基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

未必のマクベス by 早瀬耕

徹夜小説という、面白すぎて徹夜してしまうような小説に対する呼び方がいつから出来たのかあいにくわからないが、僕は好きな本ほど徹夜したくないと思う。徹夜したくなるほど面白い小説であればこそ、集中力が落ちた状態で一読めを乗り切ってしまうことにもったいなさを感じてしまうものではないだろうか。徹夜したくなるほどの小説であれば、万全な状態で読みたい。ただこの『未必のマクベス』はめっぽう面白くて、まあ100ページぐらい読んだら寝るかな、と思っていたが止まらず、いったん電気を消して布団に入ったものの気になって這い出してきて最後まで読んでしまった。徹夜なんかしたくないといっても寝れないんじゃ仕方ない。

この『未必のマクベス』という作品、早川の編集塩澤氏よりTwitterで発売前に読みたい人にはゲラをいただけるという告知がなされていたので、あらかじめお願いしていた。ちなみに一番目の応募者だったらしい。やったぜ。面白いのは当然として、かつてない感じの、異質な作風なのが良いと思った。傾向としては全く違うんだけど、円城塔作品を初めて読んだ時のような感じで、面白いのは間違いないけど平均としてどう受け取られるのかよくわからないし、他人の感想を読んでみたいと感じるような作品だ。

ざっくりとした全体への感想

素直な感想を書くなら、読み終えた後ストンと落ちてじわじわと余韻が広がってくる、素晴らしい物語だったと思う。150Pあたりからページをめくる手が止まらず、終わってみればこれほどの静寂な余韻にひたらせてくれる作品は、今まで読んだことがない。読み終えた時に涙が出てくるわけでもなく、興奮して寝れなくなるような類の物語ではない。読み終えた時に静寂な気持ちになって今読んだのはいったいなんだったんだろうと、自分の中の反響をじっと確かめたくなるような静かな物語だ。

一言で言えば「破滅へと向かう物語」ということになると思う。それは下敷きにされているマクベスからしてそうで、マクベスはいずれ王になると告げられるが、この予言と自身が握った権力自体によって振り回され、周囲の信頼できたはずの人間は減っていき、自分自身もまたすり減って消えていく。本作は終盤に向かうにつれて「破滅の美学」みたいなものが表現されていくように思う。破滅の美学とはなにか。それは多分破滅へ向かってわーわー喚いたりしない、破滅へ意味を見出す、そして破滅へ近づくことによって周囲から物やしがらみが一つ一つ消えていき、整理され、これにより物事の本質がより鮮明に見えてくるあたりにあるのではないか。読み終えた時のじわじわと広がっていく寂寥感は本作において主人公がとった選択と完全にシンクロしていた。

で、つまるところとても面白かったのだけど、読み終えてもこれが自分に個人的に直撃したものであって、僕以外の人間はそこまで漢字入りはしないのか、はたまた誰に読ませても「自分にだけ直撃した」と、自分だけの物語だと錯覚を起こして読むのかわからない。過去にあまり類似の作品がみられないから、過去からの類雑で予測することも出来ない。いやもちろん様々な類似、思い起こさせる作品はあるし、別に手法自体が新しいわけでも何でもない。

異質さはどこにあるのか

それでも異質だと──事前に幾人かの感想を読んでもそう捉えているような人はあまりいないようだったのでこれは僕だけの感覚かもしれないけれど、少なくとも僕個人にとってみればとてつもなく変だと思わせる作品だったからこそ、塩澤氏がゲラをあらかじめ配るという特殊な試みに出てみようとする気持ちもわかろうというものだった。受け入れられ方の予測がつかないのだ。

さてその異質さはどこにあるのか? 様々な要素が複合した結果こうなっているのであり、簡単にときほぐせるものでもなければ、言葉で説明できないから異質さというしかない面はあるにせよ、まず雰囲気笑 が変だ。雰囲気て。台湾を舞台にした大企業のいざこざ(いざこざ、なんて書くとかわいく聞こえるが実際は殺人が起こる殺人劇である)、社会システムの根幹である「金」にまつわる部分の虚構性がお話のメインではあるのだが、『マクベス』を現代で再演しようというような試みなので、必然的に雰囲気はある種の古臭さをまとってくる。

古臭さ、といってもしかし舞台はどうしたって現代であり、大企業内の抗争であり、巨大な社会システムが存在している世界なのだ。陰謀は基本金に絡んでいるし、社内政治みたいなくだらないものが問題をばんばん起こす。人が死ねば当然警察がくる。未来を予言する思わせぶりな魔女なんていないし、原作マクベスがそうであるように、「女の腹から生まれた人間には負けない」とかいう特殊能力があるはずがない笑 マクベスを現代で再演するには状況が違いすぎる。

と思いきや本作には占い師が出てくる。必殺仕事人みたいな優秀な、殺しから事務手配、ボディーガードに亡命までなんでも手配してくれるプロフェッショナルな女性が幾人も出てきて主人公の周りで暗躍する。「女の腹から生まれた人間には負けない」とかいう特殊能力も、ありそうななさそうな。主な舞台が香港であることからくる香港ベースの多国籍的な感じもあいまって、現代中華ファンタジーとでもいうような、明らかに現代ではないが、かといってファンタジーというほど突飛ではない特殊としかいいようがない世界観を構築していく。

物語冒頭、仕事で主人公とその長年の部下(というか元同級生)が台湾のカジノで一儲けして出てきたところを売春婦に声をかけられるシーンがある。またこの町並の描写がスゴイ。実際に香港や台湾に長年住んでいたとしか思えないような緻密で現実的で、それでいて活き活きとした描写になっている。しかしそうした現実的な町並みと反して売春婦の客引き断った時に「あなたの未来を教えてあげる」「あなたは、王になって、旅に出なくてはならない」と告げられるのだから、とてつもなくおかしなはじまりかただ。いきなり何を言い出すんだこの売春婦は、新手の意味深な客引きなんだろうかと思うところだろうが、主人公達は平然と受け入れて物語は進行していく。

現代中華ファンタジーといったのは何も魔法が出てくるわけではないが、こうした唐突さ、非日常性が当たり前のように、しかしさほど違和感なく、随所に挿入されていくことから受ける印象である。

会話の異質性

異質さの肝はやはり会話、やりとりにあるだろう。ここはもう技術的な部分というより、著者デビュー作『グリフォンズ・ガーデン』の頃より変わらないものだ。このデビュー作は今読んでも面白いというより、当時より今の方がむしろ受け入れられやすい作品なのではないかと思う。それぐらい尖っていて一般読者を突き放したようなところがあった。時代がここまで追い付いてきたという感じ。元々は卒業論文として書かれた、つまりは専門家向けに書かれたものなので、普通想定されるような読者層を突き放したような内容は当然ではあるのだが。ちなみに著者は一橋大学商学部経営学科卒業。ゼミはコンピュータ系だったらしい。

マクベスを下敷きに香港で起こる大企業での社内政治にまきこまれていくというと、まあ細かい区分けは無視して「純粋に文系的な物語なのかな」と思うかもしれないが、メロドラマや古典を思わせるような古臭い言い回しや会話の部分と、話がすぐに数学的問題に帰結していく理屈っぽさが共存している。ロマンスで始まり論理で解説され情緒に落ちる。このなんともいえないアンマッチさがまた異質さに寄与していると思う。たとえばこんなところだ。

 彼女とは、高校の三年間、ずっと同じクラスだった。
 「三年も、同じクラスなんて、すごいと思わない?」
 三年生に進級したとき、相変わらず、鍋島はぼくのひとつ後の出席番号で、彼女にしては興奮気味に、ぼくに言った。
 「クラスは五つしかなくて、クラス替えは二回なんだから、確率としては二十五分の一だよ。一年のときのクラスのひとりか二人は、三年間、同じクラスになる。それに、今回は、理系クラスと文系クラスに分かれたんだから、二十五分の一に作為性が加わるだろ」
 ぼくは、無理に素っ気なく、彼女に応えた。本当は、それまでの二年間、ずっと鍋島のことが気になっていて、「三年間、同じクラスなんてすごいよな」と彼女に言う準備をしていたところだった。さらに、数学の成績が良かった彼女が、文系クラスを選択したのも意外だった。だから、鍋島が、その科白をぼくに譲っていれば、「鍋島はてっきり理系クラスだと思っていた」とも伝えるつもりだった。
 「でも、ずっと、出席番号が並んでいるんだよ」
 「中井と鍋島だからね」
 「じゃあ、文B組の永沢君とか、理D組の中野美香ちゃんが、私たちの間に割り込まなくて、かつ、三年間、私たちが同じクラスになる確率はどれくらい? しかも、教室の座席は六列なのに、私たちは一度も別の列になってないんだよ」

重要なところだけ抜き出そうと思ったのに長くなってしまった。でもここのやりとりはこの作品全体の方向性みたいなものが明確に表れていると思う。理屈的な部分とラブ・ロマンスな部分が同居しているというか、相容れないものなりに共存しているというか。「三年も、同じクラスなんて、すごいと思わない?」とラブラブな感じで始まって、それを数学の確率でコミュ症の理系っぽく打ち消して、しかしそれは打ち消した側にとっても本意ではなくて、その上そこでキャッチボールが終わるのではなくて相手の女の子が今度は理屈を使って打ち返してくるという。

これ、危ういバランス感覚というか、混ぜられないはずのものが明確に混ざっている感じ、すごくない?? このやりとりは僕、個人的にめちゃくちゃぐっとくるんだけどなあ。これだけで完全に引き込まれていた。ぐっとくる人がどれぐらいいるんだろう笑 それもよくわからない。*1

女性観について

これは難しいところではあるのだが、女性観、女性全般の描写が特徴的な作品でもある。前作『グリフォンズ・ガーデン』からしてものすごーく都合の良い女の子がヒロインだった。恋人の男につきっきりで、特にわがままも言わず、ベタボレで、「結婚してくれ」といわれたら「ありがとう」と感謝を言っちゃう、男のわけのわからんごちゃごちゃした会話にきっちり付き合ってくれるような。そんな女性がいるはずねえだろうが笑 まあそれは大学院で延々と女のいない環境にいたらそういう理想の女の子を頭のなかに創っちゃうよなあ……と思うような感じだった。

なので22年の月日を経て、「22年分の経験を経て女性観もスレてきているかな」とわくわくして読んでみたら、これが対して変わっていない!! 相変わらず男に付き従って女性が仕事をやめるわ、それどころか男がおかす数々のちょっとぶっとんだ行為やぶっちゃけ刑法に違反している行為も自然と受け入れてくれる。そして決して否定せず「もうオマエみたいなアホと付き合ってられるか!」といって消えていくこともない! 男性性といったものを完全肯定の女性陣なんですよ。

しかもそうした女性ばかりが出てくるという。いや、普通に不倫があったりしてどろどろした部分がないとはいわないんだけど、みんな純粋で何十年も一途という怪物揃い。これはしかし女性に限った話ではなくて、主人公の中井からして、高校生の頃仲が良くて明らかに自分に惚れてたけどなんとなく付きあうこともなく離れ離れになってしまった女の子の名前をずっとネットのPasswordに設定しているような純粋な変態なのだから純粋人間たちの競演場なんですよ。

でもねー考えてみれば村上春樹だって若い時から今まで一貫して主人公はするりと特に何の違和感もなく女の子と出会って適当にヤっていくような物語を書くんだから、こうした女性観というか女性の書き方みたいなものは、歳をとって経験を重ねても変わらないものなのかもしれませんね。で、こういうファンタジーみたいな女性観については、僕はそれ単体では好みに合わない。アホくさいし。

しかしこの物語を読んでいると「それ以外ありえない」と思わせられるのがひどいところだ。何百年も前の女性の貞操観念というか、マクベスが下敷きになっているからというのはあるだろう。そしてこの物語自体、そうしたちょっと行き過ぎた純粋さを抱えた人間たちでなければ絶対に構成できないような内容になっているし、こうした不器用な純粋さを抱えた人間達の共演だからこそ、本作はラブストーリーとしてとてつもない美しさを獲得している。

ああ、これが読めるんだったら、もう許すしかないよなと。そういう諦めがついてしまう。それはまあ、オチまで読んでみてのお楽しみで。

中井の人物造詣について

中井とは主人公のこと。中井の描写は面白いなと思った。特に目立った有能さがないように見え、それどころか愚鈍なようにさえ見えるところがいくつも描写されるのに、それが決して致命的な物にはならないように立ち回るか、あるいは決めるべきところで覚悟を決めるのが迅速だ。もろもろの状況判断に感情を伴わないシステムを使っているように決断が速い。

昨今は無感動で冷静に戦術・戦略を立て実行していく主人公がトレンドだけれども(実際若い世代ほどそうした傾向があるので、そこにあててきているのだろう)著者の場合はそこに合わせてきたというより、元々の傾向なんだろうな。前作から特に変わっていないともいえるが。中井の場合は嫉妬の感情がない、羨ましいと思う感情が欠けている(P338)などとさんざんなことを言われるけれど、感情があるが、それを自分の中には置かずに判断をくだすことのできる、一個のシステムのようなキャラクタ性というのが近いと思う。

守りたいと思うものも、いくつかの達成目標もある。それはしかし個々の状況判断においてどの選択をとることがもっとも目標達成に効率がよいかを判断するためにしか使われないかのようだ。だからもし達成が困難だと思ったら即座に諦めてしまえるし、それは自分の命が狙われている状況下ですら判断を鈍らせず、欲望に振り回されることはない。目的達成の為に必要な手段がいくら感情的倫理的に許容されるものでなかったとしても、平然とそうした手段がとれる人間だ。作中の言葉を借りて補足すれば『「あなたは、私が最初に持った印象どおりの人ですね。ホラ吹きでも小心者でもなく、興味のなさそうな顔をしながら、必要とあらば、壊れかけた石橋を細心の注意を持って渡ろうとする」*2

原作マクベスは欲望に振り回されるアホなのだが、こうしたクールに自分の欲望をコントロールして問題に向き合っていく中井という人物像系はマクベスとのいい対比にもなっている。まあ中井は実際には昔仲の良かった女の子の名前を延々とPasswordにし続ける変態なのでそうした執着はあるのだが、少なくとも感情的な発露としては出てこない。

物語内物語への抵抗

明確に意識され何度も内容が反復されるマクベスと、中井の周囲に符合する諸々の要素が思わせぶりに配置され物語を引っ張っていく。ちょっと余談だが、本作はちゃんとマクベスの主要な筋書きについては作品内で述べてくれているので、あらかじめマクベスを読んでおく必要はないと思う。それで面白いなと思ったのが、作中人物たちがその符号を明確に意識しており、中でも中井はそれを意識的に覆していこうとする意志をみせるところだ。それによって物語的強制力とそれに抵抗する主人公という、実際に起こって流れていく事件とはまた別種の次元の、メタ的な面白さが生まれているのではないだろうか。

メタ的な要素があることは決してそのまま面白さにつながるわけではないが、「実際の事件」が起こっている状況で同時に「それとは別の事件」が走っているので、1粒で2度美味しい的な情報の圧縮が行われるのが、面白さに繋がっているのだと思う。さらにはただ単にマクベスのプロットをなぞり、現実に符号させていくだけではなく、現実の心情の流れにそってマクベスという物語が実はこうだったのではないか、こうした裏があったのではないか、と解釈が膨らみ、マクベスと現実が相互作用して物語が発展していくのが単なる「題材」以上の読みの面白さに繋がっている。果たしてこの物語はマクベスにしたがって、悲劇に終わるのか? はたまた中井はマクベスという物語へ打ち勝つことが出来るのか? 物語内物語への抵抗として、何も起こらない時でさえ常に緊迫した状況になっている。

まとめ

下書き段階で1万文字以上あったのでだいぶけずったのだけど、まあつまりはそれだけ読みどころの多い小説になる。非常に楽しさの入り口の多い作品だと思う。

マクベスという物語の中で翻弄される主人公一派を楽しむのもよし、マクベスに対応しているのは誰と誰なのか?(たとえばレディ・マクベスは中井レディたちの中の誰7日)をめぐるミステリとして読むのもよし、だんだんと現実性を失って中華ファンタジーじみた陰謀話になっていく現代物語として読むのもよし、中井とそのヒロインズ(ただしみんな30代後半)の甘酸っぱいラブストーリーを楽しむのもよし、作中に出てくる数学パズルに挑むのもよし、香港やマカオ、バンコクといった地に長年住んだとしか思えないようないきいきとした描写で旅に行った気分を味わうもよし。

もちろんその全部を堪能したっていい。そして読み終えた時には、今まで楽しかったのが一時の祭だったかのように、静寂な余韻にひたらせてくれることだろう。物語ってのはいいもんだと思う。座って一歩も動かないだけで手に汗握らせてくれることも、笑わせてくれることも、さらにはこうした「寂寥感」や「静寂な余韻」などとしか表現できないような、日常生活ではめったに味わうことのない特別な感覚を味あわせてくれるんだから。

未必のマクベス (ハヤカワ・ミステリワールド)

未必のマクベス (ハヤカワ・ミステリワールド)

*1:まあ、異質異質いってるけどこうしたやりとりに関しては明確に僕の中では似ていると意識させられるものがあって、森博嗣作品ではあるのだが……。

*2:P189