクリート舗装道路。水が死んだように淀んでいる沼地。灰色の水面から突き出て沼苔の灰色の残骸を垂れさがらせている死んだ木々。縁石の角に溜まった絹のように柔らかな感触の灰。彼はざらつくコンクリートの手摺に寄りかかった。おそらく世界は破壊されたときに初めてそれがどう作られているかが遂に見えるのだろう。大海原、山々。存在をやめつつあるものたちの重苦しい逆の意味の壮観。広々とした荒れ野、浮腫んだ冷ややかな不朽。沈黙。

これほどまでに陰鬱な情景描写があるだろうか。沼、灰、死、といったダウナーな気分にさせるような単語を使ってこれでもか、これでもかと手を変え品を変え描写される。ここが世界の終わりの最前線だとばかりに投入される比喩の数々に読んでいて気がめいることこの上ない。飢餓だけに。そんなくそったれた世界で、なぜ生きなければいけないのかと問いたくもなる。僕はもう子どもではないから、ついつい感情は子を守る父の方へいく。

善性と悪性の対立?

小さい子供なんて連れて行くには、この世界はあまりに大変だろう。とにかく食料がない世界だ。カニバリズムも数少ない人類の間で、横行している。それなのにこのお子様はなかなか厄介な野郎で、生きていくのがとにかくたいへんなのに子どもは犬を食べないでといったり、人を食べないよねと父親に何度も確認したり、稀に自分たち以外の人間に出会うとできるかぎり協調しあおうとする。自分たちの食料が危うくても、食料をあげようと発想するのだ。

「自分たちが生きる」という観点で言えば無駄極まりない「善」の行為だ。僕が父親だったらとても許容できないなあ、ぶん殴ってでも自分たちの身の安全を守るためにやめさせるだろうなあと思いつつ読んでいたが、本作で父親は自分たちの安全は確保した上で、出来る限り息子の意向にそおうとする。子供がどんなにミスをしようが、決して声を荒らげたりはせず、子供の守護者たらんとする。優しい、という言葉では表現しきれない。狂信的なな保護者といってもいいぐらいだ。

おそらく息子は善性の象徴なのだ。それはこの荒廃しきって何一つ希望がない世界での唯一の希望でもある。物心つくまえから世界は崩壊してしまっており、豊かだった時代の人々が思いやりをもってお互いを助けあっていた時代のことを知らないにも関わらず、善い人がいると考えカニバリズムを忌避し弱きものを助けたいと考える。それが人間の生まれ持った善性の表現でなくてなんなのだろうか。

父親は自身にできるかぎりのことをしながらも、息子のその善性を守ろうとする。継続させようとする。しかしこと世界がここまで崩壊してしまえば「悪」と「善」の対比なんて虚しくもなる。人肉を食べたところで何だというのか。それを咎める人間さえもういないのだ。それでも自分たちの理屈、善性といったものを頼りに二人はぎりぎりのところで踏みとどまっている。たとえそれである程度自分たちが不利になろうとも。

善性と悪性の闘い、といった感じでは、実はないのだと思う。これはただただ「自分自身の中の規律との闘い」であり、それがあるからこそ父親は息子のために、この荒廃した世界にあって尚、すべてを投げ打ってでも生きようと思うことができたのだ。自分たちが「善き人」であるからこそ生きていていいのだ、空き家からご飯をとってもいいのだという安心を得るために、彼ら親子はそうした善性を演じて自分たちの心を安らかにさせようとしているのかもしれない。

息子と父親の対話

正直終末世界を淡々と二人の会話だけでもたす、となったときにあっという間に話させるネタや、みせるべき面白さが尽きるだろうと勝手に心配してしまうのだが、本作の場合そんな心配は無用だった。とにかくなんてことのないやりとりから、息子の成長や「終末世界しか知らない子ども」ゆえのはっとするような覚悟がみえてきてそのパターンの広さに驚く。

パパがお前に嘘をつくと思うか?
思わないよ。
でも死ぬかどうかではつくかもしれないと思ってると。
うん。
よし。確かにつくかもしれない。でも死にはしないんだ。
わかった。

この淡々とした、自分たちの死について語り合うのはずいぶん印象的な場面だ。二人とも自分がいつ死ぬかなんてわからないどころか、今生きているのが奇跡だということを知っている。子どももそれぐらいのことはわかっている。しかし父親は子どもにたいして絶対にその一線を超えないであくまでも希望を守ろうとする。その息子に対する希望を守ろうとする父親自身の希望が、純真で自分たちが飢えているにも関わらず人を助けてあげたいと願う息子なのだ。

ずいぶん印象的な会話が多いが、コーマック・マッカーシー自体はこの会話は自身の三番目の妻の間にできたJohnとの会話からきているといっている(年齢もだいたい同じぐらいだと思う)。『この本の中で子どもがいう言葉は、Johnが会話の中で言ったたくさんの言葉からきている。”ぱぱ、もし僕が死んだらどうする?” ”私も死にたいと思うだろうね、それも相当” 彼は言う。”僕と一緒にいられる?” ”うん、一緒にいられるだろう”*1

だからある意味では、世界に俺と息子の二人だけになっても俺は息子を愛しぬくぜ、俺の息子マジかわいすぎるし優しいしきっと終末世界でも純粋そのものだから、世界の希望だぜ的な超絶親馬鹿小説としても読めるかもしれない。もちろん100%がそんなわけないし、そうした親ばか的な要素がまったくないわけでも、もちろんないのだろう。そんなことがどうでもよくなるぐらい本作は終末世界物としてひとつの極北だ。まざまざと「終末ってのはこういうことだ、なにもかも終わるってのはこういうことだ」と突きつけ、体験させてくれる。

おわりに

『おそらく世界は破壊されたときに初めてそれがどう作られているかが遂に見えるのだろう。』と本作では主に情景への言葉として語られる。では人間はどうだろうか。世界が破壊されたときに、人間がどのような存在であったのかが明らかにされるのかもしれない、そしてそれは善いものであったらいいな、と本作を読んでいる時に考えた。世界は、どう作られているのだろうか。

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)