基本読書

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生まれてきたこと、この本に出会うに至る人生の軌跡、その全てに感謝を捧げるレベルの傑作──《天冥の標》

天冥の標X 青葉よ、豊かなれ PART3 (ハヤカワ文庫JA)

天冥の標X 青葉よ、豊かなれ PART3 (ハヤカワ文庫JA)

この天冥の標シリーズが始まる前に僕が小川一水という作家に抱いていた感想は「やるといったらやる作家」であった。それがどれだけ大変なことであろうとも、小川一水がやるといったら彼はそれを忠実に、愚直にやり遂げてみせる作家だった。小川一水が「今回はこういう話です」と書いたら、それはこちらが想像もしないほど想像しつくされた「こういう話」だった。人間、どこかで大口が出てしまったり、見えやらはったりやらがあるものだが、小川一水の場合そうした自分を大きくみせようとか、ある種のテクニック的な駆け引きを感じさせない、狂気的な愚直さがあった。

だからそんな小川一水が担当編集者氏から「できることを全部やってください」といって、それに「はい」と答えてこのシリーズがスタートした時──僕はこのシリーズがとんでもないところに行き着くことを疑ったことはなかった。だが、同時に一巻一巻読み進めるうちに、僕は「小川一水のすべてとは何だったのか」をまったく理解していなかったことを理解し、ただただこの世に生まれた驚異的な小説を前にしてひれ伏すことしかできなかった。小説とはいったい、どこまでのことができるのか。

小説は、どこまで人間を動かすことが、人間の内面を揺さぶることができるのか。その境界を僕は毎年いろいろな作品によって拡張され、まだみぬ領域を発見し続けているわけだが、この天冥の標シリーズは、僕に小説とは、SFとは、どこまでのことができるのかという遥か遥か先をみせてくれた。人間はこんな作品をつくることができて、小説を読むことでここまで内面が揺さぶられることがあるのだと、ただただ人間の可能性に驚き続けるシリーズであった。それは作家の可能性であると同時に「ただの読者」であるこちらの可能性を引き出すシリーズでもある。一言でいえば僕はこのシリーズを読んで生まれてきたことに感謝し、それどころか、生まれてからこの作品に出会うまでのすべての軌跡に感謝した。辛いことも苦しいことも多くあったが、天冥の標という作品に出会えたことはそのすべてを帳消しにするのにふさわしい。

《天冥の標》というシリーズの凄み

天冥の標が書いてきたのは、個々の「キャラクター」であると同時に、そのキャラクターの中に流れる「血」──つまりは遺伝子であり、遺伝子の背後にある生命共通の営みそれ自体であり、さらにその背後にある「宇宙における生命の法」にまで想像を膨らませ、数億年に渡る壮大な時間スケールで描き出した世界そのものである。全10巻のシリーズ作。個々の巻は数十年単位の人間ドラマであるが、通して読み勧めていくと、個々のエピソードと思われたものが繋がってより大きな構造体へと発展し、この《天冥の標》宇宙、そこに住まう種族たちの物語が浮かび上がってくる。

 ──なぜ宇宙は弱肉強食なのか。
 ──物理宇宙がそれを可能にしているというなら、知性の意味はなんなのか。
 ──強者がやがて臨海を迎えて覇権戦略を掴み取るなら、弱者は、敗者は、達せられずに終わったあらゆる者は、何を示したと言えるのか。

ミクロな単位でいえば被害者と加害者、区別され対立しあうことが構造的に決定された二者についての物語であり、マクロな単位でいえばその対立の構造が億年のスケールで綴られていく種、宇宙それ自体の物語である。シリーズとしての凄さをまずあげるなら、このシリーズ全体を貫く構造と、個々の巻のドラマが密接に絡み合い、シンプルで巨大な構造を成しているところにある。抽象的に説明すれば、最終決戦は六千万年間にわたって続けられてきた生命の「生存戦略」同士の潰し合いであり、問題だらけの人類は、内輪揉めと他数ある宇宙種族との対立を経て、その果てに存在する未来にたどり着くことができるのかに焦点があたる。同時にそれは、今まで読んできた「個」のドラマ、現代を生きる我々の見ている世界と密接にリンクしているのだ。

近年の研究では、原初の生命ともいえるウィルスですら自分たちとは異質な存在を排除し、仲間から遠ざけようとする原初的な生命の仕組みを持っていることがわかっている。それは炭素を基礎とする生物が持つある種の宿命のようなものなのだろう、その反映なのか人類の歴史上争いが絶えたことは一度もなかった。統計上は「世界はよくなっている」という人は多くいるが、一方で技術は個人の力を飛躍的に高め、世界が一足飛びに崩壊へと向かう可能性はむしろ高まっている。未来は明るいのか? 繁栄は約束されているか? という問いかけに対してと自信をもってイエスと答えるのは難しい。だが、人間が宿命的に異質なものを排除する生き物なのだとしても──中にはそうした「生命の、群れとしての大きな流れ」に踏みとどまって抵抗する人々が存在する。この《天冥の標》は、そうした、現実の、目の前の社会を守ろうとする人々。その決断と覚悟を、長大な時間スケールの中で描き続けてきた。

個々人におけるドラマ、「人」の話と、より広い定義の人類文明である「ヒト」の話と、この世界全体を見回した「宇宙」そのものについての、それぞれにスケールの異なる話がパラレルにリンクして描かれていくこと。《天冥の標》シリーズを読んでいて、常に何か途方もなく巨大なものに触れている、畏怖とさえも言えるような感覚が沸き起こってくるのは、書き手が常にそのリンクを強く意識し、複雑な織物を描きこむようにして文章に落とし込んでいるからなのではないか。

各巻をざっと紹介する。

読み終わったばかりでテンションが上がりすぎたこともあって壮大なことを語っているが、実際にはそんなに気負って読む必要はない。長大な作品ではあるが、そのうちの1巻1巻はそのまま一つのSF作品として時代を代表する傑作揃いなのだから、ただただ身を委ねて愉しめばいいのだ。ここでは詳細に書くことはしないが、1巻ごとに投入されたアイディア量たるや、それ、別の作品に活かしてたらそれだけで何冊もシリーズが作れたんじゃない?? と恐ろしくなってしまうほどである。

第一部『メニー・メニー・シープ』は29世紀年代を舞台に、植民性メニー・メニー・シープを舞台にした革命の物語が語られていく。その時点では人類の数が減少し高度なロボットや不可解な異星生物が跋扈する未来としか映らないが、第二部『救世群』は舞台を2010年代に移し、致死率90%を超える未曾有の疫病に対抗する人類の苦闘を描き出すパンデミック物として一篇仕上げてみせ、次第に「第一部にどのような経路で至ったのか」が明かされていくことになる。続く第三部『アウレーリア一統』は舞台を24世紀に移し、超エネルギーを持つ動力炉をめぐって、「アウレーリア一統」が海賊との戦いを繰り広げる、宇宙戦闘の楽しいスペース・オペラだ!

第四部『機械じかけの子息たち』は作品の根幹にも関わる〈性愛〉をテーマにした一冊で、性愛の胞子を持って人に喜ばれなさいという指令を与えられた《恋人たち》と呼ばれるロボットを中心とした物語。一冊まるごと様々な形の性交が描かれていく、エロの博物館のような特異な異色作である。第五部『羊と猿と百掬(ひゃっきく)の銀河』は24世紀を舞台とし、小惑星パラスで野菜農場を構築する宇宙農家を中心として描く一篇で、同時に物語も半ばを超えたこともあって、作品の、この世界の裏側で動き続けていた異質な知性体の物語が、歴史が、語られていくことになる。

第六部『宿怨』はこれまで小さく小さく降り積もってきた「異質なもの」を排除しようとする生物としての性向が最も悪い方向へと振り切った一篇であり、第七部『新世界ハーブC』ではそこからの復興(ここは文明再興もの、超大スケールな『蝿の王』として珠玉の出来)が、続く第八部『ジャイアント・アーク』で物語は第一部のあの場所へと戻ってきて、あそこで実際には何が起こっていたのかが明かされ、それまでの謎にケリがつく衝撃が訪れる。九部、十部はもう最終決戦へ──それは物理的には戦闘として、思想・戦略的には「この宇宙に、生命としてどのように相対するべきなのか」という問いかけとして、なだれ込んでいくのみだ。すべてがここで決着する。

ここで語られているのは、何億年スケールの話であると同時に、「隣にいる人たちと、どのように向き合うべきなのか?」という我々自身、個々の話でもある。

おわりに

『知らない人々を、物事を、世界を、見たい──。』と、10巻Part2でとある登場人物が独白する。僕はこの《天冥の標》で、そうしたあまりにも強烈な「未知への衝動」、それ自体を見た。人間はここまでの作品をつくることができる。小説は、SFはここまでの到達点にまで至ることができる。この《天冥の標》を読み続けることで僕はそうした「未知」に触れた。ただその事実が、僕にはとても嬉しい。

第一部のあとがきで、小川一水は『でもこの話の終わりはすでに見えています。そのころにはこの話は、たいしたものになっています。ですので私は、安心して、それまで好き勝手やってこの話を盛りあげていくというわけです。』と語っているが──答えはみせてもらいました。ここにたどり着いてくれて、本当にありがとう。小説を読んだだけで何を馬鹿なことをと思われるかもしれないが、僕はこのシリーズを読んで、心の底から人類が千年先も豊かに広がっていく未来を信じられた気がしたんだ。

今から読み始める人は表記が若干文字化けしてるけど、下の『天冥の標Ⅰ メニー・メニー・シープ(上・下)』、『天冥の標Ⅱ 救世群』、『天冥の標Ⅲ アウレーリア一統』の順番で読んでね!

天冥の標? メニー・メニー・シープ(上)

天冥の標? メニー・メニー・シープ(上)

天冥の標? 救世群

天冥の標? 救世群

天冥の標? アウレーリア一統

天冥の標? アウレーリア一統

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